第172話 樹のプライドと、心愛の懸念
「桐ヶ谷君。せっかく寄ってもらったところ悪いんだけど、ちょっとシャワー浴びてきてもいい? 汗かいちゃったから」
「あっ……うん。もちろん」
樹は一瞬だけ言葉に詰まり、すぐにコクコクと首を縦に振った。
心愛のバレエの練習終わり、二人は初音家に直行していた。
「ありがと! じゃあ、ゆっくりしててね〜」
その言葉に、樹は曖昧に笑ってうなずいた。
こうして練習後に家で過ごすとき、彼女がシャワーに入るのはもう何度目かだ。
けれど、未だに慣れることはできなかった。
(僕だけが、お風呂って言葉にドキドキしてる……)
自分が脳内お花畑すぎるのか、それとも、彼女に男として見られていないのか——そんな考えが頭をよぎり、落ち着かない気分になった。
気を紛らわせるように、テスト用紙をカバンから引っ張り出して睨めっこしていると、しばらくして脱衣所の扉が開いた。
「お待たせ〜」
心愛はゆったりとした部屋着に身を包んでいたが、それでもなお、輪郭の柔らかさや身体の曲線が、目を惹いた。
加えて、ほんのり上記した頬と、しっとりとしている銀色の髪の毛が妙に艶かしい。
樹は慌てて視線を手元に戻しながら、「お疲れ」とだけ口にした。
心愛は気にした様子もなく、近づいてくる。
「テスト直し? 偉いね!」
心愛がそう覗き込んできたその瞬間、樹の鼻先をシャンプーの甘い香りがくすぐった。
同時に、シャツの隙間からピンク色が視界をよぎって、慌てて顔を背けた。
「は、初音さんっ。見えちゃうから……!」
「ん? あぁ、ごめんね〜」
「……もう」
悪びれる様子もなくニコニコ笑う心愛に、樹はそっとため息をついた。
「——ねぇ、桐ヶ谷君」
「ん?」
樹が何気なく、振り返ると——、
「……見たいの?」
心愛が頬を赤らめながら、自分のシャツの襟元をくいっと引っ張った。
「えっ……⁉︎」
動揺で言葉にならない。
思わずごくりと唾を飲み込んでしまう。
そんな樹を見て、心愛はくすっと笑った。
「ふふ、冗談だよ〜。もう、かわいいなぁ!」
樹に何かを言う隙を与えず、心愛がぎゅっと抱きついてきた。
樹とて男子高校生だ。スキンシップは好きだし、密着されればドキドキはする。
けれど、そのときは反射的に心愛の肩を押しやっていた。
「それ、やめてよ」
「……えっ?」
心愛が意味がわからないというように、目を瞬かせる。
「なんかペット扱いされてるみたいで、そういうの、嫌なんだけど」
「っ……!」
心愛の深海のような青色の瞳が、動揺を表すように揺れ動いた。
「あっ、えっと……」
強い口調になっていたことに気づき、樹が謝ろうとした——そのとき。
「桐ヶ谷君。手、貸して」
心愛が樹の手を取る。
そして、少しだけためらうように唇を噛み——それでも、意を決したようにグイッと自分の胸元へと導いた。
「えっ、ちょ、ちょっと……⁉︎」
柔らかい弾力が手のひらに伝わり、樹は声を裏返らせた。
「ね、ドキドキしてるの、わかる?」
「あっ……う、うん」
鼓動が、思った以上に速くて、それだけで胸が締めつけられた。
心愛は樹の手を両手で包み込み、そっと見上げてきた。
「確かに桐ヶ谷君のこと、かわいいなって思うけど、犬とか猫みたいじゃないよ。……好きだから、そう思うの」
「えっ……」
樹が目を見開くと、心愛が照れくさそうな笑みを浮かべる。
「なんだろう。ドキドキはしてるんだけど、落ち着くっていうか、そんな感じなんだけど……わかるかな?」
「あっ……うん。それは、なんとなくわかるかも。ぎゅってしてるときとか、ちょっとホッとするし……」
「そう、まさにそんな感じ!」
嬉しそうにうなずいた心愛は、申し訳なさそうに瞳を伏せた。
「伝え方、悪かったね。ごめんなさい」
「いや……僕のほうこそ、ごめん。勝手に被害妄想してた」
「ううん、言ってくれて嬉しかったよ」
そう微笑んで、胸元に飛び込んでくる。
樹も、今度はしっかりと抱きとめた。
「えっとね、言い訳みたいになっちゃうんだけど……」
腕の中で、心愛がためらいがちに口を開く。
「うん、なに?」
「女の子が男の子に対して『かわいい』って言うのは……好きの、裏返しなんだよ?」
その一言に、樹の胸がじんわりと熱くなった。
(初音さんは、ずっと好きだって伝えてくれてたんだ。それなのに、僕は……)
ついネガティヴ思考に陥りそうになり、樹はそうじゃないと思い直した。
今自分がすべきことは、自己嫌悪に陥ることではなく、想いに応えること。
心愛の頬に手を添えると、心臓が跳ねた。
こんなの、らしくないことはわかってる。やっぱりやめようかと思ってしまう。
しかし、樹は動きを止めることなく——、
そっと、自分から唇を重ねた。
「っ……!」
心愛が息を呑んだ。
途端に、不安が樹を襲う。
「あっ、ごめん……やっぱり、いやだった?」
「う、ううん、そんなことないよ! けど……桐ヶ谷君からは、初めてだったから」
