第七章 空飛ぶジークリンデ
潮汐は一日二回あり、約半日の周期で変動する。少しづつ遅れていく為、岩礁で行う漁の時間は日々ずれていくことになる。今日の引き潮は早朝である。子供や老人が滑る足場に注意して浅瀬を探る。男女を問わず若者と壮年の人々が流れに注意して声を掛け合いながら素潜り漁を行っていた。
陸地ではそこここに塩田が広がり、作業する人々の姿があった。
エルレヴェ半島は冠を被った水鳥のような形をしており、水鳥半島の異名があった。嘴と顎の下辺りがマルク湾でそこにだけ大きな船が付ける港があり、頭頂部とスッキリ伸びた首筋から大陸側の広範囲に岩礁が広がり、ぴょんと突き出た尻尾の様に見える岬まで続いていた。その為この地域で採れる塩は鳥のマークの包装がされているのだ。
岩場に馴れた老翁の先導で、プロスペロは浅瀬の漁に参加させてもらった。滑る足元に馴れない少年はよく転び周囲を沸かせた。内陸で育ちで泳げないものだから、自分と同じ年頃の子らが潜っては、大きな獲物を獲って水面に現れるのを、指を咥えて見ているしかなかった。
「泳げる程度じゃここらで素潜りは無理ですじゃ。岩場の形や潮の流れを知らんとね。それでも毎年何人も死にますじゃ。岩に裂かれた死体は見れたもんじゃないですじゃ」
少年らしく大きな獲物を獲りたがったプロスペロを老翁は諭した。
延々と続く岩礁の至る所で大勢の人間が働いていた。プロスペロの住む、地の果ての様な辺境の村の人口はたかが知れている。祭りでの賑わいでさえ今朝の人出に敵わない。こんなに大勢の人々と一か所で作業するのは初めてだった。潮の匂いが形容する言葉を知らず生臭い。
老翁は岩海苔をこそぐ。岩塩が希少な山地では塩を多く含んだ岩海苔が重宝されていた。足腰の弱った老人のよい収入源であった。
「何、か…採れた?」
大きな水溜まりに落ちたプロスペロは半裸になっていて、細い身体を朝陽に晒ながら、ズージの問いに貝や小魚の入ったバケツを見せた。所謂坊主だ。
海辺で育っても名門の令嬢ともなると泳いだりはしない。ズージは普段より丈の短いスカートを穿いて、安全な岩場で戻ってくるプロスペロを待っていた。パロロが膝にいる。そしてツチラトも傍らで寝そべっている。
最初ははしゃいでいたパロロも、滑って海に落ちてからは大人しくズージの側にいた。
ゴーレムの課題は免れたが、プロスペロにはまだズージという大きな課題が残っていた。本来ストロベリーブロンドである髪はまだ茶色いままだ。これはズージの心の問題でもあるから、手を退いて師匠に丸投げしてもよいのだ。師匠も承知している。だが見た目と裏腹にとても真面目な魔法師の弟子は、もう少しだけ粘りたかった。師匠も領主兄弟の特訓で忙しかったし。
海に乗り出すというのにランデスコーグ側には何故か風と水の魔法が得意な魔導士を欠いていて、ごく普通の航行をしており、凪の被害にも遭っていた。船団を動かすに必要なだけの風を起こせないのだ。だから風の魔法師クルトは期待されている。
じわじわと潮が満ち始めて岩礁が水に沈む。陸地ではここをよく知る館の下男アヒムが磯焼を用意してくれていた。聖ルカス発祥の魚醤ガルムを、焼いた海産物に垂らしてくれる。初めて嗅ぐ匂いだが、嗅いだだけで涎が出る香ばしく良い匂いが鼻をくすぐる。
「お弟子さんはええとこに来なさっただよ。ようやく売り物になる地場のガルムが出来ただね」
