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第175話 彼女の涙

「ありがとな、初音(はつね)。また連絡する」


 心愛(ここあ)からの電話を切ると同時に、(れん)は店内に戻り、カバンを引っ掛けた。


「すみません、ちょっと抜けていいですか?」

「おう。気をつけろよ」

「こっちは気にすんな」


 俊之(としゆき)たちの温かい言葉を背に店を飛び出し、ギリギリで電車に飛び乗る。


 ——これからそっち行っていいか?


 指を震わせながら打ったメッセージは、最寄り駅に着いても既読にならない。

 改札を抜け、全力で走って(ひいらぎ)家の前に到着しても、それは変わらなかった。


凛々華(りりか)……っ)


 肩で息をしながら、インターホンを押す。


「はーい。……あら?」


 詩織(しおり)は、少しだけ目を見開いたが、すぐに何かを察したようにうなずいた。


「凛々華なら、自分の部屋にいるわよ」

「すみません」


 蓮は軽く頭を下げて、慌ただしく階段を駆け上がった。

 凛々華の部屋の前で立ち止まり、深呼吸をしてからノックする。


「凛々華……入っていいか?」


 中からかすかに、人の動く気配がした。だが、返事はない。

 心臓がますます音を立て、呼吸が苦しくなる。


(手遅れじゃ、ねえよな……っ)


 十分だったのか、はたまた数秒だったのか。

 静寂の時間が、果てしなく長く感じられた。


「……どうぞ」


 やがて、かすれた声が聞こえたとき、蓮は思わず息を吐き出した。

 

 静かにドアを開けると、凛々華はベッドに腰かけていた。

 背中を向けたまま、振り向こうとしない。


「……初音さんから、何か言われたの?」

「あぁ……まあな」


 やはり、心愛に相談していたのだ。

 怖い。聞きたくない。でも、逃げていいわけがない。


 蓮は覚悟を決めて、そっと凛々華の顔を覗き込み——目を見張った。

 その頬には、うっすらと涙の跡が残っていた。


「泣いて、たのか?」

「……別に」


 凛々華は冷たくそう言って、視線を背ける。

 蓮は口を開きかけたが、何を言えばいいのかわからず、その場に立ち尽くした。


 沈黙の中、凛々華がぽつりとつぶやく。


「……約束と、違うじゃない」

「えっ?」

「先輩たちとの時間が大切なのはわかってる。期限があるからなのも、わかってるわ。でもっ……」


 凛々華が、手元の毛布をぎゅっと握りしめる。


「夜は電話してくれるって……練習とバイトと勉強の時間以外は私を優先してくれるって、言ったじゃないっ……!」

「あっ……」


 蓮は言葉を失った。


(言ったこと、何も守ってねえじゃんっ……)


 自分がいかに無責任で、不誠実なことをしていたのか、今さら気づいた。


「……ごめん」


 蓮は拳を握りしめ、視線を床に落とした。


「気を遣ってくれてたのを、都合よく解釈してた。凛々華ならわかってくれるって……あとで埋め合わせればいいって、甘えてた」


 凛々華の瞳が揺れる。


「でも、凛々華が一番なんだ。傷つけるつもりなんてなかった。俺が馬鹿だった……本当に、ごめんっ……!」


 声が震えてしまう。顔を上げられなかった。

 ふと、凛々華が窓の外に目を向けた。


「……私たち、一回距離を置くべきなのかしら」

「えっ? な、なんで?」

「だって、いつでも会えるから、後回しにしてしまうんでしょう? だったら、頻度を減らしたほうが、一回一回を大切にしようと思えるじゃない」

「そんなこと——」

「ないって、言えるの?」

「っ……」


 蓮は言葉を詰まらせた。

 言えるわけがなかった。だって自分は、現にそのように考えて、電話を延期したのだから。


「……ごめんなさい」


 凛々華が自責の念を浮かべて、うつむく。


「面倒くさいのは、自覚しているわ。大切にしてくれているって、頭ではわかっているのよ。でもっ……」


 凛々華は目を伏せたまま、唇を噛みしめた。

 視線を合わせようとしないことが、葛藤を物語っていた。


「……俺は」


 しばらくして、蓮は声を絞り出した。


「俺は、少しでも凛々華と一緒にいたいし、凛々華と過ごす時間が一番好きだ」

「っ……」


 凛々華は肩を揺らすが、視線は下げられたままだ。


「凛々華より優先すべきものなんてない。だから、練習を減らすし、大会まではプログラミングの勉強もやめるよ。そうすれば、前みたいに二人の時間も——」

「ちょ、ちょっと待って!」


 凛々華が慌てたように顔を上げた。


「そこまではしなくていいわよ。検定だって近いし、もうお金も払ってるでしょう?」

「でも、不安でいてほしくないから。先輩たちだってきっとわかってくれるし、お金なんてどうでもいい」


 蓮の言葉に、凛々華は瞳を伏せる。


「私は……邪魔をしたいわけじゃないのよ。ストバスも、プログラミングも、応援してるわ。ただ、ちょっと、寂しかっただけで……」

「凛々華……」


(でも、じゃあ、俺はどうすればいいんだ?)


