第169話 本番と当日
柊家のインターホンを押すと、すぐに玄関の扉が開いた。
「いらっしゃい、蓮君」
出迎える凛々華の声は、少し硬い。
すでに暖房の効いたリビングには、かすかに甘い香りが漂っていた。
洗面所で手洗いうがいをして戻ってくると、ダイニングテーブルにはマグカップが用意されていた。
「ホットミルクでよかったかしら?」
「おう。ありがとな」
「えぇ」
蓮が椅子に腰を下ろすと、凛々華は冷蔵庫へ向かった。
慎重な手つきで取り出したのは、大皿だった。
「えっ……」
かわいくラッピングされた袋を想像していた蓮は、息を呑んだ。
大皿に乗っていたのは、濃厚な光沢を放つチョコレートケーキだった。
しっとりとした質感と繊細なデコレーション。
市販とは違う、手作りならではの温かみが感じられる一品だ。
「せっかく家で食べるのだから、普通のチョコでは少し味気ないでしょう?」
凛々華は照れくさそうで、けれど少しだけ誇らしげでもあった。
「これ、全部手作り?」
蓮は興奮気味に身を乗り出す。
「えぇ。水嶋さんにも手伝ってもらったけれど」
「そっか……。ほら、前にさ、手料理は男の夢って言っただろ? マジで嬉しい」
「手料理と呼べるのかは微妙だけれど……それに、口に合うかわからないし」
「いや、絶対うまいよ。匂いでわかる」
蓮が断言すると、凛々華は「なによ、それ」と、呆れたように笑った。
ややぎこちない動作で、フォークを渡してくる。
「じゃ、いただきます」
蓮はケーキを一口すくって口に運び——思わず目を見開いた。
「……うまっ!」
「そう、よかった」
凛々華が肩の力を抜き、瞳を細めた。
蓮は立て続けにスプーンを口に運び、何度もうなずく。
「うん、カフェで食うより美味いぞ」
「大袈裟ね」
「いや、マジだから。食ってみろって。俺も一緒に食いてえし」
凛々華は少しだけ驚いたように瞬きをしてから、「そうね」とつぶやいた。
お皿とフォークを取ってきて、ひと口運ぶ。
「……うん、まあ、合格かしら」
「マジでうめえよな」
「なんであなたが嬉しそうなのよ」
「はは、確かにな」
蓮が笑いを漏らすと、凛々華もほんのりと口元を緩めた。
二人でケーキを平らげるころには、蓮はすっかり満腹になっていた。
「うまかった……」
ぽんぽんとお腹をさすっていると、凛々華がくすっと笑って手を添えてくる。
「ちょっとぽっこりしてるわ」
「凛々華は……いつも通りだな」
お返しとばかりにお腹に手を当てると、彼女は肩をすくめる。
「私はそこまで食べていないもの」
「ごめんな。一人で食いすぎた」
「そのために作ったのだから、いいのよ。自分のためにケーキなんて作ろうと思わないし」
「それはあるよな。食べてくれる人がいるから、作りたくなるみたいな」
「えぇ」
会話を交わしているうちに、次第にまぶたが重くなってくる。
お腹以上に、胸が幸せで満たされていて、気が抜けてしまっているようだ。
「ふわぁ……」
自然と、あくびが漏れた。
「……眠いの?」
凛々華が静かに尋ねてくる。
蓮は曖昧に笑ったあと、ぽつりと提案した。
「なぁ……膝枕、してくれねえか?」
「えっ——」
凛々華は目を丸くした。その頬がじんわりと赤みを帯びる。
「あっ、えっと……」
視線を泳がせながら、彼女は曖昧な声音で言葉を濁した。
「ごめん。図々しかったな」
蓮が即座に発言を撤回しようとすると、
「……特別なとき」
凛々華がぽつりとつぶやいた。
「え?」
「バレンタインは、特別なときよね」
彼女は照れ隠しのように視線を逸らしながら、ポンポンと自分の膝を叩いた。
「いいわよ……今日くらいは」
「っ……サンキュー」
蓮は感謝を込めて呟きながら、ゆっくりとその太ももに頭を乗せた。
「やっぱり、いいな……」
「だ、黙って寝てなさいよ」
口調とは裏腹に、凛々華は優しく蓮の髪を撫で始めた。
柔らかい指先の感触に誘われるように、蓮の意識がスッと遠のいていく。
「……ふふ、かわいい」
——寝入る直前、そんな声が聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
——バレンタイン当日。
教室に入ると、亜里沙と心愛が笑顔で手を振ってきた。
「はい、黒鉄君」
「ハッピーバレンタイン〜!」
差し出された包みを受け取りながら、蓮は笑みをこぼした。
「ありがとな。嬉しいわ」
中を見なくても、ラッピングから丁寧さが伝わってくる。
