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虚人らのロンド 2





 道。


 と、呼べなくもないか。とにかく洞窟を抜け出して。オズらは道を急いでいた。

 怪物が崩れ、洞窟が崩壊するときは死ぬところだったが、生きていた。

 オズは気絶した親戚の男を抱えて、先頭を歩いている。次に夫婦の夫がならび、妻がその後ろにローマンと並んで子供を護る位置にいる。

 全員恰好はぼろぼろであった。さすがに、親戚の男を連れだすときはひともんちゃくあったが、予想外の闖入者でそれは収束した。

 その当人は、列の一番後ろを歩いている。森歩きには適さない格好だが、難なくついてきた。

 あのとき、騒ぎのどさくさに紛れ、わめいていた親戚の男を気絶させ、(というより、生死の結果を問わず締め落とした。生きている可能性を考えて連れ出したが、死んだかもしれない。ぐったりとして重たかった)背負おうとしたとき、錯乱した夫婦の、その夫の側がふざけるな、見ろ、子供が刺されたといい、頬からちょっと切ったくらいの血を流して大泣きしている子供を示した。

 口実にして殺したがっているのだろう。手を焼いていると、

「そんなことより逃げないと死ぬわよ? 生きてこそだと思うんだけどな」

 と、外套を着た女が言った。アキホだった。

 頭を割られたはずだが、傷がない。血が流れた跡すらない。

「テメエ――」

 オズは食ってかかろうとしたが、ローマンが止めた。

「グランスが足止めしている。あれがなんだかわからんが、急ぐんだよ」

 と、やや急かした口調で言った。人は危難におちいったとき、真価がわかることがあるとかなんとか、昔から何人かが言い残している。ローマンには危機に対するへんな度胸が備わっているようだった。

 そういうものだ。人生で役に立つかどうかわからないもの。それは本当に役に立たない。発揮する場もなく死んでしまうからだ。

 万回に一のためしの偶然と言うものがある。そこで、人はそれがわかる。とにかく、内心混乱していたオズは、場の主導をローマンに任せた。

 アキホの出現、というか蘇生? に、あんぐりなっている夫を押しやり、一気に全員担いで、崩れる洞窟を森へ抜け出した。

 これも、万に一つの例だろう。しかし、あのまま怪物に囲まれれば、万に一つも死んでいる。

 つまるところ、奇跡なのだ、あれは。

「やっぱりその篭手、具足だっけ? 法術葬装なのね」

 抜け出して、すさまじい音からも、それと同じくらいの速度で、跳んで遠ざかる。それから、アキホが言った。

「法術"倶"な」

 オズは言い直した。そして、さっさと歩いた。ローマンは口を挟む気配がない。まあいいか。

「倶というのは両方を兼ね備えるという意味だったかしらね、まあだいたいだけれど」

「俺が西の国と付き合いのある国の生まれってのは嘘だ。西の国の人間だ。向こうじゃ、怪物の脅威は少ない。未踏破領域に接する恐越公と呼ばれる領主が、怪物たちを踏破して、今も連中の棲む界域に領地を構えている」

 オズは話した。話しながら。これはおそらく話を引きださせる、そういう法術だと思った。大陸に法術を道具無しで使える人間など残っていない。そう言われている。

 してみると、この女は大陸の外から来たのだろう。

 眉唾ものの伝承だ。巨人達はかつて、大陸に生存することに見切りをつけて、失われた外洋航海術を使い海を渡ったとされる。

 巨人達が渡った先には人間がいて、その人間たちが、巨人から「魔法や魔術と呼ばれたもの」、併せて『法術』をいかにしてか、受け継いだという。

「あんたは大陸の外から来たのか?」

「おや、察しがいい」

「よしてくれ」

 オズは冷ややかに言った。

「その割には大陸の内情に詳しいみたいだが」

 アキホは気にせずに、瞳を瞬いた。

「それは企業秘密かな。ちなみに、今あなたとぺらぺら話が出来ているのは、そういう術を使って、直接情報を言わせているのよ」

「迷惑な話だぜ。いや、本当にな」

 すると、ローマンもなにか言うかと思ったが、一言も言わない。

 しかし、内面では同意しているとみて、オズは歩き続けた。

 辺りはすでに地獄のようだ。歩くだけで、ぽたぽたと汗が滑り落ちている。

 夫婦の子供が水を欲しがった。ローマンが自分の水筒を分けてやった。しかし、あたりを包む熱気は異常だ。こんな乾いた熱気は未踏破領域で仕事をしていた時以来だ。

 未踏破領域。

 平たく言えば、天の庭と追放者の楽園の境目である。

 前に述べたように、人間の脚では越えられない山や谷といった、自然の境界がある。

 このあたりの、追放者の楽園側は、少しばかり広がっている。国土としてみたらほんのわずかで、地図上であらわしたなら、それは細長いミミズほどのものが、延々と這っているに過ぎない。が、あるのだ。未踏破領域と言う場合、自然の要害のほかに、この細長いわずかな幅の部分をも含めて、そう呼ぶ。

 呼ばれる理由としては、自然の要害のほかになく、次にこの未踏破領域に当たる部分は、砂漠と岩肌で出来ており、一個の日陰もない。起伏がないのだ。そこを強烈な日差しが朝昼夕を照らし、陽が沈めば気温が異様なほどに下がる。朝まで日差しの温度を保温するようなものがひとつもないらしい。

 人が棲む環境ではない。次に怪物である。

 怪物は、人の群れるところに自分からは近寄らない性質をもっている。本来であれば。さきほどのあれはなにかと聞かれれば、それを変えるなにかがあったとしか、答えられない。魔法や魔術と呼ばれる何かだろうか。あるいは匂いや音といった単純な要素かもしれず、怪物はもちろん、その生態が探りようのない生態をしている。

 なんでもいい。

 とにかく、その理屈で行くと未踏破領域は追放者の楽園のなかで、人の棲める場所から、地理的にも、環境的にも、もっとも離れている。

 余談だが、追放者の楽園にも砂漠は存在する。しかし、未踏破領域の砂漠ほど過酷な場所は残念ながらなく、それから決定的な違いがひとつある。未踏破領域の砂漠や岩肌でできた地域というのは、そのいずれも蟲一匹棲まない。

 人域の限界。某曰く台地より巨大な、人の手を以て討たれることが永久にない真なる怪物領域種。

 などと、いろいろに言われてはいる。

 しかし、そこの情景を語り継ぐものがあるというのは、見てきた者もあるということである。結局のところ。

 それが見て、のちに、多くの人の目で語られるのが、怪物領域種と、あだ名されるそのままを示すような怪物の姿である。

 稀に見られる、超大型(大型よりもさらに大きい、と明らかに認められる個体につけられる。これ以上はない、あくまで大きさとしてはだが)をゆうに超す身体を持ち、未踏破領域を堂々と闊歩する、文字通り小山と同じ身体をしたものである。

 また、これは大きいものばかりとは限らない。ただ巨大な物のほうが、越えられない、人類の壁であると、見る者には認識させたようだ。

 また、強力である。

 城塞よりも堅固で、山よりも不可能である。

 残されている文献にはそう書かれている。とにかく、生還した者はあれど、まあ、生還したものがあることが一筋、これに怖いもの見たさなどで近づくもののいる言い訳などとなっている。オズとしては文献を残したものを呪ってやりたい気分に駆られるが、実際この文献はそういう呪いの書ではないかとも口伝されている。

 実際に怪物に接したものとしては、これを本気で信じている。焚書のような行為も事業として進めている。この文献が、著者が不明で、悪意をもってばらまかれた可能性が濃厚だからだ。後世に残す価値のないものと判断した。

 しかし、恐越公による、未踏破領域の踏破、怪物の打倒が、この文献に似た効果を発揮しているのは、自覚もしている。ゆえに、未踏破領域に恐越公の認を以て立ち入った者は、その話を一言一句外に漏らしてはならないと言われる。

 好奇心で死ぬものがいるのはいい。だがかつてのように、野望を抱くのは困るのだ。未踏破領域を打倒しようとして、大軍を率いて行った某王。それがいた。だから危惧をしている。

「情報を外に漏らす奴は、命を以て償うのが掟だよ。もちろん、守るやつばっかじゃないから、未踏破領域に送り込まれる前に、あらかじめ事前の教育を受ける。この中に受講者自身の拷問も入っている」

「それは済まないことをしたわね」

「ふん、俺はもうそれからは外されている。未踏破領域での戦闘で、あんまりに過酷過ぎたんで、人格に障害が出たってんで、引退させられた。何だったか、ひとつの身体で、二人が入れ替わりに違うことを言い立てるんだったか。とにかく、仕事の遂行には支障が出るって言うんで外されたんだ。でも今回の一件で今あんたにそれをばらしているから、刺客は来るだろうな」

 そこらへんの保証はしてくれるんだろうな、と、オズは一応言ってみた。アキホはさあね、と肯定とも否定ともつかない返事をした。オズは期待しないことにした。最初からしていないが。

 そんなオズが面白かったのか、アキホは初めてオズ自身に一片の興味があるような目を向けた。気まぐれを精巧な絵に仕上げたような目だ。オズはうんざりした。

 ここまで信用のできない目と言うのは、見るのが初めてだった。アキホは言う。

「まあ、精神がひどいことになったりしちゃっている人には縁がないわけではないから、そうね、刺客に襲われてもそれがどんな刺客でも、今後一切、幸運があなたに味方するようにはしておこうかな。恐怖と苦痛とかもろもろはそのままだけれど、結局は後遺症も残らず五体満足で生きられるみたいな」

 それは死んだ方がマシだというのだろう。

 まあいい。死んだ方がマシな目にはそれなりに遭っている。

 ともかく、恐越公。

 未踏破領域の隣に国を構える領主。

 この某はやってのけた。未踏破領域の、決して倒す事が出来ないと言われる怪物の打倒を。

 そして、それだけではなく、未踏破領域の一部に領を設けさせ、ここを碑として、自身が住まった。

 数人の身辺を世話する者らとともに。この者達は、すでに精神的にはおかしくなっているものばかりで、住むことに疑問は感じていない。

 それで時たま襲ってくる未踏破領域の怪物、だけでなく、国境付近を掠めるように移動するものが見受けられたとしたら、それも領土を侵したとして、追討する。打倒する。

 恐越公にはそれができた。なぜできたかは秘されている。

 追放者の楽園の中では見られないほど強力で、特別な法術"倶"(以下特別には表記しない。一般な単語として扱う)をして、やった。もちろん、追放者の楽園の中にそんな、強力な、特に怪物などと戦う力を持った法術倶など存在しない。存在しないと思われている。しかし、戦う力を持つ法術倶の存在は知られている。それはあくまで、人として人に振るえば強力と言った程度のものだが。

 また、この認識は、いわゆる『大陸』の中では、とても差がある。意図的に伏せられた情報が、ちょこちょこと伝わった証拠だろう。実際、意図的に伏せられている。とくに東の地域の国々では、この法術倶に関する扱いは、伝説や伝承と言った域でしか存在していない。実物もない。

 とはいえ、オズのような輩のせいで、一部の冒険者には、情報が共有されている。金と力はいつの世も、人を惹きつけるものでもある。特に冒険者のような、身ひとつでさすらうことや、その日暮らしを自分からやったり、望ますそういう暮らしになったりしているものについては。

「私はね、事故で体を失ったの。今の私は幽霊みたいなものでね。もう一度体が欲しいんだけれど、とある事情から元いた「向こう」には帰れない身の上でね。どちらにしろ、向こうにはその方法がなかったから、もう、未練もないのだけれど」

 アキホは軽く言った。オズは、とくに興味も湧かなかったが、そうかいと返しておいた。ローマンが苦い顔をしている。

 熱気や衝突する音がようやく薄まってきた気がする。まるで、嵐に遭っているようだ。しかし、耳を凝らすと、どうも気のせいであったように思う。

 グランスのことは気になったが、それは置いておくとして。

 変な女に絡まれながら、オズはちらりと後ろを振り返った。それ自体は意味のないことだったが。

 どうも、気配が変わったように思う。

 同時に危機もオズらの身辺からは去りつつあるようだ。

 とにもかくにも、やることはないが、グランスの身辺は気になった。

 あの嵐の向こうで何をしている?

 それは自分が踏みこめないものか。

 アキホが視界の隅で言った。

「天の庭にはとても期待しているわ。というよりか、科学にか。まあ、実は言うほどでもないのだけれど、どういうものかはぼんやりわかっているのだし。とにかく、天の庭の中に入るのに、転生者である彼女の力がどうしても借りたいのよね」






 一方、地獄。


 いや、地獄ではなく、あくまでここはこの世だ。

 しかし地獄のようにはなっていた。

 グランスは霞んでくる視界の中で、ぶるぶると、自分の手を上げた。

 いやあ、情けない。

 力が入らない。

 白く輝いていた炎のような腕は、その白さが収まって、元の指抜きグローブをはめた、人間の腕になっていた。それがうっすらとまだ炎に包まれていて、ほんのわずかに、力が残っていることを示している。

 こうなっては姿も同じようなものだろう。

 目の前で、一度溶岩に変わった岩盤が、めちゃめちゃに冷えて固まっている。

 ガラス質もむきだしになった、その鉱石のような少し突き出たところに、指を掛けている。

 熱さは感じない。むしろ、熱さを感じていたら、この力が振るえていない証拠だろう。炎になる時のグランスは、一切の熱さ、冷たさの感覚を失い、同時に凄まじい高揚感に身体を支配される。

 快感にも苦痛にも似ている。この感覚をグランスはとくになんとも思っていない。思っていては、怪物になれないからだ。自然に慣れさせられた、といえる。

 あの男。父親と呼んだあの男。

 文字通り、身体じゅうが人形となったあとで引き取られた、身寄りのない痩せっぽちの少女いっぴきの親となった、変わり者で物好きの男。

 その男の下で、グランスは育った。

 スミス、それからオルグといったこの男も。

 そのオルグは、手前百メートルほど離れた所で、焦熱したガラス質に手をついている。

 両足で立っていられない。それほどには消耗している。消耗させてやったという自覚もある。

 黒いもやのような身体は、元の身体に立ち返り、黒いもやになりを繰り返しており、まるでノイズのように光景の中で明滅している。

 二人は地獄の中にいた。地獄を作り出したのはほぼ二人である。怪物の手も加わっていた。その怪物は、すでに三体とも原型がわからないかたちで、動かなくなっている。

 頭を吹き飛ばそうが、全身が高熱に融けようが動く怪物が、完膚なきまでに停止している。あれでようやく死んだといえるのだろう。

 死んだというのは生きていたものの使う言葉だ。

 脳裏にじりじりと火傷のような痛みが走った。というか、身体のどこかがまだ痛みを感じるほどデリケートだったのだろう。

 空が青いのは、吹きとばした雲が、どこかにいったためのようだ。

 日差しはじりじりと暑い。

 まだそんな季節でもないが、日差しと、地上とを遮る空気が蒸発した影響だろう。

 地上何メートルかまではわからないが、確実に今、この一帯では人間は呼吸する事が出来ない。

 温度も窯の中のようだろう。

 その中で向かい合っているのは、やはり人間ではない証拠……しかし、人間である。

 人間の業は、言葉である。

 いざ命の取り合いのなかで向かい合った時、殺し合いのとき、憎しみが高じて発するのは獣のような呻きではなく、言葉である。その声が耐えがたい響きを伴っている場合はある。

 人間の生涯で、そんな言葉を聞く機会など今はともかく、そうそうないことだ。オルグは咳き込んでから、地獄の底から呟くように、声を漏らした。

「シット……シュツルゥ……!!」

 グランスはくっくっと、笑った。オルグの必死な姿をせせら笑ったのだ。意地悪く言う。

「喋るのにも、エネルギー遣うんだから、黙ってればいいのに」

 言いつつ、自分も肺を制御しながら少々特殊な方法で、わざわざ答えている。

 まったく、人間というやつは、業が深い。

 オルグは言った。この特殊な喋り方に慣れたらしい。

 空気の無い場所では、音は伝わらない。まず、この音を伝えるために、端的にいってざっとまず、話すだけの空気を作ってしまう。それが、指向性を与えることで、相手に届く。

 第二に肺を焼く。喉が焼ける、くらいかもとも思うが、この凄まじい蒸気でゆらめく中なら、吸い込むだけで口の内部がたちどころに焼けるだろう。

 これを防ぐために、口を透明な防膜で覆ってしまう。

 つまるところ、相手に言葉を明瞭に聞こえるようにするには、そのたびに防膜を押し広げて、身体全体をすっぽり包み込む。そして、蒸気の中に風穴を開けるように、相手に向けてパイプを通してやる。

 喋るたびにいちいちこの作業をしているのだ。

 黙って殴り合うのが、まだしもいさぎよい。

(もっともそれができれば一番いい)

 想定した以上の疲労が身体にのしかかるようになっている。重い。手足が身体から切り離されて、繋がっている実感がまるでないようだ。

(もうそれもできなくなったってこと……)

 正直、この場から動けないまま、生命維持に努めている。そういった現状だ。相手はどうだか知らないが。

 あれが演技だったらどうだろう? 実はまだ動けるかもしれない。それなら、今はまだ動く手足に残りのエネルギーをこめて、殺しにかかってしまうべきではないか。なーんて。

 そんなわけがないのは、よく知っている。いや、状況が示しているというだけだが。今のオルグは疲れ切った獣かなにかのように、怠い手足を震わせ、手近な岩やなんかにすがりつくだけの、ざまを見ろと言ったところだ。それはそのままグランスにも当てはまる。

 グランス……。

「……【LITTLE・GOOD・BYE】……」

 グランスが言った。オルグは、吼えた。

「その名前で俺を呼ぶんじゃねえ」

「なら、オルグ」

 オルグは、さらに檄して、それを睨みつけた。おお、怒る、怒る。

「俺の名前を、口にするんじゃねえ」

 グランスは、面倒くさくなり、ああ、はいはい、と、ひとつ大きく咽ながら言った。喋り方を間違えて、うっかり蒸気を少し吸ったのだ。

 もっとも喋れないというだけで、火傷にもならないのだが。

「まったく、面倒くさいことね、はいはい、じゃあ、アンタ。アンタよ、アンタ」

「いつもの、妙な喋り方をしないのかよ」

 オルグは言ってきた。

「あの男だか女だかわからない、ふざけた――」

 グランスは、相手にせず、もできず、空いた片手で、がしがしと頭をかいた。汗が乾ききっている。砂漠のようだ。

 天の庭と追放者の楽園のあいだに横たわる未踏破領域、あそこも、岩と砂だけの世界だと言う。

 死んだ世界。営みが消え果ている。

 グランスは言った。

「当然でしょう」

 憮然として、言う。片手を重たく振って。

「まったく、あれはねえ、この私にとっての平和の象徴だったのよ」

 少し喋りすぎた。

 疲れた。帰って眠りたい。

「あんたや、あのクソ親父と暮らした天の庭の日々と言うのは、私にとって地獄だった。いや、あそこ自体思い出したくもない場所よ。無理もないでしょう。だから、こうやって遠く離れて辺境なんかを根無し草で歩いているあいだは、私は何者でもない。名前を持たない空白であり、グランスだったわけよ。もっとも、それも仮の名前には変わりない」