エルレヴェ半島は折角海に突き出ているというのに岩礁の所為で港が少ない。なので常々加工品の開発に心血を注いでいた。それがが海塩であり、魚醤ガルムなのだ。
「弟が工場で働いてるが。お嬢様とお弟子様が来なさるって言うたら、ちょっこし分けてくれたが」
烏賊を頬張るプロスペロの眼にアヒムが輝いて見えた。団長さんと同じ名前ながらいい奴なのだ。
(ヤバい、断食が辛くなる)
身体から余分なものを取り除いて感覚を研ぎ澄まし、魔法に全神経を集中させる。今回もズージの為に行ったが、研究の為にもこれからも行わなくてはならない。しかしアーベントロート辺境伯領に来てから様々な料理の美味しさを覚えてしまっていた。ヤバいヤバいと心の中で繰返しながらも頬張るのを止められないのだ。パロロも青い眼をとろ~んとさせている。
「お幾らで?」
ついつい上目遣いになる。
アヒムの瞳が鋭くきらり~んと輝いた。
「量産出来てねぇだでよ、高いだよ」
プロスペロとパロロの瞳が合う。
「パロロ、俺、帰ったら妖蚕頑張るよ」
頑張って?と青い瞳が物語っている、絶対言っている。
こうして美味しい物が経済を動かし、世の発展を促していく。
ズージの背はプロスペロと並ぶまでになっていた。肉体の成長を縛るモノは消えていた。短期間で約七年分成長したので苦しいこともあった筈だが辛抱強く耐えたのは賞賛に値する。顔にも身体にも相応に肉がついて、改めて見ると非常に可愛らしかった。胸元の膨らみは期待した程ではないにしろ、ギルベルタもツィスカ夫人もレナーテも大盛だったので未来に希望を抱いている。
察しのいいパロロに後ろ脚で蹴りを入れられる。かなりきつく、噛んでいた烏賊の脚を吹き出しそうになった。
「なに…?パ、ロロどうし、たの?」
不思議そうに小首を傾げる仕草も可愛らしい。
「……髪の色はやっぱり茶色がいい?ストロベリーブロンドも可愛いと思うけど」
スッと眼が細まる。
「豚、被る?」
即答だった。
美貌の少年に真顔で言われるとドキッとしてしまうが、それだけは変えられない。
「ズージの髪の色は魔力の反映だから、茶色でもいいんだけど、今のやり方は変えた方がいいのは確かなんだ、って師匠が、実は修行不足で俺自身はまだよくわかってないんだけどね。ストロベリーブロンドはあまりない髪色だし、絶対に似合うと思うから押しだよ」
しかしズージは話を逸らした。
「……ゴーレム、作ら、ないの?」
「作らない。もういいんだ。ズージは王都とか観光地とか人の多い所に行った事がある?俺はずっとブルー・ナ・ノウスか村しか知らなかったんだ。師匠と旅行したことはあるけど、竜の卵を確かめに行っただけで、人里には寄らなかったから」
「ある……王都と、温泉の、有、名な所」
「ゴーレムってあんまり使わない?ここではほとんど見ないよね」
言われて気が付いた。確かにそうだ。何処に行ってもゴーレムをよく見かけた。アーベントロート辺境伯領全体で使わないのではない。領地の中心であるこの近辺だけである。
ベルゲマン家の始祖は風の魔法師だったが、何時しか強い力を持つ子が生まれなくなってきた。その所為で館の周辺地域では余り魔法が使われなくなっていたのだ。その事だけは聞いたことがあるのだが、ゴーレムと結び付けたことはなかった。
ズージは懸命に説明した。
「魔力がなくたって魔法陣や呪文で魔法が使えるのにね」
領主の劣等感を刺激しない為の領民の忖度でもあるのだろう。
「魔法…陣」
