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第89話 心愛の涙

 翌日、夏海(なつみ)亜里沙(ありさ)は、やや強引に心愛(ここあ)とカラオケに行く約束を取り付けた。

 カフェではなくカラオケを選んだのは、なるべく個室のほうが心愛も話しやすいと思ったからだ。


「えっと……じゃあ、とりあえず勉強する?」


 心愛が困ったように笑いながら、切り出した。


 夏海と亜里沙は、彼女を「一緒に勉強しよう」と誘い出していた。

 (いつき)は元来女子が苦手で、(れん)凛々華(りりか)は当人たち以外から見ればもはやペアなので、心愛だけを誘ってもあまり違和感がないだろうと考えたのだ。


「まあ、そうだね。けど、その前に——


 亜里沙はゆっくりと視線を心愛に向ける。


「心愛ちゃん。最近ちょっと元気ないよね?」


 心愛の手が止まる。


「え……?」


 あくまで何気ない口調だったが、その言葉は確実に心愛の心に刺さったようだった。


「……そんなことないよ?」


 心愛は慌てて笑ってみせ、「ちょっと疲れてるのかも」と続けた。

 だが、その笑顔がどこかぎこちないことは、夏海と亜里沙にはすぐにわかった。


「ねえ、心愛ちゃん——」


 夏海は言いづらそうに切り出した。


「失くしたって言ってた数学のノート……今朝、机の中に入ってたよね?」

「っ……!」


 心愛が深海のような青色の瞳を見開いた。

 その反応を見て、夏海と亜里沙は心愛があの悪口を見たのだと確信した。


「心愛ちゃん、もう一人で溜め込まなくていいよ……最後のページ、見たんだよね?」


 亜里沙がそっと優しく問いかけた。


「……っ、う……」


 心愛は唇を噛みしめ、拳を固く握りしめた。

 そして、目を伏せ、小さくうなずいた。


 その様子を見て、夏海はためらいがちに問いかけた。


「もしかして……他にも何かあったの?」

「っ……」


 心愛の肩がぴくりと動いた。

 ほんの一瞬、迷うように唇を噛み、視線を泳がせる。


 言うべきか、言わないべきか——。

 そんな葛藤が伝わってくる仕草だった。


「っ……うん」


 ようやく小さくうなずくと、心愛は俯き、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。

 微かに震える肩を見て、夏海と亜里沙は黙って彼女の言葉を待つ。


「ノートだけじゃなくて……」


 ぽつりと、心愛のか細い声が響く。


「机の中に、悪口の書かれた紙も入ってた……最初は……ただのいたずらかなって思ったんだけど……何回も続くから……」


 心愛の声はかすかに震えていた。

 彼女は言葉を続けようとしたが、喉に詰まるように言葉が止まる。

 唇を噛み、必死に感情を押し殺しているのが分かった。


 夏海は息を吐き出し、できるだけ穏やかな声で尋ねた。


「……心当たり、ある?」


 心愛はぐっと唇を噛み、躊躇いながらも小さな声で答える。


「……筆跡が、亜美ちゃんと莉央ちゃんに、似てた……」


 その名前が出た瞬間、夏海と亜里沙は互いに視線を交わす。

 やはり、犯人は——。


 しかし、心愛はすぐに首を横に振り、声を強める。


「でも、確かめるのが怖くて……それに、もし違ったら、私……友達を疑う最低な人間になっちゃう……」


 その言葉に、夏海と亜里沙はハッとしたように顔を見合わせた。小さくうなずき合う。


「——そんなことは絶対にないよ、心愛ちゃん」


 亜里沙が優しく語りかけた。

 心愛の瞳を覗き込み、安心させるように微笑む。


「心愛ちゃんは、ちゃんと信じたいんだよね。でも、だからって自分を責めることないよ」

「そうそう! 自分が辛いのに、そんな風に思う必要ないって!」


 夏海も力強く言い、心愛の手をそっと握った。


「っ……!」


 心愛の瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。

 その瞬間、夏海は迷わず心愛を抱きしめた。


「……よく頑張ったね、心愛ちゃん」


 亜里沙が心愛の頭を撫で、優しく囁く。

 心愛の肩がびくりと震えた。


「っ……ぐす……」


 抑えようとしても、せきを切ったように涙が溢れてくる。

 夏海はそんな心愛の背中をそっとさすりながら、


「もう、大丈夫だから……」


 その言葉が、決壊の合図だったのかもしれない。

 心愛はぎゅっと夏海の服を握りしめ、耐えきれなくなったように嗚咽を漏らした。


「……うぅっ、ひっく……!」


 いつも気丈に振る舞っていた心愛が、こんなにも無防備に泣く姿を見せるのは初めてだった。

 夏海と亜里沙は、彼女が泣き止むまで、ただ静かに寄り添っていた。




 しばらくすると、心愛は泣き止んだ。


「ごめんね……テスト前なのに、迷惑かけて……」


 心愛が目元を拭いつつ、罪悪感を浮かべてそうつぶやいた瞬間——、

 夏海と亜里沙は両側から同時に、心愛の頬をむにっと掴んだ。


「——ぶえっ?」

「心愛ちゃん、友達より大事なテストなんてないよ」


 亜里沙が優しく微笑む。


「っ……!」


 瞳を揺らす心愛に、亜里沙はイタズラっぽく続けた。


「それに、私はある程度普段から勉強してるから、補習を受けるのは夏海だけだし」

「ちょっと待って! なんで私だけ補習決定みたいになってるの⁉︎」


 夏海が慌てて抗議するが、亜里沙は軽く肩をすくめるだけだった。

 そのやり取りに、心愛はふるふると肩を揺らし——


「……ふふっ」


 泣き笑いのような表情を浮かべた。


「ありがとう……」


 涙を拭いながら、心愛はぽつりと呟く。

 その小さな言葉に、夏海と亜里沙は優しく微笑んだ。


 これで終わりじゃない。むしろ、ここからが本番だ。

 ——私たちが、心愛ちゃんを守る。

 夏海と亜里沙は、改めてそう心に誓った。


「さ、そろそろ本題の勉強に移りますか!」


 亜里沙が切り替えるように、パンっと手を叩いた。


「そうだね。心愛先生、私の補習回避のため、ご教授お願いします!」

「っ……うん、任せて!」


 夏海がおどけてみせると、心愛は目に浮かんだ涙を拭い、笑顔の花を咲かせてうなずいた。

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