婚約者は、欄干の向こう側。
「一目お会いしたいです、婚約者様!」
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のヒーロー視点です。上記を先に読んでいただいた方が楽しめると思います。
「マリウス、お前に婚約者ができた」
「こんやくしゃ……」
「あのノトーナ家に女児が生まれたらしい。お爺様の決めたことだ。まぁ、今は受け入れるしかないがいずれは婚約破棄する。お前には私が相応しい相手を見つけてやる」
そんな風にいつか破棄される婚約であると聞かされていたため、マリウスに相手への興味は生まれなかった。
そう、興味など生まれないはずだった。
***
この国の貴族の子女たちは13になると学園に入ることが義務付けられており、そこで貴族社会の規律や上下関係を含めて学ぶことになる。
当然ながらそれはマリウス=プレザインも同じだった。
プレザイン公爵家の跡取りとして生まれたマリウスは、非常に厳しく育てられた。力のある公爵家であり続けるためには、そこの長である公爵自身が必ず優れている必要があると。いずれ家督を継ぐことになるマリウスにもそれが求められた。
ここ、シャルディ王国には王族を支える家門がいくつもあるが、中でも三大家門と言われるのが、プレザイン、エンダルク、ノトーナの公爵家である。金のプレザイン、黒のエンダルク、赤のノトーナと呼ばれ、それらが王家を支える三大家門である。
建国以来お互い牽制と協力をしながら王家を支えていたのだが、過去の出来事を巡って、プレザインとノトーナの信頼関係は崩れた。それからプレザインは強くノトーナ家を敵視するようになり、逆もまた然りだった。
マリウスは幼い頃から家督を継ぐものとして厳しく育てられ、一切の甘えは許されず、出来て当然だと言われて褒められることもなかった。目の前に出されるものをただただこなしていく生活を強いられた。
他を知らないマリウスは、それを受け入れ、食らいつくことでしか生きて行くことが出来なかった。
しかし、学園に入ってからは少しだけその認識が変わった。
「マリウス!」
独特な虹彩をもつ紫色の瞳を細め、呼びかけられたマリウスは立ち止まり振り返った。
手を挙げて呼びかけてきたのは、白金の髪に水色の瞳を持つやや人間離れしたような顔立ちの細身の男性で、この国の第一王子ルーカス=シャルディだ。この学園の制服に身を包み、青色の襟飾りをつける姿からも、学生としてここにいることは一目瞭然だ。
王族はこの学園への入学義務はないが、同年代と意見を交わしたいなどと言う高尚なご意志で、この王子は他の貴族と同様に13歳から入学している。マリウスと同じ学年で、入学前から何度か王宮で話したこともあり、声をかけられることが多かった。おそらく公爵家の息子であれば王族にとっても害はないと思われたのだろう。
「どうした」
最初こそ畏まって話をしていたが、気楽にしてほしいと何度も言われて、マリウスの方が折れた。
「次の生徒会の議題だけど」
学園は男子生徒側にだけ生徒会と言う文化が存在した。学園の代表者によるルール作りや、行事など生徒だけで実行する組織ではあるが、どうしても身分に縛られがちになる。
今はルーカスがいることもあり、ルーカスを差し置いて生徒会長になろうという猛者は居らず、4年生からルーカスが生徒会長を勤めている。
「僕が生徒会長やらなきゃいけなくなったから、マリウス、副会長やってよ」
「勉強時間が減るようなことをする気はない」
「マリウス、はっきりしすぎだよ。もうちょっと上手く断らないとそのうち困るよ。でも、生徒会は、試験以外での点数稼ぎになるから、お勧めだけど? ほら、マリウス。プレザイン公爵から人脈作りも力を入れるように指示されてるんでしょ」