 蓮は、何が正解なのかわからなかった。


「……この前のテスト、私が勝ったわよね」

「え? あぁ、そうだな」


 凛々華が、どこかイタズラっぽく笑う。


「なんでも言うことを聞かせる権利……二つくらい、使ってもいいでしょう?」

「おう。そんなの、三つでも四つでもいい」


 それで信頼を取り戻せるのなら、蓮はなんでも本気で応えるつもりだった。

 

「二つでいいわよ。……一つ目は、大会が終わったら埋め合わせすること。その……お出かけとかも、したいし」

「それは、もちろん。もう一個は?」


 蓮が尋ねると、凛々華が頬を染める。

 視線を逸らして、きゅっと蓮のシャツを握った。


「……安心、させて。これから大会が終わるまで、不安にならなくていいくらい」

「っ……わかった」


 蓮はそっと腕を伸ばした。愛おしさを込めるように、強く抱きしめる。

 凛々華も胸に顔を埋めてきた。


「——凛々華」


 優しく名前を呼ぶと、彼女はふっと顔を上げた。視線を合わせ、唇を重ねる。

 最初は優しく、ついばむように。

 

 だが、凛々華の口がふと開かれた瞬間——舌を滑り込ませた。


「っ……⁉︎」


 凛々華が目を見開き、身を引こうとするが、蓮は後頭部に手を添えて離さなかった。

 やり方なんて知らない。でも、これくらいしか思いつかなかった。


「っはぁ……!」


 ようやく唇を離すと、凛々華が荒い息を吐いた。


「い、いきなりすぎるわよ……!」


 口元を手の甲で隠し、潤んだ瞳で睨みつけてくる。

 蓮は照れ隠しのように、頭を掻いた。


「今まで通りじゃ、足りねえと思ったからさ」

「だ、だからって、なんでもしていいわけじゃないでしょう⁉︎」

「ごめんな。……少しは、安心できたか?」


 凛々華は黙っていたが、やがて、そっと抱きついてきた。


「……逆に、身の危険を感じたわ」

「……そっか」


 蓮はふっと笑って、今度は優しく唇を押し当てた。

 何度か触れるだけのキスをしていると、瞳を閉じて受け入れていた凛々華が、ハッとしたように身を引く。


「ほ、ほら、もう帰らなきゃでしょう? 明日もあるのだから」

「そうだけど……」


 蓮が名残惜しげに言うと、凛々華は照れくさそうに笑った。


「大丈夫よ。もう、安心できたから……。大会が終わるまでは、我慢してあげる」

「本当に、いいのか?」

「あなたの負債が溜まっていくだけだもの」

「……わかった。ありがとう」


 凛々華は口元を緩めたあと、ふと真剣な表情に戻る。


「ただし、体調管理はしっかりすること。寝落ちしてしまうくらい無理するのは、許さないから」

「あぁ、約束する」


 蓮は力強くうなずいた。

 凛々華がふっと視線を落とし、一歩近づく。

 

「わがままを言って、ごめんなさい。それと……ありがとう」


 囁くようにそう付け加えると、蓮の首に腕を回し、自ら口付けをしてきた。


「……えっ?」


 蓮は呆気に取られて、しばしの間、頬の上気した彼女の顔を見つめていた。

 ——目が離せなかった。


(これ、やばい……!)


 歯止めが効かなくなる前に、自ら距離を取り、そそくさと扉に向かう。


「じゃ、じゃあっ、俺、帰るから!」


 自分に言い聞かせながら部屋を出ると、背後から凛々華のくすっとした笑い声が追いかけてきた。

 蓮の頬に、全身から熱が集まった。

 

 ゆっくりと階段を降りると、詩織はリビングのソファーに座っていた。


「詩織さん。お邪魔しました」

「仲直り、できたようね」


 凛々華にそっくりのアメジストの瞳には、安堵が滲んでいた。


「はい。ご心配をおかけしました」

「年頃の女の子は、難しいところもあるもの。あまり、自分を責めなくていいのよ」

「いえ、俺が全面的に悪いんで」

「ふふ……凛々華も、いい人を捕まえたものね」


 詩織がにっこりと笑って、蓮の背後に目を向ける。


「そうじゃなかったら、そもそも付き合ったりしないわよ」


 凛々華は腕を組んで、そっぽを向いた。


(相変わらず、素直じゃねえな)


 蓮は自然と笑みを浮かべながら靴を履き、改めて詩織に頭を下げる。


「夜分遅くにお邪魔しました。おやすみなさい」

「えぇ。また来てね」

「ありがとうございます」


 そこで、詩織の背後から、凛々華がひょこりと顔を覗かせる。

 蓮は軽く手を上げた。


「じゃ、また明日な」

「えぇ、気をつけて」


 凛々華がふっと口元を緩める。

 数日ぶりの(かげ)りのない笑顔は、冬の名残を溶かす陽だまりのように柔らかかった。


「……ありがとな」


 蓮は噛みしめるようにうなずき、柊家をあとにした。


 二度と、あの笑顔を曇らせない——。

 星の瞬く夜空を見上げながら、心に固くそう誓った。

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