 やれやれと心底うんざりして、続ける。

「でもこうして力を振るっているときに比べたら、だいぶマシよ。天と地との開きがあると言っていいわね。この名前を取り戻した私は別の私。名乗る私は別の人間。グランス・シットシュツルゥとは関係ない。この世になんの足場もない惨めな人間でいるより、そのほうがだいぶだいぶマシよ」

 グランスは、そう言ってから、びっとオルグを指さした。

 関係ないようで、話を本筋に戻して、続ける。

「それを……アンタよ、アンタ! なんだかだと言って、私をつけ狙ってるとスミスからは聞いていたけれど、その話を聞いたときも同じことを思ったわ、そして腹が立った。アンタはどういう了見で私を狙ってんだ。おかしいじゃない、普通に考えてよお!」

 グランスは、よほど据えかねるらしく、少なくともそれを表すために脇の岩だったものを、だんと叩いた。岩はもはやびくともしない。気がつくと、腕の炎はいよいよ薄れかかっている。

 完璧に復元したら、ずたずたのぼろぼろになっている、手足の義手義足も、元の通りになるはずだった。口喧嘩などしている場合ではなく、そうなったら、この場で死ぬのではないか、あっさりと。

「狙われる理由も恨まれる理由も、私にはないのよ! あの親父ならともかくね、分かる? 筋違いで追い回されて、ようやく手に入れたちょうどよさげな場所を追われるのが、あんたに」

 グランスは、いつになく歯を軋らせた。

「割りにあわないつってんのよ、泣き虫オルグ・リートワ。だいたいあの親父から逃げたのも、お互い関わらないで暮らすってのも、話して、そして、決めたでしょうが。アンタも同意したわよね。それも忘れたように」

 グランスはイライラと続けた。オルグは、睨むようなすごみのある目のまま、じっと肩を揺らしている。呼吸しているのだが、整う様子はない。虫の息といったところだ。

「追って来て、なんのつもりかしらないけれど、迷惑だっつってんの。昔のことを持ち出すんなら、アンタがどれだけ私に懐いてたか、私がアンタを助けてやったか、持ち出してやってもいいけどね。胸糞悪いけど!」

「それだよ」

「あ? なにが」

「それだっつってんだ、シットシュツルゥ。テメエはなにかと世話焼きで、人に好かれて、ろくでもない過去の話なんかおくびにも出さない気性さ。いいやつってやつだ。だが、それがそうなんだよ」

 オルグは笑った。嗤ったと言ったほうが正しい。

 グランスはなにか寒気のようなものを覚えた。

 おかしい、幼少期から一緒だったが、このオルグにこんなどす黒いものを感じたことなど数度もなかった。その時見たものでさえ、こうではない。

 こうなるはずはない。

 それがはっきり分かる。

 眉をひそめて見返していると、しかし、オルグは続けてきた。低い声で笑いながら。

 それもどこか芝居じみていて、同じ寒気を感じた。

 そういえば聞いたことがある。

 人格の病気の話を。

 天の庭にいたころだったから、ちゃんとした科学にもとづいた証明の話だったはずだ。だが、こちらに来て、それではないかと思う人間は当然いたが、わかりやすい……たとえば『悪魔憑き』。蛙憑き。狐狸の類の憑き。

 そういうものには、まだお目にかかったことはなかった。

 だが、今目の前のオルグから感じるのは?

 『それ』ではないか。

 『違うもの』なのではないか、明らかに、それとわかる、違う。

「それが親父が病死したとたん、それらしく、何もかも投げ出して、きれいさっぱり名前も変えて、まるで別人になったかのようにさっぱりとして、家を出て行った。もうここにいるのはごめんだと言わんばかりに、天の庭から姿を消した」

 オルグは指をさし返してきた。

「その姿は何だ!! 認めねえ、気に喰わねえ、お前は、あの場所を、逃げ出した。それだよ、俺が許せねえのは、殺したいって思うのは。つまり! その様はなんだってことだよ、【PRE・TENDER】。そんなてめえは、てめえじゃねえんだ! だから殺してやるのさ」

「さっぱりわけがわからない」

「じゃあ、わかるまでもなく死んで行けよ。親父のところにいけ」

 ふっとグランスは微笑んだ。口の端を震わせて。ただし、この上なくいびつに歪ませて。

 昔クソ親父の講義で聞いた。笑うと言う行為は本来本来、獣が牙を剥く動作を起点として、とても攻撃的なものである。命のやり取りをしたがらないようになってから、人間はこれを別な形で用いただけで、その通り必要はない。獣が、攻撃的になるときに賭けているのは己の身一つ、命そのもので遊びはない。

 そういう単一でない、複雑なもので出来ている人間には、そういう意味では使う必要がないのだと。

「わからない、なにひとつわからないけど、こうは思ったわ。このガキ、いっぱしの口をきくようになったなって、ねえ。オルグ、オルグ・リートワ。【LITTLE・GOOD・BYE】」

 グランスは、やれやれと、ふたたびつむりを振った。

「いっちょまえの男になったつもりじゃないの、ボーヤ。お姉さんが、ベッドの相手でもしてあげようか?」

「おいおい、挑発するんじゃねえよ、シットシュツルゥ……」

 ぎぎぎ、とオルグも立ち上がる。岩に縋りついて。

「是が非でもここで殺したくなっちまうだろお?」

「オラァァァァァ!!」

 グランスは吼えて、身体を炎に包んだ。

 オルグも答えて、黒いもやで体を包む。

 思い切り殴りかかった距離は、すでに四、五○センチ。

 悪鬼の迅さで、地面を蹴って、グランスは駆けてきた。

 と。

 ぶお、と。

 風が鳴った。

「――――――――――!!!!」

 雄叫び。

 それは怪物の。

 とっさに防御を張って、拳を突きだしたままの姿勢で、しかし、一瞬ぼうとする。

 そして、ぼうとしている暇などない。

 聞こえたのは雄叫びだったが、それだけではなく、現れたのは巨体だった。

 大きい。小山のような。見覚えの――さっきまで、戦っていたのだから、当然か!

(怪物!)

 オルグも似たようなタイミングで気づいている。だがどうにもできない。反撃するだけの力は残っていない。

 あの怪物の雄叫びが、なにか、攻撃のきっかけや原因になっているのは知っていた。それを防御するだけなら、造作もないだろう。

 だが、逃げ切れるか? 無理だ。無理。無理、

 ばしゃっと、怪物の背面にあたるあたりが、なんの前触れもなく「開いた」。

 花が咲くようなものだ。グロテスクな紫色の表皮に、どこかとっかかりがあるわけでもなく、亀裂が出来、内臓でもぶちまけるように開く。実際背骨らしいものまで見えた。

 骨格があったことが驚きだ。骨格ではないのかもしれない。

 そして、一瞬でそこからばばばばと、なにかが飛び出した。

 グランスは血の気を引かせた。

 それは、さっき、怪物の戦いで見たものと同じだった。棘――

 あるいは、ミサイルというほうが早いか。

 なんでそんなものが、備わっているのかしれないが、飛び出したミサイルのようなものが、無数に辺りに着弾するまで、わずか数秒。

 数秒もないか。甘い考えだ。怪物は速い。とにかく速い。獣のようで、獣よりなお速い。

 グランスはとっさに燃え上がった。文字通り炎と化した。しかし、炎になったのは一部だけだ。それを展開する。オルグを守るのだ。自分は守れないが。

 この馬鹿者には、さんざ、虚勢を張っておいて、その実グランスより消耗がひどいことはわかっていた。

 そして、グランスよりも、オルグの能力は、防御に適していない。さっき、三体がこれをやってきたときにも、処理には苦労していたようだ。

 着弾する。目の前が真っ暗になった。真っ赤になった。真っ白になった。明滅した。

 ?

「……?」

 グランスは。

 訝しんだ。

 明滅した?

 訝しむ。

 なぜそれを自分は見届けられるのだ。

「部分開放、【PRI・MAL】」

 直前に、声が聞こえた。

 聞きなれた声だ。その声は降ってきた。頭上から。

 空からではない。

 そこにぽっかりと移動したような唐突さだ。

 いくつか可能性はある。

 空間を移動して現れた。法術のしわざである。

 もうひとつ、気配と音を消して現れた。法術でなくとも出来そうではある。しかし、怪物は移動する要塞だ。そういう細かなことにも気づく感度をもっている。

 もうひとつ、これが一番可能性が高いが、気付かなかった。オルグとの会話を考え、また怪物のことを考えれば、これだろう。油断していた。しかし、大型級とはいえ、気配と音を消して、忍び寄ると言うのは、こちらに出てくるようなものらにも出来る。

 そう、油断していた。

 油断していたのは怪物もだろう。そんなわけはないが、結果として、油断していたといえるほど失敗だった。

 現れた紫色に蠢く塊は、人の姿を時折取りながら、開いた口の部分を赤く光らせ、そこがひと際輝いたと思うと、怪物のふところにいた。グランスとは眼と鼻の先だ。

 放たれた棘はどうしたのだろうと思ったが、あたりに渦が閉じていくのが見えた。紫の渦。

 あれにすべて吸い込まれたようだ。

 そして、紫の塊は跳躍しつつ、怪物の身体を駆けあがるように打った。

 打ったところは渦が発生した。その渦に触れるか、触れないかのところで、怪物の肉体が、ぼきり、とへこむ。

 装甲などお構いなしだ。それが上から下まで打たれたところ全てで発生した。

 そして、謎の力でもって、紫色の塊は、跳んだまま見事な回し蹴りを放った。

 回し蹴り、というのかどうか、とにかく回転させた足で蹴る、格闘技の技のようなもので蹴りつけた。

 怪物は一撃目でわずかに吹き飛んで、宙に浮いたかと思うが。

 ふんばった。

 そして、瞬きをする間もない迅さで、二撃めが『発生』した。

 で、きれいに追い撃たれるように、怪物は、今度は巨大な体を、凄まじく後退させた。山が動くようなものだ。それは、見えない力でずんずん押し込まれたように、四、五〇〇メートルは吹き飛んだだろう。

 しかし、怪物は諦めなかった。倒れもしない。倒れもせずに、即座に反撃の目を光らせた。爆炎。

 あたり一帯を、一度吹きとばした蒼い爆炎の束になったのがくるとグランスは直感した。オズらを巻き込んで死体が見つからないことになっても知らないと、戦いの最中に呆然と思ったものだ。それでも戦いを続けたのだからいい根性をしている。

 要するに、それは、こういうことかもしれない。ばれた今となっては、彼らの事は荷厄介で、自分は遠く離れた場所に行きたい。

 感傷的な気分に浸る間もなかった。横からすっ飛ばされた。

 オルグだ。

 とはいえ、力が。

 残っていたわけでもない。

 すっ飛ばされないよう、踏ん張る。

 踏ん張ったのは、根性と言える。

 根性。

 なんて『非科学的』なのか!!

 うあっ!! と、獣のうめき声のようになったそれを向けながら、オルグを捕まえ押し倒す。

 手からバチバチと、ノイズが発生した。痛みだ。痒みにも似たそれは、恐ろしい危険を孕んでいる。

 最後の力を振り絞っているのか、オルグの身体に黒いもやが戻っていた。その襟首、が、存在するかもわからないが、そこをつかんで、渾身の力で殴る殴る。

 もやがバチバチと黒い火花に変わり、それはどうやら、実体へのダメージを表しているようだ。

 があっ!! と、こちらも手負いの獣さながらの、歯の剥き方で、口で拳をがっちり咥える。ぎぎぎ、と、義手の、血と肉と皮の部分になってる『ガワ』を、ねじり撚ろうとして、てこずって、出来ずに終わる。

 そっちがその気なら、とことんまでやってやる。どうにか、マウントをとった足で、両腕の動きを押さえこみ、歯茎に手を掛ける。指でほじり折ってやる。オルグの実体化している口に、みちみちと血が溢れ出た。ぐうううううううう、と、形容もできない声で。

 ずずずずずずん!! と、雑な音が聞こえた。

 そして、地響きのあとで、「なにやってんだ、お前ら!!」

 と、スミスの寄ってくる声がした。

「馬鹿野郎、やめろやめろ、オラッ離れろ!!」

 もはや、部分開放も何もない。

 ボロボロの義手義足と、口から滂沱の涙のように鮮血を溢れさす、オルグと、形容しがたい姿となった二人組によってきて、実体化した手で、どうにか引きはがす。

 離れた。

 オルグは、口から血を滴らせ、なお歯を噛みしめて睨んでいる。

 グランスはもはや痛みを感じなくなった、ボロボロの、指も砕けた義手に、血のついた歯型をぶら下げて、殺意を剥きだして見返した。

 やるなら。

 とことんまで、だ。

 ちっ。

 舌打ちして、恰好の小奇麗な男が割って入って来た。

 小奇麗と言っても、伊達といった感じだ。それも、そこらの、それこそ東の街に日中、どこから沸いたのかもしらないがいる類だ。そういうちんぴら風の男だった。

 スミス。

 スミス・ウオールトーソン。

 ちんぴら風の男である。二度も言ったのはそうとしか言いようがないからで。

 鋭い目つき、頬のとがった顔立ち。

 男は、何の変哲もない。一般的に洒落者が着る折り目のついた上下に黒い色付きの縁硝子。つまり『サングラス』。

 襟元をくつろげた黒い洒落た前留めの薄手の上着は、それなりの生地で出来ている。つまり、それほど安物でもない様子の、伊達な『ワイシャツ』。上下の『スーツ』、『スラックス』に『ジャケット』の。

 ここに、銀色の鎖の、ごく細い首飾りなどしている。ちんぴらもかくやだ。つまるところ、そんなネックレスなどして、キメている。

 実際、ちんぴらなのかもしれないが、知り合いだった。

 というわけで、グランスは見たままを言った。

「うっさい、ちんぴら」

 スミスは眉をまげた。

「なんてひでえ言われようだ。こうして三人で会うのは、久しぶりだってえのに」

「私はあんたが嫌いだし……」

 ああん? と、スミスはオッサンくさく言った。しかし、この男はグランスとそう変わらない。

「おっさんくさいセンスとか、ちんぴらみたいな服のシュミとか」

 グランスは言った。腹立ちまぎれに。

「……人が冒険者の仕事で行った先にいて、即座に察して、他人の演技して、やられる演技までしてみせるところとか、諸々嫌いだね」

 いつだかの。

 そう、つい最近だが、いつだかの。

 小麦屋かどっかで仕事をしたとき、こいつは、何か知らないが、向こうのちんぴら側の腕利きのような立場にいたらしい。

 それがあっさりと投げ飛ばされてみせた。もちろん演技だ。グランスも演技だったが。

 ちっ、と、グランスは目をとがらせて応じた。まあ、本当はそんなことはどうでもいい。

 収まらない苛立ちを、ぶつけやすいところにいたやつにぶつけただけだ。

 元より、人格のいい人間ではない。そういう女ではない。

 しかし、それがさらに悪くなっている。

 人間は、いいほうと悪いほうがある場合、悪いほうが本性で、また、しょせんどっちが本性かそういうのはいいという結論にいたる。くだらない生き物だ。

 人間すべてがくだらないわけではない。

 ただくだらない生き物だと思うのである。目の前のオルグ・リートワも同じ。

 ただし、それは永続的なものではなくて。

 ずっとそうだというのではなくて。こういうこと、殺し合いをしている、憎しみに苛まれて、殺意が高じてそうしているときに、ふとそう強く感じる。

 オルグは獣のようなうめき声を発した。

 しかし、スミスがなにかいっているあいだに立ち上がった。

「グランス、殺すからな!!」

 逃げ去る。

 ふん、と、内心で、グランスはやってみろと吠えた。

 同時に何でそんなことを言うの、と、悲しく訴えた。

 訴えたほうを、殴り倒して、やがて消してやった。ざまあみろ。

 オルグは消えた。怪物もいつの間にか、倒されている。

 オルグがいったほうを気づかわし気に見ていたスミスに背を向けて、グランスもその場を去ろうとする。果たして、この地獄のようになったところから、抜け出していけるか不安だったが、戻る。そうしなければならないと思った。だから、戻る。

「おい、どこ行くんだ」

「戻るのよ」

「戻るって、仲間のところか? 戻れんのか?」

 スミスは言った。それは、純粋な心配ではなくて、意地の悪いとも取れる質問だ。

 いわく、あの様を晒しておいて、今更待っている仲間もいるまい。第一、無事逃げられたか。

 いや、それは副次的な心配で、さっきもいったとおりオズがいる。全員逃げている。

 で、逃げているとして待っているのか。

 それは本当に逃げたのではないか? ちょうどよく、おそれをなして。

 待っている? 戻ってひょっこり面を見て、最初にされることはなんだろうか。

 責められる。殴られる。悲鳴を上げられる。罵られる。

 離れられる、というその後の結果は変わりない。

 すでに離れている。離れているかもしれない。

 逃げられたのを、「これ幸いに」!

