あなたの手で
日が沈み、神殿に夜の鐘が鳴り渡った。
石畳を歩くたびに、冷たさが裸足の足裏から骨に染みてくる。
だがアリア=アイシーンは顔ひとつ歪めず、まっすぐに階段を上っていた。
白銀の礼装が風に揺れ、編み込まれた髪からは香油の匂いが立ちのぼる。
神に魂を還すための器。
それが、今夜の彼女の役割だった。
アイシーン王国の人々は、死後の救いを信じている。
魂は肉体を離れ結びとなり、神ペティルのもとへと還る。
そこは悲しみも痛みもない、完全なる安らぎの世界――還りの園。
そして結びが清らかであるほど、より高位の園へ導かれるという。
王家の血を引く者は特別な魂を持ち、生まれながらに最上の園に至るとされていた。
ゆえに王族の中には、魂を神に捧げる器として選ばれる者がいる。
アリアもそのひとりだった。
天蓋付きの礼拝室の奥に、フランがひざまずいていた。
漆黒の礼装をまとい、剣を佩いた騎士の少女。
その目だけが鋭く、微かな動揺を湛えている。
「……アリア様」
伏せたままのフランの声は小さく、震えていた。
「護衛はもう不要と命じたはずよ」
「ええ。でも……私はどこまでも、お仕えします」
アリアは歩みを止め、微笑を浮かべる。
「……そう」
アリアは、フランが本気で信じていることを知っていた。
死後の救い。魂の還り。神ペティルの慈愛。
それがこの世界の正しさであり、フランにとっての全てだった。
だが。
ふとした拍子にこぼしたアリアの一言が、彼女の中に何かを芽生えさせたのだ。
「もっと……生きてみたかったわ」
それだけの言葉だった。
でもフランは、何度もその声を夢の中で繰り返し聞いたという。
まるで呪いのように。
神官たちの祈りの声が重なり、香の煙が立ち上る。
「アリア=アイシーン。魂を捧げる刻、来たれり」
その声とともに、アリアは一歩を踏み出す。
だが――そのすぐ背後で、音が鳴った。
金属の擦れる音。
フランが剣を抜いた。
「……アリア様!」
フランの叫びが、礼拝堂の静寂を裂く。
「逃げましょう……!今なら、まだ……!」
神官たちがどよめく。衛兵が駆け寄る。
アリアは振り返ると、ただ静かに彼女を見つめた。
その瞬間、確かに心臓が打った。
神に捧げるだけの器だった身体が、自分の意志で脈打った。
それが、彼女の生の始まりだった。
「命令違反よ、フラン」
「構いません。私は……あなたを還したくない」
アリアは、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「なら連れていきなさい。私を……神のもとではなく、あなたの手で」
その一言とともに、二人は神殿を飛び出した。
すべての秩序を捨てて。