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狩猟  作者: 丸宮亜門
4/8

4_迷子

 狭苦しい穴倉から飛び出すと、太陽は傾き始め、空模様は昼から夕方へと移り行く最中であった。

 二人はいつもそうしているように、草木の少ない平坦な場所を見つけ出すと、古くなった毛布を敷いてその上に持ち寄った食事を並べ始める。

 背嚢の一番下に仕舞われていた可愛らしい小箱から白パン、干し肉、チーズ、果実といった色とりどりの品が取り出され、くしゃくしゃの包み紙の中からはずっしりと大きい黒パンが現れた。


「私はこれ!」


 食事を並べ終わるとすぐに、リーズは黒パンを一枚手に掴む。彼女はその上にチーズと干し肉を乗せると、さらにもう一枚の黒パンを使って上から押し潰した。


「リーズ、それ好きだよな。全然美味しくないのに、変なの」

「こういう味を楽しめるのが大人なの。ヴィーリったら、まだまだ子供なんだから」

「嘘だあ」


 リーズは小さな口でパンへ齧り付き、ゆっくりとそれを咀嚼する。彼女はぎゅっと目を閉じて、口に広がる独特な刺激を堪能した。


「ん〜っ、おいひい……」


 その光景を見るたびに、ヴィーリは彼女の味覚や感性に強い疑問を抱く。柔らかくて香ばしい白パンがあるにも関わらず、あんな、土と酢で練り上げたような物を好き好んで口にする。あまつさえそれを有難がり、人目を忍んでは自身に与えられた白パンと、召使達の黒パンを交換して食べるなどという行為は、彼の理解の範疇を超えていた。


「黒パンを好きなのが大人だっていうなら、俺は子供のままでいいや」


 ヴィーリはひとり呟きながら、手にした白パンを口へ運ぶ。口中に広がる麦の香りと、もっちりとした噛み応え。そしてじゅわりと広がるバターの風味。柔らかなパンにありつけるこのひと時を、彼は心から愛していた。


「んぐ……黒パンの何が嫌いなの?」

「酸っぱくて、ぼそぼそ」


 少女の質問に対して、彼はパンを頬張りながら答える。あの独特の、果実のそれとも違う酸味が彼は嫌いだった。


「それがいいんじゃない。お子様のヴィエスラフちゃん」

「だったら毎日食べてみなよ。それこそ旦那様の前でもさ」


 何気ない一言に、少女の手が止まる。その一瞬の空白を彼は見逃さない。


(ふん……)


 彼女が父親の前では決して黒パンを食べないことを、ヴィーリはよく知っていた。普段の率直さや自由奔放さは父親がいない場所でしか発揮されない。貴族らしい彼女と、親しみやすい彼女。どちらが本当のリーズなのだろうか。そんな彼女の姿を見ると、ヴィーリは時折、心の内から苛立ちが湧き上がる。


「そんなことをしたら、お父様に怒られてしまうわ」

「どうしてさ?」


 リーズは問いかけに目を逸らす。


「それは、えっと……お、お父様は、これが嫌いだから」

「そうだろうさ。こんな庶民の食べ物、誇り高い貴族は食べないもんな」


 ヴィーリの声には、少しばかりの怒りと苛立ちが滲んでいた。それを察知したリーズは、肩をぴくりと揺らしながら彼を睨みつける。


「何よ、その言い方。私はそんなんじゃ――」

「わかってるさ。エリザヴェータお嬢様はお優しいから、可哀想な俺達に白パンを恵んで、そのかわりに黒パンを食べてるんだよな」

「ヴィーリ!」


 リーズの鋭い声が響くと同時に、毛布の上の静けさがはっきりとした重みをもつ。ヴィーリは目を泳がせ、つい口を滑らせたことを後悔した。リーズは黒パンを握ったまま言葉を失い、しばらくそのままだった。


「私、みんなのこと、可哀想だなんて思ってない……でも、ヴィーリは嫌だった?」


 リーズはうつむきながら、声を絞り出す。その瞳は震え、今にも涙が零れ落ちそうになっている。


「ごめん……俺が悪かったよ、リーズ。」

「私といるの、嫌じゃない……? わがままで、迷惑じゃない?」

「嫌じゃないよ。リーズといると、楽しい」

「でも、みんなは――」


 続きを話してしまう前に、リーズは右手で自分の口を抑え込んだ。


「みんなは……?」


 リーズは口ごもり、急に背を向けるように毛布の隅を弄び始める。その仕草にはどこか、ぎこちなさが混じっていた。


「最近、おかしなことを言う人がいるの……ヴィーリと私が友達なのは、変だって……」

「誰がそんなこと言ったんだよ?」


 ヴィーリは眉を寄せ、問い詰めるように口を開く。それを聞いたリーズは一瞬だけ彼を見やったが、すぐに俯いた。

「えっと……気にしないで。私も、気にしないから」

「リーズ……」

「私達は、友達よね? だったら、喧嘩した後は、仲直り!」


 リーズは振り返ると、恐る恐るといった様子でヴィーリのちらりと見上げる。そこには困り顔ながら、それでいて微笑もうとして歪んだ表情。それを見た彼女はほっと一息つく。そして彼の方へ寄っていき、右手を差し出した。