 というようなことを、スミスは言ったのだ。

「そういうところも嫌いだ」

 スミスは頭をなでつけてむっと唇を突きだした。「そうかい」

 結局、街に戻ったのは、夜になった。

 いつもの宿に行った。

 悪いが、後始末やらはぜんぶ二人に押し付けて、自分は宿へ直行したのだ。

 あの二人なら言わずともやってくれるだろう。

 ぼこぼこに腫れた顔のオルグを思い出し、二度と遭わないように祈る。しかし、祈りと言うのは往々にして通じないものだ。

 変事があった。

 街、東の街へ戻る途中だ。

 一日で戻れる距離ではない。何よりグランスはすさまじく疲弊していた。

 しかし眠る気にもならなかった。だが、案外簡単に寝てしまった。

 気がつくと道端だった。小雨が降っていた。

 風邪を引きそうだ。

 びしょ濡れでぼろぼろの眠っている女に、なにも手を出さなかったのは奇跡に近い。そう都合のいいこともなかった。

「おはよう」

 言ったのは、アキホだった。

 あのあと、どこに行ったのかと思っていたが。もしや、オズたちは無事には逃げられなかった? 自分の見込み違いか。届かない祈りでしかなかったか。

「あ~あ。ローマンと、あのなんとかいうサムライみたいのなら、東の街に先に戻ったわよ。親戚の男は、斡旋所に対応を任せたみたい。便利ね。あの夫婦と子供にとってはとんだ災難だったけれど」

 アキホは先読みして言った。「でも、私ってばアフターケアに定評があるから、夫婦と子供だけ、こっそり行く予定だった故郷の里に戻して、村の連中にお金を渡してあとを任せちゃってたりなんかしちゃったりして」

 言う。

 グランスはふう、と息をついた。それから、腕を上げる。

 両腕をだ。掌を見る。両手を。にぎにぎと動かす。

 もちろん、動くわけもないのだが。しかし、動く。

 両足も直っている。こちらは直っていてもいなくても、あまり問題はなかった。もともと、義足である。両足がないときに歩く練習と言うのは、させられている。

 服はそのままだった。びしょ濡れの泥まみれだ。

 よくこんな状態で眠ったものである。

(ありえない)

 夢。

 もうひとつ踏みこんで考える。現実だとすると、幻覚の類である。

 幻覚を見せられている? ありそうなことだ。そこらにある木の枝を拾って、思い切り右手を突き通した。

 痛みがあり、血も出る。

 では、幻覚ではない。

 これは現実だ。

 してみると、本当に直った? それこそありえない話なのだが。

「……存外、おっかないことをするのね」

 小雨の降る中で、珍しくアキホは顔を蒼くしていた。

 びびったのだろうか。そんなタマか。しかし、演技には見えない。

 いや、演技かもしれない。演技であるとするなら目的がある。ない場合もある。

 感情がからむ問題である場合、女はそんなことをしてしまう場合がある。なんの計算もないのである。

 だが、演技をしてみせる。まあ、判別はつかない。

「そこはサービスには入れないわよ」

「……まさか、あなたが直したの」

「そう。有り得ない? そうでしょうね。ありえないことをしたんですもの。魔法よ。魔法。魔法とも魔術とも呼ばれるもの。私は魔術と呼んでいる」

 どんな、と、グランスは反射的に聞き返した。まだ呆然としている。

 血の滴る右手の甲は、ずきずきと痛んでいる。早く止血した方がいい。そこで、ふと気づいた。

 このアキホという女、血に弱いのだ。

「ありがとう」

「ん?」

 アキホは言った。止血、といっても、清潔な布などないから、破傷風の危険がある。早く医者に見せる必要がある。

「血に弱いのに、一生懸命踏ん張って、手当てか何かやってくれたんでしょう? お礼を言うの」

「ふむふむ」

 そういう考えもあるのか、という風に、アキホはあごに手を当てた。それからくるりと回転の速い頭を披露するように、にぱ、と笑ってみせた。

「なるほど、つまりあなたは私に借りが出来たってわけね」

「あ?」

 言った。

 そのときには、アキホの姿は消えていた。

 消えていた。

 気配、のようなものも、さっぱりない。

(どうも魔女じみた女ね)

 グランスは、とにかく、行きで利用した宿場に一度立ち寄った。幸いにも、常駐の物好きな医者がいた。

 これに介抱してもらい、一日くらい休んで発った。

 東の街へ帰る。

 夕刻頃だ。

 で、そういう経緯で宿に直行した。

 至る現在。

 かくして、オズとローマンはいた。

 悪いことなのかどうなのか、グランスが入って来た夕刻頃、下の酒場のスペースにいた。

 二人は、絵に描いたように驚いた。

 右手の怪我について聞いてきたので、答える。

 それから、話となった。

 グランスは、右手をだらりと下げて、左手で腫れた頬を押さえていた。

 オズに思い切り殴られたのだ。

「馬鹿野郎」

 オズは言った。

「二度とするな」

 グランスは、答えなかった。オズはもう一発殴るかというような顔をしていたが、単に興奮があったようだ。憤怒で、それほど背の高くない身体に、筋肉が盛り上がっている。目も血走っていた。

 とはいえ、自分に関して、なにをそこまで腹を立てるのかは、いまいちわからなかった。

 苦笑しつつ、ローマンが冷えた布を差し出してきた。

 よく見ると、頬に殴られたらしい青あざがある。

 おそらく、オズにやられたのではと思う。

 ここまで粗暴なことをするのは、かつてなかった。いつも笑っているような男だ。意外だった。

 しかし、今どうこうと言うと、よけい煽りたてることになりそうだった。

 というわけで、現状の整理からだ。

 というか、まず。

 金だ。

「報酬は?」

「いや」

 ローマンは言い淀んだ。オズは、黙っている。それをこっそりのぞき見る。どうも、今度は二人を殴ったことを自省しているようだ。

 ことのことに関してではない。それは、殴るべきだと思ったから殴った。

 問題になるのは、この男の信条とか、大袈裟に言うとそうなるものかなと思ったりした。性別に似合わず、グランスは難しい単語を使いたがる癖がある。悪癖だと自戒している。

 そう、『バツが悪い』くらいかな。言い直す。

 なにはともあれ、ローマンは言った。バツが悪そうに。

「……、それが、依頼人が、あの親戚の男を残して、消えていてね。煙のようにぱっと消えた。どこに行ったか分からない。俺たちとしては、あの親戚の男が嘘をついていたのに、脅しかけて、どうにか金をせびり取りたいところだけれど」

 ローマンは言った。

「それも難しそうなんだ」

 なんで? と、グランスは言って、あ、そっか、と、即座に思いついたが、口には出さなかった。

「あの夫婦の件に関わっていた組織の連中が」

 オズが言う。まだどこか憮然としていたが、少し戻ったか。言ってくる。

「夫婦がいなくなったのに怒ってる。あの夫婦、どうやら、違法薬品の持ち去りに関わっていたらしくて。もといた組織で関わった取引で、実行役をやってたらしいんだが、あの夫婦以外はみんな行方が知れない。組織が、情報が少しでも漏れるのを嫌って、口封じやら、放逐やらしたらしいんだ。で、ここで出てくるのがもう一つの組織で、夫婦のいた組織とは、対立していた。この違法薬品の情報を欲しがっている。今回のは、それで夫婦が街から逃がされるって話だった。親戚の男は、夫婦の過去を強請って、組織に参加させていた人物だけど、こいつが今回大枚で裏切ったみたいだな」

 オズはざっくりと説明した。

「そこで取引をするよう話を持ち掛けたのが」

 そこで、どこかから声が聞こえた。

 見やると、卓状の席のひとつだった。灰色の外套の女。

 いつのまにいて、そしてどうやって、そうなったのか、飲み物を飲んでいる。眠そうなので、琥珀汁かと思ったが、どうも、あの苦いのは苦手であるらしい。取っ手のついた容れ物の中の、液体は琥珀色より焼けたように小麦色になっている。

 ふう、と、飲み物の中身を吹きながら(熱いのも苦手か)、続きを口にする。

「私、と言うか。まあ、私か。組織の人間を装って接触したのだけれど、結構うまく行ってね」

 アキホは言った。

 そんなこったろうと思ったよ、という顔をしながら、ローマンが声を掛ける。

 彼女がどこから現れたかについては、すでに聞かない。いや、おそらく、魔法で、アキホに言わせれば魔術か、だがややこしいから、もう魔法で、その魔法で、気配を消してこっそり入ってきて、注文をして、そこに座っていたのだろうが。

 見ていたわけではないから、推測だ。しかし、人を驚かすのが好きな女だ。趣味か。趣味だろう。

「なんでもできるな、君は」

 言い方がとげとげしい。当たり前か。当たり前か、という顔をして「まあね」と、アキホは言った。

「でも大盤振る舞いよ。『力』が戻ったとはいえ、やることが多くて、もうほとんど残りがない感じ」

「もしかして、夫婦をどうにかしたのも君か」

 アキホは、容れ物から口を離して、うん、と、にっこりほほ笑んだ。

「あなたのカンのいいところ好きよ、ローマン。肝心なときに働かないで、余計な時に働くのも好き」

 オズが口を挟んだ。

「まだ俺たちになにか用があんのかよ」

 うんざりした様子で言う。アキホは、無視しているようだ。代わりに、グランスに声を掛ける。

「手足の調子はどうかしら? はじめて見る術式だったから、ちゃんとどうにかなったか不安だわ」

 グランスは言った。

「御心配ありがとう。お陰様で」

「あなたって、走査したときに情報が流れ込んで来たけれど、手足以外もほとんど義体? とでもいうのかしら。生身の身体じゃないのね」

 アキホは言った。

 グランスは余計なことを、と思ったが、よく考えたら怒れる身分でもない。

「まあね」

「本当なのか?」

 オズが言う。かなり驚いたのか、荒々しい様子がすこし引いている。

 グランスはちょっと考えた。表には出ない程度だが。

 しかし、今回の事には、感じることもある。

 その感じることと言うのは、こうだ。

 グランスが二人に自分のことを話していなさすぎた。

 そのせいで、巻き込まれた。

 このアキホはどうも自分が目的で目をつけられた。ローマンと会ったのも、偶然とは言えないかもしれないし偶然かもしれない。

 これは、アキホと言う女がまるで信用できないことからくる言葉だ。この女、嘘と隠し事を重ねて重ねて、疑われる事すら、駆け引きの条件につかうタイプの女だ。とても危ない。

 そしてこのアキホがどれだけ不誠実でも、それを言い訳にした者も、嘘や不義理をしていなくても不誠実となってしまう。

 むろん、グランスは誠実な人間ではない。しかし、筋は通すべきだと考えている。

 話す理由があるのである。

 とはいえ、全部を全部話すのも癪だ。グランスは大まかに言った。

「天の庭の技術でそういうのがあるのよ。身体のほとんどを身体の代わりで――義足や義手みたいなのが、全身に出来ると思ってもらえれば、まあ」

 グランスは言った。

「私は、身体のほぼ全部がそれなわけ。生身の身体と言うのは、頭髪の一部と右眼だけで、それ以外は内臓なかみまで全部生身ではないわ」

 オズも沈黙した。

 そう深刻に受け取られるのも困りものだが、ともかく話は済んだ。

「ところでこれからどうするの?」

 アキホが言った。オズは無視している。が、考え込んでいる。答えなかっただけで、それは、言葉の詰まる問題だったのだ。

 ローマンも苦い顔をしていた。といって、この男は意外に顔ほど参っているようではない。

(あんたにはあの魔女がついているもんね)

 と、口には出さず、考える。魔女、とはアキホの事だ。

 なにがどうなってああなったかは知らないが、ローマンにアキホがつきまとっているのは確かだ。

 そして、なんだかんだで死なせられない理由でもあるのだろう。

 いくら、頭が少しばかり回るとはいえ、そうでなければ、ほぼ無傷で、あの滅茶苦茶な場を抜け出してはいない。アキホがなにか補助したのだ。

 そして、そのことを本人もどう思っているかは知らないが、ローマン自身は、承知している。

 つまり、ちょっと組織に目をつけられて身がヤバくなったくらいでは、どうともならない。

 そのローマンが言う。

「街を出るしかないだろうな。あの男を尋問している時間もない。組織の情報網がどうなっているか知らないが、ここはバレているし、張られていると見ていいだろう。連中は私刑に掛けたいのと同時に、俺たちが、夫婦の居所について知っているかもしれないと考えるから、捕まったらそうなる。その果ては最悪でも指や歯かな」

「なら捕まっても問題ないような? ところで、ナイフはある。これくらいのでいいんだけれど」

 グランスは言った。ローマンはいや、と否定しながら、ナイフについては、怪訝な顔をした。

「あるけれど、どうするんだ」

「奥に親戚の男が捕まってるって言うから」

「ああ、そうだが」

「とりあえずナイフ貸して」

 グランスは言った。ローマンは、要領を得ない顔で、オズに言って、ナイフを借りてきた。

「捕まっても構わなくはないな。俺は、拷問も私刑も歯も指も嫌だよ」

「命あってのなんとやらってか。私は命があればマシ派なんだけれど、あ、私は身体が生身じゃないんだった。生身だったら嫌か、そりゃー」

「となると、街の外になんとか逃げ出すしかない。早けりゃ早いほどいい。こうしている間にも、包囲を狭められちまうよ」

 オズが言った。ローマンもさっさと準備を始めた。

 といって、用意する荷物もとっくに纏めているようだった。オズも同様だ。

「議論する余地はないんだったな。話している時間も無駄だから早速いこう」

 ぎゃああああああアガアッグが、云々、という声が、いや声だろうか? それすら疑わしいものだったが、響いた。

 オズとローマンはびくりと身を強張らせた。ちょっとの間を置いて、グランスが戻ってきた。

 わずかの間だが、オズとローマンが言葉を交わす間に、宿の奥に行ったのだ。

 血のついたナイフと、派手に血が飛んだ様子をして、ぬっと出てきた。

 ナイフの血を拭う。返す、と、オズに言って手渡した。

「何を?」

「時間がないって言うから、手早く報酬の件について承知させたんだけど。自分で持ってたぶんの金を出させたわ。あと、金品を置いてある場所も吐いてもらった」

 ローマンが頭を抱える仕草をした。

「だからって、自分でやることは」

 そのとき、ばん、と扉が開いた。

 宿の扉だ。

「オズ・ムアルトワ! 聞いたわよ、組織に手を出したんですってね! 街を出る前にさっさと決着をつけるわよ」

 入って来たのは、女だった。身構えたグランスや、ローマンが警戒を解く中、オズが頬を掻いている。

「バーミィか。悪いけど取り込み中なんで、帰ってくれるか?」

「ふん、そんなことを言っても誤魔化されない。この街は危ない話ほど早く知れるからね」

 女は胸を張って言った。まったくなにをしに来たのかわからない。

 バーミィとかなんとか、呼んだか。アキホは知らない顔のようだった。グランスも知らない。しかし、ローマンは顔ぐらいは知っているようだった。

「どちら様?」

 なので、グランスはローマンに聞いた。ローマンは、苦笑気味に――なりきれず、中途半端な顔になっている。グランスの行動がややびくついたのだろう。

 ローマンは言った。

「冒険者だよ。バーミィ、バーナジ・リムルウィッチ。腕利きの有名人」

「私は勝ち逃げは許さないわ。なんたって、大陸で十本、いえ、五本の指には入るだろう槍の名手であるこの私を差し置いて、あなた、何度も出し抜いているもの。さあ、剣を抜きなさい、さあ抜きなさい」

 言いながら、バーミィは抜く手も見せず、手槍を構えた。

 手槍は一本だけだったが、背中にもう一本ある。通常、これは一本で使うものである。それを背にしたまま戦おうと言うのは珍しいやり方だ。

 バーナジ・リムルウィッチ。

 金色の髪をくすんだ色に染めた女である。宿のつたない灯りの下では陰っているが、太い眉、精悍な顎、鎧を押し上げる豊かな乳房と、女性らしい体つきが見えてなければ、凛々しい美青年にも見えなくもない。

 構えには一分の隙も無い。とりあえず、グランスはローマンに質問しようと口を開いた、ところでぎゃっと悲鳴を聞いた。

 見やると、目を離した一瞬で、女が倒れている。誰がやったのか、まさかオズかと思ったが、オズは動いていない。驚いている。

「提案があるんだけどね」

 アキホが言った。

 それでなんとなく察したのだが、やったのはアキホのようだ。それにしても、どんどん怪しい術を使うのに、ためらいが無くなっていく。

 完膚なきまでに昏倒させられた女を見て、グランスは何と言っていいやら、とにかく、ローマンに話を振った。

「大陸で十本、いや五本に入るって言うのは?」

「西の国の御前試合のことを言っているそうだ。何年か前に大陸の腕利きを集めて、一番は誰かと言うのをやったらしいが、彼女はその出場者で、いいところまで行ったんだとか」

 グランスは同情的な目をした。

「まあ、大陸で云々は、誇張でしょうけど」

「いや、西の国で正統騎士団領が中心になって、合議して開かれたものだから、信ぴょう性は高いらしい。その大会で優勝したのが、今の正統騎士団領で最強を誇る"護廷の騎士"と呼ばれる人物で、騎士団領の最精鋭の護盾隊の現隊長だとか」

 グランスは、あまり興味なくふうんと頷いた。それから、話を戻す。

「提案てなに?」

 ローマンが、横から布を差し出した。

「とりあえず、血を拭いてくれ」

 グランスは言われた通りに、布を受け取って血を拭った。しかし、ハーフコートにも――失礼、外套にも血は飛んでしまっている。ごまかしようはないが、気分だけでもか。

「それで、提案とは?」

 グランスは言った。アキホは頷いた。きらきらとした目で言う。何が。意味はないのだろうが。

「西の国へ行きましょう」

 西の国。

 端的に言うと、東の国と西の国に分けた大陸の、もう片方である。

 西、東というのは俗説的な分け方だ。しかし、俗説的というのは、話として手っ取り早いということでもある。

「はあ?」

 オズが声を上げた。

「駄目だ。西の国なんか行ってどうする」

「あなたには何も聞いてないんだけど」

「どこまでも嫌な女だが、俺あ引き下がらねえぞ。ほとぼりを冷ますなら東の国の山奥にでもにげこみゃいい話だ」

 アキホは頑として耳をほじってふっと吹いた。

「それで何? 山賊か盗賊にでもなる? 異種族の奴隷がいいかしら」

「なんで話が穏やかじゃないほうに行くんだ。そこらの農村に身を隠せばいいって言ってんだよ」

 それでも一応相手はして、オズに言っている。オズはそれでも強く反発したが。

 グランスにしてみれば。

 そういう議論をしている今のシークエンスが無駄である。気は進まないが、ここは一撃オズを眠らせるべきだろう。

 オズが言った。

「だいたい、組織の連中だって、それほどのことをしたわけじゃねえってのはわかってるんだから冷めるのは早いさ、頭が醒めれば俺たちなんざ虫けらだ、眼中になくなるって。そりゃしばらくはこの街には入れもしないだろうが」

「しばらくってもんじゃないでしょ。ま、貧乏人ほど暇なしってね。新天地を見つけにゃあならんわけじゃなりますまいか、ミスター・ブシドー」

「ふざけてんのか!」

 ばんと、ついにオズが卓を叩いた。グランスを殴る前にローマンを殴っていたオズである。

 どうも、二重人格の気があるらしい。こういう男は、切れると見境がない。おそらくアキホは殴られるだろう。

「まあちょっと待ってよ。時間がないんでしょう。話は道すがらでもいいんじゃ?」

「その前に逃走ルートをどっちにするかって。ちなみに、西の国に逃げるって言うんなら、明朝の密航船で密航させてあげられるわよ。なにせ、手筈は整っているから。そのために外に出ていたんだけれど」

「また勝手なことを」

 どこどこ、どこどこどこ、とその時音がした。

 室内にいた全員がびくりとした。

 一人だけ床に倒れたバーミィ某は動かない。

 別の動きをしたのは宿のおかみだった。

「ちょっと、あんたたち。いい加減にしないと、踏みこんできた組織に何もかも喋っちまうよ。それほどの金は貰っていないんだからね」

 奥で子供が泣いている。赤ん坊だ。そういえば、孫を預かって育てているとか言っていたか。

 しかたなく、グランスらは宿を脱出した。

 そして港に向かった。とにもかくにも、アキホが用意した船に行く。そこで夜明けを待つことにした。

 とにかくどたばたとした手順が続いて、宿から場所を移って、幌をかぶせた船のさらに舟板の下。

 どうにか、座ってなら話せるだけの隙間にグランスらはいる。

 オズ、ローマン、それにアキホ。

 このような状況だが、グランスはおかしみも感じなくはない。しかし、笑える場合でもない。

 結局夜明けまで待って、オズが出て行った。しばらくして帰って来て、港を張っている者がいることを告げた。

「抜けられない様子じゃない。出るなら今だろう」

 行こう、とせかす。

「別に一人減っても構わないけれど、とくにあなたは」

「ローマン、こいつはどうするんだ。いや、あんたはどうするんだ?」

 ローマンは黙して否定も肯定もしなかった。オズは、なんとも言わずに、頷いただけで、グランスを促した。

「なら決まりだな。グランス、行くぞ」

「行ってらっしゃい。私はこのひとと行くわよ」

 オズの反応は――

 予想通りのものだった。いや、予想以上に檄した方向になったと言っていい。

 しかし、本当にグランスにはオズについていく義理がないのだ。

 それを考慮してか、オズも今度は――さすがにこれまでの自分の行動を見つめ返して、独善すぎると判断したのだろう――戸惑った様子を見せた。

 一瞬見せた怒りもなりをひそめた。

 どうする、という顔をしてから、言った。

「何でだ」

 グランスは言われ、どうということもない顔をした。一応考え込む顔をした。行儀悪く胡坐をかいていた(背が高めなので、こうしないと首が辛い)足を、身体の前で両手で持つようにした。

