第150話 声が聞こえたから
青空のもと、体育祭はついにフィナーレを迎えようとしていた。
最後の種目は、男子五人、女子五人の合計十人がバトンを繋ぐクラス対抗の男女混合リレーだ。
現在、赤組がわずかにリードしている。だが、このリレーの結果次第で白組が逆転する可能性も十分にある。
緊迫した空気が、グラウンドを包んでいた。
「蓮、やろーぜ!」
スタートラインに並ぶ蒼空が、白い歯を見せて笑いながら声をかけてくる。
「おう」
蓮も笑みを返し、拳を突き出す。
蒼空が先頭で、蓮が男子の最後だった。クラスのアンカーは凛々華だ。
「つなぐから、最後は二人で仕上げろよ」
蒼空がニヤッと笑った。
「別に、俺らが主役ってわけでもねえだろ」
蓮は肩をすくめた。
やがてピストルが鳴り、蒼空が力強く飛び出す。
「青柳、はやっ!」
「さすが!」
「青柳くーん!」
蒼空の走りは、まさに風を切るようだった。
バトンはスムーズに繋がれ、二番手の夏海がスタートする。
「夏海、頑張れー!」
「夏海ちゃん、頑張って〜!」
亜里沙と心愛が声を張り上げる。
夏海はニカっと笑みを見せた。長距離走の選手だが、さすがは陸上部というべきか、余裕の走りだ。
その後、少しずつ他のクラスに追い上げられつつも、なんとか一位をキープして七番手の英一にバトンが渡る。
「このままだと赤組が勝つぞー!」
観客からの叫びが飛ぶ中、英一が追走を受けながらも懸命に走り、次の走者——結菜にバトンを渡そうとした、そのときだった。
「っ……!」
二人の呼吸が合わず、バトンが地面に落ちた。
「ああっ!」
「白組が逆転した!」
「なんでそこでミスすんの……!」
応援席からはどよめきと、容赦ない声が響く。
結菜は唇を噛みしめ、すぐにバトンを拾って走り出したが、すでに三位へと転落していた。
一位と二位は白組のクラスで、赤組の総合優勝が一気に危うくなる。
「くっ……!」
必死に走り、なんとか三位を守った結菜が、最後のバトンを蓮へと託す。
その表情には、明らかな罪悪感がにじんでいた。
(たかが体育祭だけど……)
蓮はバトンを受け取ると、最初から全力で駆け出した。
「うわっ、あいつ速くね⁉︎」
「え、やば……一気に抜いたぞ!」
「すごーい!」
二位の選手を抜き去り、最後のコーナーで先頭の背中を捕らえた。
しかし、追いつくまでには至らない。
「凛々華、頼んだ!」
「えぇ!」
凛々華は力強くうなずき、トラックを駆け出す。
先頭の女子はインコースを走っていて、凛々華は外側から追い抜こうとするが、なかなか差が縮まらない。
「……っ」
凛々華の表情がわずかに歪む。
蓮は思わず、声を張り上げた。
「凛々華、がんばれ!」
その声が届いた瞬間、凛々華の走りにギアが入る。
最後のコーナーで身体を傾け、一気に加速。ラストの直線で外から並びかけ——一瞬早く、ゴールテープを切った。
「うわああああ!」
「最後にぶち抜いたぁ!」
「格好いい〜!」
スタッフの生徒が凛々華を一位の旗の下に誘導し、歓声が弾けた。
グラウンドが熱狂に包まれる中、最後の最後で抜かれた生徒は、がっくりと膝に手をついた。
「やっぱり愛の力ってずるいわ……明らかに速くなったもん……」
「舞香はよく頑張ったよ」
夏海がその肩をポンポンと叩いた。二人は同じ陸上部だった。
舞香はじっとりを見上げる。
「勝者の余裕、うざいわ〜……にしても」
その視線が、凛々華に向けられる。
「ねえ、陸上部入る気ない? エースになれるよ」
「お誘いはありがたいけど、遠慮するわ」
凛々華は軽く息を整えながらも、涼やかな声でそう返す。
舞香はニヤッと意地悪そうに笑った。
「彼氏さんとの時間が減っちゃうから?」
「っ……」
凛々華がふいっと視線を外した。
「もう、舞香。羨ましいからってからかっちゃダメだよー」
夏海が呆れたように苦笑する。
「そ、そういうわけじゃないし!」
