第170話 さざ波
バレンタインが終わると、定期テストはすぐそこまでやってきていた。
蓮と凛々華は、黒鉄家のリビングで並んでテスト勉強をしていた。室内には、エアコンと鉛筆の音が響いている。
蓮は意識が逸れたタイミングで一度手を止め、軽く背伸びをした。
時間を確認しながら立ち上がり、トイレへ向かう途中で考えを巡らせる。
(あと一時間くらいでこのワーク終わらせて、プログラミングも少し進めないと……課題、ちょっと厄介だったし)
試験勉強に加えて、検定対策もある。効率的に進めなければ、どれかが疎かになってしまうだろう。
トイレから戻ると、凛々華が「蓮君」と声をかけてくる。
「ちょっと、お茶でも飲まない? 今、お湯を沸かしているところなのだけれど」
「あぁ、ごめん。もうちょっと進めたいから、あとでいいか?」
「っ……えぇ、大丈夫よ」
凛々華がうなずくのを見て、蓮は椅子に腰を下ろし、すぐにワークに取り掛かった。
やるべきことで頭がいっぱいになっていた彼は、自分を見つめるアメジストの瞳に浮かぶ寂しみの色に、気づかなかった。
——しかし、ワークが、一段落ついたとき。
(さっき、けっこう冷たい態度取ってたかも……)
そう思うと、蓮はいてもたってもいられなくなった。
チラリと凛々華に目を向けると、つまらなそうに教科書を眺めている。
(怒ってんのかな……)
蓮がそう躊躇していると、視線を感じたのか、凛々華が顔を上げた。
「なあ、俺が入れるから、一緒にお茶でも飲まないか?」
「っ……」
凛々華は小さく息を呑み、パァ、と表情を輝かせたが——
すぐに咳払いをして、いつもの落ち着いた表情に戻った。
「……えぇ、お願いするわ」
湯を注ぐ間、二人の間には少し気まずい沈黙が流れていた。
「牛乳、これくらいでいいか?」
「えぇ……ありがとう」
並んでソファーに座り、そろって紅茶を口に含む。
ふぅ、と小さく息を吐いてから、蓮は向き直り、頭を下げた。
「さっきは、冷たくしてごめん」
「いえ、こちらこそ。忙しいところを邪魔して、ごめんなさい」
「邪魔なんてことねえよ」
凛々華の腰を手を回す。
そのまま頭を寄せると、彼女も自然に身を寄せてきた。
(落ち着くな……)
温もりに包まれ、蓮は思わず息を漏らした。
体から疲労が抜けていくのを感じていると——、
——ちゅっ。
突然、頬に柔らかな感触が触れた。
「えっ?」
驚いて顔を向けると、凛々華はサッとうつむく。
蓮はその火照った頬に手を添えた。少しだけ強引に自分のほうを向かせ——唇を重ねる。
「っ……」
凛々華は瞳を真ん丸に見開くが、すぐにそっとまぶたを閉じた。
「ん……」
顔を離すと、彼女は一瞬だけ、夢でも見ているようなうっとりとした表情を見せた。
しかし、次の瞬間、パッと顔を背けた。その耳がじんわりと熱を帯びていく。
「——凛々華」
蓮は笑いながら名前を呼び、トントンと膝を叩く。
「座って」
凛々華はためらいがちに、それでも素直に膝の上に腰を下ろした。
蓮は背後から、包み込むように腕を回した。髪と肌の匂いに包まれ、唇が自然とうなじへ吸い寄せられた。
「っ……」
凛々華はピクリと震えるも、拒む素振りはなかった。
覗き込むように、首の側面にも唇を押し付ける。
そして、耳にも口付けをしたところで——、
「そ、そろそろ勉強しましょう」
凛々華が声を震わせた。
見れば、耳の先まで真っ赤に染まっていた。
「うん……」
蓮はキスをやめたものの、拘束は解かなかった。
むしろ、密着するように腕に力を込める。
「ちょ、ちょっと……」
「ごめん……もう少しだけ」
少しの沈黙のあと、ふっと笑う気配がした。
「……しょうがないわね」
