第132話 遥香の決意と、凛々華の事情
(何かあったんだよね、凛々華ちゃんと……)
蓮が出しっぱなしにしていたワックスなどを片付けながら、遥香は先程の彼の態度について、考えを巡らせていた。
別れ話を切り出された、ということはないだろう。デートの支度を中断したのを見ても、おそらくドタキャンされたのだ。
ここ数日、二人がうまくいっていないことには気づいていた。蓮は少し元気がなさそうだったし、凛々華の話題を出すこともめっきり減っていたからだ。
それでも、まさかここまで拗れているとは思っていなかった。
(兄貴、大丈夫かな……)
無意識のうちに階段に足をかけて、思いとどまる。
(でも、どう声をかけてあげたらいいんだろう?)
恋愛経験もなければ、事情もわからない遥香に、適切な声掛けなどできるはずがない。
かといって、このまま静観するのも嫌だった。
家事も、学校での嫌なことも——困ったときはいつだって、蓮に支えてもらっているのだから。
(だったら、今度は私が助けないと)
遥香は使命感に燃えていた。
事情を知らないのなら、知っている人に聞けばいい。蓮に「ちょっと出かけてくる」とだけ伝え、取るものもとりあえず、家を出た。
目指すは、柊家。
いつか行ってみたいと思って場所を聞いておいたのが、こんなところで功を奏すとは思わなかった。
「遥香ちゃん?」
凛々華は驚きつつも、遥香を迎え入れてくれた。
母親は仕事のようだ。促されるままにソファーに座っていると、お茶を持ってきてくれた。
「あっ、ごめんなさい。突然押しかけたのに」
「それは気にしなくていいわ。でも、どうしたの?」
凛々華は淡々と尋ねてくるが、そわそわと手元をいじり、視線も安定していない。要件は察しているのだろう。
遥香は単刀直入に切り出した。
「凛々華ちゃん。兄貴と、何があったの?」
「……蓮君から、何か聞いたかしら……?」
凛々華が不安げに遥香を伺う。
「ううん。でも、見てられなかったから来ちゃった」
「っ……そう」
凛々華は目を伏せ、ぎゅっとスカートの裾を握りしめた。
遥香はその顔を覗き込んで、
「教えて。喧嘩でもしたの? 今日のデート、凛々華ちゃんから断ったんだよね?」
遥香は凛々華にも、何かしらのやむを得ない事情があるはずだと考えていた。
だって、凛々華はあの人——ミラとは違うから。
「……変なこと聞くけど、遥香ちゃんは初経はまだかしら?」
「へっ? ……あぁ」
遥香は一瞬キョトンとしたものの、すぐに凛々華の言いたいことを察した。
初経とは、初めての月経——生理を迎えることだ。
「私はまだないけど……ちょっと情緒不安定になって喧嘩しちゃった、みたいな感じ?」
生理が始まると情緒が乱れやすくなる——そんな話を、友達から聞いたことがあった。
凛々華は気まずそうにうなずく。
「えぇ……。ほら、蓮君ってちょっとだらしないところがあるでしょう? 普段はあまり気にならないのだけれど、そのときだけすごくイライラして、その……口論になってしまったのよ」
「うんうん、わかるよ。私も機嫌が悪いときに服散らかってたりすると、マジでムカつくもん。自分のものくらい片せーって」
遥香が拳を振り上げると、凛々華がほんのりと苦笑を浮かべた。
「今回、特に重いの?」
「えぇ。これまでで、一番だと思うわ」
「そっかー、大変だね。今は大丈夫なの?」
「ちょうど真っ最中だけれど、メンタルは少し落ち着いたわ」
凛々華がそっと胸元に手を添えた。
「あぁ、なんか始まる前のほうが辛いみたいなこと言うもんね。なんだったっけ……GPS?」
「誰を追跡するつもりなのよ。月経前症候群—— PMSね」
「そうそう、それ!」
遥香は我が意を得たりとばかりに手を叩いた。
「でも、それはしょうがないと思うなー。今日キャンセルしたのも、ちょっと外出るのはきつそうだったから?」
「えぇ、それもあるけど……怖くて」
「怖い?」
遥香は首を傾げた。あまり、凛々華のイメージと合わない言葉だ。
「喧嘩をしたのは数日前なのだけれど……また理不尽に怒ってしまいそうで、一度も話し合いができていないの。どころか、まともに顔を見て話すことすら……。今日もまた、口論になったらと思うと、怖くて……」
「そっか……。兄貴には、生理のことは言ってないんだよね?」
「えぇ……」
凛々華が唇を引き結び、視線を下げる。
遥香はぎゅっとその手を握った。
「恥ずかしいと思うけど、言ったほうがいいよ。兄貴なら、わかってくれると思うし」
「でも……昨日も蓮君、少し怒っていたわ。私が無闇に疑ったりしたから……それに、今さら言っても言い訳になるし、もう……嫌われてるかもしれないもの」
「そんなことない!」
遥香は思わず、大声で叫んでいた。
