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第177話 心愛のおねだり

 ——午前九時頃。

 (れん)凛々華(りりか)が会場の最寄り駅に到着すると、ほとんど同時に(いつき)夏海(なつみ)亜里沙(ありさ)も姿を見せた。


「楽しみだねー!」

「ワクワクが止まらないね」


 夏海がはしゃぎ、亜里沙も笑みを見せる。

 その横で、樹がそっと胸に手を当てた。

 

「僕はドキドキする……」

「今から?」


 凛々華が驚いたように目を見開く。

 蓮は笑いながら、樹の脇腹を小突いた。


「心臓持たねえぞ」

「うっ……わかってるけどさ」


 樹が恥ずかしそうに下を向くと、夏海が妙に真面目くさった表情で、蓮を指さした。

 

黒鉄(くろがね)君。いつでも人工呼吸できるようにしておきな」

初音(はつね)が舞台からすっ飛んでくるぞ」

「それより先に、(ひいらぎ)さんが嫉妬で暴れちゃうって。——一旦落ち着こう。往来だから」


 亜里沙がスッと上げられた凛々華の手を、慌てた様子で掴みにかかる。

 そんないつも通りのやり取りをしながら、会場内の待ち合わせ場所へ向かうと、すでに本日の主役——心愛(ここあ)が待っていた。


「みんな、来てくれてありがと〜。すっごく嬉しいよ!」


 満面の笑みを浮かべながら近づいてくる彼女は、桜色の衣装をまとっていた。


 薄いピンクと白が溶け合うスカートは、まるで舞い散る花びらのようで、歩くたびにふわふわと柔らかく揺れる。

 スカートの裾や胸元には、桜の花びらを模した刺繍が繊細にあしらわれ、銀色の髪には小さな花飾りが添えられていた。


「わぁ、心愛ちゃん超かわいいー! もう、桜の妖精じゃん!」

「それな! やっぱ本物は違うわ〜」


 夏海と亜里沙が、顔を見合わせて盛り上がる。


「初音の雰囲気にぴったりだな」

「えぇ。華があって、すごく素敵よ」


 蓮と凛々華も続くと、心愛は「ありがと〜」とくすぐったそうに笑いながらも、ちらりと蓮の隣を目をやる。

 視線を受けた樹は、思わずといったように視線を泳がせたが、それでもきちんと顔を上げた。


「えっと……本当に、似合ってるよ。綺麗だし、か、かわいいし」


 しどろもどろだったが、そこに込められた想いはまっすぐだった。


「えへへ、ありがと!」


 心愛が頬を染め、パァ、と笑顔を咲かせた。

 亜里沙が目を見開く。


「わおっ……柊さん。気をつけてないと、黒鉄君が目移り——ぐほっ」


 凛々華のチョップを受け、亜里沙がうずくまった。


「なんか、いつにも増して強くない……⁉︎」

「二回分だもの」


 凛々華がサラリと告げ、みんなで顔を見合わせて笑う。

 夏海が改めて、心愛の衣装を見つめる。

 