 理由。理由か。

「何でと言うか。このひとについていくのも、東の街から遠ざかって隠れるのも、私自身にとっては、どっちも大したリスクじゃないからかな。どっちでもいいからこっちを選んだ、というとっても希薄な理由よ」

 グランスは、それからにこりと笑ってみせた。屈託なく。いつもは見せない笑いかたである。へらりというのか。

「それとあんたを巻き込みたくないかな。これ以上」

 オズは黙った。もともと黙っていたが、違う意味で黙った気もする。そういう意味で、黙った。

 グランスは、すぐに首を振った。

「あんたみたいな人をかな。まあそれも大した理由にはなっていないわよ。ひとつはお金かな。このひとについていけば、少なくともお金には困らなさそうよ? この船もどうもぽんっと買収しちゃったようだし」

「……西の国に行って、どうするんだよ。向こうは冒険者の稼ぎ口が東の国とは違うんだぜ? 傭兵ならまだしもだが、あれは冒険者とは、まったく事情が違う。まっとうな前を持たないやつに、カタギの仕事が任せられないのは変わらないし。だから俺だって、東の国にきたんだぜ」

 東の国は、西の国に比べて、冒険者の怪物との交戦率は高い。

 それにも関わらず、オズのように法術倶を有して対応しようという者は少ない。

 そもそも、戦闘に適したような、強力な法術倶はやはり希少である。

 西の国にはそれが容易に東の国に流れない、仕組みがある。そういうわけで、東の国の冒険者たちは、だいたい日夜生身と腕一本で怪物とやりあっている。

 西の国からしたら、そういう中で東の街のような発展した場所を作り上げている、東の国の民はちょっとした蛮人である。

 アキホが言った。

「失礼ねえ。まあ、失礼しているのは私だけれど? 稼ぐあてぐらいあるわよ? 最初に儲け話だって言ったはずだけど……ああ、もしかして、口から出まかせだと思っていたとか」

「……違ったのか?」

 ローマンが横から言うのに、ぐい、と、アキホはその顔に掌をあてがって、押しやった。

 それから言う。

「冗談ではないのよ。まあ、話の内容は道すがらになるけれど、あなたたちはしばらく身を隠せて、十分なお金が手に入って、新天地を探すあても見つかる暇ができる。こんな好条件ないでしょ?」

「もともとあんたが仕組んだことで俺たちはこんな窮地に陥ってんだ、このアバズレ!!」

 オズが怒鳴った。

 ともかく船は出港した。

 オズと、ローマン、グランスを乗せて。

 アキホは乗っていると言うのかわからない。





 一週間はかかった。

 

 東の国の港から、陸伝いに船を進め、一週間。

 西の国に着いたのはそのころだった。

 西の国の港町は栄えていた。

 アキホが、街の名前を教えたが、某、としておこう。ここに滞在したのは一日半ほど。

 準備を整えて陸路を取った。

 歩きではなく、馬車を使うのが常識的である。

 だが、アキホが徒歩で向かうと言いだして聞かなかった。なにか理由があるらしいのだ。

 冒険者とはいえ、身体が頑丈なだけで脚が達者なものばかりでは当然なく。

 そもそもローマンが脱落しかけた。

 よって、最初、これは理由なきアキホによるローマンへの嫌がらせであると、オズとグランスは結論した。

 なぜならあっさりと馬車を雇ったからである、アキホは。そうなると。

 というわけで、嫌がらせかとは、ローマンが結局口に出していうことになった。

 しかし、アキホは肩をすくめて、どっちともつかない。

 どっちとは嘘かそうかというところで。

「まさか冒険者なんかやっていてこんな貧弱だとは思わなかったもの。計算が狂ってしまったわ」

 へそくりが持つかしらとも言った。

 そういえば、アキホが持つ金はどこから出ているのだろうか。

 アキホに聞いたが答えなかった。

 ローマンは、代わりに答えた。

「俺がやっていた商売にあれこれ口を「出して」いたんじゃないかと思う。そういえば心当たりがある。アガリの計算が合わなかったり、妙に多かったり」

 言う。

 アキホがどうというよりも、用語から、おそらくローマンがろくでもない商売にも首を突っ込んでいたのだろうと思い、グランスはオズと共に呆れた。

 それはともかく、道すがら説明するとアキホは言った。

 その通り、船路や陸路をとっているあいだに、説明していた。

 大まかに話を摘まむと、要は西の国にある、正五閣陵せいごかくりょうの内の一陵、正ガルテルバル候の領を目指すのだと言う。

 正ガルテルバル候、又は卿。

 さらに俗な呼び方で言うと、恐越公と呼ばれる。

 この恐越公は、そもそも正ガルテルバル候領の領主である、ガルテルバル何世かの正式な血縁に当たる何世かである。

 名前はいいだろう。

 この恐越公は、いち荘園を治める血統による継承者であり、ごく最近、といっても数年は前だが、その頃から参加した正五閣陵の、五人の盟主の一人である。

 そして五人の中では主導的な立場にある。理由は、もっとも五人の中で領地が大きく、耕作量も多かったからである。

 そもそも正五閣陵は、その成り立ちから、広大な有地を擁しない。この正五閣陵から、一つの山礫を挟んで、正統騎士団領という国があるが、そこから独立した。

 西の国と言うのは、広大な穀倉地帯がそこここに広がっていたために、より豊かになろうとするために、国同士の争いが絶えなかった。

 広大な穀倉地帯がそこここにあるということは、国も多い。これらがひしめきあって、火薬庫を形成していた。ことに、今の正統騎士団領からさらに西はその傾向が酷かった。

 正統騎士団領は、そのような割拠状態の中から勢力を伸ばして建った国であった。歴史は浅い。

 怪物の対応の他に、各国との緊張状態がずっと続いており、国境付近は何度も血で血を洗った。

 それでも、設立以来、穏健な王のもと、国はやってきたわけであるが、代を重ねると例外が出た。それが現在の王で、某としておくが、これは気性が荒く、正統騎士団領の軍権を外に拡張しようとして動いた。

 もと、内憂外患の国情である。

 王が吐血しそうな目まぐるしさで、国自体はやってきたが、そのぶん、目こぼしも出た。目こぼしされた者らは国内での権力があり、しかも王同様、思想が過激で荒い。

 本来、粛清されているところだがそうはままならず、これらが実権を握り、王を焚きつけて、戦争主義の道へと、国を走らせた。

 ここまでは、大国に良くある話だ。戦争主義の目的は、国土を占領によって広くすることと、徴兵、軍備のそれによるさらなる拡大である。

 これをやられると民が飢える。正統騎士団領でも、そうなった。

 で、これを憂いていた一人の某卿がいた。卿は実権はさほどでもなく、しかし、民や軍権からの信頼は厚い優れた人物であった。

 ある日、この某を陣頭において外征の意が下る。

 某卿は命ぜられた通り、軍兵を率いて東に赴くと、外征の隊に参加していた戦争主義派の人間たちの配下を残らず斬り殺し、かねてからの手筈通り、独立した。

 正五閣陵――五人の候、卿によってなる領地。

 本来、正統騎士団領に攻められるはずであった某国と、その周りの三国。これには、のちに主導となる恐越公の領も含まれていた。

 この四国に、正統騎士団領から裏切る形でやってきた某に、一領を与えて、なにかあれば、正統騎士団領と真っ先にことを構える位置において、五国。

 これを同盟して、正五閣陵、と宣言した。

「たまらないのは正統騎士団領よね」

 と、アキホはやたら物知りげに言った。

 面子を潰された。それに、正五閣陵が立ち上がった、国の東への拡張ができなくなった。

 正統騎士団領は現在も戦争を休まず続けており、それは、侵略した西側への怨恨関係のためである。

 当代の王の掲げた目的である、軍権と徴兵の拡大が果たせなくなる。

 果たせなくなると、これによって飢えた民が残る。彼らにはもはや、一揆に走る余力はない。

 しかし、国内の反対派が興れば、これを支援するであろう。

 崩壊の危機である。

 焦った王は、国内の反対派の芽を摘むことに走っている。

 アキホがこっそり通過すべきだと言ったのは、ここに長居ともいかないが、逗留でもしようものなら、国内の混乱に巻き込まれる。簡単に言うと、殺気立っている国の現王派閥の行っている粛清に目をつけられる。

 だから怪しまれないために、わざわざ陸路をとったのだという。

 先に述べたように、正統騎士団領と正五閣陵のあいだには、巨大な山礫が、自然の要害となっている。これが正五閣陵と、正統騎士団領の衝突を防いでいると言ってもいい。

 まあ、この要害がなくても、正統騎士団領は、すぐにも攻め込むという壮挙には至らないだろう。

 恐越公の存在がある。

そういうわけで、正統騎士団領に入るより前に、馬車の類は途中の街で売り払った。ここからは徒歩で向かう。

 戦乱続きであるから、野盗の類が横行している。

 そのあたりの心配はあまりしていないが、大きな野盗の群れが相手だと、その近くを通るのは無謀である。情報収集に念を入れた。経路を決めて出発する。

 西の国と東の国は、巨大な山脈地帯で分かたれている。

 船で陸伝いに行き来するのはこのためである。ただし陸路もとれないわけではない。海路のほうが便利であったため、そちらが主流になった。

 天の庭は、この南側全部である。

 丸を縦に伸ばしたような大陸の、北の部分を、肘をちょっと曲げたようにした形の、追放者の楽園が占めている。

 東の国とのあいだをわける山脈地帯は、とにかく高く険しく、人の侵入や踏破を拒んでいる。

 大昔、この辺りで二匹の怪物が戦った。

 そのとき、大陸はまだなくて海だった。

 この二匹の怪物は真正面から思い切りがちあって、その姿勢のまま相討ちで死んでしまった。その死体が、長い時間をかけて大陸の下の部分とくっついた。

 そうしてできたのが山脈であると言う言い伝えはある。

 もちろんおとぎ話だが、未踏破領域の怪物は、巨大さでいうとそれである、と恐れられている、一種の象徴でもある。

 馬車を売った街から徒歩で行くには、五日はかかると情報がまとまった。

 仕度を整えて出発し、何事もなく正統騎士団領に着き、三日をかけてこれをどうにか、こともなく通過して、正五閣陵へと至った。

 正五閣陵の入口は、先に述べた、正統騎士団領との境にある山礫に接した領である。

 ここから南に下ると、すぐ、恐越公の領となる。

 未踏破領域と接した巨大な領地である。

 これは一日で着いた。

 正統騎士団領を抜けるのに三日を費やしたのは、その領地が広いのもあるが、途中で取り調べを受けたからである。

 どうやら、国外から入る者は、みなこのようであるらしい。

 手続きは全てローマンに任せた。

 その間、宿をとって自費で滞在することとなった。

 むろん正統騎士団領側からは、なんの補償はない。

 これは旅人の間では評判が悪かろう。

 とはいえ、野盗が横行していると言ったから、そんな呑気な者はいないか。

「そういえば」

 と、宿に滞在しているあいだ、アキホが質問してきた。

 オズがいた。というか、正統騎士団領側からの意向で、泊まりは一部屋に全員と決められている。

 ただし宿の手配は向こうがやる。

 東の街とはずいぶん違うが、ここは思えば王都である。

 やることが王権に近い。考えが商売ではないのである。

「あのオルグってのなんなの?」

 聞いてきた。グランスはそのとき、明かりの入りが悪い窓に不満を漏らしながら、外の様子を見ていた。

 アキホの口調はわくまで軽く、質問は半分興味本位だ。流していいが、ここへ来る途中、どうもアキホが人から聞きだす術を使うらしいことを、グランスは聞いていた。

 なんなの、という微妙にふんわりした言葉である。しかし、グランスは乗った。

「私の義姉弟ってところかな? 預かり先が同じ親で、血は繋がっていないわ。あいつの他にもう一人スミスってのがいて、その三人が同じ父親の養子だった。そのとき私は天の庭で生活をしていたわ」

 グランスは言った。

 アキホはふうんと首を傾げた。

「そういえば」

 ん? と、グランスは応じた。雨が降り出してきて、表が慌ただしい。

 東の街では、もう少し活気があったが、おそらくあそこは特別なのだろう。

 怪物と渡り合い、逃げ回る、冒険者のような輩がごろごろいて、王権とは隔離された街である。

 そのために、治安がいまいちで勝手気ままな組織が互助を形成して、今回は、それのひとつに追われて、グランスらは街から逃げ出す羽目になった。

「あの変な口調やめたの?」

「ノーコメント」

 オズが変な顔をした。

 当然ではある。「意味がわからなかった」のだ。

 彼らの知っている言葉ではないからだ。

 これは天の庭、それも、その中でもごくごく少数に渡る言葉で、いわゆる魔法や魔術といったものの記述に用いられたりした。

 異世界語とでもいうのか。

「スミスってえのは、あの人ね? あの、あなたとオルグが殴りあっているところに割って入った」

「そうよ」

 グランスは短く答えて、じっと目を半分閉じた。というよりか、あの場にアキホがいたはずはないが、なんかして見たのだろう。

 この女が何を知っていようと、驚くのはもうやめたほうがいいのか知れない。

 その後、考え込んでしまったために、アキホは何も聞いてこなかった。

 その次に聞いてきたのは、意外なことにオズだった。

「アキホってあの女から聞いたんだが」

 野営中だった。

 外は心地いいとは言えない気温だ。

 雨が降ったのは、昨日街に滞在していた時だ。そういう時期で、天気が変わりやすい。

 雨が降ると、薪が出来ない。というわけで、オズらと即席で、木と木の板とで、火を入れる炉をこしらえて、それの番をしていた。

 馬車から張った、頑丈な布が、そろそろ雨が降り始めていることを告げている。息が白くなるような寒さだ。

 大陸は基本的に過ごしやすい。と、昔から言われてきた。比較的、その中でも棲むことが不便なのが大陸の北側、今の追放者たちの楽園である。

「オルグってのはお前の命を狙ってるんだってな。あの女に唆されて、怪物らをけし掛けてきたのも、そもそもそのオルグだって話だが、いったいどういうことなんだ」

 オズは静かに言った。

 静かに言おうと、同じことである。グランスはやや機嫌を損ねると同時に、なぜかオズに対しての憤懣、それから不満を覚えた。

 オズは目を逸らしている。気まずかったのか首を掻いた。気がつくと、目つきが険しくなっていたようである。

 グランスはひとつぱちくりと瞬いて、瞳を伏せた。肩をすくめる。

「……ま、いいけどね。言っても。正直なところ、そうね。命を狙われるような覚えは全くないのよ。ぶっちゃけあいつ本人にも聞いたけれど、よくわからない。なんだか今のあいつはずいぶん、頭が煮えているようよ。正直、別人だわ」

 グランスは目つきが険しくなっていたのを、それでごまかしたが、すまん、とオズは言った。

「いいっての。私も誰かに聞いてほしかったしね」

 グランスはいい? と諒解をとった。オズは何ともだったが、口を引き結んで、顎を引くように頷いた。

「まあ。……ないわけではないわ。思い出したのだけれど。でも、それは少しおかしいし、私の想像でしかないのよ」

 昔昔。

 天の庭に暮らしていた頃だ。

 父親はオフェイロンと言った。養父である。偽名であり、本当の名ではないということだけは、グランスたちに教えていた。

 グランスは端的に言ってこの男が嫌いだった。

 殺意を抱いていた、と言ってもいい。この場合はその前段階である、憎しみである。

 グランスは、異世界転生者として、この世界に来た。呼び出したのは、当然天の庭に棲む人間たちだ。

 転生者――以下、こう呼ぶが、これについては、すでにオズは聞いていたらしく、話が分かるか問うと、その部分は分かる、と答える。

 そう、グランスは転生者だった。

 正確には、そうなるはずの人間だった。転生者は、一定の年齢で、過去の、つまり前世の記憶を取り戻す。

 グランスにはそれがなかった。これは、オルグにスミスも同様である。

 一定の年齢を過ぎ、一向に思い出す気配がない前世の記憶。

 これは、実際の施術を行った側からどう見えたかと言うと、不能者であった。

 もうひとつ、転生者には優れた能力が不規則に付与される。

 それもなく、グランスはまったくの不能であった。

 といって、炎を出す能力は、この世界の力ではなく、この点は、半分解決されていた。

 なぜ前世の記憶を思い出さず、突出するほどの偉才を持つことがないのか。炎を出す力は、この世界のものではなかったけれど、偉才とは認められなかった。

 逆に蔑視して見られた。

 その程度のことであれば、この世界の魔術であっても出来る。

 つまり、この世界にはないものの、この世界にあるものよりも劣った力を持つ者。

 これを何とかしなければならない、と動いたのが、まず研究者である。

 学術的興味、それに純粋な好奇心だ。

 たとえば、なぜそのような現象がおこったのか。おこりえたのか。おこりえるのか。

 その構造である。で、被検体は形をもったモノである。

 とすれば、ばらばらに分解する。腹を切り開く。頭を切り開く。

 実験によって反応を見る。外部から力を流す。あるいは放置する。このような状況では、状態ではどうか?