心愛がうつむき、指先をもじもじとすり合わせる。
樹も少し照れたように笑った。
「僕がヘタレだったのも悪かったし……ちょっとは、頑張らないとって思って」
「っ……」
心愛が、ふいに顔を背ける。
「初音さん?」
「急にかっこいいのは、ずるいよ……」
「えっ?」
「ううん、なんでもない!」
樹がおずおずとその体を包み込むと、胸に頬をすり寄せてくる。
「桐ヶ谷君、すっごくドキドキしてるね」
「しょ、しょうがないでしょ」
「ふふ——かわいい」
「っ……!」
先ほどの告白を聞いてしまった今、樹はもう、その言葉を前に平常心など保てなかった。
「桐ヶ谷君、赤くなってるよ?」
心愛がツンツンと頬を突いてくる。
「う、うるさいな」
樹は視線を逸らしてそれを払いのけるのが、精一杯だった。
勇気を振り絞ってキスをしたというのに、結局いつの間にか、主導権を握られている。
(でも、別にいっか)
樹はふと、そう思った。
だって、ちゃんと見てくれているんだから。
——ただ、それとは別に、男のプライドというものがある。
どれだけ愛されていると感じても、それで満足してしまっていいわけではなかった。
もっと自分からリードしたい。もっと、彼女をドキドキさせたい。照れさせたい——。
そんな欲望が、胸の奥にくすぶっていた。
だからこそ、樹は揶揄われるのを承知で、蓮に相談してみた。
すると、意外にも真剣に答えてくれた。
『意外性、じゃねえかな。普段とのギャップってやつ』
その一言が、妙に胸に残っていた。
——そして迎えた放課後。
樹は久しぶりに心愛とカフェに来ていた。
少しだけ暖かみを帯びてきた陽射しが差し込む店内。窓際の二人席で、のんびりとした時間が流れている。
だけど、樹の心は落ち着かない。
(今……? いや、唐突すぎるかな。もうちょっと自然な流れが……)
あれこれと考えを巡らせていると、心愛が不思議そうに首を傾げた。
「桐ヶ谷君。どうしたの?」
「えっ?」
「今日、ちょっと変だよ。具合とか悪い?」
その一言に、樹は肩をびくりと震わせた。
「あっ、いや、その……」
「ん?」
心愛が優しく微笑む。
それだけで、胸が締めつけられる。同時に、伝えたいという思いも湧き上がった。
「……変なこと言うけど、さ」
言葉に詰まりつつも、樹は顔を上げて続けた。
「初音さんのこと、すごく……好きだよ」
その瞬間、時が止まった。
心愛はぽかんと口を開けたまま、固まっている。
樹の胸に、一気に後悔の念が押し寄せてきた。
「ご、ごめんっ! なんでもない!」
真っ赤になりながら、ブンブン手を振ると——、
「なんでも、ないの?」
「えっ?」
樹が思わず視線を戻すと、心愛がはにかむように笑った。
「私、すっごく嬉しかったよ?」
よく見ると、彼女は耳まで真っ赤になっていた。
「キモいとか……思わないの?」
「好きな人に好きって言われて、そんなこと思うわけないよ」
「そ、そっか……」
(思ってたのと違うけど……まあ、いいか)
樹は達成感を覚えながら、照れ隠しに話題を変えた。
「そ、そういえばさ。蓮君と柊さん、ストバスの大会終わったあと、反動ですごいことになりそうだよね」
蓮はお世話になった先輩たちとストバスの大会に出るため、バイトのない日の放課後は、電車で地元に戻って練習しているらしい。
「うん……でも、凛々華ちゃんがちょっと心配かな」
心愛はふっと眉を下げた。
「寂しがっちゃうってこと?」
「うん。大丈夫だとは思うけど……たぶん、テスト終わってデートできるの、すっごく楽しみにしてたからさ。たしか黒鉄君、バイトも減らしてるんでしょ?」
「うん。そう言ってたかな」
「そうなると、学校以外ではほとんど会えなくなるんじゃないかな」
「まあね」
バイトとストバスの練習、家事、そしてプログラミングの勉強と、蓮は多忙を極めている。二人きりの時間は、ほとんど取れなくなるだろう。
しかし、樹はあまり心愛の懸念に共感できなかった。
「でも、二週間だよ? 柊さんってそういうの、わかってくれそうじゃない? 理屈っぽい人だし」
「ふふ、確かにね。でも、意外とああいう子が寂しくなっちゃったりするかもよ? 女の子って、基本的に感情の生き物だから」
「……初音さんも?」
樹がためらいがちに尋ねると、心愛がにっこりと笑ってうなずいた。
「そうだよ〜。だから、定期的にさっきみたいなこと言ってくれないと、不安になっちゃうかもね?」
「ぜ、善処します……」
樹は思わず背筋を正した。
心愛が「よろしくね〜」と小悪魔じみた笑みを浮かべながら、軽やかな動作でマグカップを手に取る。
その笑顔が、まぶしくて愛しくて——
もっと照れさせたいと願った自分の気持ちも、少しだけ報われた気がした。
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