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狩猟  作者: 丸宮亜門
3/8

3_避難所

 最初に森へ足を踏み入れたとき、リーズはまるで祝福を受けたような気分だった。暖かい光が降り注ぎ、道に沿って並ぶ木々が彼女を優しく導いて、小鳥たちは歓迎の歌を歌っていた。それが今はどうだろうか。闇の帳が光を遮り、立ちはだかるように巨大な木々が道を塞ぎ、頭上には嘲笑うかのようにカラスが飛び回る。いまや森はその表情を真逆に変え、牙を剥いているかのようだ。

 薄暗い森の中、二人は脇目も振らずに大鹿から逃げ続けた。その姿は見えずとも、荒々しく藪を分けるがさりという音、硬い蹄が湿った土を踏みつけるぐしゃりという音が背後から迫り続ける。その恐怖に背中を押され走り続けていた二人だが、リーズの体力は限界を迎えつつあった。徐々に足が重くなり、膝が泣き出し、ついには立ち止まってしまった。


「はぁっ、はぁっ……わ、私、もう歩けないわ」


 リーズは小さな肩を必死に上下させて、ひゅうひゅうと呼吸をしながら空気を肺へ取り込もうとする。彼女の生い立ちと年齢、そして柔らかな靴を踏まえると、十分以上も走り続けることができたのは驚くべきことだ。けれども、一度止まってしまった足はこれ以上踏み出すことができない。彼女は目眩のような感覚に襲われ、歩くことはおろか立つことすら難しく、駆け寄ってきたヴィーリの腕へとしなだれかかる。


「リーズっ! 大丈夫?」


 背後からは追跡者の足音が鳴り響く。長く伸びた雑草の奥に、あの鋭い角が浮かび上がるのをヴィーリは見た。


「駄目だ、まだ追ってきてる」

「もう、無理。動けないわ。……ヴィーリだけでも、逃げて」

「できないよ!」


 どうにかリーズを連れて逃げる方法はないか。そう考えたヴィーリは必死に周囲を見渡して、とある場所に目をつけた。


「見てリーズ。あそこ!」

「どこ……?」

「あの木の穴だよ! あれなら、隠れられるかも」


 彼が指差す先には一際大きな、森全体を支えるかのように巨大な樫の木がそびえ立つ。その足元にはぱっくりと、裂け目のように空いた"うろ"が作られていた。


「ほら、行こう!」


 ヴィーリはそう言うと身を屈め、丸めた背中を少女へ向けて手招きした。リーズは少しだけ遠慮がちにその肩に手を掛けて、ゆっくりと彼の背に乗る。彼女の身体は想像の倍は重かったが、彼は軽々と立ち上がり樫の元へ歩みだす。


「大丈夫? 重くない?」

「全然。飼い葉のほうがよっぽど重いよ」


 そうして二人が樫の木まで辿り着くと、まずはリーズが背から降りて、先に樹洞の中に身を隠した。ヴィーリはその後に続こうとしたが、背後からの獰猛な声が彼の不安を掻き立てる。


(ここに隠れても、見つかるかもしれない)


「リーズ、マントを」

「うん……どうするの?」


 リーズへ貸していた外套を受け取ると、彼はそれにありったけの泥や枯れ草を被せ始める。そうして周囲の地面と見分けがつかなくしてから、彼は樹洞の入口を外套で覆い隠した。


「これなら、見つからないよな……」


 樹洞の中は狭く、二人が身を縮めて入るのがやっとという大きさ。そのうえ入口を覆い隠したことで光が遮られ、僅かな隙間から差し込む、文字通りの木漏れ日のみが光源の、とても暗い空間になっている。ヴィーリがその中へ潜り込んだ後、二人は示し合わせたかのように口元に指を立てて、息を殺しながら耳をそばだてた。

 やがて、人とは違う足音が響いてくる。落ち葉を踏み潰しながら、大きな鼻音を立てて、何かを捜している気配を感じる。

 奴だ。暗闇の中に緊張が走った。リーズは両手で強く口元を抑えて、その身をヴィーリに投げ出しながら震える。すると、自身が身を預けた相手も同じように怯えていることに気がついた。


(ヴィーリも、怖いんだ)


 怖がっているのが自分だけではないとわかると、不思議なことにリーズの気持ちは軽くなり、恐怖が和らいだ。一方ヴィーリは親鹿の吐息に戦慄しながらも、少しでも差し込む光を遮ることができないかと、なんとか身をよじろうとしていた。

 ほんの僅かな時間が、いつまでも続くように感じられた。今と比較すれば、週に一度のあの退屈なお祈りの時間ですら一瞬のように思えた。そして親鹿の足音が樫まで届き、通り過ぎ、やがて聞こえなくなった。

