第107話 好きな人
片付けが終わって解散した後、蓮と凛々華は肩を並べて歩いていた。
昇降口を出てから、一言も言葉を交わしていない。お互いに相手の顔を見られないまま、気まずい沈黙が流れていた。
「……藤崎に強引について行ったとき、注意してたんだな」
「……えぇ」
蓮がぎこちなく切り出すと、凛々華は一拍置いて、小さく肩を落としてからうなずいた。
「さすがに、目に余ったもの」
「それはそうだけどさ、ちょっと気をつけたほうがいいぞ。発言力あるし、下手すりゃいじめとかにつながってたかもしれない」
凛々華は、一瞬だけ俯き、そして小さく息を吐いた。
「……でも、黒鉄君、苛立ってたじゃない」
蓮は思わず目を見開く。
「……俺、そんなにわかりやすかったか?」
「えぇ。藤崎さんが話を遮って、あなたに『ハガレル』の話を振るたび、少しだけ眉が動いてたもの」
「それで……注意してくれたのか?」
「……悪い?」
凛々華はそっぽを向いて、唇を尖らせた。
髪の毛の隙間から覗くその横顔には、かすかに桜色が差している。
「っ……」
蓮は言葉に詰まり、視線を泳がせた。
一度息を吐き、静かに続ける。
「……ありがたいよ。でもやっぱり、柊には危険な目に遭ってほしくねえからさ」
「っ……!」
今度は凛々華が息を呑む番だった。
すでに紅潮していたその頬が、さらに赤みを帯びていく。
「……あなたって本当、そういう人よね」
凛々華がため息まじりにつぶやいたのは、これまで何度も言われてきた言葉。
——蓮は、初めてそれを否定した。
「そういう人じゃねえよ」
「え……?」
戸惑いの色を浮かべる凛々華に、蓮は真剣な眼差しを向けた。
「俺は別に、誰でも彼でも心配するわけじゃねえし、そんなお人好しでもねえから。……好きな人のことだから、心配になるんだよ」
「っ……!」
凛々華は息を止め、その場に立ち尽くした。
「……ふぅ……」
蓮は一度目を閉じ、深呼吸をした。
目を見開いたまま呆然としている凛々華を正面から見据え、その名を呼んだ。
「柊。俺はお前のことが好きだ。本気で、これからもずっとそばにいたいと思ってる」
「っ——」
凛々華は喉を詰まらせたように一瞬沈黙し、それからかすれた声で問い返した。
「それ、本当に……?」
「あぁ」
蓮は頬がさらに熱を持つのを自覚しながら、しかし力強くうなずいた。
凛々華の紫色の瞳が揺れる。
蓮は照れたように頬を掻いた。
「簡単に言うつもりはなかったんだけどな。でも、さっきもこれ以上変に勘違いされたくなくて、ちょっと冷静になれなかった。……多分、それくらい俺にとって、柊が大事なんだと思う」
「っ……」
凛々華は、口元を押さえるようにしてうつむいた。肩が、かすかに震えている。
一筋の透明な雫が、その白い頬を静かに伝った。
「えっ……? ひ、柊? ごめん、俺、泣かせるつもりじゃ……っ」
蓮はどうしていいかわからず、手を宙に浮かせた。
凛々華は袖で目元を拭いながら、蓮を睨むように見た。
「っ……泣いてなんか、ないわよ……!」
——それは、まぎれもない嗚咽だった。
「柊……」
蓮は意を決して、震えるその小さな体を優しく引き寄せる。
凛々華はビクリと肩を跳ねさせた。
しかし程なくして、そっと顔を蓮の胸にうずめ、鼻をすすった。
それから少し経ち、凛々華の涙は止まった。
彼女は蓮の胸に顔を埋めたまま、か細い声でつぶやいた。
「……遅いわよ」
「……えっ?」
ふと見れば、凛々華は顔を真っ赤に染め、唇を噛みしめていた。
蓮を恨めしげに見上げ、
「これだけ、一緒にいたのに……」
「っ……!」
蓮は一瞬動きを止めた。
込み上げてくる感情に逆らえず、ぎゅっと凛々華を抱き寄せた。
「ごめん。……でもこれからは、ちゃんと大切にする」
「……男なんだから、約束は守りなさいよ」
少しかすれたその声は、普段の理知的な口調とは違う、どこか甘えるような響きを含んでいた。
それが、ただ愛しくて——
「……あぁ、必ず」
蓮はもう一度、力強く彼女を抱きしめた。