そう言って笑ったルーカスは、マリウスに断らせる気はないようで、またしてもマリウスは折れるしかなかった。そんな風に結局最終学年まで三年連続で副会長をやらされている。
生徒会の話をした後、ルーカスがふと気づいたように、マリウスから一歩下がった。
「相変わらずヤナギは気づきづらいな。どうなってるんだ?」
ルーカスがマリウスの横に立っている人物を見て首を傾げる。
マリウスの隣にはいつも必ず、同じぐらいの背の高さの黒髪に黒い瞳の学生が立っている。同じように学園に入学し、マリウスにとっては馴染みの顔だが、寡黙でその存在感はとても薄い。意図的にそうしていると本人は言っていたが、一体どのようにしているのかはマリウスにもわからない。しかし、他の人から見るとどうやらヤナギの存在は確かにわかりにくくなっているらしい。
「ヤナギ、殿下の前でぐらい解除しろ」
マリウスがそういうと隣にいたヤナギはそれに従い、ふと力を抜くような仕草を見せる。するとルーカスの方もホッとしたような表情になる。
「そこに人がいると視界ではわかるのに、人がいるような気配がなくてつい身構えちゃうんだよね」
ルーカスが申し訳なさそうにいうが、ヤナギが悪いのだ。
ヤナギは、プレザイン家からのマリウスにつけられている監視である。
屋敷から学園に通う予定だったが、マリウスの希望により学園の寮に入ることになった。父親がそれを許した条件が、このヤナギを側につけることだった。
本来であればヤナギは貴族ではない。しかし、父親が遠縁の家に養子を取らせ、わざわざヤナギを同時期に入学させたのだ。
そのため、学園の中でもマリウスは基本的に一人でいられることはなかった。必ずヤナギが隣にいて、マリウスを監視し、何かあれば父親に報告する。そんな生活だった。
父親がマリウスに求めることはプレザイン家の立派な後継になることであり、全てにおいて完璧を求められた。屋敷でも常に勉強や剣術、マナーなどあらゆることを毎日決まった時間に学ぶことを強要され、マリウスは次第に自分がなんのためにこれをしているのかわからなくなっていった。
それでも休むことも許されず、一人でいられるのは寝るときぐらいだった。
だからこそ、学園では寮生活がしたいと父親に頼み込んだのだが、結局は監視付きになったのだから、あまり変わらなかったとも言える。
「あ、次実技棟への移動だろう?歩きながら話そうか」
渡り廊下を三人で歩きながら、実技棟へ移動しているときにふとルーカスが視線を動かした。
「あの子、熱心だよね」
マリウスもつられて同じ方を向いた。
ルーカスが見たのは女子学生のいる方の校舎の渡り廊下だった。
この学園は男女ともに入学するところではあるが、校舎は男女で分かれており、基本的に交流などはない。同じ作りの校舎が左右対象に作られており、この渡り廊下が互いの姿を見る唯一の接点とも言える。
マリウスの視界には女子学生が映った。
「何が?」
マリウスにはただ、赤毛の女子生徒が歩いているようにしか見えない。なにが熱心だと言うのか。
「赤髪の女の子が顔も知らない婚約者を探してるって有名だろう?」
驚いたように言うルーカスに、マリウスは視線を戻した。
「知らない。そもそも顔も知らない婚約者なんて、探すだけ無駄だろう」
「……、マリウス、それ本気で言ってる?」
「本気だが?」
ルーカスが酷くダメな子を見るような表情で大きくため息をついた。
「あの子が探してるのは、君でしょ」
そう言われてマリウスは眉を寄せた。
「なんで俺を探すんだ」
「あの髪を見てもわからないの?学年一の成績優秀者が聞いて呆れるね」
