第181話 変わる呼び名と、進む関係
「その人……彼氏か?」
「うん。そうだよ〜」
涼介の問いに、心愛がうなずく。
その表情には、いつもの柔らかさが戻っていた。
けれど、樹はほんの一歩だけ、彼女の隣に体を寄せた。
——自然と、そうしていた。
「……そうか」
「涼介君とひまりちゃんは、順調?」
「あぁ……まあ」
涼介が曖昧にうなずき、ひまりはそっと視線を逸らして、唇を噛んだ。
——繋がれていたはずの二人の手は、いつの間にか解けていた。
「そっか。それじゃあ、お幸せに〜」
心愛は手を軽く振り、そのまま樹の手を取った。
「桐ヶ谷君、いこ?」
「……うん」
心愛の視界には、もう涼介とひまりは映っていない。
だが、どこか樹の胸の奥はざらついていた。
それを察したのか、心愛が軽い口調で提案した。
「ね、公園とか寄って行こうよ」
◇ ◇ ◇
ブランコの脇にあるベンチに腰掛けると、樹はおそるおそる問いかけた。
「えっと……初音さん、大丈夫?」
「うん。ちょっと驚いたけど、それだけ。……桐ヶ谷君が、いてくれたからだよ」
「……そっか」
その言葉に、樹の胸が少しだけ温かくなる。
けれど、心の奥に残ったモヤモヤは、消えなかった。
(心愛って……涼介君、って……)
「桐ヶ谷君、どうしたの?」
「あっ、いや、なんでもないよ」
一度は笑って誤魔化そうとしたが、
「……ホントに?」
そっと覗き込んできた青色の瞳が、不安げに揺れているのを見てしまった瞬間——樹は口を開いていた。
「その、さ。ちょっとだけ……嫉妬、したかも」
「っ……涼介君とは、全く連絡も取ってないよ?」
「それはわかってるけど、名前で呼び合ってたから……。僕たちはずっと苗字なのにって、思っちゃって……ごめん、面倒くさいこと言って」
気まずくなって、視線を逸らす。
すると——、
「……いっくん」
「えっ……?」
驚いて顔を向けると、心愛が少し照れたように笑っていた。
「い、今っ、いっくんって……⁉︎」
「えへへ、なんかちょっと、特別感あるかなーって。これから、そう呼んでいい?」
「そ、それはいいけど……」
「ホント? やった!」
無邪気に喜ぶ心愛を前に、樹は顔が熱くなるのを自覚した。
でも、ここで逃げるわけにはいかない。
「……こっちゃん」
「っ……⁉︎」
心愛が驚いたように目を見開き、パチパチと瞬きをした。
樹は肩を縮こまらせた。
「やっぱり……いやだった?」
「ううん、そんなことないよ!」
心愛が勢いよく首を振った。
銀髪がふわりと舞い上がり、夕陽を受けて輝く。
「びっくりしただけで、すっごく嬉しい。これからも、そう呼んでくれる?」
「う、うん……わかった」
「ふふ、楽しみにしてるね——いっくん」
「っ……!」
樹はもう、赤くなってうつむくことしかできなかった。
「——ねぇ、いっくん」
心愛が、そっと樹の手を取った。
「な、なに?」
「ウチ……来ない?」
その囁くような言い方は、彼女らしくなかった。
優しいけれど、それでいて、少し切なげで。
樹は、鼓動を抑えきれないまま、こくりとうなずいた。
「う、うん……」
「ありがと」
心愛が静かに微笑む。
(なんだろう? やっぱり、ちょっと雰囲気が違う……)
どこか、緊張しているようにも見える。
(これじゃ、まるで……って、ダメだダメだ!)
