第173話 届かなかった電話と、優しい罰
「じゃあ、また明日な」
駅へと向かう分岐点で、蓮は凛々華に手を振った。
「えぇ、練習頑張って。水分補給をちゃんとして、あんまり無理しちゃダメよ」
「子供じゃねえんだから、大丈夫だって」
数駅を乗り継いで、地元のストバスコートに到着すると、俊之たちはすでに来ていた。
「おう、蓮。アップしたらすぐ混ざれよ」
「うす」
ストレッチと軽いランニングをしたあと、すぐに合流する。
「ナイスパス!」
「ナイッシュー!」
昔のように彼らとバスケができるのは、懐かしくて楽しい。
けれど、どこかで気負いもあった。
(先輩たちの大事な思い出だからな。下手なプレーで台無しにはできねえ)
それに、ブランクを考慮して、大会まで少しだけバイトのシフトを減らしてもらい、その分を練習に充てている。
蓮の穴を埋めてくれている恩に報いるためにも、手を抜くわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
「ただいまー……」
「おかえり、兄貴……って、もうこんな時間? やばっ」
遥香が慌てた様子でスマホを放り出し、ソファーから立ち上がった。夜の九時を回っていた。
椅子に座ると、思わず息が漏れる。夕飯を前に、まぶたが重たい。
「……あっ、やべ」
サラダに胡椒を振りかけようとして、蓋の開け方を間違えた。大量の黒い粒が降り注ぐ。
「うわ、胡椒まみれじゃん。兄貴、さすがに捨てなよ」
「そうする。ミスったな……」
「珍しいね」
遥香が苦笑しながらも、眉をひそめた。
「ねぇ、さすがにもう少し早く帰ってきたほうがいいんじゃない? ここ数日、ずっと遅いし、勉強もあるんだから」
「あぁ……負担かけて悪いな」
「それはいいけど、シンプルに体調壊すよ」
「ありがとな。でも、迷惑はかけられないから。あと二週間もないし、なんとかなるよ」
「……うん」
遥香は何か言いたげだったが、口をつぐんだ。
その夜、学校の宿題をなんとか終わらせ、プログラミングの課題に取りかかろうとしたが、
(なんもわかんねえ……)
十分ほど粘ってみたが、何ひとつ進まないため、あきらめて布団に入った。
その瞬間、眠りに落ちていた。
翌日の放課後も、蓮と凛々華は別行動だ。
蓮はバイトのシフトがある一方、凛々華は母の詩織と久しぶりの買い物に出かける予定だった。
「じゃあ、詩織さんと楽しんで。夜、また話聞かせてくれ」
「えぇ……でも、蓮君は大丈夫? クマもできているみたいだけれど」
「平気だよ。ありがとな」
そう送り出したものの、バイト中はケアレスミスが続いた。
レジで商品のバーコードを二重に読み取ったり、オーダーの聞き間違いをしたり。
「蓮君、凛々華ちゃんと喧嘩したわけじゃないよね?」
先輩の恵が、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いえ、ちょっと寝不足で……すみません」
「とりあえず、顔洗ってきたほうがいいっすよ。あんまり混んでないんで、今はウチらに任せてください」
彩絵に背中を押され、冷水を顔にぶつける。
少しはシャキッとしたが、調子は上がらないままだった。
「はぁ……」
家に帰ると、罪悪感と疲労で、思わずため息がこぼれた。
今すぐにでも寝たいが、昨日やる予定だったプログラミングの課題を進めなければならない。
「検定も近いし、せめて凛々華との電話までは、集中してやらねえと……」
そうパソコンを開いたものの、頭が重く、ディスプレイの文字がかすんで見える。
これ、やばいな——。
必死に意識を保とうとしたが、やがて猛烈な睡魔が襲ってきて、半ば無意識に机に突っ伏してしまった。
◇ ◇ ◇
「……にき、兄貴っ」
「ん……」
肩を揺すられ、蓮は薄っすらと目を開けた。
瞬きをしながら振り向くと、スマホを手にした遥香が仁王立ちしていた。
「え……? なに……?」
寝ぼけた声を漏らす蓮には答えず、遥香はスマホに向かって話しかける。
「大丈夫。寝落ちしてるだけだったよ」
その直後、スピーカー越しに安堵の息が漏れる。
『よかった……』
凛々華の声だった。
「——あっ」
一気に目が覚める。
蓮は跳ね起きると、時計に視線を走らせた。
(やっべ、もうこんな時間……!)
