第192話 蓮の誕生日③ —少しだけ先の話—
柊家に入ると、蓮はリビングの異変にすぐ気がついた。
「……あれ?」
ソファーの上に、ぬいぐるみが丁寧に並べられている。
ネコ、ウサギ、クマ……見覚えのあるものばかりだった。
「これ……全部、俺があげたやつだよな?」
「えぇ。いつもは、部屋に置いているのだけれど」
凛々華は中央のネコの頭を撫でた。
実物を相手にしているような、優しい手つきだ。
(大切に、してくれてるんだな……)
胸がじんわりと温かくなる。
(でも、これを見せるだけなら、夕食後でもいいはずだし——)
「あの……蓮君」
凛々華の声で、蓮の思考が途切れた。
彼女は指先をもじもじといじりながら、おずおずと切り出す。
「このあとの、予定なのだけど……」
「おう、どうした?」
蓮がさりげなく続きを促すと、凛々華は覚悟を決めたように顔を上げた。
「その、今日の夕食……私が作るから」
「……えっ?」
(誕生日に、手料理振る舞ってくれるってこと……⁉︎)
蓮が言葉を失っていると、凛々華が不安そうに視線を落とす。
「あっ……やっぱり、普通のコース料理とかのほうがよかったかしら……?」
「いや、そんなことねえよっ。——ちょっとびっくりしただけで、マジで嬉しい」
「そう? よかった……」
凛々華はようやく、表情をほころばせた。
「なぁ。もしかして、最近の弁当に、男が好きそうなおかずが増えたのって……?」
「だ、だって、練習しなければ失礼でしょう? 前に蓮君、彼女の手料理が男の夢だって言ってたし、がっかりさせるわけにはいかないと思って……」
凛々華は視線を逸らしながら、消え入りそうな声で答えた。
蓮は気づけば、腕を伸ばしていた。
「かわいい」
そう囁いて抱きしめると、凛々華は一瞬、気恥ずかしげにうつむいた。
けれど、すぐに顔を上げ、蓮の首にそっと腕を回す。
そして、自ら唇を重ねると——ためらいがちに舌を絡めてきた。
「んっ……⁉︎」
蓮は驚きに目を見張る中、彼女は角度を変え、再び深く口づけをしてくる。
「ん、ふっ……」
蓮も頬に手を添え、必死にその熱に応えた。
唇が離れてからも、蓮の視線は凛々華に釘付けになっていた。
「っ、はぁ……っ」
彼女は肩で息をしていた。
汗をかき、頬を紅潮させたその姿が、やけに艶かしく見えて、
(……やば……っ)
蓮はごくりと唾を飲み込んだ。
ほんの一歩、無意識に近づこうとした——その瞬間。
凛々華が我に返ったように、サッと背を向けた。
「と、とにかく……夕食、作るわね。お昼も少し早めだったし」
「お、おう……」
蓮は未だ熱の冷めぬまま、ぼんやりとした口調で答えた。
「蓮君は本でも読みながら待っていて。最近、忙しくて読みたい本が溜まってるって言ってたでしょう?」
「あぁ……なるほど」
蓮の脳は、ようやく思考能力を取り戻した。
(なんというか、凛々華らしい几帳面な段取りだな)
納得しかけたが——すぐに首を横に振る。
「ごめん。気遣ってくれたのは嬉しいけど、今はちょっと、読む気になれねえ」
「えっ……?」
凛々華がきょとんとした後、何かに気づいたように目を見開く。
「……そうよね。誕生日にひとりで読書なんて、味気ないわよね……ごめんなさい」
「そういうことじゃねえよ」
「えっ?」
凛々華がパチパチと瞬きをした。
蓮はその頭をポンっと撫でた。
「凛々華の手料理だろ? ——楽しみすぎて、本なんかに集中できねえって意味」
「っ……もう、相変わらず大袈裟なのよ……」
凛々華が視線を逸らし、指先で髪の毛を弄ぶ。
「でも、実際どうするの?」
「うーん、全然料理してるとこ見てるだけでもいいんだけど……どうせなら、ちょっと手伝ってもいいか? 一緒に作るのも楽しいしさ」
「えぇ、もちろん。あっ、でも——味付けは私がするわよ?」
「わかってるよ。俺はあくまでアシスタントだから」
再び頭を撫でると、凛々華は不服そうにむくれてみせた。
が、すぐに誤魔化すように咳払いをして、スタスタと台所へ歩き出す。
——その口元は、抑えきれないように緩んでいた。
◇ ◇ ◇
台所は広いため、二人で並んでも余裕があった。
「地味に、俺ら二人分だけ作るのって、初めてじゃね?」
「そうね。これまでは、遥香ちゃんを含めて三人分作っていたから」