「一々描くのは面倒臭いだろうけど、移動魔法の魔法陣なんかは、布に描いて携帯したりするんだ。アルトドルファーさんは大抵それで来るよ」
「魔法、楽しい?私、わからない」
「楽しくやるんだよ。楽しい楽しくないですることでもないしね」
「楽しく、ない?」
「楽しいよ、そして怖いよ」
「怖い…?」
「うん、怖いし楽しい」
しばらく待ったが次の言葉はなかった。その代わりに少年は空を指差した。
「おじさんやったね」
指の延長線上に帆を一杯に張った船が浮かんでいた。他にも気が付いた人々が少年と同じように指差している。
船首を飾る、船の名の由来となったジークリンデは、一層誇らしそうに大空に向かって笑っていた。
ウィクトルの昼夜を問わぬ特訓にクルトは僅か一日二日でゲッソリ窶れていた。息せき切って館に帰ると、兄に抱きついて報告した後、嬉しさの余り次々と女性の手を取って踊り狂っていた。ギルベルタやレナーテまで興奮している。騒ぎはズージとプロスペロが帰った頃にもまだ続いていた。
「やった、やった、どうにかやった」
嬉し涙が滲んでいる。師匠の柔らかな物腰と裏腹なスパルタは、兄弟子のプロスペロには辛さがよくわかった。
「喜び過ぎちゃいけないよ。飽くまで付け焼刃に教えただけだからね。ランデスコーグを撃退したら、ちゃんとした師を見つけてイロハから教えてもらうんだよ」
師匠が念を押した。
ディートヘルムの詠唱師とて楽ではない。浄化を促す呪歌はシェファルツ王国の公用語ではない。遥か昔の使われなくなって久しい言語なのだ。しかも発音も抑揚も間違えずに詠唱しなくては意味がない。大きく力強く詠唱する為に、呼吸の仕方から短期スパルタ特訓を受けているのだ。ちょっと酸欠状態になっていた。
物問いた気なズージの視線を察して、プロスペロは説明してやっていた。
「呼吸法を習得しておくと、長時間楽に詠唱が続けられるんだ。一般的には呪文を唱える時にも使えるんだよ」
兄弟子を見るディートヘルムの表情には、口にしたいであろう悪態と哀願があることを、聡い兄弟子に悟らせた。特訓の為に不要なことはなるべく話さないようにしているのだ。
「大丈夫、詠唱師の特訓なら炎竜の雛の人生最初の食事にされかけたりはしないから」
父娘の強い疑問の視線が刺さる。
「いや、こないださ、咄嗟に使えなかったら実力わからないからって、炎竜は雛でも人間食べるのに予告なしに目晦ましの魔法解かれちゃって、マジ命の危機だったんだ」
弟弟子は納得した。その様な命の危機的特訓があるからこそ、冷静に魔法騎士たちと立ち会うことが出来たのだと。
「不思議だよね。ほんの刹那の間なのに、俺、人生短かったな~、ってハッキリ思ったんだ」
(これなの?これが「楽しくて怖い」なの?私そんなの習うの?)
恐怖に慄くズージを、パロロが擦り寄って慰める。
「プウ…」
プウと呼ばれて自分の事だとわかってしまうプロスペロ少年は素直に「何?」と問い返してしまった。それが為に彼は彼女に一生「プウ」と呼ばれることになった。
「パロロ、って、人間?」
一瞬ではあったが、師匠の殺気交じりの冷たい視線が見たような気がして恐ろしかった。少し離れた場所でクルト親子と喋っていたのに聞き取ってしまったのだ。パロロも硬直している。
(え、師匠、そうなの?え?隠すこと?)
弟弟子は妻に呼ばれて行ってしまっていたので聞かれずにすんだ。
どう答えたらいいのか、言葉を選ぶ。
「あ……俺もよくは…魔物でないのは分かってたけど、師匠が作ったとばかり思ってた」
(魂?)