渡り廊下にいた女子学生の姿を思い出す。真っ赤な燃える炎のような赤い長い髪は、少しクセがあるのか波のように揺れていた。
「三大家門と言えば、金のプレザイン、黒のエンダルク、赤の?」
ルーカスが先を促すように視線を向けてくるなか、自分の金色の前髪が異様に目についた。
「……、ノトーナ」
決まり文句のようなその名前にマリウスはようやく気がついた。
「あの赤髪の子は、君の婚約者、ノトーナ公爵家の令嬢でしょ」
彼女が、自分の婚約者だということに。
その存在すら記憶の片隅に追いやられていた自分の婚約者だと言うことに。
***
その事実に衝撃を受けたマリウスは、意外にもその後まともに授業を受けることもできなかった。教師たちの言葉はまったく頭に入らず、ぼんやりとした様子のマリウスに、流石のヤナギも心配そうにしていたが監視という役割の彼にできることはない。
見かねたルーカスが授業後に、生徒会室に連れて行く。当然ながらヤナギも黙ってついて行く。彼もマリウスの監視のために、生徒会で会計という役割を担っているため入室についても問題がない。
生徒会室にあるソファに向かい合うように座ったルーカスが、マリウスを見る。
「……、本当に彼女が探してるって知らなかったのか?」
疑わしげに言うルーカスに、マリウスは素直に頷いた。
婚約は破棄されるものだと聞いていた。結局今の今まで破棄されずにいるものの、父親の言葉通りいずれは破棄されるのだと思っていた。
なんせ話を聞いてから一度も会ったことがない。一度話を聞いてから父親がその話を再びすることもなかった。だから、興味を持つこともなく、ただその存在を聞いたという事実があるぐらいだった。
いつか破棄される婚約というのは、向こうにとっても同じなのだと思い込んでいた。
まさか、自分のことを探しているなんて、思っても見なかった。
「すまない、てっきり君は君の意思を持って彼女を無視しているのかと思っていたよ。あまりに彼女が可哀想で、だからちょっと話を振ってみたんだが……」
ルーカスの言葉にマリウスは首を横に振った。
「誰か君に話してそうだとも思ってたけど、……あれか、皆話をするのを避けたんだな」
その気持ちはわからなくもない。なんせ現状のプレザインとノトーナの関係は良くないのだ。わざわざそんな話を持ち出そうなどと言う奇特な生徒はいないだろう。将来有望な公爵令息の機嫌は取っておいた方が良いに決まってる。わざわざ不機嫌になりそうな話題を振るやつはいないだろう。
「そもそも勉強に加えて生徒会の仕事も増えたのに、他ごとしてる余裕はない」
「それについては僕が悪いね」
あっち側に人がいることを今ようやく認識したぐらいなのに、知っているわけがない。
「今は、知っちゃったけど、どうするんだい?」
「……、何もしない」
いずれは婚約破棄することはおそらく変わらない。父親がノトーナとの婚約をよく思っていないことだけは明らかだった。
どうせ破棄されるなら、向こうも知らないままの方が幸せだろう。マリウスはそう思った。
***
そのはずなのに……。
マリウスは、それから渡り廊下を歩くたびに欄干の向こう側の渡り廊下を無意識に見るようになった。毎回いるわけでもないのに、赤い髪の女子生徒を探してしまう。
名前を知ることは簡単なことだった。
貴族名鑑に書かれたノトーナの家系図を見ればすぐにわかる。現在のノトーナでマリウスと歳が近い令嬢は一人しかいない。
メメリア=ノトーナ。
それが彼女の名前だった。3つ下で、自分より三年あとにこの学園に入学して来たことになる。