それからはポツポツとぎこちなく会話をしていたが、柊家が近づいてくると、沈黙がふたたび二人の間に落ちた。
玄関の前に立った凛々華が、扉に手をかけたまま小声で言った。
「……どうするの?」
蓮は頬をかきながら、少しだけ視線を泳がせる。
「……いや、その……約束だったし、上がらせてもらってもいいか?」
今日は元々、文化祭準備が終わったら一緒に宿題を進めようと約束していた。
凛々華はそっぽを向きながら、頬を火照らせてつぶやいた。
「……私、そんなに軽い女じゃないわよ」
「そ、そういうつもりじゃねえよ!」
蓮は慌てて手を振った。
「ただ、もうちょっと一緒にいたいっつーか……」
「……本当に、あなたってそういう人よね」
そう呆れたように肩をすくめた凛々華の頬は、夕焼けよりも赤くなっていた。
柊家には誰もいなかった。
凛々華の母親である詩織は、仕事に出ているようだ。
(じゃあ、今、俺と柊しかいねえのか……っ)
彼女の家に二人きりであることを自覚して、蓮はその場に立ち尽くした。
「……座ったら?」
「お、おう……」
凛々華に促され、蓮はそろそろと腰を下ろした。
柔らかく沈み込む柊家のソファーとは対照的に、体はガチガチに緊張していた。
凛々華が、隣に静かに腰を落とす。
ただ並んで座っているだけだというのに、気分がソワソワとして落ち着かない。
(何回か来てるんだけどな……)
蓮が意識を逸らすように周囲を見回していると——、
凛々華がそっと身を寄せ、控えめに頭を預けてきた。
「っ……⁉︎」
蓮の心臓が跳ねた。
凛々華は耳先まで朱に染めたまま、言い訳のようにつぶやく。
「こ、恋人なのだから、これくらいは普通だと思うのだけれど」
「そ、そうだけど……っ」
(これまでで、一番やべえかもしれねぇ……)
凛々華の髪がふわりと頬にかかり、二の腕からは柔らかな感触と温もりが伝わってくる。
どこか甘い香りも漂ってきて、思考がまとまらない。
仕掛けた凛々華自身も、茹でダコのように真っ赤になっている。
しかし、彼女は蓮と比べていささか余裕のある表情で、静かに切り出した。
「……一つ、言っておきたいのだけれど」
「ど、どうした?」
凛々華は瞳を伏せたまま、唇を尖らせて拗ねたように言った。
「いくら信頼している相手でも、気もない男子にこういうことをするほど、尻軽ではないつもりよ」
「……そうだよな」
蓮は苦笑いを浮かべた。「ただ信頼されてるだけ」だと本気で思っていた自分が、今では情けなく感じる。
しかし、それと同時に——
(柊はあのころから、意識してくれてたんだな……)
その事実に胸が熱くなり、思わず口元が緩んでしまう。
「……何ニヤニヤしているのかしら?」
凛々華が瞳を鋭く細め、肩越しにじっとりとした目線を向けてきた。
「いや、別になんでも——いっ⁉︎」
脇腹に痛みが走り、蓮は悲鳴を上げた。しかし、なんとかその場にとどまった。
凛々華がおかしそうに笑う。
「へぇ……逃げないのね」
「逃げたら、怒るだろ」
蓮は素っ気なく返した。しかし、次の瞬間、
(って、なんか今の、離れたくねえって言ってるようなもんじゃねえか……⁉︎)
頬がじわじわと熱を持つ。触れている凛々華の肩が、ビクッと震えた。
柊もやり取りの意味に気づいたのか——。
蓮が探るように横目を向けると、消え入りそうな声が聞こえた。
「……合格よ」
「お、おう……」
蓮は声を上ずらせた。
なんとも言えない気まずさが漂うが、凛々華は身を寄せたまま、離れようとはしない。
そのことが嬉しくて、蓮はそっと細い肩に手を回した。
「っ……」
凛々華は喉を鳴らしたが、蓮がわずかに力を込めて抱き寄せると、素直に体重をかけてきた。
少しだけ空いていた距離は、気づけばすっかりなくなっていた。
互いの体温がじんわりと伝わり合う中、二人は何も言わずに寄り添っていた。
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