第103話 相変わらずのぎこちなさと、初めての感覚
セミがけたたましくその存在を主張し、太陽に照らされたアスファルトから熱気が立ちのぼる中、蓮はいつものように柊家の前で足を止めた。
「……ふぅ……」
気づけば深呼吸していた。インターホンに伸ばした指が、ぴたりと動きを止める。
蓮はもう一度深呼吸をしてから、ボタンを押し込んだ。
——ガチャ。
電子音が鳴ってから、いつもよりわずかに遅れて扉が開いた。
「……よう」
「……えぇ」
ぎこちなく挨拶を交わしたが、会話は続かない。
お互いに意識していることがわかってしまうからこそ、余計に気まずく、蓮は凛々華の顔を正面から見れなかった。
「……行くか」
「……そうね」
沈黙をまとったまま、蓮と凛々華は歩き出した。
学校に着いても、その空気は続いていた。
蓮はもどかしさを覚えつつ、太めの画用紙を切っていた。
「……切りにくいな」
蓮がふとつぶやいたそのとき、別のハサミがスッと目の前に差し出された。
「……えっ?」
「その……最近買ったばかりだから」
横で作業をしていた凛々華は、蓮から視線を逸らしてそう言った。
紫髪の隙間から覗く耳元は、ほんのり朱色に染まっている。
「……お、おう。サンキュー」
少し遅れて受け取ると、凛々華は小さくうなずき、作業を再開した。
蓮はしばし、手元のハサミをじっと見つめた。
(気づいてくれたのか……)
胸の奥が、じわじわと熱を帯びていく。
そのうずくような感覚に戸惑うが、決して不快なものではなかった。
気がつくと、蓮は凛々華の動きを目で追っていた。
だから、彼女が丸まりがちな画用紙に苦戦していることも、すぐにわかった。
——言葉よりも先に、体が動いた。
「っ……」
画用紙の端を押さえると、凛々華が息を呑む気配がした。
「……ありがとう」
ポツリと聞こえた声に、蓮は画用紙を見下ろしたまま、黙ってうなずいた。
(もしかして、さっきの柊もこういう気持ちだったのか……ん?)
ふと、視線を感じた。
蓮が顔を上げると、微笑みを浮かべる心愛と目があった。
「……初音、なんだよ?」
「ううん、なんでもないよ〜」
心愛は笑顔のままゆっくり首を振ると、蓮たちから視線を外し、少し離れたところで固まっている亜美と莉央に声をかけた。
「亜美、莉央。手伝おっか?」
「おー」
「ありがと」
亜美と莉央が笑顔で迎え入れ、そのまま三人で雑談をしながら作業を始める。
(ぎこちなさは残ってるけど、丸く収まってよかった……って、今の俺がぎこちないなんて言えねえか)
蓮は思わず、自嘲気味に笑みを漏らした。
凛々華の横顔にちらりと目を向けてから、手元に意識を戻すと、
「——へい、桐ヶ谷君っ!」
夏海の元気な声が聞こえた。
視線を向けると、彼女は丸まった画用紙をバットに見立てて構えていた。両手で持ったそれを肩口にかかげ、バッティングフォームを取っている。
「えっ……?」
彼女の視線の先には、紙を丸めたゴミを手に持った樹が、困惑した表情で立ち尽くしていた。
「投げて!」
無邪気な笑顔で叫ぶ夏海に、樹はおろおろとしながらも、「あ、うん……」と返事をし、ぎこちない動作で下からボールを放った。
「ナイスピッチ!」
そう叫ぶと同時に、夏海の振り抜いた「バット」が紙のボールを捉える。
柔らかい打球がゆるやかに放物線を描き——
「いっ……」
見事、亜里沙の後頭部を直撃した。
「あっ……!」
夏海が顔を青ざめさせる中、亜里沙はゆっくりと振り返り、口角を吊り上げた。
——全く笑っていないその視線は、まっすぐ犯人を捉えていた。
「——夏海?」
「ひぃ!」
夏海がビクッと体を震わせ、胸の前で両手を合わせた。
「ご、ごめん亜里沙っ! いまのは完全に事故というか……」
「言い訳無用。っていうか——」
夏海の元にツカツカと歩み寄り、亜里沙が手刀を振り下ろした。
「——室内で野球すんな」
「いたっ! ちょ、普通に痛いんだけど⁉︎」
「ふざけてたんだから、当然でしょ」
亜里沙は呆れたような口調で夏海の抗議を受け流すと、やや表情を柔らげて樹に目を向けた。
「桐ヶ谷君も、ちゃんと断らないとダメだよ」
「う、うん……ごめん」
樹がシュンと身を縮こませた。
「ま、一番悪いのは言うまでもなく夏海だけど——」
「すみませんでしたっ!」
夏海が亜里沙の言葉を遮らんばかりの勢いで、頭を下げた。
その潔さは、さすがは運動部といったところだろうか。
「まったく……」
亜里沙は腰に手を当てて溜め息をついたが、声色にはどこか柔らかさが混じっていた。