ふと緩やかに揺れる赤い髪を見つけてしまう。彼女は瞳も赤く、気の強そうな印象を受ける。一瞬目があったような気もするが、彼女はマリウスのことを婚約者だとは気づかない。
「ずっと、気づかず探してるのか……」
思わず口にしてしまう。しかし、そうつぶやいたマリウスの視線を遮るようにヤナギが立つ。
「プレザインの中でも、マリウス様の色彩は特殊ですから」
そう言ったヤナギの目は、マリウスを咎めるような目だった。マリウスは紫の目をヤナギに向ける。
プレザイン家といえば、金色の髪に青い瞳である。しかし、マリウス自身はパッと見ると髪は金色だが、目は紫色である。今となっては珍しい色合で、知らなければマリウスがプレザインだとは気づかない。
「父上になにか言われてるのか」
「ノトーナとの婚約は破棄すると公爵様は仰っているはずです」
「ずっとそう言いながら、破棄されていないじゃないか」
「マリウス様を知ったところで、傷つくのはあちらのご令嬢です」
「そんなことは、わかってる」
あの父がノトーナとの結婚を簡単に認めるとは思えない。いずれは婚約破棄がなされるのだろうとは思う。
だが、マリウスは渡り廊下で赤髪の彼女を探すことをやめられなかった。
***
それから半年経っても、関係性は変わらなかった。マリウスは彼女に名乗ることもなく、彼女もまたマリウスが自分の婚約者であると気づくこともない。
ただ、マリウスは彼女を見かければ目で追ってしまうし、彼女のことを少なからず個人で調べられる範囲で調べたりした。
そんなある日、再び彼女を見かける。その時、男子棟側にいる誰かに向かって笑顔で手を振っている姿が見えた。当然マリウスに向けてではない。
彼女が手を振っている前方を見れば、黒髪に青い瞳の男子生徒がいた。制服の襟飾りは赤であることから、マリウスよりも年下の学生である。
黒のエンダルク。
三大公爵家の一つで、基本プレザインにもノトーナどちらに味方するわけでもなく、中立を貫いている。その家の令息であることは姿を見ればわかった。
二人の親しげな様子に、心にもやもやとした何かが現れてマリウスは眉を寄せた。
「それ、なんて言うか教えてあげようか」
人間離れした美しい顔に似合わないニヤケ顔にマリウスは眉を寄せる。
「嫉妬だよ」
得意げにそういったルーカスにマリウスは大きなため息をついた。
「……、いい加減にしてくれ」
生徒会長の椅子に座るルーカスの前に、行事の申請資料を置く。
「すごく見てるし、すごく調べてるじゃないか。いいのか?このままで」
そんなルーカスの言葉に、珍しくヤナギが前に出る。王子であるルーカスに何か言葉を発するわけではないが、それ以上余計なことを言うなとばかりの表情と態度である。
「やめろ、ヤナギ。不敬だぞ。下がれ」
マリウスの言葉に従ったものの、ヤナギが不服そうだったのは間違いない。
「忠実な影だね。羨ましいぐらいだ」
「所詮父の影だ」
「いずれは君につくだろう」
「どうだか」
それから数日後に、驚くような場面に遭遇する。
いつも通り女子校舎の渡り廊下に彼女が息を切らして入って来たかと思うと、突然大声で叫んだのだ。
「ユール!レニアーニが知らない人と婚約しちゃう!」
懸命に声を上げる彼女に対して、エンダルク家の令息が重々しく頷いたのがわかった。
必死な様子の彼女の言葉から、何となく状況が想像ができた。
ユールとは、ユールディル=エンダルクのことであり、レニアーニとは彼女の友人のレニアーニ=アルーシャ伯爵令嬢のことだ。
彼らは幼馴染の三人らしくとても仲が良いようだったが、その中でもエンダルクの令息がアルーシャの令嬢に気があるようだ。そのアルーシャの令嬢に婚約話が持ち上がっていて、慌てて伝えに来たのだろう。