「と、そういうことを、くり返していくうちに、生身の身体では劣化して持たなくなって来たのよ。結果として、研究者たちは、悩んだ結果、身体をより頑丈なものに入れ替えることにした。生身の身体だったものは、部位ごとに慎重に分けて、資料として保存した」

 このような経緯があって、グランスは身体の八割と少しほど、生身ではない、義体に換装された。ただし、この時点では今ほどに生身の肉体を喪っていたわけではない。

 さらに生身の身体を喪うことになったのが、彼女の養父となった男にある。オフェイロン。

 オフェイロンは、天の庭でははるか昔に死んだ狂人の名である。

 それを名乗る父親も、まあ、まともとは呼べなかった。

 彼は研究者たちと交渉し、グランスに、これ以上の調査価値がないことを、認めさせた。

 苦渋の決断である。

 オフェイロンは、このような方法を使って、他に同じような経緯を持つ人間を、三人集めた。

 それがグランスであり、オルグであり、もう一人スミスと言う男である。

 オフェイロンには目的があった。

 この手元に置いた三人を使って、自分の研究成果を実現しようとしていた。

 強力な兵器である。

 これには使命感など、野心があったわけではないようだ。

 ただ自分の手で『不倶』と見なされた、この世界にはない力を持つ――この部分は大して重要ではなかった。重要なのは、『役立たず』であることだった――モノ達を遣い、一つの形を成す。

 それには、強力なものがいい。分かりやすいのが、破壊力。

 そうして、グランスら三人に、施術が施された。

 この結果として、グランスは生身の九割以上までを喪い、義手義足を始めとする、義体に換装した。

 また、施術は副作用を生んだ。身体が、オフェイロンが施術の際に用いた品々と同化した。

 グランスの右眼と、頭髪の一部、という奇妙な身体の「遺り方」は、このことに由来する。

 そうして施術は成功し、オフェイロンは、狂躁した。

 そしてこの結果を、誰にも告げなかった。

 一部の者がこれを知り、首をひねり、関心を示さなくなった。

 天の庭にとっては、無意味に等しい結果だったからだ。オフェイロンはしかし、満足したようだ。

 彼はその後、自分の研究の遺りにのみ没頭するようになり、天の庭の多くの研究者たちからは離れていった。

(憎い)

 むろん、これをしてグランスが何も思わないはずはない。

 グランスは憎み、苛んだ。それはこの世界であった。自分の身体をぼろぼろになるまで苛み、動物のはく製を飾るような、研究者らにとっても、行われたことの意味にも、それはずれていたが、そんな真似をされた。

 研究者らを憎んだ。明確にはそうするほかない。

 だいたい大ざっぱにいえば、自分を含んだ全てを呪ったはずである。

 しかし、研究材料になり続けてきたグランスにとって世界は狭い。

 結局の憎しみは、自分たちを研究成果として見、慈しみ、愛でる、オフェイロンの精神性。またはその人間本人へと全ての憎しみは集約された。

(でもオフェイロンは強い)

 オフェイロンは、ただの学者ではなかった。研究者でもなかった。それであると同時に、優れた魔術の修学者だった。

 グランスのちょっと珍しいくらいの力では、到底殺すなど無理だった。しかし、憎しみが集約しているために、どうしてもそれをしたい。思い続けた。それは呪いであり、悲願となった。

 願いである。

 長引けば、それは祈りにも似たものとなった。祈りと呪いは同義である。

 グランスはオフェイロンを呪うことで、自分自身をも呪いの中に置いた。

 そして願いが果たされる時が来た。

 長い時が流れて、オフェイロンは病に倒れた。

 病は、老いと重なり、天の庭の医学、術学を以てしても生き長らさせることはできない状態にあった。あとは衰弱するのを待つのみとなった。

 そも、不老不死や、義体、内臓を補う技術、『電脳』という生命の根源を冒す技術。

 これらを実現した、かつての天の庭には不治の病などなかった。

 病床にあって、ついに寿命を迎える頃になったころ。

 毎日、養父の世話をしていたグランスは、オフェイロンに言った。

「私があなたを憎んでいたことを気付いているでしょう、お父さま」

 オフェイロンは答えた。

「ああ、我が娘よ。知っているとも」

「でも出来なかった。それもお気づきですね。あなたは優れた術の師で、私の力では到底殺すなど不可能だった」

「勿論だとも。我が娘よ」

 オフェイロンは虫の息だった。グランスは、短剣を取り出した。

「だから、寿命が尽きるその時に、私があなたを突きさす。それで私があなたを殺したという目的が果たされます。私の中だけですけど」

 だから、少しの間御辛抱を、と、グランスは言った。

 オフェイロンは笑ってなにも答えなかった。

 そのオフェイロンの胸に静かに短剣を突きさし、口を手で塞いで、悲鳴が漏れないように刃を抉った。

 オフェイロンは息を引き取った。グランスは目的を果たした。

 目的を果たした以上は、この棲み処にいることはない。

 居ることもできない。今さら研究者らが、自分に興味を示すとは思わなかったが、父のような変人や変態は、別だ。

 天の庭から去る。父の死に乗じて。

 天の庭からは、誰も出ることはできない。

 だが、グランスは天の庭を抜け出した。

 そうして、西の国から船を継いで、東の国に至り、オズやローマンらと出会った。そして冒険者として暮らす日々が始まった。

「それも一旦は休憩だけれどね」

 グランスは言った。オズが用意してきた飲み物を飲んだ。湯になにか甘みのあるものを足して飲みやすくしただけのもので、特別美味しいとも不味いとも言えない代物だった。

「その話がオルグって例の男に恨まれるきっかけになるって?」

 やってきていた、ローマンがそのとき言った。うーん、とグランスは考え込んだ。

「心当たりと言うか、おそらく、私が親父を殺した……というよりか、止めを刺した? それはあいつも知っているのよ。そのことで、一旦会った時に揉めたこともあったし。あいつは、親父になついていたからね。依存と言うのかな。まともなもんじゃないと思うけれどね。でもそれも話し合って、お互い納得したのよ。ところが、次に会う時には、問答無用に近い形で殺しにかかってきた」

「誰かに洗脳でもされている?」

「さあね。感じるところがあったのは確かだろうから。私に対する憎悪やらなにやらが残っていたとするなら、まあ、ていう?」

 グランスもわからずに言葉をにごした。

 我ながら、埒の明かない話をした。

 話を戻そう。

 グランスらは、恐越公の治める領地にたどり着いた。

 アキホの言葉を信じるならば、儲け話はここにあるはずである。





 正五閣陵。


 恐越公の治める領、又は陵の一角。夕暮れ時。

 とはいえ、アキホに関する信用はない。

 ことここに至って信じている方が馬鹿である。馬鹿とは、常識というものではかっての馬鹿である。常識とは定規である。

 ただし、ふんわりしている。人の死活の中で整えられた容儀である。

 地面に棒で描かれた枠である。

 はみ出すと痛い目を見る。

 死活の中で整えられてきたものなので、死ぬか、活かすか、にもなる。

 馬鹿とは簡単にいうと、より、この地面に描かれた線が見えなかったり、見えなくなることがあったりしやすいことを言う。

 話がそれた。

 それはそうと、グランスらが滞在している宿に訪問客があった。あるわけがない。この街で、グランスらには一人の知り合いもいないのである。

 では来たのは知り合いではない。知り合いではない訪問客とは、必ずろくでもない話を携えてくる。

 グランスら、というよりグランスは、アキホの話に乗って、のこのここんなところまで来る……正確には、近くまで戻ってきた。天の庭にいたのだから、馬鹿ではあったが、自覚の有る馬鹿であった。

 自覚の有る馬鹿は、馬鹿でないこともできる。こともある。とにかく、そのようなので、訪問客は追い返そうとした。しかし、できなかった。

 訪問客は、勝手にグランスらの泊まっている部屋に入って来た。

 ちなみに、滞在のあいだ、グランスらは何もせずに宿にいるようにと言われた。

 この街、某は、領の中では、いわゆる王府にあたる。領主がいる街ということだ。

 栄えている。しかし、話の中から想像していたほどの賑わいではない。治安もそれなりのようだ。

 ローマンやオズは、日中や、夕暮れに出歩いて、それぞれ時間をつぶしているが、グランスは部屋でごろごろしていた。

 実を言うと、怪物との一件以来、負担が身体に蓄積している。

 アキホの言によると、彼女の術のせいだ。

 というよりか、グランスの破損のせいだった。これを直したはいいが、それは急造りであり、魔法・魔術の特徴として、無償の術はない。

 対価として身体機能全般への痛みと、だるさ、もたれのようなものがここ数日表れている。まあ、これに関しては仕方がない。

 気丈を装うのも気力がわかなかったために、グランスは、だるさを隠そうともせず不機嫌である。

 ベッドですることもせず、アキホが数日はかかるといった話の信ぴょう性をダシにして、一人悶々と愚痴っている。

 さすがに一人でいるとき以外はしていなかった。オズらとは同室に詰め込まれているのである。

 よって、訪問客がきたときは、四人が揃っていた。(アキホを人数に含めるのはどうか、だが)四人と言う人数にも関わらず、しかし、宿の部屋は快適で、それもそのはずで、見た所相当いい部屋だった。

 内装からして違う。

 天の庭、といって、天の庭はこういうものからは脱却しているから、なにがどうという基準にもならないが、そこでも当然見た事はないが、この部屋と同様程度の快適さは感じた事がある。

 寝室は二間にもなっていて、異性同志だろうと楽々泊まる事が出来る。

 この街に来てから時々感じてきたことだが、どうも、東の街、どころか西の国で足早に見てきたものよりも、この街は、文化が違う。

 あるいは文化の程度が違う。

 あきらかに優れている。進んでいる、と単純に言えばそうか。そのような印象が、街のあちこちにある。

 生活基盤に関わる施設だったり、浴場の存在だったり、また、娼館といった施設にもそれは及ぶらしく、ローマンとオズが(グランスには言わないが、行ってきたようだ。溜まるモノは溜まるから仕方がない)密かに驚きを話し合っていたのを、耳にした。 

 これは文明の進み具合である。

 先に述べたとおり、西の国は穀倉地帯がそこここにある。食糧が豊かに保証されると、人は他のことに手を出す余裕が生まれる。

 しかし、それは戦争や名誉、支配欲といったものであるはずだ。

 実際戦争が多い、とも先に述べた。

 あちこちで小国が争う。

 これを鎮めるのは、食糧以外のものである。

 それは血統だったり、思想だったり、宗教だったりする。

 一番は自衛手段である。侵略欲、そんな言葉はたぶんないだろうが、支配欲、所有欲といったものを越えたところにある、とは思うが、正確にはわからない。とにかく自衛手段としての武力。それも圧倒的な。

 既存の武器では駄目である。既存とは、文明段階によって、使用される戦術、戦略、武器、兵装である。

 これを一歩越えたなにかを持つことで、自衛手段によって、他国との余裕が生まれた結果、文明の進み具合が異なるようになる、といった具合だろうか。

 他にもこれを築きかねない要素と言うのはある。侵略価値がないためにほったらかされる、この場合は、他国より経済も文明も取り残される場合がある。侵略価値が出ないということは、自国を経営する要素もない場合が多くて、人は飢えている。貴族が幅を利かせている。

 これは、外部からの思わぬ横やりによってしか発展し得ないだろう。

 それと、思想。

 もし思想のなかに、他国との非戦的な考えがあれば、自衛によって成り立つこともあるだろう。それ以外なこともあるが、だいたいは宗教である。

 思想は一国を越えないが、宗教は一国を凌駕する。

 宗教は非戦状態をまず生み出し、そこから外部からの受け入れがあれば発展することもあるだろう。

 またはこれらの複合である。国の事情など簡単ではない。

 とにかく訪問客である。

 そのとき、宿の扉を開いて現れたのは、見覚えの有るような人物だった。

「オズ・ムアルトワ、話通りいたわね」

「……」

 オズがかなり驚いた様子をして、バーミィとか何とか言った。

 そうか、ごたごたして忘れていたが、東の街を引き払ってきたときに突然出てきた女であった。えーと、バーナジ・リムルウィッチ。そういう名だった。

「なんでここに!?」

 オズが言った。時刻はそろそろ暮れ時である。オズは、どこか出かける様子だった。たぶん娼館だろう。

 割と女にはだらしないのか、もう馴染みの娘が出来たようだ。ローマンが言っていた。指摘したのはグランスだが。

 そういうこともあって、オズの顔には別種の焦りも浮かんでいるように感じられた。が、まあ無視していい。クセのようなもので、まるで無意味だ。

「なんでもなにも、ここは私の生国だからね。だいたい、西の国に行くといっていたじゃない」

「ああ、……そうか、お前さんはそういう女だったな」

 オズが言った。グランスは「そういうって?」と、口を挟んだ。悪意はない。

「勘がやたら働くんだ。槍の女と呼ばれていた。鋭いし尖っているって意味だ」

「人を不遜なあだ名で呼ぶなっての。その呼び方嫌いなんだけれどね」

 バーミィは、最初に見た時より、だいぶ違っている。というより、興奮すると人が変わりがちな女なのだと思われる。

 グランスは、口を出すのも無粋と思いながら、何となく聞いた。

「オズをあいびきに誘いにでも来たの? 本人は忙しそうだけれど」

「いいえ、今日の所は帰るから気にしないで」

 バーミィは気さくに言った。

 初対面の変わった女であるグランスになにもふくまない程度には、物怖じしない性質であるらしい。

「突然だけれど、明日の用件は? 無かったら貴方達を、街に繰り出させてあげようと思ってねえ」

 バーミィは言う。

 よく見れば、会った時とは違う。平服なのだ。

 グランスが穿くような、労働者用の、無粋な下衣は変わらないが、鎧を着ていない。それに、高そうな上衣を着込んで、前留めを開けて広げ、紺色の内に着る前留め式の襟付きを着込んでいる。

 髪にはなにも飾っていなかったが、そうでもしそうな様子だ。冒険者には珍しく、服装に気を遣う人間のようで、細身の身体と整った金髪の容姿にかっちりはまっている。襟付きの前留めも、ひとつひとつ、そこらで売っている安物を使ったわけではなく、なにかいい材木を加工したような模様のあるものだ。

 やや開いた襟から、首飾りまで覗いている。

(いい女だな)

 見た目に似合わず、とも言い切れないか。

 女にだらしのないオズが、手を出さないのが不思議なくらいだ。しかし、そういえばなにか因縁があると言っていたか。

 オズの好みそうな、やや垂れ目がちの大きな目を見ながら、はれ? と、グランスは首を傾げた。

「ねえ、あなたオズと何か因縁がどうとか。叩きのめしてやるみたいな勢いの? そういうんじゃないの?」

「そりゃ、そこの不届きな男は一度叩きのめすわよ。この私の経歴を上回る新顔なんて赦さないから!」

 眉を吊り上げて言う。が、すぐに戻った。

「それはそれとして、我が生国にようこそ。オズの仲間たちだってんだもの、歓迎するわ。一応家訓であることだしね。まあくわしくは長くなるから割愛するけれどね」

 バーミィは手を広げて大袈裟に言った。

「ようこそ。勇敢なる我が好敵手の道連れ達。出会えたことのお祝いに、おもてなしをするわ。費用は一応こっち持ちだけれど。私は、生国に帰れば金に融通が利く身だからね」

 見せびらかしたいという意思も、感じなくもないが。

 見た目、善意であるとこの女を、グランスは評した。それに続く言葉で言った、「酒肴を以て細やかながら」の部分に、ローマンも、端で乗り気になったようだ。この男は、唯一の欠点として、ただ酒に弱い。

 ただ、悪癖と自覚していて、自分を戒めてはいるようだ。酒は身を滅ぼすものと思えばわからなくもない。ばつが悪そうに、このときも苦笑いをする。

 さて、申し出はありがたいが。と、この国の案内役であり、いわばグランスたちの身の上を握っている女が部屋の中にいる。

 そのアキホは、グランスの視線に気づいて、(それまでは退屈そうに、バーミィの挙動のあたりの、虚空を見ているようだったが)言った。

「いいんじゃない? 明後日が用で出る日だし、明日が暇なのは本当でしょう」

 と、バーミィが入ってくる前に告げていたことを、そのままをだいたい言った。

 そう、明後日。

 その日に、グランスらは、宿を立ち、恐越公へ拝謁する、と、アキホは言っていた。

 しかし、まるでわからない。

 恐越公。

 もちろん、何度も言った。

 この街を、ひいてはこの領地を領として治める人物である。

 しかし、それに拝謁することがなんの儲け話に繋がるのか。

 そもそも一領の領主である。

 グランスらはなんの変哲もない冒険者だ。

 つい最近、東の街を拠点に活動していたのにも、自分らの行いで(アキホに嵌められたせいとも、グランスが黙っていた責任ともいえるが)剥落して、アキホに言われるまま、この地へ流民かなにかのように、やってきた身だ。なんの前身もない。

 鍵があるとすれば、アキホである。

 オズを通して聞かされた。ローマンとアキホは、どちらも、大陸の外からやってきた。この世界からすれば未知であろう。世紀の発見だ。

 それ絡みで、恐越公になにか伝える事でもあるというのだろうか。しかし、それをグランスらにはなにも言わない。拝謁する以上を知らされていない。

 虚空を見ていたアキホの眼。

 あれを見ながら、グランスは思いだしたものがあった。

 バーミィは話がまとまったことで帰って行った。昼近くに宿まで来ると言う。まさしく歓待だ。

 アキホ。あれは相変わらずなにを考えているかわからないが、だが、グランスは思いだしたものがある。

 その夜、夢にも見た。アキホの眼を見て、考えたせいだろう。父親のことだ。

 その昔、グランスは父親に同行して、医療施設など回ることがあった。父親は医療にも携わっていた。魔法を使うのだか、科学を使うのだか、どうもはっきりしない男で、どちらの顔も持っていた。

 オフェイロンは狂人だった。だが、頭脳は常人並みだった。そして天才だったのだ。そう呼ばれるほどかは知らないが、優れた人物だった。

 医療に意見を求められた。

 グランスは、オフェイロンに連れられてやってきたとはいえ、やることもなく学ぶこともなかった。

 横で話を聞いているだけだ。なにか、オフェイロンが特別な計らいをしていたのだろうし、その当時から、それを見せることが、その後のグランスの設計に関して関わる事だったのだろう。

 人間という生き物に関する生き物をおそろしいほど持っていなかった男だ。

 未知の奇病に悩まされる患者を診、見地から意見を求められていたことも、すべては自分の目的のためだった。そうも思える。

 ただ、あれがそうであったかはわからない。

 あのとき、病気に罹った患者たちを診ていたのは、気まぐれだった。

 そう思えるほど、考えていることが今になっても全部は見通せない男だった。

 ただ、オフェイロンはその時罹っていた患者たちと、同じ病に罹って死んだ。

 それは、不老不死を到達した天の庭という世界において、有り得ない存在。確か、鐘の病。

 朝が来た。

 昼になって、バーミィが迎えに来た。見ためよりもかなり律儀である。

 義理堅いというよりか、同性として、純粋無垢というのだろうか。しかも経験を積んでいないわけでもない。

 ただ、自分が強すぎて、周りの感覚からズレている女なのだろうと思われる。

 オズもやっかいな女に目をつけられて参っているだろう。

 バーミィは昨日とはさらに違う服装で、今日は女性用の下穿きなども穿いていた。股を縫って分かれさせているものではない。もてなす側の礼儀という感じの装いだ。重ね着をして着飾っていることを相手にわかりやすくするのだ。

 化粧もしているようだ。香水も薄く振っている。しかし浮かれていないということは、このような恰好には慣れているということだろう。

 とすれば、商人の出かなんかの血統でない金持ちの生まれであると思われる。血統で元がやっている富豪は、富豪でも若干の暗さや陰湿さを人格にもつものだ。

 そういう生まれでそんな風にならないこともある。人間はそれぞれだからだ。傾向である。実は血統もすごいものかもしれない。

 バーミィは旨い外食屋に連れて行った。これが本当に旨い。さすがに高級料理ではないが、この場合、ふたつくらい考え方がある。

 身分にふさわしく、それを憚って安いが旨い店に連れて行くと、お前らは高いような店や格式のある店にはふさわしくないんだよ、という嫌味になる。

 逆に、高級な店に連れて行くと晒し者にするために呼んだのか、と思う者がいる。また本当に歓待されている、と受け取る者もいる。これも人それぞれである。

 途中、グランスはローマンに心配された。そう露骨なものではないが、それがわかるくらいには付き合いがもうある。

 まあ、ローマンの考えていることは当たりだ。

 バーミィとは意外と気が合った。なので、グランスはだいぶ良く笑っている。

 食事のあと、街中を色々歩いて、バーミィは案内した。その間、だいぶ話も弾んでいた。

 グランスの心を暗くさせているものがあるとしたら、アキホの眼である。

 昨夜、見た夢。

 父親を思わせる眼。

 巨大な力を秘めている者特有の眼だ。そのアキホはまあついてこないだろうと思ったらいる。

 時折、バーミィに話しかけるが、良好な様子ですらある。これはバーミィの、(短い時間だが)外に開いた性格が、人にそうさせるもののようだ。

 今は向こうで、小麦を薄めに練って下になる生地を作り、その間に甘いものや肉や果実、発酵させた調味料なんかを挟む料理、このときアキホが食べているのは、家畜の乳を下地に卵やら植物から煮出した甘い粉状のものやらで、たっぷりと撹拌したりの加工で甘ったるくしたやつを、食べやすい大きさの果実や、特別な豆類を加工して砕いた脂と粉で練って甘味も入れてある、これも相当甘いやつを氷に冷やしたようなのを、頬張っている。心なしか、幸せそうな様子だが、なんだかわからない。視線は、珍し気に街の様子を見ている。