「機会があったら、また作ってやってくれ。あいつ、喜ぶから」
「えぇ、楽しみね——あっ」
ニンジンを切り終わったところで周囲を見回し、凛々華が声を漏らした。
「これ、使うか?」
「えぇ……ありがとう」
蓮が差し出したボウルにニンジンを入れながら、彼女は何気ない口調でつぶやく。
「何だか、ど——な、なんでもないわっ!」
慌てて首を振った勢いで、彼女の手から、ニンジンがボロボロこぼれる。
蓮はそれらを拾いながら、くすりと笑った。
「……同棲してるみたい?」
「っ……!」
凛々華が息を詰めた。
頬の色は、ニンジンというよりトマトに近い。今にも煮えそうだ。
「正直、俺も思ってたよ。一緒に住んだら、ちょくちょくこういうこともできるのかなって」
「……お互いに今より忙しいから、毎日は無理でしょうけど」
「まあ、それはな。でも、たまにしかできないってのも悪くないんじゃねえか? それに、帰ってきたら作ってくれてるのも、待ちながら作るのも良いだろ」
「たしかにそうね」
少しの沈黙のあと、蓮は躊躇いがちに切り出した。
「……なぁ。大学生になったら、同棲しねえか?」
「っ——!」
まるで時間が凍りついたように、ぴたりと凛々華の動きが止まった。
唇を噛みしめ、視線をあちこちに泳がせてから——観念したように、こくんと小さくうなずいた。
「あっ、もちろん無理にとは言わないし、大学が同じか近ければ、だけどさ」
「……多少、遠くてもいいじゃない」
「えっ?」
「だ、だって、家賃や光熱費も節約できるし、それに、その……」
凛々華は顔を伏せ、拗ねたように続けた。
「会える頻度……減っちゃうじゃない」
その瞬間、蓮は気がつくと、覗き込むようにキスをしていた。
「……えっ?」
凛々華がぽかんと固まった。
唇が離れてからも、目を瞬かせて、呆けたようにこちらを見上げている。
蓮は照れくささを堪えきれず、そっと手元に視線を戻した。
「でも、やっぱり手作りにしてくれてよかったよ」
「な、なにが?」
「凛々華が同棲したいって思ってくれてるの、わかったから」
「っ……そうじゃなきゃ、こんなに行き来してな——んっ」
蓮が再びキスをすると、凛々華は反射的に目を閉じたが、すぐにそっと胸を押してくる。
「ま、まずは作ってしまいましょう?」
「……そうだな」
蓮は渋々距離を取るが、少しだけ寂しさを覚えてしまう。
それを察したのだろう。
「わかったわよ……。もう一回だけ、して良いから」
彼女は鼻にかかるような声で「ん……」と漏らし、そっと唇を差し出してきた。
(っ……マジか)
蓮は一瞬驚いたが、すぐに苦笑しながら顔を寄せた。
(これで一回だけは、生殺しもいいとこだな……)
それでも、しないという選択肢はない。
凛々華の後頭部に手を添え、そっと唇をふさぐと——限界まで味わった。
「……っ、はぁ……!」
顔を離すと、凛々華は思わずといったように息を吐き出した。
頬を上気させ、潤んだ瞳で睨むように見上げてくる。
「な、長すぎよ……!」
「最後の一回って言うからさ」
蓮は肩をすくめながら笑った。
凛々華は息を呑んだ後、呆れたようにため息を漏らす。
「理由になってないわよ……」
「人間って、中途半端に味見とかすると、逆にもっと腹空くんだぜ」
「味見はあくまで、味を整えていくためのものでしょう」
「じゃあ、もう整っている場合は?」
「う、うるさいわねっ……ちゃんとお皿に盛り付けられるまで、我慢しなさい」
凛々華はそっぽを向くと、意識を逸らすように料理を再開した。
(……あとで、イチャイチャタイムはちゃんと取ってくれるってことか)
自然と鼓動が早まり、蓮の全身が熱を帯びる。
(詩織さんは、職場の人たちとごはん食べてくるって言ってたよな……)
夕食を早めに済ませれば、心ゆくまで二人きりの時間を過ごすことも可能だろう。
ふと、カフェを出た直後の凛々華の言葉、そして表情が脳裏をよぎる。
『そ、外では恥ずかしいから……帰ってからよ?』
(あれってやっぱり……って、ダメダメだ。慎重に行かねえと……!)
蓮は邪念を追い出すように、勢いよく首を振った。
——凛々華は手を止め、その姿をじっと見つめていた。
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