やり切ったという雰囲気で欄干に掴まる彼女は、よほど疲れたのかすぐにはそこから動かない。
お人好しで、お節介だな。
そんな感想と共に、そんな風に一生懸命になれる友人がいることが羨ましく感じる。まだ狭い範囲しか見ることができてないため、彼女の発言で起こるさまざまな影響までは、考えられていないだろう。それでも……。
いつまでもマリウスのことを諦めず探し続ける意思や熱量も、マリウスには到底存在しないものだった。
彼女を見るたびにとても眩しく感じる。自分にはないものを持つ彼女に惹かれずにはいられなかった。
無意識に彼女を見続けていたようで、目が合うと思わず頬が緩んだが、すぐ隣にヤナギがいることに気づいて、マリウスは慌てて歩き出す。
父上に変な報告をされたらたまらない。
しかし、授業中も彼女のことが頭から離れない。伝えてもどうせ婚約破棄するのだから、意味がない、彼女が傷つくだけだとわかっていても、彼女のことを考えてしまう。
そんな風にぼんやりとしているマリウスの様子に、ルーカスが心配そうに見ていることにも気づかない。なんなら授業がら終わったことにすら気づいていない。
「ヤナギ、会計の資料の計算が合わないんだ。至急確認してくれ」
授業終了後、唐突なルーカスの言葉にヤナギが理解できないと言う表情をしたが、ルーカスは満面の笑みで「早く来い」とヤナギを連れ立って行こうとする。
そんな資料の存在に記憶がなく、マリウスがルーカスに質問を返そうとしたが、肩に手を置かれて耳打ちされる。
「今行けば、会えるんじゃないか?」
彼女とすれ違う時間帯はいつも決まっていた。この授業の後は必ず渡り廊下に彼女の姿があった。そのことに気づき、マリウスがハッとしてルーカスを見ると彼にウィンクされて、思わず少し後ずさった。
ヤナギを連れて消えたルーカスの背を見終わると、マリウスは思わず走り出した。
……いた!
校舎の窓から見える向こう側の渡り廊下に、いつもの目覚めるような赤い髪の彼女の姿があるのが見えて、マリウスは走るのをやめた。少しずつ息を整えて、なるべくいつも通り渡り廊下に出た。
彼女はゆっくりと渡り廊下を歩いているが、どこかぼんやりとしている。いつものような彼女の強さや明るさを感じる表情がなく、不思議に思う。
しかし、マリウスには彼女の気持ちを知る術もないことに気づく。どんな表情でいても、この距離では彼女に手は届かない。渡り廊下からただ見ることしかできず、まともに話をすることもできない。
この状況にひどくもどかしいと感じる。しかも、自分は彼女を認識していても、彼女はマリウスを認識してはいない。
「もう、無理だ」
たった半年でこんな切ない気持ちになるのに、彼女は一体どんな気持ちで二年以上、顔も知らない婚約者を探しているのだろうか。
そんなことを考えていると彼女と目が合った。いつもなら早々に目を逸らすところだが、どうしても目が離せなかった。ヤナギが隣にいないこともあり、伝えたいと言う思いが溢れてくる。自分が婚約者であると今すぐ伝えたい。
しかし、今のままでは彼女に本当のことなど、何も伝えることができない。先にすべきことがある。
マリウスはぐっと右手を握りしめるとその中に本当の気持ちを隠した。
当たり障りのない、先ほど見た光景についての感想を声を出さずに口の動きだけで伝えてみることにした。
『大声出しすぎ』
ゆっくりとした口の動きで、そう伝えると彼女はどうやらそれを読むことができたようで、明らかに真っ赤になって憤慨した様子が見て取れた。
こちらに向けて怒っている様子に、マリウスは妙な高揚感を感じたのがわかった。
相手に言葉が伝わって、反応が返ってくることがこんなにも嬉しいことなのか?