プロスペロの場合は何となくわかるという感じだ。誰しもがオーラに包まれてはいるが、魔物でも人間でも地を這う動物でも、決まった色を持ってはいない千差万別なのだ。
「うん、師匠、の、感じ、するけど、人の、魂を感、じる」
「プロスペロ」
呼び掛ける師匠の声に僅かな緊張を感じた。
「ズージとパロロを連れておいで」
話の輪を外れて少年と少女と共に、クルトの快挙を祝う人々から離れた。
見晴らしのいい庭は遠くから人が近付けばすぐにわかる。それが利点だ。強い夏の日差しを避けた四阿に、師匠は《静寂》の魔法を掛けた。
海水に濡れたまま着ていた服は、乾いたのに何だか気持ち悪く、プロスペロは上着を脱ごうとした。
「女性の前で服を脱いじゃ駄目」
「海辺で脱いだから見てますよ」
ズージも気にしていない。師匠は溜息をついた。
「女性に対する礼儀というものがあるんだよ」
小袋をゴソゴソと手探りし、弟子のシャツを引っ張り出す。
「便利ですねその袋、下さい」
「自分で作りなさい」
にべもない。
「さて、ズージ、パロロに人間の魂を感じると言ってたね」
今更ズージは驚いた。兄や叔父たちと話していたと思っていたのに、聞こえていたのだ。別の事で声が掛かったと思っていたから躊躇いながら頷いた。
「凄いね。わかっちゃうんだね。これはお願いなんだけどね。人前でそれは言わないでくれる?そのままでもわかる人は稀なんだけど、一応目隠しの魔法も掛けてるんだよ」
ズージは見てはいけないものを見たような罪悪感に囚われた。
(「大魔法師ともふもふの秘め事」?「大魔法師の隠し事はもふもふに」?)
隠し事と聞いて、思わずいけない恋愛小説風に題名を考えてしまうプロスペロは、正真正銘、いけない恋愛小説中毒なのだろう。
「気に病むことじゃないんだよ。本人の意志もあるんだ」
師匠の隣にお行儀良く座るパロロが同意を表して頷いた。
「儂が昔、弟子の少女を魔法の失敗で死なせちゃったことは聞いてる?」
ズージは頷いた。母と話し相手の夫人や侍女たちが話していたのだ。
人の予想の斜め上の行動をとる年頃のプロスペロは、途端にパロロの後ろ脚を開かせて確認する。
「少女?性別ないですよパロロ」
掴まれた後ろ脚が馬の蹄となって不埒な少年に炸裂する。師匠の魔法が展開して少年を捉えると、縛められ逆さ吊りにされて檻の中に収容される。
「師匠御免なさい。もうしません!?」
「一度したら二度とする必要ないからね?信じられない?何て無礼なんだろう?儂は何処でどうしてこんな子に育ててしまっただろう。ご免ねパロロ」
檻の間から入り込んだパロロは前脚や後ろ脚で殴ったり蹴ったりした。
「そうそう、師匠の育て方が問題なんですよね」
忽ち水を張った盥が現れて吊られたプロスペロの頭が沈められた。しばらくして自動で引き揚げられ、また沈められ、それが繰返される。
「儂がズージと話してる間、頭冷やしなさい」
「え、ちょっと師匠、これは家庭内暴力…ぶくぶくぶくぶく(の域に達してます).。o○」
(魔法って便利…)
「最近の分まとめてお仕置きしとくね」
師匠は冷厳と言い放った。
お仕置きがきつい気もしたが、プロスペロを庇う気にはなれなかった。
様子を覗きに来たクルトも、会話は聞こえなかったが兄弟子の様子を見て引き返した。
「危険だとは思わなかったんだよ」
息を整えて語り出した声は柔らかく静かだった。
ウィクトルは臆病だが内に強いものを秘めた少女を信じていた。もっと難しい魔法を使える能力だってあったのだ。だから彼女の怯えを気にせず魔法を使わせてしまったのだった。