(あれは病とは呼べないかもしれない。あれはあなたたちを人間に戻す。ただそれまでの過程が長いほどあなたたちを苦しませる。老いだ。老いをそれに体験する。最後に死を体験する。水車小屋の神による滅茶苦茶な論理の、破滅を告げる鐘だ……)

 頭の中に、父親の声が響いた。

 ふう、と、グランスは気づかれずに溜息をついた。

 恐越公の領内にある、王府にあたる某は、発展した街で、特に娯楽が進んでいる。先にも述べた。

 景観を楽しむ、整備された場所。公園、と呼ばれる、住民らの集まって憩うやら子供が遊ぶやらする場所。おそろしく平和である。

 しかし、楽しい街ではあった。夕食も招待された。その後は、飲み屋である。

 酒場と言うにはお洒落な場所で、内装に工夫を凝らしてあり、夜が趣深い。さすがにグランスも驚く場所で、バーミィは、それまでしてきたように、気軽に補足して言った。

 酒は普通、つまり東の街に比べて変わらない。

「向こうの酒より、癖があって、西の酒はだいぶちがうものなのよ。はっきり言って東のほうが旨さでは上というか、好みか。興味があるなら頼むけれど、どうする?」

 バーミィはそう言った。アキホとオズが、飲んでみると言って、頼んだ。オズはおそらく、こっちの生まれであるためだろう。ただ、頼まれて運ばれてくると、あまり美味そうには飲んでいなかった。

 グランスは、興味が出て、一杯分けて注いでもらった。飲むと、確かに癖がある。しかし、不味くはない。好きになりそうな味だ。

 そういえば、西の酒は飲んだことが無かったか。

 オズはそれほど強くない。グランスはよくわからないが、酔わないようだった。

 あまり大量に飲んだこともないが、これはおそらく身体のせいで、そのような機構が、排除されているのでは、と内心思っているが、酔ったことはない。よくわからなくなってきた。もしかして、これが酔っているということなのだろうか。

 少し飲んでから、バーミィの提案で場所を移した。

 なぜわざわざ、と思ったが、夜の街を歩かせたかったようだ。酔い覚ましにいい。夜風も心地いい。

 といって、ここ数日は、天気がいいとはいえず、星は曇っている。しかし、これはこれで情緒というか、趣があるものだな、と、ふむとグランスは内心で思った。

 横で見ていたらしいローマンが、噴き出した。この男はそういうのはおおげさにしないので分かりにくいが、気分はよさそうだ。

 ここのところ、思えばたて続いて危機に見舞われた、のか。

 そのような気がするだけで、それほどではないかもしれない。まあ、死ぬような目に遭って、そのせいでやばい組織に目をつけられて、西の国まで密航同然で流浪した。

 そう言えば、人心地ついたと言えなくもない。

(まあ、当人は呑気な顔が出来る心地か分からないけれどね)

 とは思ったが、口には出さず、グランスはふんと鼻で笑った。

 次の店に着くと、ここはここで雰囲気が違う。店内は明るかった。さっきの店は店内の照明まで落として、各席にちっこい照明器具を灯していた。

 こちらはそういうこだわりがなく、しかし店主の前の席には見た事もないような、雑多な酒の瓶が並んでいた。店主は、変わった刈りこんだような髪型の頭頂に、編み編みに結った髪をちょこんと垂らしている。

 バーミィは、ここでは、店主の目の前の席に座っていた先客に声を掛けた。

 この先客は、お洒落な姿、とはかろうじていえたがそれほどめかしこんでいるわけではない。そこそこ上質な繊維で仕立てた上下に、軽快な、下に着込んだ薄手の襟付き。それと右手に腕輪をしていた。小さなもので、さりげない。

 薄い鳶色の髪と、濃い眉毛が、くすんだのと若いのとを表しているような顔だった。しかし、目の光を見るに、若いのだろう。

 この目の光、色濃い灰色で、見る者に印象付けるが、この目の光が、一瞬ちょっとただ者ではない。オズは酔っている風だったが、それが、急に醒めたようになった。

 なにをしたわけでもなく、事実、なにも感じなかったのだろうが、気配、と錯覚させるような存在感だった。

 存在感はすぐに止んだ。

 バーミィが声をかけたからである。

 紹介するところによると、某、という、バーミィの友人であるらしかった。すでに酒瓶を用意して、飲んでもいたが、減りようが見える限りでは、それに思うよりもまったく酔っていない。

 ただ、それも気のせいで酔っているのかもしれなかった。

 とにかく、ただ者ではないらしい。

 まあ今は関係もないようで、すぐにオズもローマンも座った。アキホはローマンよりひとつ離れて座った。ちょっとした人数である。店主の前の席はぎゅうぎゅうになるかとも思われたが、人数が多くなっても、そうはならないよう、作ってあるらしい。

 金型で作ったのか(それでも見た事もないようなものだが)、なにかの合わせ金かなにかの金属で支えたのに、座るところを円型にして、背もたれはない。柔らかい綿のような感触がほどよく詰められており、よくなめされた革が張ってある。そんな椅子がずっと並んでいる。

 最初尻の据わりが悪いようにも感じたが、慣れると楽なものだ。癖になりそうですらある。

「へえ。東の国から。こちらの生まれなのかい?」

 某が言った。厳しく、剣のような声ではあったが、不思議と心地いい響きのする喋り方だ。たぶん、軍兵かなにかの経験者のように思える。

 そっちのオズが一応は、と言いながら、グランスは自分の素性についてはあいまいにしたが、某は雰囲気を大事にしたいのか、聞いてこない。が、そればかりでもないようで、言った。

「冒険者かなにかだったか。ではこちらの王府へは一時の滞在かい?」

 西の国では、それほど冒険者の需要はない、とはオズが言ったことだ。

 まあ、それも一部の地域ではということらしく、この街へ来る前も、途中で聞かされている。オズが言い淀んだ。アキホが言った。それと、グランスも言った。

「まあ、そんなところよ」

「いいえ、ここの領主殿に御目通りすることになっているけれど?」

 あとの台詞のほうが、グランスのものである。アキホは、怒るかと思われたが、視線をちら、と飛ばしただけである。気だるげな目で、飲み物に口をつけている。

 アキホの前には皿があって、それは陶器のような白い素材で出来ている。薄くてすぐに割れてしまいそうな代物だ。その上に、料理が乗っている。簡単に言えば飼料で育てた鳥の肉と香りの高い草類を和えたものだ。

 鳥の肉はごろんと大きい。豪快に切り分けられているが、骨はない。あぶった物に、よく発酵させた調味の類――油状のもので、どろりとして、濃い色のもので、これを丁寧に肉に塗り込みながら焼いたようだ。ほかほかと、湯気にこそ昇らないが、肉の中にたっぷりと熱を蓄えて、焼き加減もほどよく肉が柔らかくなるほどだ。

 これを小さめの唇でかぶりつくように食べる。それが作法のようだが、おかげでアキホの口元は、少し脂てかりがしている。それを、二口ほどいってから、店主に頼んで出してもらった、銀の、金属をへらべったくしたような、そんな食事用の器具らしいもの、グランスは見た事なかったが、それでするすると肉を切り分け、そのままその器具で挿して口に運んでいる。この時も、飲み物を置くと、そうして一切れ食べた。

 ふと、某がふむという顔になっている。バーミィが、屈託無い様子で、それに口を挟んだ。

「領主様に? なにか商売でもやる気? ここは平和だけど、でも、前身がしっかりしている保証がとれないと、お許しはいただけないんじゃない?」

 某が口を挟んだ。

「もしかして、御目通りと言うのは謁見ではなく、拝謁かい?」

 バーミィが目をぱちくりとさせた。

「え? まさか」

「拝謁すると聞いているけれど。そうだったわよね?」

 グランスは言った。特に悪意があったわけではないが、オズやローマンが、あまり穏やかでない顔になっている。

 アキホの言動が気になったのだろう。アキホはそうよ、と言った。

 バーミィは、それを聞くとぽかんとなった。

 口を開けるのではなく、閉じている。が、そんな様子だとは分かった。なにせ、瞳が大きいものだから、そちらに変化が感じとれるのだ。

 目を見る方が、口を見るよりも多くわかる、という言葉はあるが、まあ、こういう意味ではないだろう。やがて、といっても一瞬だったが、だんだん、バーミィの垂れ目がちな大きな目が広がった。

 それから立ち上がった。そのときには、はあ!? と、それはそれは、大きな声で叫んでいた。

 そして、立ち上がるや、近くにいたオズの胸ぐらを思いっきり、というのが傍目にわかるほど、掴んでしぼりあげていた。

 立ち上がる、と言っても、尻を少し突き出した中腰で、片方の手は、店主の前の卓状の板の上に置かれている。それが、板が悲鳴を上げるかと思うほどに、青筋を浮き上がらせて握られている。重ね着をした袖なしの服の下からは、引きしまった腕がそのまま伸びていたから、よけいそれがわかる。鍛え上がった、という表現を超えたような、やや細めですらある腕、その鋼のような白い腕が、うっすらと盛り上がった。叫ぶのもほぼ胸ぐらをしぼるのと、同時である。

「はあ!? はーあ!? オズ・ムアルトワ、今の話はなに? 冗談よね! あんた、私との決着はどうするの!! 領主様に拝謁だなんて」

 オズがもがいた。

 それも一瞬だった。

 バーミィの言葉を途中で切ったのは、そのまま、実際そこでいったん途切れたからである。

 感情の昂りのあまり、口が利けなくなったらしい。句を絶した、と、いうのだろうか。そんな様子で、口を空回りさせるようにしてから、さらに裂帛の気合いで怒鳴りつける。

「拝謁!? 拝謁って言った!? 言ったわよね!? この野郎、よくもいけしゃあしゃあと――」

「おい、待て、待てったら。なんのことかわからねえ。なんだよ、領主殿に謁見するのと拝謁するのと、なんの違いがあんの!」

 オズは本気で分からない様子で聞いた。バーミィは、すでに怒りで蒼白になっている。

 すうっと、息を継いで。

 そこで動きが止まった。

 動きが――いや。

 動かない。

 しん、とすらなった。

 おい、バーミィ? と、オズが呼びかけた。しかし、バーミィ、返事がない。

「おい、バーミィ?」

 オズが言った。バーミィは舟を漕いでいるように、こくりこくり、と、やがてうつむき始めた。まさか。寝ている。

 さきほどまでの怒りが嘘のようだった。いや、そうでもない。眉間にはくっきりと皺が刻まれ、やや太目な印象を受ける眉が、逆立っている。しかし目を閉じて寝ていた。いきなり寝た?

 おかしいな、と、見ていた某が言った。店主が寄ってきた。某は、店主に寝床は借りられるか聞いた。店主は頷いた。某は、バーミィに肩を貸した。

 某は、首を傾げた。

「変だが、いきなり興奮したのがいけなかったのだろうか。そんな話、聞いたこともないが、このままにもしておけないし」

 某は言いながら、階段へ向かった。

 アキホは沈黙している。むしゃむしゃと香り高い草類を味わって、食べている。

 ローマンは、半眼になっている。眠いわけではないだろう。飲み物に口をつけて、ちらりと視線を逸らす仕草をした。オズは冷静さを取り戻しつつあり、某に手を貸そうか、といって、やんわりと断られている。

 グランスには何が起きたのだかだいたい察しはついた。ただ、起きた事の、意味がいまいちわからない。

 今のは魔法かなにかだ。もちろん、なにかが起きて、自然な結果としてバーミィが途中で寝たというのもなくはなかったが。

「ところで――」

 某は、隣で寝ているバーミィを支えながら、こともなげに言った。ただ、口調に慎重な響きがある。

「赦さないわよ……オズ・むあぅとあぁ……」

 バーミィが寝言を漏らした。某は、それを支え直して、続けた。

 いや、続けるように思えた。

 小さく首を振った。

「君たちが決めたんなら、私が口を出すことじゃないな。それもまた栄光あることだ」

 某は、意味の分からないことを言った。そして、二階に引っこんでいった。

「今日は楽しかったよ。バーミィは後で宥めておこう。宥めるくらいでは済まなそうだけど、君らの邪魔はさせんさ」

 引っこむ間際、そんなことを言って行った。

 しかたなしに、となるが、その夜は、それでお流れになった。

 翌朝、朝もやが煙る中を、グランスらは、まだ日も差さない街を歩いていた。いずれも無言である。しかし、緊張ではない。雑談するくらいの余裕はあった。

「某には悪いことしちまったな」

 少し、乱暴さが残る口調でオズが言った。昨夜からだ。

 カリカリしている。

 とはいえ、目を覚ましたバーミィが、怒鳴りこんでくることはなかった。いや、もちろんバーミィが激昂やら憤激やら、いや。

 どうしてああなったのかについては、昨晩、ひと悶着あった。前々からアキホの事を敵視しているオズが「どういうことだい」と、揉めたのだ。グランスはとりあえず黙っていた。

「おい、なんでああなったんだ、アキホ」

 アキホは部屋の端で、椅子に座っている。足を組み、眠そうに片膝を両手で持っていた。

「オズ、その前に聞きたいんだが」

 と、ローマンが言った。

「君は恐越公に仕えていたようなことを言っただろう。ここの事情には詳しいんじゃないのか」

 オズは確かにそうである、とは思ったのか、気まずそうにした。

「いや、それには事情があるんだが……」

 説明は省くが、と、オズはぼそぼそ歯切れが悪かった。

「とにかく今の俺は、ここの内情についてまるで知らないんだ。懐かしいと言う感覚はあるんだが」

「記憶がどうか?」

 ローマンは言った。グランスは、意外そうにちょっと顔を上げた。

 何も言わないが、そのグランスの方をちらり、と(こめられた感情は、わからないが)見やる。オズはそうして、言った。

「怪物との戦いで精神を病むってやつは、ちらほらいるんだ。前に話したかもしれないが、俺も激務で頭をやられた。人格に欠陥が出て、それを問題にされて、任務から外された。そのときに患ったもんに、ほかに記憶の欠如や混乱てのがあった」

 ローマンはそうか、と言った。そして、眉をひそめてアキホを見た。

 で、と、前おいて、言う。

「アキホ。君は私たちを騙しているのか?」

 待った、と、言ったのはグランスだった。ローマンは暗い部屋の中、灯り――硝子を入れた容器の中に、脂で火を灯すようになっている、丸い置物だ。これが各部屋にみっつくらい置いてある。

 盗まれそうなものだが、そう値打ちのあるものではないらしい。また、この街では、どうも犯罪に走った者に対する罰が厳しいようなのだ。割に合わないから、やる者がいない。

 それに、街中を歩いていて気づいたが、食いあぶれているような者がいない。

 正確にはほとんどいない、ていどの話だが、これは少し不自然でもあり、こちらの内情がわからないグランスらにはいずれも何とも言えない。

 ただこの街はおかしい。

 ともかく、灯り一つ灯した置物を周りにして、グランスらは話している。ローマンがその灯りの中でグランスを見る。グランスは言った。

「……」

 いや、正確には言ったわけではない。掌を返して、ひょいとすくめた。ローマンは、訝しむ顔をした。アキホがそこで口を開いた。

「ふむ。ローマン、あなたのそういうところ嫌いではないのだけれど。人間的に見ても褒められたところだと思うし」

「何だ、いきなり」

 ローマンは不快そうな顔をした。話を逸らされた。そう思ったのだろう。実際、半分はそうであったようだが、アキホは続けた。

「まあ、あまり私を見くびらないでほしいということよ、ローマン。私があなたたちを騙す? とんでもない誤解だわ」

 アキホは言った。

「おい、こいつ簀巻きに出来ねえのか?」

 オズがかなり剣呑な口調で言った。どうも、沸点が一気に来たようだ。

 キレたとも言える。しかし、ローマンは落ち着いて返した。

「無理だ。洞窟の一件を見ただろう。彼女は何をやっても死なないし、拷問されても何も喋らない」

 落ち着いているようでいて、嫌味が混じっている。しかし、アキホは意にも介さない様子で言った。

「そんなことはないわよ。なんにでも方法と言うものがある。人類史っていうのは、おぞましいからね」

「あんた、結局いったいなんなんだ?」

 オズが聞いた。話が逸れてきている。グランスは突っ込まずに、頬杖を突いた。

「何者ってほどのものじゃあないわよ。ただの哀れな漂泊者っていうか」

 アキホは、まともに受け答えするのが、馬鹿らしそうに言った。

「前にも言った通り、私は前の身体を喪った。それで新しい身体が欲しいわけ。身体はなんでも構わない。星でも、植物でも。獣でも。人でも。男でも、女でも」

 ちょっと目を瞑って、続ける。

「魔女の誓いというものがあってね。これを破ると私は、誓いに叛逆される。具体的になにが起こるかは分からないけれど、これが私の不利益になることは間違いないわ。で、誓いのうちに、他者をだましてはならないというのがある」

 オズは、口をとがらせるようにした。それから、鼻で笑うように言った。

「そんなら、それが嘘だろう」

「相手にとって都合の悪いことを黙っているというのは、別に該当しないわよ」

「穴だらけじゃねえか」

 オズは手を振った。その影が偶然、まるで怪物のように見えて、グランスは一瞬どきりとした。

(幽霊かと思った)

 心の中で思い、舌打ちする。グランスは幽霊にとてもとても弱い。

 理由は思い出せない。それが、転生者としてここにあるはずの、記憶であるか、それとも過去の経験であるのか、後者についてすらよくわからない。

 心当たりはある。

 影である。ライトに照らされた、人の影だ。

 それはゆらゆらと揺らめいてはいない。投射されて動かなかった。ひとところにあった。そして、せわしなく動いた。

 手術台からみた光景だ。

 あれと幽霊はよく似ている。

 まあ、たぶん、思い出せない前世の記憶とやらだろう。

 これは、グランスを解体して分析した研究者たちが解き明かしたことで、彼らの実験による、様々な刺激によって、過去の、思い出せない前世の記憶は、完全ではなく、フラッシュバックのような形で、グランスの精神にのみ影響を与えるようになった。その成果だ。

 また、怪物はどれだけ偉容であろうとも、実体がある。だから少しも怖くはない。怖くはないことはないが、幽霊に感じる恐怖とは違う。

 アキホ・イナーヴィアは幽霊のようなものだ。

 ローマンらにのちに聞いたところだと、殺されて生き返ったり、いきなりいたりした。

 それに、話を聞く限りでは、ある程度出没が急であるようだ。戦った後、ボロのようになったグランスを直しに来た頃と、ローマンらの目撃証言を聞くと、そのようにしか思えない。

 しかし、ものを食べる幽霊はいるまい。となると、魔法や魔術でなんとか誤魔化していると考えるのが妥当だろう。

(そも、魔法魔術とはそのようなもの)

 グランスは身震いした。その間にも、話は続けられている。

「あなた、顔色が悪いようだけれど、どうかした? まあいいわ。とにかく」

 アキホは言った。

「あなたたちを騙すことで、私は誓いに叛逆される。魔女が何を恐れるっていうのも、業腹だけれど、そのためにだまさない。いいえ、魔女は恐れない。誓いに叛逆されるのを赦さないのは、誇りが許さないからよ。それに都合の悪いことを黙ってはいたけれど、結果として、つじつまがあい、いえ、つじつまがあわなくとも、あなたたちはみな五体満足でここにいる。なんやかや、東の街にいられないようなのっぴきならないことになったのも、その途中経過であると思ってほしいものね」