思わず頬が緩み笑ってしまうが、彼女は笑われたと思ったのか余計に真っ赤になって怒りの表情を示すと、くるりと背を向けて早足で歩いて行ってしまった。
そんな彼女の姿すら可愛いと思ってしまう。
「……、これは、俺の方が完全に落ちてるやつだな」
晴れやかな笑顔で言ったマリウスの言葉を聞いている人は誰もいなかった。
向こうはただ見てみたいと思っているだけかもしれないのに。
なんでもっと早く婚約者に興味を持たなかったのかと、後悔が渦巻くがそんなことを悔やんでいても仕方ない。
これじゃあ全く満足できない。
婚約破棄して、彼女を他の誰かに取られるなんて、とても我慢できそうにない。
渡り廊下を後にしたマリウスは、そのまま教室に戻ることなく、その日初めて授業を無断欠席した。
***
向かう先は一つ。
マリウスは久しぶりにプレザインの屋敷に戻った。学園からも程近い屋敷は、三大公爵家の一つであることを示すようにいつみても立派な建物である。そして、マリウスにとってはあまりいい印象はない。
真っ直ぐに向かったのは父親であるプレザイン公爵の執務室だ。扉の前まで来て、深呼吸をする。戦う相手は一人だが、マリウスが最も苦手とする人物である。
マリウスはゆっくりとその扉を叩いた。
「ノトーナとの婚約は、破棄しないで頂きたいです」
「……何故だ?」
「私が彼女のことを好いているからです」
「正気か?会ったこともないのに?」
馬鹿にしたように言ってくる父親にマリウスはぐっと手を握る。
「恋愛なんぞなんの肥やしにもならん」
「何かの肥やしにしたいわけではありません。私は純粋に彼女が欲しいのです」
「何故わざわざノトーナから娶らねばならん」
「逆に望んだものも手に入らない公爵の地位など、価値がありますか?」
マリウスの言葉に、公爵がギロリと目を動かした。この見下すような表情がマリウスはとても苦手だったが、今は目を逸らすわけにはいかない。
「私に後を継げと言うのなら、私の望みもお許し頂きたい。それに相手としては、ノトーナの令嬢以上はいないはずです」
現状王族には姫はおらず降嫁の可能性はゼロである。だとすれば、彼女がもっとも身分の高い令嬢である。
マリウスの心配は逆だ。
彼女は王族に望まれる可能性もあるはずだ。ルーカスをはじめ未婚の王子は複数いる。
視線を逸らさないマリウスに、公爵が疲れたようなため息をついた。
「どいつもこいつも色恋沙汰に溺れるからこんなことになるんだ」
珍しい物言いに、マリウスは眉をよせる。そこからは、公爵は独り言のように話し始めた。
「ノトーナとの関係も所詮はくだらない色恋沙汰のせいにすぎん。もっと大きな理由があるのかと思っていたのに、公爵になって聞いてみれば、実にくだらん話だ。しかし、ここまで拗れるとどちらも折れることができない。だからこそお爺様はお前たちの婚約を生まれる前から決めていたんだろうが……」
歯切れの悪い言い方に珍しいなと思っていると、再びギロリと視線をむけられてらマリウスは背筋を正した。
「お前が言う通り、ノトーナ以上の令嬢はいない上に、令嬢を王子妃にされても困るからな」
やはりそこは考えていたらしい。なかなか婚約破棄をしなかったのもその辺りにも事情があるのかもしれないと思っていたが、それに加えておそらく先ほどのノトーナとの関係が拗れた理由を知ったことも関連するのだろうと推測する。婚約を破棄するのが正解かどうか公爵自身もわからなくなり、手をもてあましていたのだろう。
マリウスにとっては非常に幸運なことだ。
「だが、婚約を破棄しなかったとて、あっちの家が婚姻を認めるかは別問題だぞ」
プレザインとノトーナの関係が拗れてしまっている事実は変わらない。プレザインに嫁がせるのは当然嫌だと言われることもあるだろう。
「そこは私が頑張ります」
「頑張りはいらん。成果を出せ。あと成績は落とすなよ」
「はい。では、父上さっそくですが夜会を開きたいので招待状をノトーナ家に出して頂けませんか。日程は彼女の成人の誕生日にしたいので、決め打ちで」
