第191話 蓮の誕生日② —積極的な凛々華—
カフェを出たあと、凛々華は迷いのない足取りで、大通りから少し外れた静かなエリアに足を踏み入れた。
「……古書店街?」
古い建物の並ぶ路地に、看板の色あせた本屋が何軒も軒を連ねていた。
「前に、一度行ってみたいと言っていたでしょう?」
「えっ、覚えててくれたのか?」
「当然じゃない」
凛々華はどこか誇らしげに微笑んだ。
「そっか……ありがとな、マジで嬉しい」
「よかったわ。探していた下巻も、見つかるといいわね」
「はは、そうだな」
その優しい言葉に、蓮の胸の奥がじんわりと温まった。
そうして並んで歩きながら、いくつかの店を見て回っていると——、
「蓮君、あったわよっ!」
ある店舗の奥で、凛々華が本を手に声を上げた。
「え……マジでっ?」
駆け寄ってタイトルを確認すると、まさに探していた海外のミステリー作家の二部作——その下巻だった。
(まさか、本当にあるとは……!)
思わず手を伸ばす蓮だったが、凛々華がすっとそれを引いた。
「……えっ?」
「今日は、私の奢りだって言ったでしょう?」
穏やかな微笑みを浮かべながらも、アメジストの瞳には強い意志が宿っていた。
「……わかった。じゃあ、甘えるよ」
蓮が観念したように肩をすくめると、凛々華の顔がパッと明るくなる。
だがすぐに、咳払いをしてくるりと背を向けた。
「じゃ、じゃあお会計してくるわね」
そそくさとその場を離れ、角を左に曲がる。
「凛々華、レジは逆だぞ」
「っ……わ、わかってるわよ」
その気まずそうな横顔に、蓮は思わず吹き出してしまった。
凛々華は紙袋を大事そうに胸に抱えたまま、店を出た。
どうやら、今日は荷物持ちもしてくれるようだ。
「蓮君。このあとはどうしたい? このままショッピングでもいいし、近くの噴水のある公園に行ってみてもいいけれど」
「うーん……なら、公園行くか。戦利品も手に入れたし」
蓮がそう答えると、凛々華はふっと微笑み、「こっちよ」と歩き出した。
(また反対行かないよな?)
蓮は少しだけ不安になったが、杞憂だった。
「ここね」
「おぉ、穴場って感じだな……」
その公園は、木々に囲まれた小さな広場で、中央に噴水が涼しげに水を跳ね上げていた。
ベンチの数は少ないが、人影はまばらで、どこか落ち着いた空気が漂っている。
「空気がおいしいわね」
「な。なんか癒される」
肩を並べて、のんびり歩いていると——、
ふいに、凛々華がそっと蓮の腕を取った。
「っ……」
蓮は息を呑んだ。
しかし、少しでも余裕を見せたくて、軽く冗談めかして言った。
「もっとくっついてくれてもいいんだぞ?」
「ちょ、調子乗らないで」
凛々華はほんのり頬を染めて、唇を尖らせた。
(……たしかに、今のは調子乗ったな)
蓮が少しだけ気まずさを感じつつも、なんとか彼氏としてのメンツを保ったつもりでいた、その瞬間だった。
——むぎゅっ。
「っ……⁉︎」
突然、腕に柔らかい弾力が押し付けられ、凛々華特有のシャンプーの香りがふわりと鼻をくすぐった。
ギシっと硬直する蓮を、凛々華がジト目で見上げる。
「……自分から、言ったくせに」
「う、うるせえよ」
蓮は思わず、そっぽを向いてしまった。
凛々華はその腕に抱きついたまま、瞳を細めて軽やかに笑った。
やがて、噴水の近くにあるベンチに、並んで腰かけた。
少しだけ湿り気を帯びた涼やかな空気が、火照った頬を冷ましてくれる。
しばらくの間、二人は言葉を交わすでもなく、春の陽射しに包まれながら、ただ静かに寄り添っていた。
「——くしゅっ」
静寂の中に、凛々華の小さなくしゃみが響く。
「ちょっと寒いよな。移動するか?」
「っ……そうね。でも、最後にあの噴水の前で写真を撮りましょう」
「おっ、いいな」
二人で並んで撮った写真は、太陽の光に照らされた水しぶきがキラキラと背景を飾り、どこか幻想的だった。
「いいところだな。綺麗だし、人もあんまいないし」
「えぇ……」
凛々華の返事は、どこか曖昧だった。
わずかに眉を寄せて、何かを考え込んでいるようだ。
(次の予定を確認してるのかもな)
道の両脇を木々が覆い始め、柔らかな木漏れ日が差し込む日陰に差しかかる。
そのとき——彼女がぴたりと足を止めた。
(ん?)
蓮が振り返ると、凛々華は拳を握り、葛藤するように唇を噛みしめてうつむいていた。
「凛々華、どうし……」
尋ねかけた、その瞬間。
凛々華は小さく息を吸い込み、決意を込めたように顔を上げ——ふわりと胸に飛び込んできた。
「っ……⁉︎」
一瞬、何が起きたのか理解できず、息が詰まる。
「ほ、ほら……蓮君も」
「えっ?」
その言葉に我に返ると、凛々華は耳まで真っ赤になりながら、潤んだ瞳でこちらを見上げていた。
視線が合うと、彼女はふいっと視線を逸らす。
「ぎゅって……しなさいよ」
「っ……おう」
蓮はぎこちなくうなずき、そっと抱きしめ返した。
凛々華は小さく息をついて、蓮の胸元に顔を埋める。
「キスは……させて、あげないから」
「わかってるって」
(俺、そんなに信頼されてねえのかな……)
蓮は苦笑いを浮かべつつ、彼女の髪を優しく撫でた。
その柔らかさと温もりが、春の陽射しよりも心地よく感じられた。
◇ ◇ ◇
その後は電車に乗り込んだ。
二人の最寄り駅に到着したところで、凛々華は腰を浮かせた。
(帰るのか? いや、でもまだ夕方にもなってないくらいだし……)
改札を抜けたところで、凛々華が躊躇うように声をかけてきた。
「蓮君。このあと、ちょっと家に寄っていいかしら?」
その目元は、どこか不安そうに揺らいでいた。忘れ物でもしたのだろうか。
「おう、もちろん」
蓮はなるべく気負わせないように、笑みを浮かべてうなずいた。
凛々華も表情を和らげるが、その口元はどこか引きつっているようにも見えた。
(足取りはしっかりしてるし……機嫌も、別に悪くなさそうだよな)
蓮が思案していると、やがて柊家に到着する。
凛々華はドアノブに手をかけながら、振り返った。
「……蓮君も、上がって」
「えっ……おう」
(ただの忘れ物ってわけじゃ、なさそうだな)
家に入っていく凛々華の背中からは、緊張感が漂っていた。
(これから、なにが始まるんだ?)
期待と、ほんの少しの不安。
それらを胸に抱えながら、蓮は無言で彼女の後を追った。
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