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第26話 芽衣の作戦

「色々聞いてくれてありがとね、黒鉄(くろがね)君」

「おう。島田(しまだ)はここに残るのか?」


 (れん)が尋ねると、机のそばに立ったまま動く気配を見せていなかった芽衣(めい)はうなずいた。


「まあ、うん。ちょっとね」

「そうか。それじゃ」

「うん、バイバイ」


 芽衣が誤魔化そうとしていたのは明白だったが、蓮も追及しようとは思わなかった。

 教室の扉を開けると、凛々華(りりか)が顔を上げた。


「待たせたな、(ひいらぎ)

「用事は終わったのかしら?」


 凛々華が隙のない視線で蓮を観察する。

 差出人不詳の手紙で呼び出された時点で、彼女はかなり心配してくれていた。


「おう。そっちはどうだ?」


 蓮が軽い調子でうなずいてから尋ね返すと、凛々華の肩の力が抜けるのがわかった。


「ちょっと区切りが悪いわ」

「わかった。終わるまで待つよ」

「えぇ。すぐ終わらせるわ」


 そうは言ったものの、なかなか苦戦しているようだった。


「何の問題をやっているんだ?」

「数学の応用問題よ」


 蓮が肩越しに覗き込むと、凛々華がノートを見やすいように寄せてくれた。

 相変わらず女の子らしい丸みを帯びた端正な文字だったが、少し違和感を覚えた。文字にではない。問題に対してだ。


「因数分解か。こんなん授業中にやったっけ?」

「先生が解ける人は解いてみろって、宿題とは別に出した問題よ」

「あー、そういえば言ってた気がするな……って、これ。二回たすき掛けしなきゃいけなくね?」

「えっ、二回?」


 凛々華がパチパチと目を瞬かせた。


「おう。まずyの二次方程式を因数分解して、それを今度はxの二次方程式のcの部分とみてもう一回因数分解すれば、多分できるぞ」

「……よくそんなことが思いつくわね」


 凛々華は信じられないといった表情でつぶやいた。


「ちょっとやってみるわ」

「おう」


 凛々華がペンを走らせる中、蓮も式を見ながら自分で言った方法を試した。

 確かめ算まで終了したころ、彼女もペンを置いた。蓮の答えと一致していた。


「二回因数分解をするなんて発想、よく思いついたわね」


 凛々華がため息混じりに言った。


「パッと見、一回じゃできなそうだったからな。なら二回やればいいんじゃねえかって思っただけだ」

「私が何分も悩んでいた問題をそんな簡単なふうに言われると、ものすごく腹立たしいのだけれど」

「たまたま勘が当たっただけだって」


 蓮が肩をすくめてみせると、横から「黒鉄君」と呼ばれた。

 クラスメイトの井上(いのうえ)亜里沙(ありさ)だった。


「井上、どうした?」

「あの、私にも解き方教えてもらっていいかな? さっきのだけだとどうすればいいのかわかんなくて……あっ、もちろん、二人の会話を盗み聞きしていたわけじゃないよ?」


 亜里沙が慌てた様子で付け加えた。


「それはわかってる。教室には俺たちしかいない以上、話し声は聞こえてくるもんな」


 蓮がフォローするように言うと、亜里沙はホッと胸を撫で下ろした。


「それで、解き方だよな? まずは——」

「ちょっと待ちなさい」


 凛々華が蓮を制した。


「どうした?」

「復習がてら、私が教えてもいいかしら? 人に教えることが一番の学習方法だと思うし」


 内容の割に、凛々華の瞳は真剣だった。有無を言わせない圧力が感じられた。


(勉強熱心だな、柊は)