二人を見る目元も、緩やかな弧を描いている。
「ほら、やるよ」
「う、うん」
「はーい」
亜里沙に促され、樹はいそいそと、夏海は敬礼をしてから、それぞれ作業に戻った。
「……彼女たちらしいわね」
蓮の傍らで、凛々華がポツリとつぶやく。
やや呆れたような、それでもどこか楽しそうな声色だった。
蓮は目を細め、小さく笑った。
「……だな」
そこで会話は終わったが、二人の間に流れる空気は、以前とは明らかに違っていた。
気まずさは残っているものの、息苦しさは感じない。
そして何より、蓮の中では、すでに解決法もぼんやりと浮かんでいた。
しかし同時に、それはすぐに実行できるものではなかった。
リスクがあるし、相応の覚悟も求められるものだ——蓮の場合は、特に。
その一歩を踏み出すには勇気がいるし、そうでなくとも、軽口ひとつ浮かばない状態だ。
それでも、蓮はこれ以上、沈黙を続けようとは思わなかった。
「なぁ、柊」
「……何かしら?」
凛々華が手を止め、視線だけを向けてくる。
「その……西野圭司の作品で、結局何が一番いいと思う?」
「……どうしたのよ、急に」
凛々華が怪訝そうに眉を寄せた。
(まあ、困惑するよな……)
蓮は照れ隠しに頬を掻き、言葉を必死に探した。
「いや……最近あんまりこういう話もしてなかったし、黙って作業すんのも退屈だろ」
「……まぁ、そうね」
凛々華はほんのり頬を緩めてから、思案顔になった。
「迷うけれど……私は『プロチナデート』が一番好きかもしれないわ。本当にあってもおかしくなさそうな話だし」
「あぁ、確かにな。あの女の子の名前、なんていうんだっけ? ほら、カタカナの」
「ヒントはテープよ」
「テープ? ……あっ」
蓮が思わず指を鳴らし、思い出したその名前を口にしようとしたとき——、
「ふふ、黒鉄君。やっぱり火を出したいんだ?」
「……えっ?」
突如として差し込まれた声に、蓮は口を半開きにしたまま固まった。
視線を向けると、結菜が蓮の顔を覗き込むようにして、微笑んでいた。
「……火?」
「うん! 今の指パッチン、『ハガレル』のあの人が火を出すときにそっくりだったよ?」
「あぁ……確かに」
蓮は曖昧にうなずいた。
結菜はニコニコと機嫌よさそうに続ける。
「彼、いいよねー。ポンコツだけど、決めるところでは決めるところが格好いいし!」
「……まぁ、そうだな」
蓮は意識的に、気のない返事をした。
これまでも、他の人もいる中で『ハガレル』の話を持ち出されるのは気分の良いものではなかったが、まだ我慢できる範囲だった。
それに、結菜のカットインはよくも悪くも場の空気を変えるため、正直なところ、助けられていた場面もあった。
でも、今は違った。
凛々華とのこの空気を乱されるのが、妙に気に障った。
(でも、さすがに無視しちゃダメだよな……適当なところで、強引にでも切り上げるか……)
蓮がそう思っていると、
「正論だけじゃなくて、ちょっと人間臭いところもいいと思わない?」
「——人間臭いと言えば、私は『Yの献身』もいいと思うわ」
凛々華が、結菜の言葉を引き取った。
結菜が驚いたように凛々華を見てから、首をひねる。
「えっと……『Yの献身』って?」
「あぁ、ごめんなさい。西野圭司の小説なのだけれど」
「あっ、そうなんだ。読書好きなのはいいことだね! けど、柊さん。今は黒鉄君と『ハガレル』について話してるから、ちょっと待っててもらっていい?」
「っ……!」
凛々華が目を見開き、口元を引きつらせた。
信じられない——。表情が、そう語っていた。
しかし、結菜は何事もなかったかのように、「それでさ、黒鉄君。さっきの続きなんだけど」と蓮に話を振ってきた。
——その勝ち誇ったような笑みを見た瞬間、蓮は確信した。
これまで抱いていた違和感は、全て気のせいではなかったのだと。
(やっぱり、そういうことだったのか……)
結菜の狙いがわかった瞬間、蓮の中で何かが切れた。
彼女は言葉を続けているが、蓮はもう、その意味を理解しようとすらしなかった。
「それに、部下の信頼関係も——」
「藤崎」
その声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「っ……」
結菜が言葉を詰まらせた。
蓮はひとつ息を吐いてから、揺れる彼女の目をまっすぐ見据えて続けた。
「俺と柊が西野圭司の小説について話してたんだから、ちょっと待ってもらっていいか?」
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