「……、お前、少し学園に行って性格が変わったな」
そんな感想を漏らした父親にマリウスは少しだけ笑った。
***
次の日学園に戻って来たマリウスはいつものように隣に立つヤナギに忠告をする。
「父上には許可をもらったんだから、邪魔するな」
「お聞きしています」
ヤナギは冷たくそう返してきたが、後を追ってこようとするので、近くにいたルーカスに声をかける。
「殿下、ヤナギをお願いします」
「はいはい。ってか、ついに王子すら使うようになったね、マリウス」
笑いながら言ったルーカスに、マリウスが笑う。
「なりふり構っていられないので」
本人にはどうしても自分から渡したくて、マリウスは彼女が渡り廊下に現れるだろうタイミングを見て、渡り廊下に向かった。
ぼんやりと佇む彼女はいつもと違う様子で、明らかに気分が沈んでいることが伺える。何が起きたのか、どうしたのか、話を聞きたいが、今のこの距離とこの関係ではどうにもできない。
マリウスはできるだけ彼女が気づくように正面に位置する場所に立ち止まった。
赤々と燃えるような髪さえ、今日はどことなく下火になっているように見える。元気のない様子の彼女を慰めることもできない今の立ち位置がとても悔しいが、先に進まなければ何もないのだ。
マリウスの姿に気づいたらしい彼女と目があった。
マリウスは用意していた招待状を制服のポケットから取り出した。渡り廊下と渡り廊下の間は手渡しできる距離ではないため、普通の渡し方はできない。
頼むから届いてくれよ。
そう思いながら、マリウスは飛ぶように重しをつけた招待状を彼女に向かって投げた。招待状は、マリウスの予測通りの弧を描き、彼女の元へと飛んでいく。
なんとか届きそうだと思い安心したところで、彼女の手により叩かれた。
彼女らしい行動に思わずマリウスは笑ってしまう。変なものが飛んできたら当然そうするだろうと。
あまり長居することもできないため、マリウスは一言だけ口にしてその場を去った。
「来いよ」
こう言う言い方をしたのは彼女はこの方が食いつくような気がしたからだが、心の中では祈るような気持ちだった。
来てくれなければ、先に進めないから。
ちなみに招待状を投げた話をしたらルーカスが大爆笑をしていた。人間らしからぬ美しい顔が爆笑している様子に、周りの方が驚いていた。
***
夜会当日は、流石のマリウスもとても緊張していた。過去夜会で緊張したことなど、国王陛下に挨拶したときぐらいである。
承諾の返事は来ていたものの、本当に来るかどうかは姿を見なければ安心できなかった。
なんせあれ以来彼女はほとんど渡り廊下に立ち止まることがなくなってしまったから。
マリウスが婚約者だとわかり、興味がなくなった可能性もある。または自分が彼女の好みではなかった可能性もあるだろう。様々な悪い考えが頭の中を巡る。
そんな風に緊張しながら待っていたが、彼女は時間通りにやって来た。同じく赤髪の兄を伴って現れたノトーナ家の令嬢の姿に、会場の誰もが静かに驚きの様子を見せている。
プレザインとノトーナの関係性を知っていれば誰もが驚く事態である。
今日はいつもの制服ではなく白と紺色を基調とした華やかなドレスだ。遠目でみてもよく似合っていて、マリウスはとても満足していた。
なんせ、自分が彼女に贈ったのだから。
「ようこそお越しくださいました」
彼女の兄はすでに王宮で働いている財務官でもある。形式的な挨拶を交わし、なんとか彼女と二人で話せることになる。ちなみに、離れる際に彼女の兄にはものすごく睨まれていた。
二人で歩き始めたものの、彼女の表情も固く緊張したような面持ちだ。
「どうしたんだ、そんな警戒した顔で」
そう話かけるとメメリアは声をなんとか抑えながらも、強く訴えて来た。
「……、あなたは知ってたの⁉︎」
メメリアの問いに、マリウスは眉を寄せる。
「何を?」
「私が婚約者だって、わかってたの⁉︎私ずっと探してたのに、なんでもっと早く教えてくれないの⁉︎」