体の力を抜いて、もたれかかってくる。
「ごめんな、わがまま言って」
「前に言ったはずよ。遠慮せずに甘えなさいって……。少しは、自然になったじゃない」
凛々華が瞳を閉じたまま、微笑んだ。
「……ありがとう」
蓮はもう一度だけ、うなじにキスを落とすと、その白い首筋に顔を埋める。
しばらくの間、彼女の温もりと柔らかさを、全身に感じていた。
蓮が凛々華を解放したのは、それからしばらく経ってからだった。
「……お茶、すっかり冷めているのだけれど」
ジト目を向けられ、蓮はそっぽを向いて口笛を吹いた。
「下手くそね」
凛々華が思わず吹き出す。
蓮は途端に恥ずかしくなり、誤魔化すようにお茶を口に含んだ。
喉を通る感触は冷たいが、胸の内はポカポカと温かくなっていた。
◇ ◇ ◇
——テスト最終日。
ホームルームを終えた教室は、解放感に満ちていた。
「桐ヶ谷君、いこっ!」
「う、うんっ」
心愛と樹がパタパタと教室を出ていく。バレエの練習があるからだ。
「いいねぇ、青春だ」
その背中を見送りながら、亜里沙がぼそりとつぶやいた。
「ねー……って、亜里沙。裏切り者のあんたに茶化す権利はないよ」
夏海がジト目を向けた。
亜里沙が肩をすくめ、ニヤリと笑う。
「夏海は少数派だけどね」
「よし、喧嘩なら言い値で買おう」
「承認欲求のためにお金使うのは良くないと思うけど」
「いいねを買うんじゃない。言い値で買うんだよ!」
そのやり取りに、近くで蓮と話していた蒼空が吹き出す。
「荒れてんなぁ、水嶋」
「だって、グループで自分以外全員リア充なんだよっ? おかしくない⁉︎」
夏海がずいっと身を乗り出すと、蒼空が曖昧な笑みを浮かべた。
「まあ、確かにおかしいけど、水嶋ならすぐ作れるんじゃねーの?」
「そんな簡単に作れたら、誰も苦労なんてしないんだよ……」
夏海がため息を吐いて、机に突っ伏す。
それを見て苦笑していた亜里沙が、ふと蓮と凛々華に目を向けてくる。
「黒鉄君と柊さんも、デート?」
「とりあえず、復習しがてらファミレスで昼飯かな。井上も、彼氏と会うんだろ?」
「そ。向こうもテスト終わったからね」
亜里沙は澄ましたようにうなずくが、その口角はわずかに吊り上がっている。
蓮はあえて、そこには触れず、
「家、近所なんだっけ?」
「まあね。二人みたいに半同棲状態じゃないけど」
「「っ……」」
蓮と凛々華は同時にびくりと反応した。
うっすらと頬を赤らめた凛々華が、逃げるように夏海に視線を向ける。
「水嶋さんは、部活かしら?」
「ふん。私は陸上に青春捧げるもんね!」
ヤケになっている夏海に、亜里沙がくすっと笑って肩を叩いた。
「まだ一年終わってないって」
「慰められるのが一番堪えるんだよぉ……」
夏海が嘘泣きのポーズを取ると、その場に温かい笑いが広がった。
「——凛々華」
校門を出ると、蓮はスッと手を差し出した。
凛々華もはにかみながら、指先を絡めてくる。
「テスト終わったから、ちょくちょく遊んだりできるな」
「そうね。久しぶりにどこか出かけたいわ」
「だな。ちゃっと復習して、計画立てようぜ。凛々華んちでいいか?」
「えぇ」
凛々華がほんのりと口元を緩めてうなずき、指に少しだけ力を込めてくる。
小さくても確かなその反応が、どうしようもなく愛おくて。
蓮は、抱き寄せそうになるのを必死で堪えた。
(ホワイトデーとは被らないようにしないといけねえから……)
そう今後に思いを馳せていた蓮は、まさか出かけるどころか、放課後も一緒に過ごせなくなる日が来るなんて、想像もしていなかった。
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