目を見開く凛々華に、遥香は力強く続ける。
「今日だって、いつも以上にオシャレしてたし、兄貴は絶対まだ凛々華ちゃんのこと好きだよ。そもそも、ちょっと喧嘩したからって諦められるほど、器用な人じゃないでしょ」
「それは、そうかもしれないけれど……」
「そうなの。あの人のことがあっても付き合ったんだもん。凛々華ちゃんにぞっこんだよ。だから今も、ショックで寝込んじゃってる。私に難しいことはわからないけど……でも、このままじゃ、どっちも後悔すると思う」
「遥香ちゃん……」
遥香は呆然としている凛々華の手を取り、立ち上がった。
「よし、行こう!」
「えっ? ど、どこへ?」
戸惑う凛々華に、遥香はニヤリと口角を上げてみせた。
「そんなの、ウチに決まってるじゃん」
「う、ウチって、ちょっと待って! そんな急に——」
「善は急げだよ。それに凛々華ちゃん、メイクもバッチリっぽいし!」
「っ……」
凛々華がサッと顔を逸らした。
その耳はほんのり朱に染まっている。
「凛々華ちゃんの口から伝えるべきだよ。大丈夫。兄貴がふざけたこと言ったら、私がぶん殴ってあげるから。——ほら!」
「あっ……」
遥香はグイッと凛々華の腕を引っ張ると、そのまま強引に家まで引っ張って行った。
しかし、一つ誤算があった。
この数十分の間に、蓮が家を出ていたのだ。
「兄貴、どこ行ったんだろう?」
遥香が焦っていると、凛々華が携帯を取り出した。
「たぶん、わかるわ」
「えっ、もしかして位置情報共有しているの?」
「えぇ」
「やっぱりGPSじゃん!」
遥香が興奮して指を差すと、凛々華が小さく吹き出した。
「一本取られたわね。ええと……バイト先に、いるみたい」
「わかった! 恵さんとかに話聞いてもらってるんだよ」
遥香も何回か遊びにいっているため、蓮と仲の良い店員のことは把握していた。
「そうかしら……」
「そうだって! というより、どのみち行かない手はないよ! ほら、凛々華ちゃん、女は度胸だ!」
「あっ、ちょ、ちょっと……!」
遥香は、尻込みする凛々華の背中に手を添え、勢いそのままに玄関へと導いていった。
「大丈夫? 私も一緒に行く?」
「だ、大丈夫よ」
「それでこそ凛々華ちゃんだ! グッドラック!」
遥香がニヤリと笑って親指を立てると、凛々華はくすっと笑って控えめにサムズアップし、玄関を出て行った。
遥香は腰に手を当て、小さくうなずいた。
「まったく……世話の焼ける兄と姉だなぁ」
◇ ◇ ◇
(私よりよっぽど、遥香ちゃんのほうが大人だわ)
カフェへの道すがら、凛々華は先程までの自分たちのやり取りを思い返しながら苦笑した。
父子家庭という環境が、そうさせたのだろうか。
でも、ふと違和感を覚えた。遥香ではなく、蓮の行動に。
一度自室に戻っていること、そしてそもそもの抱え込みやすい性格を考えても、知人に会いに行くとは思えなかった。
(そこまで追い詰めてしまったのかしら……。遥香ちゃんも、見てられなくてウチに来たと言っていたし……っ)
罪悪感で、胸が締めつけられる。
どうして、自分は彼にあんなにも冷たくしてしまったのか。
凛々華が後悔の念を滲ませていると、蓮に動きがあった。どうやらカフェを出たようだ。
(帰るなら、このまま鉢合わせてしまうけど——)
緊張で唇がカサつき、途端に不安が押し寄せてくる。
(でも、私の口から伝えないと、絶対に後悔する)
凛々華は顔を合わせたときに何を言うべきか、必死に考えを巡らせた。
(普段通り? いえ、まずは謝ることから始めるべきよね……)
しかし、間もなくして異変に気づいた。
蓮の移動経路が、帰路から外れていたのだ。それから程なく、カフェの近くの公園で反応が停止した。
おかしい——。
凛々華の中で、違和感がどんどん大きくなる。
(公園に行くこと自体は不思議ではないけれど、蓮君ならまっすぐ向かうはずだわ。誰かに誘われた? でも、恵さんたちは勤務中——)
そこまで考えて、凛々華はハッとなった。
(もしも、最初から勤務中でない人と、一緒にいたら……?)
凛々華の脳内に、今日は出勤していないはずの一人の同僚の顔が浮かんだ。
彼女であれば、蓮をバイト先に誘うことも難しくないだろう。
「っ……」
胸の動悸が苦しくなる。
そんなはずない。ただ、恵あたりに勧められて、自然に癒しを求めに来ただけ——。
そう自分に言い聞かせながら公園に到着した凛々華が目にしたのは、ポケットに手を突っ込んで立つ蓮と、その袖をそっと掴んでいる彩絵。
——まるで恋人同士のように寄り添う、二人の後ろ姿だった。
「そ、んな……っ」
凛々華の喉から、かすれた声が漏れた。
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