最初から知っていたわけではない。彼女の方がよほど長い時間探してくれていたのだ。しかし、そう言ったところで、知っていたのにすぐに言わなかったという事実はあまり変わらない。
「婚約者がずっと自分を探してるなんて、悪い気はしないだろ?」
「なっ!」
本当によく探し続けてくれたと思う。彼女が諦めてしまえば、こんな風にマリウスが彼女を夜会に誘うこともなかっただろう。
そして、ルーカスがマリウスの婚約者への態度を気にしていなければ、指摘していなければ、マリウスはずっと気づくことなかったかもしれないのだ。
こんなにも熱量を向けてくれる婚約者に。
「せっかくのデビュタントだ。踊ろう」
そう言って、彼女の手を取る。こんな風に簡単に手を取ることができる距離にいられることに、マリウスは幸せを感じた。
もう欄干の向こう側の彼女を見つめる必要はないのだ。
近づけることが嬉しくて、彼女をつい引き寄せてしまうが、その度に恥ずかしそうに赤くなるメメリアが可愛すぎて、つい揶揄ってしまう。
「す、少し近すぎます」
「ようやく触れられるのに離れてどうするんだ」
こうして赤くなっているのも、自分のせいなのだと思うと嬉しくて仕方ない。話ができること、触れられることに喜びを感じて、マリウスは彼女の最初のダンスの相手を楽しんだ。
しかし彼女と踊っている間中、つき刺さるような視線を向けてくる彼女の兄の存在には、どうにも今後の試練を感じざるを得なかった。
終
◾️おまけ
(もう少し親しくなった後?)
「マリウス様は二年以上私を見てたわけじゃなかったのね。よかった。どんな失態してるかわからないもの」
「婚約者と言う存在すら忘れていたからな」
「ひどくない?って言いたいところだけど、婚約破棄が前提って言われてたらしょうがない気もする……」
「すまない」
「でも、半年間は気づいて見てたってことでしょ?」
知らないうちに見られていたこと自体はやはり恥ずかしいようで、赤くなるメメリアをマリウスは単純に可愛いなと思う。
「エンダルクの令息には聞かなかったのか?」
「ユールのこと?」
「エンダルクの令息は俺のことを知っていただろう?」
「あー……、実は入学前に教えてくれようとしたんだけど、学園に行けばわかると思って、教えてくれなくていい!って私の方から言っちゃったの。だから、学園に入った後に全然わからなくても聞くのはちょっと悔しくて……」
「なるほど」
メメリアらしくてマリウスは笑った。彼女を見ていると胸の辺りが暖かくなり、今まで感じたことのない気持ちになる。
思わず隣にいた彼女を引き寄せると、腕の中でメメリアがびくりと跳ねた。
「あ、あの、近いです」
「抱き寄せたからな」
最近気づいたが、恥ずかしくなるとメメリアは敬語になるようだ。
「いや、そういうことじゃなくて」
「嫌か?」
「い、嫌じゃないですけど。でも、マリウス様、最初から少し近すぎると思います!他の人にもそうなんですか⁉︎」
そんな風に言われてマリウスは眉を寄せる。
「君以外抱き寄せたいと思ったことがない」
そう答えると腕の中でメメリアが真っ赤になって両手で顔を隠していた。
「なんか想像していたのと違うんですが」
ぼそりとそう言ったメメリアの言葉に、マリウスがすぐさま反応して、メメリアの手を取る。
「一体どんな婚約者を想像してたのか、聞いてみたい。どんな男がよかったんだ?」
「え!そんな意味で言ったんじゃ!」
「一つずつ聞いて行こうか」
少し意地悪な顔をしたマリウスに、メメリアは逃げられないことを感じ取った。
おしまい
マリウスはこんな感じでした。
メメリアと一緒にいることができて楽しそうなマリウスが好きです。ちなみに招待状渡してからは、めっちゃ贈り物もしてると思います。
「王子殿下は、婚約者候補を餌で釣る。」
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ルーカス視点のお話をアップしました。