舞香はバッとそっぽを向いたが、その耳まで赤く染まっていた。
その姿に、凛々華は小さく笑みを漏らした。
グラウンドの熱気が徐々に落ち着きを見せるころ、生徒たちは校庭に出していた椅子やテントの解体、器具の片付けに取りかかっていた。
蓮と凛々華も、それぞれ椅子をまとめていると、
「——黒鉄君、柊さん」
結菜が声をかけてきた。
真面目な表情で、頭を下げる。
「バトンのミス、取り返してくれてありがとう。あのまま負けてたら、たぶん、微妙な空気になってたと思うから」
「……藤崎って、根っからの会長なんだな」
蓮が苦笑まじりに言うと、結菜は不満げに唇を尖らせた。
「べ、別にそういうわけじゃないから。一応、自分のミスだから気にしてるだけだし……私と早川君なら、なおさらでしょ」
その目は、まだほんの少しの後悔を滲ませていた。
凛々華がふっと表情を和らげる。
「もう、あまりそこは気にしなくていいと思うけれど。たぶん、クラスのみんなもほとんど忘れていると思うわ」
「っ……たく、あんたはホントに……」
結菜がわざとらしく肩をすくめた。
「黒鉄君、どうにかしなさいよ」
「これが凛々華の美点だろ」
蓮がさらりと口にすると、結菜は大きく息をついて空を仰いだ。
「あぁ、もう、こっちもこういうやつだった……。まあ、今日だけは特別に許すけど——一つ、会長命令」
ビシッと人差し指を突きつける。
「間接キスするならサラッとやりなさい。もじもじしてんの見るこっちの身にもなりなさいよ」
「み、見てたのか?」
蓮が声を上ずらせると、結菜はニヤリと口角を上げた。
「そりゃ、グラウンドで堂々とやってるんだから、いやでも目に入ったわよ」
「あぁ、そっち……あっ」
凛々華が思わずつぶやいてから、慌てて口元を押さえた。
結菜の目がギラリと光る。
「へえ? あれだけじゃなかったんだ? そういえば、今日二人でタピオカ買いに行ってたんだってね——あの店に」
「「っ……」」
蓮と凛々華が同時に赤面する。
結菜はその反応を見て確信したように笑みを浮かべた。
「ふふっ。イチャイチャして、打ち上げに遅れないようにね」
そう言い残して、軽やかに踵を返していった。
「……あいつ、絶対わかってたよな」
「えぇ。さすがの鋭さだわ」
蓮と凛々華は苦笑を交わし、椅子を抱えて並んで歩き始めた。
◇ ◇ ◇
蓮と凛々華の家は、学校から徒歩圏内だ。
片付けが終わると、二人は打ち上げの集合時間まで一度帰宅することにした。
「なあ、うち寄ってくか?」
「えぇ……そうね」
蓮の誘いに、凛々華がほんのり頬を染めてうなずく。
二人で並んで歩き、蓮の家の玄関をくぐると、蓮はすぐにキッチンへと向かった。
「お疲れ。ほら、冷たいの」
「ありがとう」
ソファに並んで腰を下ろし、しばし無言のまま喉を潤す。
凛々華がぽつりと切り出した。
「……リレー、すごい必死だったわね」
「は?」
蓮が目を瞬かせると、凛々華が瞳を細めた。
「——藤崎さんのミスを取り返すため?」
「ち、違うって。そういうんじゃねえし」
蓮が慌てると、凛々華はクスクスと楽しげに笑った。
「冗談よ。その……格好良かったわ」
凛々華がはにかむように笑った。
素直な称賛に、蓮は照れくさくなって切り返す。
「お前だって、最後抜いたじゃねえか。あれはすごかったぞ」
「まあ、そうね」
凛々華は少しだけ目線を落とした。
「正直、途中は諦めかけてたわ。でも……蓮君の声が、聞こえたから」
その言葉に、蓮の胸がじんわりと温かくなる。
「……そっか」
そうつぶやき、凛々華をそっと抱き寄せた。彼女も抵抗することなく、胸に身をあずけてくる。
二人はそのまま身を寄せ合っていたが、蓮がふと腕時計に視線を落とすと、出発時間が迫っていた。
「そろそろ行くか。藤崎に皮肉言われないように、余裕持って」
「ふふ、そうね」
二人は笑い合いながら玄関へ向かう。
体は疲れているはずだが、彼らの足取りはどこか軽かった。




