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第56話 バイトの先輩から水族館のチケットを押し付けられた

「そういえば、助かったわ」


 学校からの帰り道、話題が途切れたところで、凛々華(りりか)がふと思い出したように言った。

 (れん)は首をかしげた。


「何のことだ?」

「理科よ。すぐに対処してくれたし、あなたが覚えていてくれたメモ、ほとんど完璧だったわ。やっぱりとんでもない記憶力ね」


 凛々華は、夕日に照らされたアメジスト色の瞳を細め、蓮を見上げた。

 蓮は肩をすくめてみせた。


「ほとんど完璧だったって言える(ひいらぎ)も、大概だろ」

「私は自分で書いたのだから、当然よ。人のメモを一度見ただけで完璧に覚えるなんてことはできないわ。一体どんな脳の構造をしているのかしら」

「人を実験体か何かのように言うな」


 蓮は苦笑した。


「ま、結果的になんとかなってよかったな。プリントは犠牲になったけど」

「そんなのは些細なことよ。青柳(あおやぎ)君は必要以上に気にしていたけれど」


 普段の陽気さからは想像もできない蒼空(そら)の落ち込み具合を思い出したのか、凛々華は少しだけ表情を和らげた。


「なぁ、嫌だったら無理に答えなくていいけどさ——」


 蓮はそう前置きをして、ずっと気になっていた問いをぶつけた。


「なんで柊って、藤崎(ふじさき)には冷たいんだ?」

「っ……どういう意味かしら?」


 凛々華は澄ました様子で尋ね返してくるが、あまり生産的ではないその質問こそが、彼女の動揺を表していた。


「そのまんまの意味だよ。最近は初音(はつね)(いつき)だけじゃなくて、井上(いのうえ)とか水嶋(みずしま)とも普通に接してるし、それこそ理科の時間には蒼空にも優しくしてただろ。早川(はやかわ)はまあわかるとして、藤崎にも特別そっけないみたいだから、なんでかなって思ってたんだ」


 蓮がじっと見つめると、ややあって、凛々華はため息を吐いた。


「……あなたって、鈍感なくせに鋭いわよね」

「褒めてねえことはわかるぞ」

「鋭いわね」

「うるせえよ」


 凛々華は少し頬を緩めた後、静かに言った。


「青柳君をフォローしたのも、藤崎さんに冷たくするのも、元は同じ理由——あなたよ」

「俺?」


 蓮は思わず眉をひそめた。

 凛々華は前を向いたまま、淡々と続けた。


「青柳君は初音さんと同じように、大翔(ひろと)のあなたに対する態度を知らない立場だったわ。しかも、ほとんどの男子が大翔を恐れて距離を置く中で、彼は普通にあなたと接していたでしょう?」

「だから、突き放す理由もないってことか」

「えぇ。もっとも、大翔の悪意に全く気づきもしなかったあなた以上の鈍感さは、どうかとも思うけれど」


 凛々華はすっと髪を耳にかけた。


「なるほどな……でも、それで言うと、藤崎は井上とか水嶋とかと立場は変わらねえんじゃねえのか? 別に、裏で大翔に加担してたわけでもないだろ?」

「そうね。でも——彼女はクラス会長よ」

「っ……」


 凛々華の声色が、一段と低くなった。

 蓮は思わず息を呑んだ。


「推薦されたのならまだしも、自分で立候補してまとめる立場になった以上、クラスの問題を見て見ぬふりをするなんて、許されることじゃないわ。それができないなら、最初から立候補なんてしなければよかったのよ」


 冷ややかにそう言い放った凛々華だったが、その声音には確かに怒りがにじんでいた。


「……そういうことか」


 蓮は改めて納得し、ゆっくりとうなずく。

 しかし、そこで新たな疑問が湧いた。


「でも、藤崎は島田(しまだ)の一件のときも味方してくれたし、ちゃんとクラスを代表して謝ってくれたぞ」

「それは、正常な思考回路を持つ人間なら、どちらの側につくべきか明らかだったからよ。それに、大翔という危険が去った後の謝罪なんて、大した意味はないわ。その前からあなたの味方をしていたのならいざ知らず、ね」