 ヴィーリも右手を出して、二人は仲直りの握手をする。リーズの小さく震える手が落ち着くまでずっと、二人は小さな手を握り合っていた。





 二人の手が離れる頃になると太陽はさらに低く傾き、青空の中に赤みが混じり始めていた。その光景を目にしたヴィーリは小さく息を吐いて、ぽつりと呟く。


「そろそろ、戻らないとな」

「そうね。あまり遅くなると、お父様が心配しちゃうわ」


 二人は包み紙や敷物を手際よく片付けて立ち上がる。そしていざ帰路へつこうとしたその時、ヴィーリにふと疑問が浮かび上がる。


「あれ……俺達、どっちから来たんだっけ?」


 あの恐ろしい親鹿に追われていたときは無我夢中で、何を目印に、どちらの方向へ何度曲がったかなんてこと、彼は何ひとつ覚えていなかった。

 かろうじて覚えていることといえば蹄が土を裂く嫌な音と、木々の間から覗く鋭い角だけ。その光景を思い出した彼は、小さく身震いしてしまった。


「いや、確かあっちから来たはず……でも、その先は?」

「ヴィーリ……?」


 記憶を掘り起こすように頭を掻き毟るヴィーリの側へリーズが寄ってきて、一体どうしたのかと言わんばかりに彼の顔を覗き込む。


「何か悩み事?」

「実は……帰り道、分からないんだ」

「ええっ?」


 リーズは開いた口に手を当てて驚き、身体をくるりと一周させながら辺りを眺めてみた。やはり彼女もこの場所に見覚えはないようで、首を小さく捻ってから、あら本当と呟く。その可愛らしくも暢気な振る舞いが、ヴィーリを余計に焦らせた。


「どうしよう……」


 遠くを眺めたところで目印はなく、彼女を残して道を探しに行くことも危険を伴う。進退窮まったという表情で彼は立ち尽くし、背中から吹き付ける風にただ身を任せて呆然としていた。

 その姿を見たリーズは顎に手を当てて何やら思案すると天を仰ぎ、その次には大樹の影へ寄って測量でもするかのような仕草をし始める。彼女は同じことを繰り返して四度目に天を仰いだ後、周囲で一段と草木が生い茂る方角を指差した。


「あっちが南よ! さあ、行きましょう」


 言うが早いか彼女はヴィーリの腕を取り、自身が指し示した方向へ歩き出そうとする。


「ちょ、ちょっと待ってよリーズ。そっちに何があるの」

「何って、私達の家に決まっているじゃないの」


 ぐいぐいと手を引く彼女に従いながらも、ヴィーリは疑問を隠せない。リーズはこの先が帰り道だと強く確信している様子だが、一体どうしてそれが分かるのだろうか。そして彼女は、どのようにしてあの藪の中を突破するつもりなのだろうか。


「本当に合ってるの? どうして分かるのさ」

「どうしてって……」


 リーズはきょとんした顔をして歩みを止めると、頭上に燦々と輝く太陽を指し示す。


「ほら見て、太陽があの方角にあるわ。そして木の影はあちらを向いている。だから、こっちが南でしょう?」

「え……?」


 簡潔な説明をしてリーズは進み続けようとする。しかしもうひとりが着いてこないことに気づくと振り向いて、怪訝そうな顔で様子を伺う。

 一方のヴィーリはというと、彼女の説明の意味が理解できず、まるで魔法を見せられたかのように不思議そうな顔をしていた。


「……そんなことで、本当に方角がわかるの?」

「そうよ? もしかして、ヴィーリは知らなかった?」

「うん……」


 どういう理屈なのか、ヴィーリは理解できなかった。しかしリーズが見せた驚きの表情と、それを掻き消そうとする微笑みが、嘘ではないと彼に語りかけていた。

 きっと、彼女からすると知っていて当然のことなのだろう。しかし、彼は知らなかった。


 そんな様子を見たリーズは彼へ歩み寄ると腰を屈めて、見上げるようにしながら語りかける。


「私、方角は分かっても、道は分からないの。あなたが助けてくれなくちゃ、困るわ……一緒に帰りましょう?」


 ヴィーリには、背後から陽光を浴びる少女の姿にある種の神々しさのようなものを感じた。身に纏うドレスが、金色に輝いて見えた。その眩しさから逃れるように彼はうつむきながら、差し出された手のひらをそっと握る。真珠のように透き通るそれへ触れたとき、彼の脳裏に、不可思議な感情が巻き起こった――跪かなくては!


「ちょっと……ヴィーリ、本当にどうしたの? 具合が悪いの?」


 赤らむ緑を背に抱え、後光を受けながら輝く手をこちらに差し出す彼女の姿は、屋敷に飾られたあらゆる絵画よりも美しく思われた。

 けれども、光の裏にこの名画を汚す存在がいる。影から伸びる黒くて、がさつな腕。今にもこの絵に泥を叩きつけ、台無しにしてしまいそうな穢らわしいそれは、恐ろしいことに、彼の肩から伸びているのだ。


「……なんでもない。やっぱり、リーズはすごいや」


 ヴィーリは立ち上がるとリーズの前に立ち、彼女を先導するように歩き始める。しかしその足取りから、親鹿から逃げるときの力強さは失われていた。

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