樹は慌てて想像をかき消した。
動揺につけ込むようなことは、したくなかった。
◇ ◇ ◇
「お、お邪魔します」
「はーい」
心愛の部屋に入ると、柔らかな香りが出迎えてくれた。
見慣れた空間が、今日は少しだけ、違って見える。
「ほら、いっくんも」
心愛がベッドの縁に腰を下ろし、ポンポンと隣を叩いた。
樹が少し躊躇いながら座ると、彼女はぽつりとつぶやいた。
「……さっきは、ありがとね」
「え?」
「心配してくれたこと、寄り添っててくれたこと……。全部、ちゃんと伝わってきたよ」
樹はふと、視線を落とした。
「……僕には、それくらいしかできないから」
「そんなことないよ」
心愛はゆっくりと首を振り、樹の手を力強く握った。
「ずっと、一生懸命楽しませようとしてくれてるでしょ? いっくんと一緒にいると、大切にされてるなって、すごく実感できるもん」
「それは……付き合ってるんだから、当然じゃない?」
樹は思わず口にしていた。
「ううん。それが、意外と難しいんだよ」
その寂しげな笑みに、樹の胸が締めつけられる。
迷いながらも腕を伸ばし、心愛の背に触れた。
彼女も、ゆっくりと体重を預けてきて——そっと、潤んだ瞳で見上げてくる。
樹は視線を泳がせてから、覚悟を決めて唇を重ねた。
心愛は味わうように目を閉じたあと、きゅっと樹のシャツを掴む。
「ねぇ、こっちゃんって……呼んで?」
「っ……」
樹は真っ赤になりながら、震える声で、
「……こっちゃん」
すると、心愛はパッと笑顔になり、今度は自分からキスをしてきた。
そのまま、耳元で、
「——大好きだよ、いっくん」
「っ……!」
囁かれた瞬間、樹の全身に電流が走った。
気づけば、心愛をベッドに押し倒していた。
「あっ……ご、ごめんっ!」
慌てて体を起こしかけた。
けれど、心愛がその手を取り、ぎゅっと引き寄せる。
「いいよ——来て」
「ちょ、ちょっと……⁉︎」
その柔らかさが、反応してしまっている自分の体に触れ、樹は咄嗟に身を引こうとした。
しかし、心愛は力を緩めないまま、甘えるような声を出した。
「ねぇ……まだしばらく、お父さんもお母さんも帰ってこないんだ」
「っ……!」
樹の思考が一瞬、真っ白になった。
彼女の言葉が意味することを、理解していないわけではなかった。
ただ、それを口にした心愛の表情があまりに優しくて、どこか現実味がなかった。
——人肌が恋しくなってるだけなんじゃないか。
——流されて、本当にいいのか。
樹の中に、そんな迷いが生じる。
けれど、
「いっくんは……したくない?」
わずかに震えた心愛の声を聞いた瞬間、樹の中で、なにかが決壊した。
「そんなわけ、ないよ」
力強く言い切って、上から覆い被さる。
心愛は目元を和らげ、包み込むように抱きしめてくれた。
布越しに感じる熱、柔らかな感触、そして何より、彼女の全てを受け入れるような仕草——。
全身の血流が一気に上昇し、指先までびりびりと痺れるような感覚が走った。
心愛の胸元がほんの少し開き、そこから覗く白い肌に、自然と目が吸い寄せられてしまう。
けれど、すぐにあることに気づき、樹は顔を真っ赤にして口を開いた。
「あっ、でも、その……僕、準備してなくて……」
「そこ。上から二段目、見てみて」
「えっ……⁉︎」
樹は目を見開いた。
おそるおそる、指の先にある引き出しを開けると、横目でしか見たことのなかったパッケージが視界に飛び込んできた。
(……新品だ)
思わず、ホッと息を漏らしてしまう。
(たまたまなのか、気遣ってくれたのか……いや)
樹は深く考えるのをやめた。
——震える手でそれを取り出してしまえば、そんな余裕もなかった。
(僕、本当に……っ)
実感が湧いてきて、ごくりと喉が鳴る。
(えっと、どうすればいいんだっけ……⁉︎)
とりあえずベッドの上に戻ったところで、樹は固まってしまった。
呼吸が浅くなり、指先が震える。
すると、心愛の手のひらが、そっと頬に触れた。
「いっくん……大丈夫?」
「う、うん……いや、ごめん。ちょっと、緊張してる」
正直にそう答えると、心愛はふっと笑った。
「不安だよね、やっぱり」
「うん……」
正直、手順もよくわからない。
そもそも、どこまで触れていいのか、加減すら自信がない。
「大丈夫だよ。焦らなくていいから」
心愛が樹の手をそっと取り、自分の胸元に導いた。
「ゆっくりでいいの。全部任せたいわけじゃないし……一緒に、進んでいきたいから」
「あっ……」
——ひとりじゃなくて、ふたりで。
その想いが胸に染み込み、恐怖や不安がスッと引いていく。
「じゃあ、えっと……触るね?」
「うん……いいよ」
心愛の指先が、そっと樹の手に添えられる。
導かれるように、樹はそろそろと膨らみに手を伸ばした。
「面白い!」「続きが気になる!」と思った方は、ブックマークの登録や広告の下にある星【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしてくださると嬉しいです!
皆様からの反響がとても励みになるので、是非是非よろしくお願いします!




