チートを断った俺だけが生き残った
「ようこそ、勇敢なる魂たちよ」
空間に響いた声は優しげで、それでいて抗えない重みを帯びていた。女神──名をルミアと名乗る存在は、黄金の髪と純白の衣を纏った神秘的な姿で、浮かぶように彼らの前に現れた。
十人の男女。年齢はさまざまだが、全員が現代日本から選ばれた若者たちだった。
「皆さんには、特別な役目を授けます。この世界を脅かす災厄と戦っていただくのです。その力として、あなた方には『チートスキル』を一つずつ与えましょう」
「え……マジで!? チートって、あのチートかよ!?」
「やばっ……転生モノ、本当にあったんだ……!」
場が一気に沸き立つ。目を輝かせ、ざわつく空気の中、誰もが一様に期待に満ちていた。
「それぞれ、好きなスキルを選んでください。一人につき、ひとつだけです」
目の前に浮かぶ、無数のスキル群。
剣聖、全属性魔法使い、魅了、再生、分身、透視──とにかく派手で強そうなものばかりが並んでいた。
「俺は、『神剣エクスカリバー』だ!」
「私は『超再生』。どんな攻撃も平気でしょ!」
「『魅了』。これで世界中の人間が味方だわ!」
次々にスキルを選んでいく仲間たちを、ひとりの青年が無言で見つめていた。
シン。二十二歳の大学生。地味で目立たず、クラスでも空気のような存在だった。
(……なんだこれ。みんな浮かれすぎだろ)
スキルの一覧を眺める。確かに、魅力的だ。だが、どうしても胸の奥にひっかかるものがあった。
「さあ、あなたは何を選びますか?」
女神が微笑む。すべてを見透かしたようなその視線に、ぞっとするものを感じた。
そして、シンは口を開いた。
「……選びません」
「……え?」
一瞬、場が凍りついた。
「いやいや、何言ってんの!? 選ばなかったら、何のために召喚されたんだよ!?」
「意味わかんねーって! 死にたいのか!?」
「空気読めって、マジで!」
周囲から次々と非難と嘲笑が飛び交う中、女神ルミアだけが表情を変えた。
「……なるほど。選ばないという選択も、確かに存在するのですね」
その言葉には、明らかな興味と――わずかな警戒が滲んでいた。
「あなたは、この戦いに不適格と判断されました。王都への移送は行わず、辺境の村に転送します。以後、世界の進行から除外されます」
「除外……?」
「それでは皆さん。選ばれし者として、新たな運命をお楽しみください」
光が炸裂する。
シンは、一人きり、全く別の場所へと飛ばされた。
◇
辺境の村──オルス。
人里離れた山あいにある、のどかな村だった。
畑、井戸、山羊。小さな教会と、静かな生活。
「よっ、シン。今日も畑仕事かい?」
「ああ。いい土だったから、種もよく根付いてる」
村人の声に笑って返す自分が、いつの間にかここに馴染んでいることに、シンはふと気づいた。
スキルも、武器も、戦う力もない。
だがここには、朝が来て、夜が来て、人が笑っている。
静かな日常。けれど、その背後には確かな違和感があった。
空に、赤い光が走るのだ。
月に一度、必ず一筋の『赤い流星』が夜空を貫いていく。
(あれは、何か……不吉なもののような気がする……)
不安は確信に変わりつつあった。
◇
ある日、村の教会で老神官と話していた時のこと。
「加護とは、時に災いとなる。神の与える力は、己の魂を一部、明け渡す契約に他ならんよ」
「……それって、スキルのことですか?」
「ふむ。スキルは、確かに便利じゃ。だがそれを得るには、『自由意思』の一部を神に譲り渡すことになる。神が望むままに動くことを、自然に選ぶように設計されとる」
「じゃあ……選ばなかった俺は?」
「おぬしは、『選ぶことを拒否した』。つまり、神の意図の外に出たのじゃよ」
静かに、深く。
その言葉は、シンの中にずしりと落ちた。
◇
「王都からの報せです」
ある日、村に王都の使者が現れた。
黒衣に身を包んだ、無表情な青年。形式的な口調で、書類の束を差し出す。
「異世界召喚者の九名──あなた以外の全員が、任務中に死亡、または行方不明、あるいは精神崩壊による自死に至ったことが確認されました」
村人たちがざわめく。シンだけが、静かに頷いていた。
……やはり、という確信とともに。
「彼らは全員、召喚直後に強力なスキルを取得し、王都にて勇者パーティとして活動を開始していました。しかし……」
使者は淡々と語る。
剣技のチートを持った青年は、制御できぬ力に精神を蝕まれ、仲間を斬りつけ自刃。
魅了スキルを持った少女は、恐怖に駆られた民衆に袋叩きにされた。
全魔法スキルの少年は、暴走した魔法で街を焼き払い、そのまま蒸発。
回復スキルを持った者は、他人の痛みを引き受け続け、耐えきれず命を絶った。
「……皆、異常なレベルでスキルに依存し、結果として破綻したのです。女神は何もおっしゃいませんが、あなたのように『選ばなかった者』だけが、生存者となりました」
「……そうか」
シンは、短くそれだけ答えた。もう驚きもない。
むしろ、こうなることがわかっていたような気さえしていた。
◇
丘の上で、シンは風を浴びながら、村の灯りを見下ろしていた。
みんな生きている。誰も、力を持たず、それでも笑っている。
「……選んだ力に、選ばれる」
そんな言葉が、ふと頭に浮かぶ。
スキルとは何だったのか。
ただの力ではない。それは、神との契約であり、意志を差し出す行為だ。
欲望を餌に、自我を引き換えにする。そういう仕組みだった。