「なんか、当たり前だけど、ほんとにバレリーナって感じだね!」

「うんうん。かわいいけど、格好いいよね。クラスの男子が見たら、ギャップ萌えしちゃうんじゃない?」

「それは言い過ぎだよ〜」


 心愛が照れたように笑うと、亜里沙がさらっと横にいた夏海へ目を向ける。


「夏海も、バレエやったら彼氏できるかもよ?」

「マジ⁉︎」


 夏海は瞳を輝かせると、突然くるりと回転してポーズを取ろうとして——足元がもつれて前につんのめる。


「わわっ⁉︎」


 その瞬間、凛々華が素早く動いて受け止めた。


「——っと」

「あ、ありがとう、柊さん……」

「気をつけなさい。走れなくなるわよ?」

「はい……」


 夏海がシュン、と小さくなる。

 空気を変えるように、亜里沙がその背中をバシバシと叩いた。


「ほら、夏海。見つかったじゃん」

「頼れる彼氏だね〜」


 心愛ものほほんと続き、夏海もようやく笑みを取り戻した。

 手を差し出しながら、勢いよく頭を下げる。


「柊凛々華さん! 私の彼氏になってくださいっ!」

「せめて彼女にしてくれないかしら」

「そこじゃないだろ」


 凛々華の文句に、蓮が呆れたように口をはさむ。

 すると、亜里沙がわざとらしく肩をすくめた。


「黒鉄君。冗談だから。そんなムキにならないの」

「なってねえよ」


 蓮が苦笑すると、今度は樹が顔を覗き込んできた。


「なんだよ、樹?」

「いや、ちょっと顔赤いなって——ギブギブギブ!」


 蓮に無言で首を絞められ、樹が一瞬で白旗をあげると、場が一気に笑いに包まれた。

 落ち着いたころ、凛々華がふと表情を引きしめる。


「そろそろ、時間かしら?」

「うん。うわぁ、緊張してきた……」


 心愛が胸に手を当てて深呼吸する。その肩を夏海がポンと叩いた。


「大丈夫だよー。心愛ちゃんの笑顔でクルクル〜って舞ったら絶対勝てるって!」

「そうよ。練習してきた成果を信じて」


 凛々華の声は静かに、けれど力強かった。

 夏海の反対側から、亜里沙も肩に手を置く。


「あとはもう、楽しめばいいと思うよ。このあと、ゲン担ぎでココア買うから」

「それ関係あるのか……まあ、本当にあとは出し切るだけだし、肩の力抜いて頑張れよ」


 蓮が笑いながら言うと、心愛はぎゅっと拳を握ってうなずいた。


「うん、みんなありがとう!」

「ほーい。それじゃ、私たちはこれでー」

桐ヶ谷(きりがや)君。いい席、キープしとくよ!」


 みんなが手を振りながら観客席のほうへと歩き出す中、樹だけがその場に残る。

 少しの静寂の後、樹が問いかけた。


「緊張、してる?」

「ちょっとだけ。でも、桐ヶ谷君が見ててくれるなら、平気だよ」

「強いね、初音さんは。……なんだか、僕のほうが緊張してるよ」


 心愛はそっと樹の胸に頬を寄せ、「ホントだ」と笑った。

 樹は腕を伸ばしかけて、逡巡するが、意を決して心愛の背中に触れた。


「っ……!」


 心愛は一瞬驚いたように肩を跳ねさせたが、すぐに微笑みを浮かべ、抱きついた。

 少しして、二人の身体が離れると、樹はぎこちなくも真剣な眼差しで、心愛を見つめて言葉を紡いだ。


「えっと……僕にとっては、誰がなんと言おうと、初音さんが一番だから」


 その一言に、心愛は息を呑んだ。

 樹は顔を真っ赤にしながらも、視線を逸らさずに続けた。


「すっごく頑張ってきたのも知ってるし……本当に、みんなが言った通り、もうあとは出し切るだけだと思う。だから、その……楽しんできてね」

「——うん!」


 心愛は晴れやかな笑顔で、こくんとうなずいた。

 そして、照れくさそうに指先をもじもじとすり合わせる。


「ねぇ、桐ヶ谷君」

「ん?」

「えっとね。終わったら、ご褒美くれる?」

「もちろん。何がいい? アイスとか?」

「ううん、そういうのじゃなくてね、その……」


 心愛は一度視線を下げたあと、おずおずと上目遣いを向けてきた。


「……お疲れ様のチューとか、ほしいなって」

「っ……!」


 樹は一瞬、言葉を失った。

 我に返り、慌ててガクガクとうなずく。


「わ、わかった」

「ホント? ありがと! これで、もっと頑張れるよ〜」


 心愛がへにゃりと目元を緩ませ、幸せそうに笑った。

 そこにはもう、先ほどまでの強張りはなかった。


「じゃあ、いってくるね〜!」

「うん、いってらっしゃい」


 樹は小さく手を振り、軽やかな足取りで去っていくその背中を見送った。

 

 踵を返したところで、携帯が鳴る。蓮からだ。

 席の位置を知らせるものだった。


「——蓮君」

「おう、樹」


 見慣れた頭を見つけて、近づいていくと、蓮が軽く手を上げた。

 その右隣の三つ連続で並んだ席には、荷物のみが置かれている。


「あれ、三人は?」

「トイレ行ったぞ。……というかお前、体調大丈夫か?」

「えっ、なんで?」


 樹が瞬きをすると、蓮が心配そうな表情から一転、意地悪そうな笑みを浮かべた。

 

「顔、赤いぞ」

「っ……!」


 樹は再び頬が火照るのを感じながら、視線を逸らした。


「相変わらず手強かったか、初音は」

「一生勝てない気がする」

「それでいいんじゃねえの?」

「うん……最近は、そう思えるようになったよ」


 樹は静かにそう言って、舞台に視線を向ける。


(樹もだいぶ、心の余裕出てきたみたいだ)


 ——その優しげな横顔を見て、蓮はふっと笑みを浮かべた。

 心愛が強敵だからこそ、自信がついたのだろう。


(その意味でも、お似合いだよな)


 蓮がそんなことをぼんやり考えていると、


「お待たせー!」


 夏海の元気な声が届いた。

 女子組が戻ってくるところだった。


 隣に腰を下ろした凛々華が、「ん」とココアの缶を差し出してくる。

 蓮は思わず吹き出しながら、受け取った。


「マジで買ったのか」

「あの二人にそそのかされたのよ」


 夏海と亜里沙に目を向け、凛々華は照れくさそうに頬を染めた。


「はい、桐ヶ谷君」

「あ、ありがとう」

「二人がすでに熱々だから、冷たいのにしようか迷っちゃったよ」

「っ……!」

 

 亜里沙のからかいに、樹が真っ赤になる。

 他の四人で顔を見合わせて笑い合うが、ふざけていたのはそこまでだった。




 予選が始まると、蓮たちの視線は舞台に釘付けになった。

 プロを目指すような規模の大会ではないとはいえ、真剣に踊っている姿は皆、綺麗だった。


 そして——


「あっ……きた!」

「うわぁ、見てるこっちが緊張する……!」


 ついに、心愛がステージに現れた。

 緊張をほぐすように、ひとつ息を吐く。顔を上げたとき、そこには包み込むような柔らかい笑みが浮かんでいた。


 音楽に合わせて動き出すと、スカートがふわりと広がる。一歩ごとに、花びらが舞うようだった。

 会場全体に、穏やかな空気が広がっていく。


 凛々華は、その姿をじっと見つめたまま、ぽつりとつぶやいた。


「名は体を表すとは、よく言ったものね……」

「そうだな……」


 蓮はふと、隣に目を向けた。

 すると、樹が夢見心地な表情で、ただ舞台を見つめていた。


(見惚れるって、こういうことだよな)


 蓮が思わず苦笑していると、凛々華がクイっと袖を引っ張った。

 顔を見合わせてうなずき合い、二人は揃って舞台へと意識を戻した。

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