 つまり、と、ローマンは聞いた。アキホは頷いた。

「聞かれれば答えるし、拷問しようが、なにも出てこない。やめる気もない。やめない。離反したいのならどうぞ?」

 それも掌の上か、というようなことを、オズがうめいた。アキホはだるそうに言った。

「私はそんなにたいした存在じゃないのよ。むしろか弱い貧弱な生き物と思ってもらいたいものね。証拠は、そうね。私自身が私に憤るのを一番堪えている。ずっとね」

 甘味や酒でもないとやってられないくらいにね、と、アキホは言った。「そのために無駄な手間も割いている」とも言った。

「無駄な手間?」

 聞かれれば答える、と言ったので、ためしに聞いてみた。話がそれかかっている。ローマンとオズは気づいているだろうか。

 気づいているだろう。

 となると、これ以上続ける必要はないだろう。アキホは答えた。

「身体を欲しがっていると言ったでしょう? 私には身体がない。ないものは、再現するしかない。で、身体を再現するなんて無茶をやるのはひとつだけね。魔術ね」

 グランスはとりあえず、眠そうに欠伸をかみ殺した。

「寝ましょうか」

 おい、と、言う顔をしたオズが、見た。ローマンは何を考えているか分からない。

「私は彼女についていくわよ? ああ、アキホ。ひとついいかしら」

 グランスは言った。アキホ、と、名前で呼んだのは、そういえばこれが初めてであるように思う。

「何?」

 グランスは言った。

「できるだけあなたがミミズになることを祈っているわ」

 お休み、と、グランスは席を立った。寝に行ったのだ。今日はリフレッシュ……楽しんだが、疲れもした。できれば、まだ醒めたのが完全でない、ちょっぴりの充足した気持ちを抱えておきたい。アキホが首を傾げた。

「……ミミズ? ってなに?」

 その日はそれで終わった。

 翌朝になると、結局、オズとローマンも行くことを決めた。

 至る、現在。

 とんでもないお人好しよね、と、グランスは呟いた。

 小さい声だったので、聞こえなかっただろう。

 とはいえ、道は狭くない。徐々に大きな通りへ出ている。

 こんな朝早くにどこへ向かうのか。すれ違う人間も、ちらほら見えた。みなそのような目をしている。

 ただ一人だけは、グランスたちに頭を下げた。

 グランスは驚いたが、それだけで済ませた。オズとローマンも何も言っていないが、その頭を下げた――風貌からすると、たぶん老婆だと思う――が、何者か。

 そして、なぜ頭を下げたのか、気になっていたようだ。しかし、人影は頭を上げて、何も言わないまま行った。今は朝もやのむこうへ消えた。

 その様は少し幽霊のようだった。

 グランスは音も立てずに生唾を飲み込んだ。そして、何とはなしに不機嫌になった。

 昨日から、急に幽霊に怯えている。

 そのきっかけとなったのは、オズの挙動だった。

 オズとローマンは、声を立てて笑うか、きょとんとするだろう。だが、自分は繊細な人間だ。

 臆病で、荒事にも向いていない。

 危険な外を歩きたくない。

 ふかふかの布団につつまれて、朝の暗がりの中で、男に抱かれて、安寧をむさぼっていたい。

 そのような望みを持つ。これは、笑われる。

 誰でも人間はそうだからだ。

 別に繊細でも、臆病でもない。恥ずかしくはある。恥ずかしげもなく言ってのけるのは、恥知らずでもある。だが、世間は、恥だ。恥で恥を塗り重ねるほど恥だ。恥であふれかえっている。

 その恥をつついてほしくなくて、人間はさまざまな反応をする。笑い話にする。タフになる。潔癖ぶる。純情を装ってるふりをして、本当に純情である人間になることもあるかもしれない。

 当然、グランスも恥をつついてはほしくない人間だ。そこにこそ、あるいは安寧はあると思っている。

 だが、あまりにも下らなすぎた。気が遠くなるほどに。

 だから、この魔女についてきている。

「はあ」

 グランスは言った。

「溜息をつくと、幸せな運命はそっぽを向いて、あなたに砂をかけるでしょうね。黒い獣のように」

 アキホが言った。これは魔女の呪い、と、付け足してくる。そのアキホがどこにいるかというと、三人の前を歩いている。道案内役なので当然だ。ただし、これからいく領主の「庭」なら、オズも行き方を知っていた。

 恐越公は、未踏破領域の怪物を打倒した。五〇〇年かかっても人間には成せない偉業を成した。――追放者の楽園にいる人間には。偉業。

 まあ、それは置いておいて、その証とするため、というのが表向きの推察である。

 恐越公は、そのことについて何も語っていない。

 天意である、と一言だけ言った。どうも、宗教かぶれがしている。

 宗教かぶれというのは、大変危険である。

 グランスが聞き及んだところによると――アキホから、役にも立たない無駄な知識として、無理やり聞かされた。

 人は、自分の知識を自慢する為に知識を肥やす習性がある。賢い人間でも、愚かな人間でも、同じである。アキホはどうやらそのケがあるらしかった。あるいは、グランスへのだいぶ婉曲な嫌がらせともとれる。

 そのように思ったわけは知らない。そもそも、嫌がらせと言うのは、相手が嫌いと言うのが前提としてある。

 だが、アキホは、嫌うということがないようだ。

 つれない態度をとるのは、半分相手に合わせている。

 もしくは、不必要か、邪魔か、そのような認識だ。苛立ちと言うものがない。

 これは人間として不自然である。そのような人間は、いないからだ。

 それは幻想で、想像しうるどのような人間もこの世にはいる。あるいは、想像し得ない人間がいる。

 それは、人間が、育ってきた環境や、過ごしてきた外界からのなんとやら。つまり、刺激があるからである。

 それは、見識を広げ、同時に、見識を固定する。視野を狭くする。見えなくする。

 そして、人間が人間である以上は、そこから逃れることはできない。

 話を戻そう。

 といって、逸れたわけでもない。

「恐越公ってどういう人?」

 グランスは言った。とはいえ、今さら聞くことでもない。可笑しみを感じて、ほほえむ。

「お人好しよね」

「まだ、なにも言っていないけれど?」

 アキホが言った。むろん、独り言だ。グランスは、肩をすくめた。アキホが言う。

「怖ろしい人物よ」

 言う。オズが、むっとしたように、そちらを横目で見た。意外な反応だが、意外な反応でもないかもしれない。

「まだ若いらしいわ。といって、成人はしているけれど」

 アキホが、構わず言ったところによると、即位して年は浅いらしい。

 しかし、領内の政には、関わっていたという噂がしきりである。

 よって、領主となってすぐ、次々に偉業を成した。

 その最たるものが、未踏破領域の怪物の打倒であることは、何度も触れた。

 実を言うと、この領主がやったのはそれだけだった。

 ただ、怪物の打倒というのは、先に触れるとおり、ただ事ではない。

 これは、周辺諸国に威を唱えた。

 もっと具体的に言うと、すさまじい軍事力である。軍事力とは、力である。

 この力を持つことを、周囲に知らせるということは、よその国や領地に対する、発言力、交渉力を持つことになる。

 もっと言うと、恐怖である。

 これによって、まず人は他人に従い、言われた通りのものを差し出す、という側面が、国のあいだではある。

 もちろん恐怖だけではやっていけない。

 これを保ったまま、折衝し、現在に至るのは、間違いなく恐越公の実力、というか、手腕によるものだろう。

 ただ年若い領主である。 

 おまけに、知恵に長じている。行っている。

 これは個人をなめられる要素だった。

 つまり、恐越公は頭でっかちのお坊ちゃんであり、周りのおかげで、その功績を上げられた。おかざりの領主である。

 多国間の情報伝達に、未熟さ、馬や車による人伝てというのが、つきまとう以上、どうしてもこれは避けられない。

 それに、土地を治める頭というのは、まず人前に出ない。他国、他領地に行って姿を見せるなど、さらにない。

 で、恐越公が領主になったのは、まだ年浅い。

 それ以前の経歴などは、むろん、関心があるはずもない。周到な他国、他領地の者ならば、これは、くわしく内偵をして、評判をすでに確かめ、証拠を握っている。

 その者らは、恐越公を、ひとかどならぬ人物と認識はしている。

 なんにせよ、ただならぬことだ。

 恐越公は、その名の通り、行動を以て自身を示した。

「その候に拝謁するとして、それがなんに繋がるのか?」

 ということを、アキホは、だんまりを決め込んでいる。ただ何となく凄そうな人物に御目通りするのだということは、このときさらに、理解できた。

 そのような偉い人物に、どうやって自分らうすぎたない、というと自虐が過ぎるが。

 世間的には、人畜無害であることより、下に見られている、うだつの上がらない、冒険者という立場の人間が、どうやって、御目通りすることにこぎつけられたのか。

 それは分からない。

 いや、グランスにはひとかどの予想はあった。

 しかし、グランスが考えつく程度のことなら、もう一足も二足もはやく、オズとローマンは気づいている。はずだ。

(ロクな事じゃないわよね)

 結論としては、そうである。

 この際、東の街から出て、東の国で逃げ回る生活や、組織に痛めつけられて、ひどく不便な状態で(そのような状態で長く生きるはずもない、とも言えるが、都合の悪いことは、悪いことへと転ぶのだ)生きることになるとしても、今よりはまし、という羽目になるかもしれない。という予想である。でなければ、オズもローマンも陰気を通り越して、追いつめられた獣の雰囲気をちらつかせたりはしないだろう。冗談ではないのである。

 だが、アキホが黙ってついてこいというのなら、黙ってついていくほかはない。

 そのような状態であることも確かだ。

 いや。

 本当にそうだろうか?

 それは考えてはならない。

 やがて、拝謁の場についた。

 そこは、恐越公の領内における居城である。

 なんのことはない、自宅のようなものだ。

 グランスは、そのとき、ふととてもしょうもないことを思いついて、それに密かに笑った。陰りがあった。

 拝謁、とやらに使われる場は、一言で言ってしまえば館だった。居城ではなく居館であろう。

 それがなんの変哲もない館である。金は掛けてあった。金を掛けてある、と、ローマンが正確には言った。一介のそこらの冒険者ふぜいなら、一生足を乗せられそうにない場所である。靴で絨毯が汚れるし、冒険者の現役は短い。あと死亡率や離脱率が高い。

 怪我をして、王府に行って、最近流行っていると噂の(王府が金を出して行っている事業で、新たな働き口を開拓すると言っている。もちろん東の国での話だ)生活安定所にいけば、飯と保護を受けられるから、長生きするなら、冒険者を続けるよりいいかもしれない。冗談だが、人によりけりだろうとグランスは思う。

 絶対に、指貫の手袋をしたいつもの手で触りたくない調度品、そういった周りを埋め尽くす高価な代物を見ながら、ふと宗教かぶれのことについて考える。ちょっと前に思いついた話だ。

 述べた通り、アキホから聞いた。もともと西の国に宗教はない。信仰はなかった。

 これは東の国も同様だ。このため奇跡が起こらないとも言われた。神なき地、見捨てられた地。

 宗教とは、というか、人間より上位の存在を崇める。これに必要なのは、まず土地である。それから人間である。

 人間がそこで生活するうえで、人間より上位の存在は発生する。つまり昼や夜、自然現象といったものである。人の手ではどうともできないもの。そして苛烈なもの。

 これを鎮めるために土地に根付いたもののなかから、神やそれに類する存在が生まれて、信仰される。信仰は続くことで根付く。

 しかし、追放者の楽園にはそれがない。理由としては、ここの人間たちはみな、押しやられてきた。歴史が無かった。

 乾いた大地である。突拍子もない神の存在を信じるには、新たな信仰を建てなければならない。だが、それほど荒廃しなかった。

 西の国は荒廃した。よって、信仰のようなものが根付いた。

 いわく、その信仰に名前はない。

 しかし、今いる、恐越公の領地、ひいては、そこに建てられた正五閣陵という、ひとつの国のようなもの。

 そこと対峙する正統騎士団領に、この信仰は根付いていた。

 天の庭の血統。

 その正統なる血統に連なるもの、というのが、この信仰の中心にあるものの主張だ。

 その天の庭とは、今の、立ち入ることも出来なくなった閉ざされた世界のことではなく、その元となった天の庭。

 ある王が、大勢の奴隷と、年月を使って打ち建てた建造物。

 その王に属する国のことだ。

 この血統である正統騎士団領には、法術に対する所有権がある。

 彼らの考えによると、今の天の庭と呼ばれるあの土地の中にある法術は、元は、天の庭を打ち建てた王国に生じたものである。

 繁栄もそこから広がった。そして、追放者の楽園に出回る法術倶、あるいは、法術葬装。

 これらは、いわばその証である。正統騎士団領は、そう主張して、追放者の楽園に出回る全ての法術倶への、所有権を主張している。

 実際に返還を求める、と称して奪い、求め、これを集めている。東の国ですら、たまに騒ぎが起こるほどだ。

 宗教かぶれ。彼らは危険だ。

 同じように、――もし恐越公が、本気で、正気でその言動をしているなら、やはり危険ということになるだろう。

 グランス達は丁重に通された。

 どのように待たせられるかと思ったが、意外にも一室をあてがわれた。広い屋敷、というのは確かだ。なんの変哲もない館というのは言ったが、その大きさと広さ、また敷地だけは、並大抵のものではない。

 一室には、ローマン、オズ、アキホら、ここに来たときに揃っていた者のみが集められた。集められたというほどでもない。普通に案内された。

 扉が開いた。

 ノックもなしに開けた輩がいる。

 この館の使用人やなんかではないだろう。さきほども、顔を出した者がいた。そっちは普通にノックをしていた。

 所作が細かく、隅々まで教育が行き届いている。そんな感じだった。しかもまだ若い。

 若いといっても、二○の前後だろう。

 笑顔と給仕服が素朴な娘だった。さぞもてそうな顔立ちをしていた。男好きのしそうなという顔のことだ。ただ、たぶん、あれは同性にも好かれるだろう。

 妙なそんな魅力があった。

 扉が開け放たれて、グランスはぶっと、噴き出しそうになった。

 入って来たのはスミスである。見間違いではない。いや、見間違いでないのはわかる。

 なぜなら、スミスはこちらを真っ直ぐに見るや、顔をしかめたまま「やっぱいたか」と、呟きながら、近づいてきたからだ。

 反射的に口元を押さえた(噴き出しそうになったのをこらえたためだ)グランスを、きょとんと眺めていたオズが、闖入してきた男に、驚いて泡を食ったような顔をした。しかし、何も言わない。

「こんなところでなにしてる」

「あんた、誰よ」

 グランスは口元を押さえたまま、ぼそぼそといった。正直、驚きから醒めやっていない。

 なにより、不快の感情が露わになった。宣言した通り、グランスは本当にこの男が嫌いである。そのため、嫌悪が先に立ち、口がどもった。

「そういうのはどうだっていい、お前な、分かってんのか」

「おい、スミス。いきなり何だ」

 部屋の扉を開けて、もう一人入って来た。今度は、グランスは別のことで意表を突かれた。これも顔見知りだった。

 なにせ、ゆうべ、飲み屋で見た顔である。一緒に酒を飲み、ほそぼそと話をした。バーミィの顔見知りであるという某だ。その某が、こちらを見て、「君たちか」と、気まずそうに言った。

 気まずそう、とは言ったが、萎縮した感じは微塵もない。今日は平服ではない。武装をしている。

 バーミィの顔見知りということだ。なにかの熟達者なのだろう。

 引きしまった肢体を鎧でところどころ包み込んでいるが、これが半身鎧ともいうべきもので、およそ実用的には見えない。右腕の、前腕の見える部分には、なんに使うかもわからない、突起と六角形で構成されたような、小さな金属片を装着している。妙な出で立ちだった。そのくせ、剣の一本も帯びていない。

 左肩と左胸をななめに、右胸をやや含んで、腹部を包む板金鎧のできそこないのようなものを付けている。さらに頭部は覆っていなかった。まるで飾り物のような鎧だ。

 そこでふと思いついたのは、これは祭典の場などにおいての、見た目を重視した祭礼装であるということだ。実際にそうであるかはわからないが、とにかく、堂々とした某は、姿が見事で、態度も折り目がついている。

 スミスは、ふとそこで反応した。

「君たち? 知り合いかよ」

「知り合いの伝手だが、昨日知り合ったばかりだ」

 短く言って、行くぞ、と、スミスを促す。スミスは渋った。

「待て。こいつらと話があんだよ」

「駄目だ。拝謁の時間はもうない。君も戻れ」

 スミスはあー、と跳ねつけるように、硝子飾りを押し上げて、ごねた。

 その瞬間だった。

 景色が変わった。

 一瞬である。





 場。

 白い壁が、どこまでも続いている――としか表現しようのない。

 

 そんな場所だった。

 転移は唐突だった。そう。

 転移である。

 おそらくは、魔術の力だ。景色の切り替わり。状況の変わり方。なんの力も働いた気配のない、この「独特な何をされたかわからないうちに、何かをされた」力の働いた、と確信できるのに、感覚だけが全くない、この感覚。矛盾の実現。

(間違いない、これは魔術だ……「法術」だ)

 グランスは呟いた。

 場所は見渡すと、えらく広かった。

 追放者の楽園にはこんな場所はないだろう。そんな空間だ。広い。

 ただただ広い。そして、広い中に、何もない。

 その広さが、追放者の楽園という世界で考えれば、有り得ないほどに、大きく広がっている。天然の洞窟でもないだろう。地下空洞。それならば、あるいはとも思う。

 そのようなだだっ広い、広さと、天井の、真四角、に見える、白い部屋の中にグランスらは、ぽつんといた。おそろしくぽつんといた。

 部屋の中には、グランスらだけではなかった。何人もいた。いや、何人もどころか、数十人はいるだろう。

 状況から見て。

 どうやら、ここに「転移」したのはグランスらより先らしい。というのも、後からぞくぞくと人が増えてくるからだ。

 転移だ。転移させられている。

 でもなんのために? アキホが欠伸をするのが聞こえた。

 寝ていたらしい。

 というよりも、少々おかしかった。いつのまにか立っている。椅子に座っていた、たとえばグランスも立っていた。

 普通は、そんな状態で、なにもない空間に移される。つまり、まあ、もともと、それ自体がありえない話なのだが、ありえたとして。

 そうであったなら、すとん、と、腰をぬかして転ぶはずである。

 それが立っている。アキホも、立っている。だが、立ってなどいなかった。さっきまでは。そもそも「寝ていた」のだ。

 まあ、もともとがおかしいという前提であるから、これは無視していいだろう。

 移された人々も、同様であるのか、ざわざわとどよめいている。しかし、ぽかんとしたようで、大きく騒ぐものが誰一人いない。古来からの迷信として、人を化かすとされる、そのような獣のたぐいは伝えられているが、それのあやかしにあったようである。

 アキホがああ、と、そのとき言った。

「どうやら無事着いたみたいね、天の庭に」

 アキホは言った。

 そうなのだ。

 そう。

(そうなのだ)

