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狩猟  作者: 丸宮亜門
5/8

5_川を超える

 紙の上に記された2つの点を最も短い距離で結びつけるには、両者の間に一本、真っ直ぐな線を引けばよいというのは明白だ。

 しかし、現実はそうもいかない。最短直線の間には河があり、丘があり、危険がある。それらの課題に対処した結果、人が進む道は曲がりくねった姿になるのだ。

 二人の子供達も、勿論このことは理解していた。しかし、曖昧な天測のみを頼って道なき道を進む彼らからすれば、出来得る限り真っ直ぐに進みたいと考えるのも当然だろう。


「あと、どれくらいなんだ……」


 前に立つヴィーリの身体はいたる所に土と草が付着し、指先にはいくつもの生傷が刻まれている。

 彼の背後に立つリーズもまた、汚れから逃れることはできなかった。美しい絹のドレスは茶色に塗りたくられ、裾は枝によって乱雑に引き裂かれている。

 濃い闇の中を進む二人は、踏みつけた枝の割れる音や枯れ木が風に揺られる音の鳴る度にぴくりと身体を震わせる。その姿は警戒心に満ちた小動物そっくりで、彼らは完全に、森へ同化しているかのようだった。


「きゃあっ」


 不意にゴツゴツとした石が現れ、リーズの足を掬い取る。彼女の身体は大地に投げ出され、手酷い抱擁によって迎えられた。


「ううっ……い、痛い」

「大丈夫?」


 リーズの頬からは血が滲み、目には涙が浮かぶ。けれども彼女は立ち上がると、目元を拭って何でもない風に振る舞う。ヴィーリが差し出す手のひらに、より大きな傷がいくつもあることを知っているからだ。


「平気……ちょっと痛いだけで、私は平気よ」

「なら、いいんだけど」


 リーズは今すぐにでも弱音を吐いて、痛む足を休めたかった。

 けれども、そんなことをしても自身が置かれた状況は好転しないということを彼女はよく理解していた。歩き続けて家に帰り、温かいお風呂にゆっくりと浸かる。泣き言を言うのは、その後だ。

 はぐれないよう手を結び合って、暗い森の中を彼らは歩み続ける。太陽は半分以上が地平線の向こうへ沈み、進む先はおろか足元さえも見通すことができない。

 しばらく経つと、寒い夜の風に混じってより一際冷たい、湿った空気が流れてくることに気づいた。ヴィーリが耳を済ませると、水のせせらぐ音が聞こえてくる。


「川……?」


 行く手を遮るように現れたその川は、彼らにとって厄介極まりない相手だ。流れはさほど早くないものの、川幅はヴィーリの身長を三倍したよりも広い。そして何より、周囲のどこを見ても迂回路がなく、橋も架けられていないのである。唯一の希望は、向こう岸までの道筋に程よい大きさの岩が点在しており、その上を伝うことで身体を濡らすことなく向こう岸へ移れそうなことだ。


「少しだけ待ってて、リーズ。向こうへ渡れるか、試してみるから」


 ヴィーリは大きく息を吸うと、最も手近な岩へ飛び移る。着地の際に少しだけ身体は揺れたが、危なげもなく岩の上に立つことができた。同じことを更に三度繰り返すと丁度川の中腹辺りまで辿り着き、向こう岸までの光景がはっきりと映し出される。


「これなら渡れそう、かな……」


 彼は身を捩りながら次の岩、次の岩へと飛び移り、向こう岸まで辿り着くと背に負う荷物を下ろす。身軽になった彼は軽快な動きで来た道を逆走し、リーズの元へと戻った。


「良かった。岩を伝っていけば、なんとか向こうまで渡れるよ」


 疲労しつつも喜びの混ざった声で、成果を報告するヴィーリ。しかし、リーズの反応は芳しくない。


「ヴィーリにはそうかもしれないけれど……私、あんなに上手に跳べないわ」

「心配ないよ。俺が岩の間に立って手伝うから。そうすれば誰だって、たとえ案山子だったとしても向こうに行けるさ」

「でも、それだと……」


 リーズは不安げに川を眺め、しゃがみ込むとその流れに片手を晒してみた。水流はとても冷たく、まるで氷の身体を持つ狼に噛み付かれたかと錯覚するほどだった。リーズは反射的に手のひらを引っ込めて、もう片方の手のひらで寒気を取り除く。


「こんなに冷たい川の中に立つだなんて、いけないわ。あなたが凍え死ぬ姿なんて、私見たくない」

「凍え死ぬなんて、大袈裟だよ」


 ヴィーリは彼女の心配を払拭するように笑い、引き留めようと伸ばされる手を拒絶して、せせらぎの中へと足を進めた。その途端、両脚が凍りつくような寒さに襲われる。彼はリーズへ背を向けると再び口を開いた。


「ほら、平気だって。それに――」


 今にも震えだそうとする脚を押さえつけ、唇を噛みながら声を出す。


「リーズのこと、絶対に連れて帰る。それが、俺の役目だから」


 彼がやせ我慢をしていることは、リーズにもよくわかる。彼女は覚悟を決めると、手招きするヴィーリの腕の中へ向かって足を踏み出した。

 ヴィーリはほとんど抱きかかえるように支えて、彼女を岩へと下ろす。リーズの姿勢が落ち着くまで待ってから、次の岩との間まで進み、再び彼女を抱きかかえる。それを繰り返して、二人はなんとか対岸まで辿り着いた。