 そう言うと、凛々華は少しだけ眉をひそめ、蓮を一瞥する。


「あなたに気を遣わせて申し訳ないとは思っているけれど……彼女と仲良くする気にはなれないわね」

「そうか。ま、そういうことなら仕方ないな」


 蓮はそれ以上何も言わず、肩をすくめた。

 しばらくの沈黙の後、凛々華はわずかに口をへの字に曲げ、小さくつぶやいた。


「……面倒くさいことは自覚しているわ」

「いや、そんなことねえよ」


 蓮はふっと笑い、凛々華を横目で見た。


「それだけ怒ってくれるのは、正直言って嬉しい。ありがとな」

「っ……別に、私はただ、彼女の行動が気に入らないだけよ」


 凛々華は一瞬、蓮の顔を見たが、すぐに視線を逸らしてそっぽを向いた。


「それでも、俺は救われてるからさ。感謝の気持ちだけでも受け取っておいてくれ」

「……本当に、強引な人ね」


 凛々華は小さくため息をつきながら、それでもほんの少しだけ口元を緩めた。


「はは、悪いな」


 蓮が屈託なく笑うと、そのまま足を止めた。

 気づけば、二人は(ひいらぎ)家の前にたどり着いていた。


「じゃ、また後でな」

「えぇ」


 凛々華は蓮に背を向けると、そのまま扉の内側へと姿を消した。

 蓮は玄関の扉が閉まる音と同時に踵を返し、自分の家へと歩き出した。


 ——それから数十分後、彼らは再び柊家の前で顔を合わせた。


「行くか」

「えぇ」


 短い言葉を交わし、並んで歩き始める。バイト先に向かうためだ。

 柊家は少しだけ回り道になるが、バイト先と黒鉄(くろがね)家の間にあるため、蓮の出発時間はほとんど変わらなかった。




「——あっ、蓮君、凛々華ちゃん!」


 その日もいつも通り仕事をこなし、蓮と凛々華がそれぞれ更衣室で着替えを済ませて落ち合ったところで、(めぐみ)がパタパタと駆け寄ってきた。


「なんですか?」

「これ、親がもらってきたんだけど、他の人たちはちょっと予定合わないみたいでさ。よかったらどう?」


 そう言って恵が差し出してきたのは、水族館のペアチケットだった。


「えっ、水族館?」

「来週の日曜日のやつだよ。シフト見たら、二人とも入ってなかったから、ちょうどいいと思って。もちろん、お代はいらないから!」

「そんな、悪いですよ」

「えぇ、受け取れません」


 蓮と凛々華は揃って辞退しようとしたが、


「いいのいいの。私、どうせ行けないし! それなら、行ける人が楽しんだほうがいいじゃん? 二人ともバイト頑張ってくれてるから!」


 恵は二人の手のひらに、半ば無理やりチケットを押し付けた。

 困惑する彼らに満面の笑みを向けて、


「いらなかったら捨ててもいいし、誰かにあげてもいいから!」

「えっ、いや、ちょっと待——」

「じゃ、私はもう業務戻るから! そういうことで〜」


 蓮の制止をさえぎり、一方的にそう言い残すと、恵は小走りで店の奥へ消えていった。


「……」


 蓮と凛々華は、チケットを手にしたまま無言で立ち尽くした。


「……どうする?」

「……とりあえず、持っておくしかないわね。恵さんが仕事なのは事実なのだし」

「だな」


 二人は顔を見合わせ、微妙な雰囲気のまま店を出た。

 外の空気は少しひんやりとしていて、心地よい風が頬を撫でる。


 しかし、その静けさの中で、凛々華の足取りはどこかぎこちなかった。

 いつもなら無言でも自然に歩くはずなのに、どこか迷っているような雰囲気がある。


(どうしたんだ?)


 蓮がちらりと横目で彼女を見たとき、


「……ねぇ」


 不意に、少し硬い声で凛々華が口を開いた。


「ん?」


 蓮が反応すると、彼女は一度視線を落とし、微かに唇を引き結んだ。


「来週の日曜日、空いているかしら?」

「特に予定はないけど……柊は?」


 凛々華は蓮の問いに一拍置いてから、短く返した。


「私も、空いているわ」


 ここまで言われれば、蓮もさすがに察した。

 わざわざ予定を確認してきたということは、つまりそういうことなのだろう。


「じゃあ……一緒に行くか?」


 凛々華はわずかに肩を揺らした後、小さくあごを引いた。


「水族館なんて、小学生以来だし……あのころよりも楽しめると思うのよ」

「確かに。ガキのころは全然魚なんて見てなかったからな」

「そうね」


 凛々華がほんのりと笑みをこぼしながらうなずく。

 あまり想像はできないが、もしかしたら彼女も子供のころは落ち着きがなく、魚たちをじっくり観察していなかったため、リベンジしたいのかもしれない。


「じゃあ、決定だな」

「えぇ」


 短く同意する凛々華の声からは、硬さは消え去っていた。


「どうする? 家でそれぞれ昼を食ってから行くか?」

「それでもいいけれど、最初から混雑しているのは嫌なのよね」

「じゃあ、もはや開園から行っちゃうか?」

「黒鉄君さえ良ければ、私はそうしたいわ。といってもそこまで早くはないでしょうから、お互いに家でしっかり朝食を取っておけば、昼食は抜きにして、夕方にカフェとかに寄っても良いのだし」


 合理的な提案だった。確かに、混雑する前に入っておいたほうが、ゆっくり見て回れるだろう。


「わかった。そうするか」


 蓮は納得し、軽くうなずいた。

 ——その言葉は、自然と彼の口からこぼれ落ちた。


「楽しみだな」

「っ……」


 凛々華が小さく息を呑む気配がした。


「……そうね」


 ややあって返ってきたのは、消え入りそうなほど小さな、しかし確かな同意だった。

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