 学習機会と見たら食いつくその積極的な姿勢に感嘆の念を抱きつつ、蓮はうなずいた。


「確かにな。井上もいいか?」

「うん、大丈夫だよ」


 亜里沙がうなずいた。

 その頬はほんのり緩んでいるようだった。発案者だから蓮に声をかけただけで、彼女としても同性の凛々華に教わるほうが安心できるのだろう。


「まず、因数分解を二回行うという発想になると、一回目の因数分解で全ての文字や数字を使う必要はないから——」


 凛々華の説明は淡々としていたが、無駄がなく、アイデアを出した蓮が聞いても十分に参考になるものだった。

 亜里沙の反応を見ながら言葉を付け足したり噛み砕いたりもしていて、おそらくあまり数学が得意ではない彼女でも、自力で正解に辿り着いたという実感が得られそうな絶妙なヒントを与えていた。


「なるほど。そういうことだったんだ〜」


 解き終わった亜里沙の満足げな表情が、凛々華の教え方の秀逸さを表しているだろう。


「ありがとう、柊さん! これを思いつく黒鉄君ももちろんすごいけど、聞いただけですぐに答えまで持っていける柊さんもやっぱりすごいね!」

「別に、たいしたことではないわ」


 凛々華はそっぽを向いた。耳元がほんのりと赤に染まっている。

 相変わらず、真っ直ぐな称賛には弱いようだ。


 かすかに笑い声を漏らした蓮をひと睨みしてから、凛々華は亜里沙に向き直った。


「用事は済んだかしら?」

「あっ、うん。二人は一緒に帰るんだよね。呼び止めちゃってごめん」

「構わねえよ。それじゃ、またな」

「うん、また明日〜。あっ、柊さん」


 亜里沙が凛々華をちょいちょいと手で呼び寄せて、何やら耳打ちした。


「っ〜!」


 途端に、凛々華の頬が赤くなった。


「そ、そんなんじゃないわっ!」


 赤面したままそう言い放ち、凛々華は蓮の横をズンズンと大股ですり抜けていった。

 蓮は亜里沙に目を向けた。微笑とともにウインクを寄越してきた。どうやら、悪意はないようだ。


 慌てて凛々華を追いかけると、昇降口のところで追いついた。


「井上にはなんて言われたんだ?」

「あなたには関係のないことよ」


 間髪入れずに冷ややかな答えが返ってきた。あまり触れてほしくないのだろう。

 蓮が話題を変えようとしていると、凛々華が尋ねてきた。


「それで、誰が何の用事だったのかしら?」

「島田だったよ。なんでも大翔のことが好きみたいで、お前とあいつの間には本当に何もないのかって確認された。俺と二人きりで過ごそうとしていたのも、それを聞こうとしてたっぽいな」

「……そう」


 呼び出したのが芽衣と聞いて頬を引きつらせた凛々華は、詳細を聞くと一転して考え込むそぶりを見せた。


「もしそうなのだとしても、いくつか腑に落ちない点があるわね。私にしか謝罪しなかったこともそうだし、あなたを鋭い目つきで見ていたことも」

「全ての行動を理屈で説明できるわけじゃないからな。島田は島田で余裕がなかったのかも知れねえし、そんなに気にする必要はないんじゃねえか? 大翔が好きなら、俺らは関係ねえし」

「……そうね」


 凛々華は未だ納得していないようだったが、それ以上は芽衣に関する話題を続けなかった。

 それだけ深く考えても、正解がわからないのではどうしようもない。


 蓮も口では軽いことを言いつつ、芽衣の行動に違和感は覚えていた。

 ただ、まさかクラスメイトから罵詈雑言を浴びせられる事態にまでなるとは思わなかった。




 翌朝、いつも通り凛々華と登校していた蓮は、廊下の時点でクラスの雰囲気が重いことに気づいていた。

 彼女と顔を見合わせ、教室に入った瞬間、大翔から罵声が飛んできた。


「——黒鉄! お前、昨日の放課後に芽衣を襲ったらしいなっ、このクソ野郎が!」

「……はっ?」


 蓮の口からたった一言、疑問符がこぼれ落ちた。

 視界に、机に突っ伏して体を震わせている芽衣の姿が飛び込んできた。

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