 グランスは、先ほどから、打ち消していた。忌まわしいと感じるのである。

 この場に満ちる空気がだ。

 気味が悪い。

 不快である。

 居心地がいいとは言えない。

 けしていいものではない、当時の記憶を呼び起こす。

 それら、もろもろの感覚が告げていた。

 ここはあそこだ。

 あそこ。天の庭。

 いや、そんな名前ではなかった。天の庭ではなかった。なぜならば……。

「転移完了。作業工程に移ります。エラー」

 ぎくりと、グランスはふりあおいだ。声が上から聞こえてきたのだ。でも、幻聴だと最初は思った。空耳だと。気のせいだと。

 空中には、なにもない。ぶわりと、グランスは汗が噴き出るのを感じた。

「おい、どうした、グランス」

 オズが言った。やけに焦っている。この状況にだろうか。最初、そう思った。だが、どうやら、違うようだ。オズが見ているのは自分の顔だ。

「なにが」

 と、聞き返そうとして、声が掠れた。がちがちと五月蠅い音が耳もとで鳴っていた。自分の歯が鳴っている音だ。グランスは、そこでようやく気付いた。頬をなでる。

 なんの感触もしなかった。しかし、べっとりと手が濡れた。それを見下ろして、全身がしびれているのに気づく。おえっと、えづいて、どうにか胃の中身を吐き出すのを、ぶちまけるのを、グランスはこらえた。

 気づくとへたりこんでいた。床に手をついている。しかし、情けないが、立ち上がれない。膝が笑ってしまっている。

 別に、「そこ」に関して、なにかがあったわけではない。そこはそこ。故郷としての実感もない、故郷だった。生まれた場所のことである。

 次に「そこ」というのは、ひらたく言えば天の庭だ。だが、そうではない。■■■■■と、自分たちは、そう呼んでいた。自分と、自分たちは呼んでいた。今では、グランスは呼べない。

 どうも、それは、なにかからくりがあるようで、一度天の庭から出た者は、追放されたと見なされるかなにか、実は知らないが、とにかくそのようになる。余所者になる。そうなると、呼べなくなる。そこの中で口にしていた、そこを意味する言葉は、一切口に出来なくなる。

「話をしましょうか。コトが始まるまで、もう少し時間があるようだし」

 アキホは言った。見ると、その手に何かが浮かんでいる。小さな人だった。それが、せわしなく動いている。人は何人もいた。中に、ベッドから身を起こした、やけに年を取った男がいて、それがその中で偉いらしい。

 白い服――白衣を着た医者、医者に付き添われている。それで、周囲に、もしゃもしゃと、何か言っている。わめき散らしている、つもり、なのだろう。

 そう感じたのは、男の身振りが、やけに弱々しい。手からぼんやりと光る管が数本のびている。これは、薬や、もろもろのものを、男の身体に供給している。腕に繋がってはいるが、感覚は無いはずである。望めば、視界に入れても認識できなくなる。自分はなにもされていないと思う事が出来る。

 全部、経験ずみのことだ。グランスは思いだした。

 要するに、アキホは、どうにかして、どこかの映像を映し出しているようだ。映像は言った。「エラー。原生種四九体。エラー。実行できません。必要数に足りていません。条件を満たしていません――」

 アキホは、映像を消した。

「要するに、天の庭にはね。病があったのよ。不治の病ってやつ」

 アキホは言った。周囲は相変わらずざわめいている。だが、それも静かになりつつある。羊の群れのように、人の群れがある。グランスは、その騒いでいる声がすうっと遠のいて、代わりに、聞きたい声だけが耳に入るようになる。

 アキホが何かしたのか。よく、なにかする女だ。

「病?」

 ローマンが言った。バカ、と罵りたくなった。

 その女に喋らせるな。だが、グランスは相変わらず、口元を押さえたまま立つことも出来ない。オズがしゃがんで、背中に手を当てている。だが、その感覚も遠い。

 全身が痺れたようになっていて、そのくせ、感覚はひどく遠い。聴覚だけが、かろうじて働いているような。

 吐き気のする気分だ。いますぐぶっ倒れてしまう。いや、ぶっ倒れはしなかった。なにかによって活かされていて、それがなければ地面に寝転んで、埋まってしまいたいような気分でいる。頭があるのがわずらわしい。頭痛の気配だけが、こめかみでじんじん鳴っている。

 きっと土気色をしている、と自分の顔色を推察する。時間がひどく遠かった。目指す。めざすところはどこだ。

 アキホが続けた。

 ようやく、グランスは落ち着いた。というか、慣れた。

 どうにか立ち上がる。オズに礼を言う。まだ吐き気は収まっていなかった。

 そう、ここに来たことに反応したのだろう。

 ここはまるで、それに、あそこだった。

 遠い昔にいた場所だ。実験棟。

 そんな具体的な名前がついていたか、聞いた覚えもない。聞かされた覚えもない。聞きたくもなかったが。

 アキホが言った。

「鐘の病って呼んだらしいわ……名前はどうでもいいか。時の鐘との接触や、影響によってかかる、身体的な病気」

 時の鐘? と、ローマンが言ったが、わかっていた。わかっていたことだから、どうでもいい。アキホのことも黙らせようかと思ったが、やめた。今は状況把握だろう。

「さっきの映像はもう一回出せないの?」

「いいけれど、うるさいだけよ。待っていれば事は起こるし……たぶん」

 適当な言葉を挟んで、アキホは気に掛けない。まあ、いい。

「天の庭の人間たちは、とてもこの病を問題視していた。なにせ不治の病だもの。天の庭の力とか技術とか、そういうものをもってしても、そんなだから、そりゃあ絶望的にもなるわよね」

 アキホは言った。

「話をしましょう。かつて天の庭は、隆盛を極めた。文化的な意味においての話だけれど、この地上において、文明というものの極点をきわめたといってもいい。実際にそうだった。それはいわゆる異世界転生によるものだった」

 その話はもうした。

「異能や超能をきわめた転生者たちは、天の庭を瞬く間に押し上げた。彼らはとても協力的で、その力を自らのために使おうとはしなかった。ただただ、天の庭の文明を磨き上げ、高めることにのみ心血を注いだ。そこにどのような動機があったかはわからないけれど、ともかく。異世界転生者をこの世に造り上げるのは、異世界転生の術だった」

 しかし、とアキホは言った。

「かつて、と言う通り、天の庭は文明として一度滅びた。文明が滅ぶ要因ていったら、病、戦い、いわゆる内的な要因と、外的な要因がある。この滅亡は、そのどっちとも言えないもので起こった。そして、今、天の庭は紆余曲折経て維持されているけれど、問題を抱えている。それが鐘の病ね」

 名前はどうでもいいけれど、と、なぜかアキホは繰り返した。そのうち、辺りが騒がしくなった。

 音がしたのだ。そのあとに、ふっと、部屋が暗くなった。今までは、灯りに照らされていたようだ。もっとも、その光源はどこにも見当たらなかった。部屋が暗くなった、という現象が起きなければ、部屋が暗くはないということにすら気付かず、おそらく灯りがあったということにも気づかなかっただろう。

「この病の解決策として、ひとつの方法がやがて導き出された。そら天の庭は、病に冒されたとはいえ優秀だもの。原因は突き止める」

 室内が、というより、何かの空間か。空間が驚きでどよめいている。子供もいたらしく、泣き声がさっきからずっと聞こえている。そのうち、苛立ってこれを止めようとしてもめ事が起こるだろう。

 人は、広い空間だと言うのに、びっしりと固まっている。動物の群れを思わせる様子だった。家畜の群れと例えようとして、グランスは、その想像を打ち消した。嫌がったのだろう。

「くわしいことを省いてざっくりいうと、それは、それで、外の人間、追放者の楽園に棲む人間を一定数集めて、加工して薬? まあ、薬に変えるものでね、はやく言えば。この場所は要するに、そういうところってこと」

 なるほどわかった。道理で、身体がショックを起こすはずだ。ここでは、か知らないが、ここは、とにかく、そういう作業を行う場所なのだ。

 似ていると感じたのは、そのためか。はあ!? と、素っ頓狂な声を上げた者がいた。オズである。アキホに詰め寄った。

「おい、なんだと。それじゃ、ここに俺達を連れてきたのは」

「この場所に連れてくるためよ」

「じゃあ、拝謁ってのは?」

 グランスは言った。横から、オズを押し退ける。オズは、進退に迷う顔をした。構わない。

「もちろん嘘よ。わたしがついたわけじゃあないけれど」

「じゃあ、誰がついたの」

「もちろん、それはこれを行っている恐越公本人よ」

「恐越公は脅されて、これに協力している?」

 ローマンが横から言った。アキホはふん、と首を振った。

「違うわよ。まあ、あなたは根がものすごいお人好しだからね」

「お人好し?」

「私が放っておけないとか言うふんわりした理由で、なにかに言い訳づけて、この胡散臭い魔女さんについてきているのだから、ものすごいお人好しでしょう。もちろん、オズもね」

 グランスは口を挟んだ。顔色はいまだに蒼白なのが自分でもわかる。

 ローマンは黙った。オズも黙っている。あまりに都合のいい話なので、自分から推測を言わないつもりでいたが、本当にそうだったようだ。むしろ、グランスは軽いおどろきを感じたが、今はそういう場合でもない。アキホが続けた。

「ま、そういうこと。で、恐越公。これはもちろんわかってやっていた。むしろ、この協力を取引にもちこんで、強力な、未踏破領域の怪物にも、たとえば打ち勝てるような、そういう法術倶の貸し出しを、天の庭に要求した。天の庭はこれに応じた。だって、外の怪物を打倒するのなんて、彼らにとったら、失敗作や欠陥品の『武器』をもってしても、できることだった。がらくた同然のそれらの類を、大量に、恐越公へ貸し与えた。取引は成立した。天の庭は病への薬を、恐越公は、怪物を打倒して偉業を成し遂げる武器を手に入れた。天の庭にも、他所の諸領地、各国へも警戒を抱かせることなく」

 今もそれは行われているというわけ、と、アキホは締めた。話を締めた。

 ということは、事がおこるということか。その割にはなんの焦りもない。

 アキホは黙って、またさっきの映像を出した。空間が揺れた。

 錯覚かと思った。めまいかと。

 しかし、事実映像の中でも、同じように、異変が起こっている。

 どこかの部屋の中、相変わらず、ベッドに寝たきりの男がいて、それを護るように人が立っている。

 しかし、闖入してきた何か、鎧でも着込んだような恰好の、しかしけして鎧ではない格好の何人かに、それが瞬く間に倒される。

 これは映像の精度の問題で見えない。

 争い?

「なんだ?」

 なにか、と、見ていたオズが言った。順応が早い。

 とも思ったが、この手のものは見ているのかもしれない。恐越公のもとで戦っていたと言った。

 怪物との戦いがどの程度のものであるかは、想像もしえない。そもそも、怪物という、その未踏破領域にいるようなのを、グランスは実際に見た事がない。

 ただ、このあいだ、ついこのあいだ戦った、目の大きな、超大型級にも認められるような、あれは偶然ながら見た事がある。

 父の研究のアーカイブでだ。

 そこには、数々の悪趣味の造形のモノらが、いくつも培養槽に入れられていた。その映像が資料として収めてある。

「これはなんですか?」

 グランスは父に聞いた。父は答えた。

「うん、科学や魔法が文明を発達させる際に、こういう寄り道をした。必要のない寄り道だ」

「寄り道ですか?」

 グランスは短い髪を揺らした。その頃、ちょうど髪がのびはじめて、切ろうか切るまいか、考えていた所だ。腕にはなにかのぬいぐるみを抱いていた。お気に入りだった、小さな獣の姿を模した、子供向けのぬいぐるみだ。

 天の庭を抜け出すときに忘れてきた。そういえば、父も処分しなかったから、自分も処分しなかった気がする。今持っていないということは、きっとどこかに行ってしまった。ああいうものは、そのような消え方をするものだ。

「争いや侵略を前提としたんだ。でも、肝心の戦う相手が成り立つ前に、文明は急激に進歩して、こういうものらは必要なくなった。なにせ、人間みんなが不老不死となったのだからね、殺す殺さないは馬鹿馬鹿しい。資源の取り合いは馬鹿馬鹿しい。不老不死ということは、何をせずとも生きていけるし、何をせずとも変化しないのだから。全員がそうなってしまった世界に、奪い合いって不要だろう?」

「よくわかりません」

「じゃあ君はいずれ誰かを殺すのかもな」

 父は微笑んでいた。

 画面の中ではそのようなことが進んでいたが、やがて、人が集められている空間にも変化が起きた。がん、がん、と、壁の一部が鳴った。そのあと、世にも奇妙な、これまで聞いたことのないような音がした。もっとも、グランスには馴染のある音だ。しかし顔をしかめた。電子音だ。

 電子音……無味、無音、無臭。無感覚。

 不老不死の実現した世界とは、基本そういうものである。

 人は、小さい視点に立てば、つまるところ、自分の身体を維持するために生きている。

 そのために行われる行為に、要請があるのが、欲求だ。

 代表的なものだと、睡眠、性欲、食欲。

 これ以外にもちまちまとした欲求はある。ひっくるめて言えば、より秀でたい、怠惰に自分の身を保ちたい、という心に栄養を供給するものものである。物欲とも言う。

 大きな欲求にもとづくちまちまとした欲求は、大きな欲求の消失で、同様に無くなる。

 つまり、全ての人間が不老不死を実現した社会は、人々に元気がなくなる。

 というのが、分析的な予想だった。

 しかし、実際は、これを失わなかった。

 体を維持するための欲求は、必要がなくなっても、勢いを失うだけで、人間からは失われなかった。

 それどころか、現状を分析したところによると、完璧な不老不死は、人間に様々な弊害を引き起こす……もっとも、それが弊害となるのは、人間自身に対してではない。

 まず感情の摩耗が起きる可能性がある。永く生きるためである。

 老人のそれとして、感覚はならないにしても、感情は、外部の刺激に鈍くなり、やがて、喪われる。

 また、残酷で愚劣になる。

 具体的に言うと、自分に亡くなったものを、外部のまだ持っているものに求める。

 生き物を捕まえて、その臓腑が裂け、絶叫する様を見るのを愉しみにしたり、それをのみ、求めて行動するようになる。

 また、際限なく、外にあるものを消費するようになる。

 不老不死になる前に、自分にあったものを、もう一度それとして感じるために、というのが主な理由のようだが、そうなる。しかし、それは不老不死の身からはすでに喪われているため、同じ消費をしても、同じ感触として得られない。結果、際限なく、これを繰り返す。

 これは、最初から、このように分かっていたわけではない。

 アキホが言った通り、不老不死までを極めた文明の頂点、それであった天の庭は、一度滅亡した。

 そのときの経験を踏まえてのことだ。

 実際にすべて起こったことであるというのも、理由としてある。具体例があったので、改善できた。

 改善後の、実現された不老不死は、そのため、大きく加減されたものだった。

 人格に配慮された。

 不老不死は最初、滅亡以前にそうされたように、一気に全員強制しての参加ではなかったし、そのため、これに反対する運動すら起きたが、結局はみな慣れていった、という、うまいところになんとか落ち着いた。いや、落ち着けたというべきか。

 そのようになるよう、多少の犠牲は払った。反対する者を排除した。

 彼ら――天の庭と呼ばれた、この場所には、二度目のそのときには、そうしなければならない、差し迫った、理由があったからだ。

 話を戻そう。

 電子音。

 とは、つまり、そういうもので。

 あくまで人間らしい感覚を残すと言う、こころみの結果のひとつであると言える。不老不死には、本当なら、これは不要だ。だが、排除できなかった。完璧な不老不死、望む形の不老不死が、それで実現できないとしても。

 それどころではなかった。

 とにかく、その電子音が鳴り、ボン、と、そのような音が鳴って、グランスらのいる空間に、扉が開いた。

 そこから、ばらばらと人間たちが入って来た。

 正確には、人間のようなもの、と表現するのが正しいだろう。

 しかし、ここでは人間、たち、として、その人間たちは、次々と、空間にまとまっていた、グランスらの、数十名、そう、「四九名」いるはずの、人間たちを囲んで立った。たちまち空間が、色を変えて、白くなった。元から白だったが、それが、また趣のちがう白に変わった。

 口では説明しにくい。しかし、見た感じでは、のっぺりとした表面というべきだった。

 影が全くないのが違和感がある。そんな壁だ。床との仕切りが見えるので、壁だろう。床も同色で、すさまじくわかりにくかったが。

 ぴぴっと、また、電子音が鳴った。

「確保。原生種、四九名確保しました」

「待て。視認と数が合わない。エラー」

 人間たちはそんなことを喋った。

 その恰好は奇妙だった。

 まんまるとした何かを頭に被っている。それは、おそらく、人の頭をおおって、一回りほど大きい。

 その下に胴体がついている。こちらは白い服の上下を着ている。袖が長く、境目もはっきりしない。特定の植物の中には、加工して丹念に梳くと、白く、文字を書き起こすのに都合のいい製品が、できるものがある。これは、家畜の皮をなめしたものに代わって、流通を築きつつあるものだが、グランスも目にしたことがある。

 その真っ白な表面に似ていた。目がおかしくなりそうな白さだ。

 それらが、これまた白いなにかを構えている。

 これは、見た事もない素材だが、間違いなく石弓だった。

 その割に奇妙なのは、彼らは誰も、矢の筒を持ってはいないのだ。

 しかし、それなのに石弓には矢が番えられ、おそらくはグランスらを狙っている。

 こんなもの突破できるのでは、と、だれかが思っても不思議ではない。

 グランスとしては、ひそかにそれを恐れている。とくにそれをやりそうなのとしては、オズがいるからだ。

 逆らっても無駄である。

 とはいえ、オズは暴発することもなく、そこにいる。目は物騒だ。騒ぎを起こすか迷っている。

 囲んでいる白い服の連中も悪い。

 妙に足並みが浮ついている。

 いや、それでも逆らっても無駄である。

 オズに密かに耳打ちしよう、と思っている横で、「騒がないでよ」と、アキホが囁いた。これは、グランスらによく聞こえた。が、白い服の連中の一人も、ぴくりとこちらを見る(ような)気配がした。正確には、丸い大頭が、そのように動いた。

「走査に掛からないやつがいる」

「誰だ」

「静かにしろ」

 一人が言う。

 すると、白服らが黙った。もともと、それほど喋っていたわけでもない。しかし、ぴたりと収まった。静かに、と注意を促した白服の一人は、頭のどこかに手を掛けると、ぴ、と電子音を小さく鳴らした。ぱしゅ、と、あっけのない音がした。

 空気の詰まった粉の袋を叩いたような、あっけない音だ。その音と共に、その白服の姿が変わった。

 大きな頭の部分が、一瞬で、溶けるように消えて、白い服がみるみる姿を変えた。

 変えた、というより、芝居の幕が取り払われるような、唐突さで、下から新しい服が現れた。それは、銀色を、色あせさせたような鎧の形をしていた。

 というより、そのものにしか見えなかった。ただ、芝居の小道具じみていた。

 それが白い服に成り代わって現れ、一人の人間の姿を形作った。早く言えば、板金の鎧を身に纏った人間である。厳しい眼差しをしている。だが、それはどこか針のようであって、追放者の楽園の中では見られないものだった。

 板金鎧と、その下を鎖帷子に身を包んだ、しかし、どこかそれらは書き割りとか、芝居の道具じみている、といった一人は、グランスらの方を射抜くように見た。

「疑いのある者らは分ける。私が連れて行く。一名は私に同伴。残りは、退去処置にかかれ。過去の■■■■■参考にし、十分注意して当たれ。文明の存続に関わるぞ」

 白服らがてきぱきと動き出した。多少、グランスらと一緒に送られてきた者らに動揺が走ったが、白服の声掛けで静まっていった。

 板金鎧が言った。

「指名する者は「わたし」と来てもらおう」

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