「柊さん。義理だからね」
「わかってるわよ。二人とも本命がいるでしょう。そういえば、初音さんはもう渡したの?」
「うん! 放課後はあんまり時間ないから、朝会ったときにね〜」
心愛がにっこりと笑って、樹に目を向ける。
彼は途端に頬を染めた。その微笑ましい反応に、その場の空気が温かくなった。
それから程なくして、バタバタと教室のドアが開いた。
「みんな、おはよー!」
部活の朝練を終えた夏海が、元気な声で入ってきた。
「はいはい、亜里沙、心愛ちゃん、柊さん。友チョコ交換タイムだよ!」
「待ってたよ〜」
「はい、これ私の」
「こっちは私の」
紙袋の中から、かわいくラッピングされたチョコが飛び交う。
「一緒に作ったのにね」
「ラッピング違うだけで、なんか新鮮だね〜」
笑い合いながら、楽しげにやり取りを交わす四人。
凛々華も、いつもより柔らかい表情で、「本当ね」と小さく微笑んだ。
やがて夏海は、すっと蓮の前に立った。
「はい、黒鉄君」
差し出されたのは、市販のチョコだ。
「ごめんね。みんなみたいに手作りじゃなくて」
「いや、もらえるだけで嬉しいよ」
蓮は笑って首を振った。手作りにしなかったのは、凛々華への配慮だろう。
——こちらが察していることには、夏海も気づいたらしい。苦笑いを浮かべて、頭を掻く。
「ちょっと気にしすぎかなって思うんだけどね」
「まあな。でも、気遣ってくれるのは嬉しいよ」
「なら、いっか」
夏海がホッとしたように笑った、そのときだった。
「っし、セーフー!」
チャイム直前で、バタバタと蒼空が駆け込んできた。いつものことだ。
彼は一瞬、こちらに目を向けた気がしたが、すぐに何人かの女子に取り囲まれて、姿が見えなくなった。
言うまでもなく、チョコをもらっているのだろう。
「人気者は大変だな」
「だねぇ。ま、青柳君は慣れてるでしょ」
「水嶋は渡さなくていいのか?」
夏海は笑って首を振る。
「あそこに混じる気にはなれないし、後で渡すよ」
「そうか」
蓮がうなずいたとき、ちょうどチャイムが鳴った。
◇ ◇ ◇
——その日のバイト終わり。
冬の夜気に頬を冷やされながら、蓮は凛々華の横顔をちらと盗み見た。
放課後あたりから、口数が少なくなっている気がする。
どこか落ち着かない様子で、時折手袋の端をいじったり、ちらちらと蓮を伺うような仕草を見せていた。
(……なんか、変だな)
だが、口に出して聞くのはやめておいた。
深刻そうには見えなかったからだ。
そして、柊家の門が見えてきたところで——
「蓮君」
ぴたりと足を止めた凛々華が、小さな紙袋を差し出してきた。
「これ、普通のチョコだけれど……当日に何もないのは、少し違うと思って」
その言葉を聞いた瞬間、蓮の胸にあったもやもやがふわりと晴れていく。
(あぁ……それで今日はそわそわしてたのか)
ようやく合点がいった。
同時に、胸の奥が温かくなる。
(ケーキだけでも、十分すぎるくらいだったのに……)
蓮はしばし、袋を両手で包み込んだまま、言葉にならない喜びを噛みしめた。
しかし凛々華は、それを違う意味で捉えてしまったらしい。
「……やっぱり、変だったかしら?」
その不安げな言葉に、蓮は慌てて首を振る。
「あっ、いや、全然そんなことねえよっ。ごめん、嬉しくて、ちょっと放心してた」
「……相変わらず、大袈裟ね」
ようやく、凛々華の表情がわずかに緩んだ。
蓮は「大袈裟じゃねえって」と笑いながら、彼女を抱き寄せた。
その頬に手を添えると、凛々華がそっとまぶたを閉じる。
「ありがとな」
その気持ちを伝えるように、蓮は静かに、しかし確かに唇を押し当てた。
「ん……」
数秒の後に、ゆっくりと顔を離す。
一瞬だけ視線が交わり、お互いにサッと顔を背けた。
蓮は頬の火照りを誤魔化すように、腕を組んでつぶやく。
「でも、ホワイトデーが大変だな……」
「別に、そんな気負わなくていいわよ。……手は抜いてほしくないけれど」
「それはもちろん。三倍返し、だからな」
「ふふ、楽しみにしてるわ」
凛々華のどこかイタズラっぽい笑みを見ながら、蓮はふと考え込んだ。
「……ごめん。三倍は無理かも」
「頼りないわね」
その言葉に、蓮は苦笑いするしかなかったが——
凛々華の瞳は、誰よりも優しかった。
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