電話の約束の時間は、とっくに過ぎていた。
「ごめん、凛々華っ。完全に寝落ちしてた……!」
蓮が慌てて言い訳混じりに謝ると、遥香がぐいっとスマホを突きつけてくる。
「二人でちゃんとお話しするように!」
蓮はそれを受け取り、机に置く。
『本当に……大丈夫なのね?』
凛々華の声には、ただただ心配の色があった。
「うん。ただ寝ちゃっただけ。ごめん。俺から言ったのに、約束破って……」
シフトを減らし、それ以外はストバスの練習に費やしているため、凛々華と過ごせる時間はこれまでよりも大幅に減少していた。
せめてもの罪滅ぼしとして、週三回の夜の電話は、蓮から申し出たものだった。
(ただでさえ、我慢させてるっていうのに……)
蓮は唇を噛みしめた。
電話の向こうで、凛々華がふっと息を吐く。
『……まあ、なんともなくてよかったわ。でも、明日出かけるのはやめにしましょう』
「いや、大丈夫だって。ちょっと寝不足なだけだし——」
『だめよ。体調でも崩したらどうするの』
凛々華がピシャリと言う。
蓮はぐうの音も出せなかった。
『その代わり、たっぷりお説教してあげるから、今日はもう寝なさい』
凛々華の少しおどけた口調に、蓮の肩から力が抜けた。
「マジでごめん……ありがとな、凛々華」
『気にしないで。大きな貸しが一つできただけだから』
「うっ……まあ、それはそうだよな」
『当然よ』
凛々華がくすっと笑う。
『それじゃあ、おやすみなさい』
「おう、おやすみ……」
通話を切ろうとして、手が止まる。
——なにか、言い足りない気がした。
「あっ、待って」
半ば無意識に、呼び止めていた。
『どうしたの?』
「いや、その……」
視線を彷徨わせるが、今言うべきことなど、ひとつしかない。
「……凛々華、好きだよ」
『っ——』
スピーカーから、息を呑む気配がした。
『……相当、疲れているようね』
「い、勢いで言ったわけじゃねえよ」
『ふふ、わかってるわよ。……私も』
凛々華が小声で何かを言った。
「えっ、なに?」
『だ、だからっ、私も好きよ!』
叫び声が聞こえた直後、通話は切れた。
思わず笑ってしまいながらも、胸の内がじんわりと温まる。
「……あ、遥香のスマホだったか」
部屋を出ると、ちょうどリビングで水を飲んでいた遥香にスマホを差し出した。
「ありがとな。ほんと助かった」
遥香は黙って受け取ると、少し怒ったように指を突きつけてくる。
「兄貴は無理しすぎなの。ストバスもバイトも、全部大事なのはわかるけど、倒れたら元も子もないし、何より凛々華ちゃんを悲しませちゃダメでしょ!」
「……うん、ごめん」
「まったく、キューピットは大変だよ」
最後は少しふざけた調子でそう言って、肩をすくめて歩いていく。
そのどこか誇らしげな背中を見送りながら、蓮は自然と微笑んでいた。
自室に戻り、ふと自分の携帯を見ると、凛々華からいくつもの不在着信と、こちらを心配するメッセージが送られてきていた。
普段はまず見られない変換ミスが散見している。
「本当に、心配してくれてたんだな……」
嬉しさと申し訳なさが込み上げてきて、「本当にごめん。ありがとな」と打ち込んだ。
しかし、少し経っても既読にならない。
(もう、寝たのかもな)
それだけのこと。
そう思い込もうとしたのに、自分の言葉で止まったトーク画面を見て、胸にかすかなざわめきが残る。
(……なんだ、この感じ)
スマホを枕元に置いて、布団に潜り込む。
(返信、来るかな……)
気になってなかなか寝付けなかったが、やがて襲ってきた徒労感と睡魔に抗えず、蓮の意識は遠のいていった。
——その口から寝息が漏れ始めた直後、スマホが小さく点滅する。
しかし、届いたメッセージに彼が気づくことはなかった。
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