「シン」
背後から、声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、あの女神──ルミアだった。
「あなただけが、『選ばなかった』存在。実に、興味深い」
相変わらず白金の髪に、どこまでも曇りのない目。だがその微笑みには、確かに興味と困惑が混じっていた。
「あなたは、なぜスキルを選ばなかった?」
「……直感だ。選ばされたくなかっただけだ」
それが本音だった。
みんなが喜んで手にした「ご褒美」が、なぜか――気持ち悪く感じられた。ただ、それだけだった。
ルミアはゆっくりと頷く。
「あなたは、観察の対象から外れた。すでに私の干渉は届かない」
「そうか。つまり、放置ってことか?」
「ええ」
彼女は静かに空を見上げた。
「あなたが『選ばなかった』ことで、この世界に新たな基準が生まれた。あなたのように、選ばない者が現れるかもしれない。その影響が、私の観察を乱す」
「……それが嫌か?」
「いいえ。とても、楽しみです」
そう言って、女神は光に溶けるように姿を消した。
◇
辺境の村オルスは静かな時間を刻み続けた。
赤い流星は、あれきり現れなくなり、空は静かに晴れわたっている。
シンは以前と変わらず、畑を耕し、水を汲み、薪を割り、村の生活を支えていた。
日々の労働は地味で、報われないようにも思えたが、確かな充実感があった。
「シン兄ちゃん! 見て、お芋できた!」
「おお、うまく育ったな。今晩はそれでスープ作るか」
村の子どもたちは懐き、老人たちは「昔の若者はこうじゃった」と目を細める。
それは、何にも選ばなかった男が、手に入れた日常だった。
ある晩、教会の裏で焚き火を囲みながら、老神官がぽつりと語った。
「加護を与える神は、祝福を与える神ではない。選ばせる神は、試す神じゃよ」
「試す……?」
「力を与え、選択させ、生かすか殺すかを見る。神の観察とは、そういうもんじゃ」
シンは静かに頷いた。
「でも、俺はもう……観察対象外だ」
「ふむ。ならば、おぬしは、神の影響が及ばぬ者ということじゃな」
神官は、わずかに微笑んだ。
「おぬしのような者を、わしは『自由の民』と呼びたい」
◇
雪の降り積もるある日、村に一人の少年が現れた。
髪はぼさぼさで、服は薄汚れ、だが瞳は真剣で、迷いの奥に何かを宿していた。
「……あの、『選ばなかった人』がいると聞いて、ここまで来ました」
シンは作業を止め、少年に向き直る。
「誰に聞いた?」
「……女神様です。力を欲しないならば、『選ばなかった者』のところへ行けと」
「……マジかよ」
それは、女神の気まぐれだったのだろうか。
「君は……スキルを?」
「拒否しました。怖くて。でも……正しかったのか、自信がなくて……」
「そうか」
シンは、軽くため息をついて、それから笑った。
「じゃあ、まずは鍬の持ち方から教えてやるよ。畑仕事、腰にくるからな」
「……はい!」
◇
季節は巡り、村には静かな春が訪れていた。
風は優しく、畑には芽吹いたばかりの若葉。子どもたちは裸足で駆け回り、リクは鍬を担いで畑を耕している。
シンはその様子を見守りながら、今日もまた土に手を入れた。
かつて、神が与えようとした「力」を拒んだあの日から、何年経ったのだろう。
英雄にもなれず、伝説にも残らず。
だが彼は今、こうして生きている。自分の足で、大地を踏みしめながら。
◇
ある晩、教会の片隅で、リクがぽつりと呟いた。
「……あのとき、選ばなかったこと。本当に正しかったのか、まだ自信が持てないんです」
焚き火の炎が、小さく揺れる。
「力を持つことには、やっぱり憧れる。人を助けたり、変えたりできる。でも、何も持たないって……ただ怖くて逃げただけなんじゃないかって」
シンはしばらく黙って、それから口を開いた。
「力を持つってのは、それだけで『選ばされる』ってことなんだよ。剣を持てば、誰かを斬るための場所に立たされる。力は、持った瞬間から『何をすべきか』を他人に決められる」
「……それが、不自由なんですね」
「そう。『強さ』って言葉には、責任とか期待とか、ついてくるもんが多すぎる。何も持たないってことは、誰にも決められないってことだ。全部、自分で決められる」
◇
翌日、村では小さな収穫祭が開かれた。
子どもたちは走り回り、焼きたてのパンと芋が香る。
リクは手作りの木の弓を配って的当てを始め、村人たちは笑いながら輪になって歌った。
その片隅で、少女がシンに尋ねた。
「ねえ、シン兄ちゃん。もし神様からひとつだけ、すごい力がもらえるとしたら、何にする?」
シンは少し考えて、それから微笑んだ。
「……何も選ばないよ」
「えー、どうしてー?」
「何も持ってなければ、自分で全部決められるだろ? 今日何するかも、何しないかも、誰と話すかも、全部自分でさ」
少女はよくわからない、という顔をしたまま駆けていった。
でもそれでいい。いずれきっと、わかる時がくる。
◇
ある夜、村の教会でささやかな集会が開かれた。
神官が語るのは、昔話のような「とある伝承」だった。
「かつて、異世界から十人の者が召喚された。九人は神の力を選び、そして滅んだ」
静かなざわめきが、子どもたちの間に走る。
「だが一人だけ、何も選ばなかった者がいた。力も、名誉も、運命すらも。その者だけが、生き延びたという──」
老神官は、そっとシンに視線を向けた。
シンはにやりと笑いながら、黙ってパンをかじっていた。