 親鹿が間違いなく遠くへ去ったと確信すると、二人は目を合わせて、どちらからともなく笑い始めた。どうしてか、笑い声が湧き上がるのだ。


「ふふっ……落ち葉を集めてどうするのかと思ったけれど、あなた、とっても賢いのね」

「へへっ。でも、これは秘密だからな。次にネリーから逃げる時も、こうするって決めたから」

「勿論。二人だけの内緒よ……それに、守ってくれてありがとう。とっても心強かったわ。ヴィーリったらまるで、騎士になったみたい」

「リーズだって、あんなにたくさん走れるなんて、びっくりだよ。クレマンより体力あるじゃん」


 二人は微笑み合いながら、お互いを称え合う。リーズが思いつく限りの言葉でヴィーリを褒めちぎると、彼は満足そうに鼻の下をこすった。

 恐怖から解き放たれると同時に、二人にどっと疲れが押し寄せてきた。ヴィーリは目を閉じながら乱れた息を整え、リーズもまた大きく深呼吸をする。それから身だしなみを整えようとして、泥で汚れているのが服だけではないと気づいた。


「うぅ……頭から全部、泥まみれだわ」


 闇の中、波をかき分けるようにリーズが髪を撫でると、土埃や草葉が舞い落ちる。小川のように美しく流れる彼女の長髪は、まるで濁流に飲まれてしまったかのようだ。二度三度と自身の頭を撫で、その度に木の葉が舞うことにうんざりしてしまった彼女は、は他人の手を借りることを考えついた。


「そうだ。ねえヴィーリ、髪を梳いてくださる?」

「え?」

「汚れが酷くて、あたし自分ではどうにもできないの。ね、お願い」

「いや、でも……」


 恐怖心から解き放たれた反動からか、リーズは大胆にも、自身の美しさの象徴をヴィーリへ託そうと思いついたのだ。

 当然ながら彼には髪の手入れの経験などない。彼はやんわりと身を引いて、断りの意志を表そうとした。しかし、彼が一歩身を引けば少女は一歩距離を詰めてくるので、あっという間に壁際へ追い詰められてしまった。


「嫌?」

「嫌じゃ……ないけど。でも俺、やったことない」

「勿論知っているわ。けど、ここにはあなたしかいないから……ね?」


 相手の遠慮がちな様子もお構いなしに、リーズは彼の手を取って髪へと触れさせる。僅かに振り向いたその顔は伏し目がちで、頬は赤らんでいた。


「いいでしょう? こんなに乱れた髪だと、恥ずかしくて外に出られないわ」

「わ、わかったよ……」


 柔らかな手のひらの温かみと、誘うように細められた瞳に逆らうことはできず、ヴィーリは導かれるままにリーズの髪へ優しく触れた。

 汚れてもなお光沢を放つ、絹糸のような手触りの青い髪。それがふわりと舞って、彼の頬をくすぐる。そのさらりとした感触が心地良く、彼は無意識の内に指を絡ませて、ゆっくりと彼女の髪を梳き始めた。その手つきは熱にうなされたかのようにおぼつかず、枯れ葉を弾くつもりが、不意に髪を引っ張ってしまった。


「痛っ」

「あ……ご、ごめん」

「もう……大切にして?」


 リーズは嗜めるように注意しつつ、引っ張られた場所を右の手で、痛みを拭い去るように擦る。そのとき覗いたうなじが、彼の視線を釘付けにする。同時に爽やかな香油の香りと、どこか甘ったるい汗の香りが広がって、ヴィーリは頭がくらりとする感覚を覚えた。


「ヴィーリ……? 大丈夫だから、続けてもらえる?」

「うん……」


 指先を上から下へと流す度に白い肌が垣間見え、不思議な香りが漂う。ヴィーリはそれを求めて何度も、何度も、熱心に彼女への奉仕を繰り返した。次第に彼の顔が、花蜜に誘われる虫のように近づいていく。そして蜜を吸うように、鼻を鳴らしてその匂いを吸い込んだ。


「ちょ、ちょっと、ヴィーリ!」

「え……?」


 上擦った声と握り締められた左手の感触が、彼を現実へと引き戻した。


「そんなに近づかれると、びっくりしちゃうわ。それに……私、汗臭かった?」

「ご、ごめっ――」


 ヴィーリは慌てて飛び退こうとして、後頭部を樹の壁へとぶつけてしまった。


「いたた……ご、ごめんリーズ。その、変なことするつもりじゃ……」


 振り向いたリーズの顔は真っ赤に染まり、微かに目が震えていた。ヴィーリはしどろもどろになりがなら弁明するが、彼女はしばらく口を尖らせたまま抗議の意志を伝えた。しばらくすると彼女は一度目を閉じ、口元に小さな笑みを作った。


「ヴィーリったら、いけないんだから……でも、今回だけは許してあげる」

「ありがとう……もう、しないから」

「いいのよ」


 リーズは微笑んでから元通りに前を向いて、恥じらうように続ける。


「あのね、女の子にとって、髪は命みたいに大切なものなの」

「うん……」


 彼女の声には冷たい響きが含まれて、ヴィーリはバツが悪そうに俯く。


「簡単には他人に触らせたりしないものなの。だから……」


 彼の左手が、柔らかな手のひらに握り締められた。


「ヴィーリには、特別よ。私のこと、護ってくれたから……」


 リーズが消え入りそうな声で続けると、ヴィーリの心臓の鼓動は更に早くなり、彼は完全に身動きが止まってしまった。二人はそのまま何も口にせず、身動きも取らず、まるで時が止まってしまったかのようにそのままでいた。

 ――ぐううという空腹を知らせる音が、ヴィーリの腹から鳴り響くまでは。

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