「な、簡単だろ……うっ」

「ヴィーリっ」


 できうる限り負担を掛けないよう、リーズは急いで川を渡ろうとした。けれども、彼の脚は川から抜けたときには既に感覚が失われてしまい、芝へと倒れ込む。彼の脚へと触れたリーズは、慌てて彼へ覆いかぶさる。その脚は、川と全く同じ冷たさをしていたのだ。


「こんなに冷たくなって! 今、暖かくするわ」

「これくらい、何ともない……」


 ヴィーリは弱々しく告げるが、起き上がることができない。リーズは柔らかな手のひら両方を使って彼の脚を摩擦するも、一向に暖かくはならない。それよりも先に、彼女の手の方が冷え切ってしまうのだ。


「ああ、どうしましょう……」

「大丈夫、だよ……少し休めば、すぐ立てるから」

「駄目よ! すぐに暖かくしなくちゃ。でないと、ゲルバルトみたいに……」


 ゲルバルトとは、リーズがかつて読んだ小説の主人公。雪山で悪魔と戦い、その時負った凍傷が祟って片腕を失った騎士の名前だ。その話を思い起こした彼女は、あの騎士のようにヴィーリも、身体の一部を喪ってしまうのではないかとの想像する。その悲劇的な光景に彼女は身震いし、駆り立てるような焦燥感が生まれる。


(何でもいいから、暖かいものが必要だわ。それも、濡れていないものが)


 二人は着替えや防寒具を用意していなかった。リーズは大慌てで背嚢の中身を引きずり出したが、そのいずれもが役立ちそうになかった。

 それでも、ほんの僅かにでも暖かくできないかと、パンの包み紙やタオル代わりのぼろ切れを取り出そうとして、彼女は荷物の隅に用意されたナイフを見つける。そして、小説のある一場面を思い出した。


「そうだわ。あるじゃない、暖かい布!」

「リーズ……?」


 リーズはナイフを取り出すと地べたへ座り込み、ドレスをたくし上げる。彼女はその下に履いた暖かく美しい羊毛仕立てのレギンスを左手で捲りあげ、右に持つナイフを添えた。彼女は一瞬躊躇うも、意を決してナイフを動かし、素肌を覆うその布を切り裂き始めた。


「な、何をしてるんだ、リーズ?」


 リーズは覚束ない手付きながらもレギンスを裂き、何枚かの小さな切れ端を作り出した。彼女はその切れ端を持ってヴィーリの脚を再び擦る。更に彼の靴を脱がせると、かかとから指先までの全てに布越しの指を這わせた。彼女は丁寧に水を拭き取ると湿った切れ端を捨てて、次の乾いた切れ端を巻き付けるようにしながら彼を温めようとする。

 突然の行動に驚いて、ヴィーリは彼女を止めることすら忘れていた。切り取られた布の奥から覗く白い脚を見て、ようやく彼はリーズが何をしているのかを理解した。


「駄目だよリーズ……そんな、勿体ないこと」

「そんなこと関係ないわ。むしろもっとしないと……ヴィーリがゲルバルトみたいな目にあったら、私、後悔してもしきれないわ」


 体温を奪われ続けた脚がどうなるのか、騎士ゲルバルトとは誰なのかをヴィーリは知らなかったから、彼女が何故ここまで焦っているのかさっぱり理解ができなかった。

 そんな疑問もお構いなしに、リーズは今度は靴を脱ぎ捨て、薄桃色の靴下までも脱いでしまう。そしてそれを、なんとヴィーリの脚へ履かせようとし始めた。


「リーズ? それはリーズのだろ? 汚れるから、やめなって」

「濡れた靴のままだとすぐに冷えてしまうわ。ほら、ちょっと小さいけれど――」


 ヴィーリの抗議にも聞く耳持たず、彼女は手に持つその小さな布を無理矢理にでも彼の脚へと押し付ける。その声にこもる必死さと、布から伝わる彼女の体温にヴィーリは言葉を失い、心に何か熱いものが浮かびあがる。だがその途端、彼は強烈な恥ずかしさに襲われた。彼はなんとかその温かみを振り払おうと、脚を引いて乱暴に抵抗した。


「いけないよ、そんなこと。リーズのものを俺が身につけるなんて! それに大きさも全然違うから、入らないってば」

「いいの! いいから、大人しくして……」

「絶対に嫌だ!」


 二人は僅かな間格闘したが、ヴィーリの力強い拒絶を受けたリーズは諦めて、元通りに靴と靴下を身に着けた。

 だが彼女はその代わりと言わんばかりにナイフを持って、更に大きくウールの布を切り裂いて、濡れたヴィーリの靴の中へ詰め込んでやった。


「そんなに嫌なら、仕方ないわ……本当は、濡れた靴はよくないけれど。これなら少しは暖かいはずよ」


 彼女は左足を覆う布ばかりを裂いていたので、左の踝どころか下腿部までも剥き出しになってしまった。日頃は決して目にできない場所が晒されていることにヴィーリの目線は吸い寄せられ、その無防備な姿におもわず唾を飲み込んでしまう。それと同時に、こうまでして尽くしてくれる彼女のことがひどく愛おしく感じられるのだった。


「リーズ、えっと……ありがとう」

「どういたしまして。でも、お礼を言うのは私の方だわ。ヴィーリがいなかったら、今頃私はずぶ濡れになっているもの」


 彼が立ち上がる元気を取り戻すまでの間、二人は川辺りで身を寄せ合い温め合っていた。

 ヴィーリはどこか気恥ずかしさを感じつつも、必ずリーズを連れて帰る。必ず守り抜く。と、心に固く誓った。

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