彼女の肉体が塵となって四散する中、ウィクトルは懸命に彼女の魂を探した。何とか一部を捉えると、彼女の作ったパロロに魂を入れたのだ。彼女はパロロの内ですぐには覚醒せず、何十年も可愛いだけだったが、プロスペロという幼児をブルー・ナ・ノウスに迎えたのがキッカケとなって意識が目覚めた。
ウィクトルは彼女に合わせて、話も出来るように人型を提供しようとしたが、彼女はパロロであり続けることを選び、家族に連絡することも拒否したのだ。
正直彼女にどんな罵詈雑言で罵られるだろうと覚悟していたが、肉体を持っていた頃と同じように彼女は穏やかで、責める素振りも一切見せなかった。
話が終わると、パロロはニッコリと笑った。釣られてズージも笑う。
「俺、全然分かりま…ぶく.。o○」
「個々の能力があるからね。優劣じゃないよ。それにズージとクリスタの波動は似てるから、それもあるんじゃないかな」
(クリスタというのね、先輩は)
改めてよろしく、と言いたげなパロロがズージの膝に移った。
強い魔力を持つ人間は、それを制御し安全に行使する為に魔法を学ばざるを得ない。これから本格的に魔法を学んでいく上で、ズージも覚悟をせねばならないことだった。とても怖いがこのまま自分の部屋で丸まってはいられない。彼女の寿命は長くウィクトルは五百年は行くだろうという。ほとんどのベルゲマン一族は魔力が弱く、寿命も極普通の人間と大して変わらない。自分が死ぬ頃にはこの館の主人は血の繋がりもわからない位の遥か彼方の子孫になっているだろう。いや、ベルゲマン家が続いているかどうかも怪しいのだ。その事についてはウィクトルと二人で長い時間話したことがあった。怖いと怯えて優しい家族に甘えていても、ズージの未来は開けない。父母兄弟のいない時間の方が長い人生を生きていかねばならないのだから。
「魔力を感じませんけど、それも隠してるんですか?」
いい根性であることは認めよう。プロスペロはお仕置きを受けつつ、質問も忘れない。
細く長くて柔らかい毛が指先に心地良い。白い毛は何時だってふわふわで人の心を癒す。青い瞳は自分の境遇を受け入れて挫けず、好奇心に満ちて、生きる楽しみを捨てたのではないと教えてくれる。
「隠してないよ。魔力の回復は望み薄だね」
「美少女でした?」
そこが最大の関心事だ。
「とってもね」
「俺そっくりな人型頑張って作りますよ」
凝りない少年は肉食系男子でありながらMの素養を隠してでもいるのだろうか。水に浸けられる時間が若干長くなった。
当のパロロは呆れた様子で少年を見ている。
「ランデスコーグを撃退してから言おうと思ってたんだけどね。今ブルー・ナ・ノウスに君の師に良さそうな魔法師が来てるんだ。彼と一度会ってみないかな?しばらくここを離れてブルー・ナ・ノウスにお出で」
自分の未来は自分で切り拓かないといけない。ズージは頷いた。
しばらく後、ほっぽらかされた弟子は自身でお仕置き魔法を無効化して、力尽きて寝転んでいる所を、ゴーレムのファンニに足を持たれ引き摺られて部屋に連れていかれた。
一日を有効に使いたい。そういってウィクトルは大抵早朝に出発する。残ってくれた魔法師は五本の指に余り、加えて領主兄弟が船着場に集まった。
ディートヘルムはすきッとした肌艶の良い顔をしていて、まるで初々しい恋人同士のように奥方と仲良く肩を寄せ合っている。対照的に弟クルトは昨夜の深酒が過ぎたのだろう、典型的な二日酔いの顔をしていた。ウィクトルは何故かどちらにも避難がましい視線を向けたがそれも一瞬で、弟子に召喚術の指図をした。
家族だけでなく、家臣たち一同も見送りに来ていた。魔法騎士団からは表立っては誰も来ていないが、監視の目が光っているのがわかる。それでなくても大魔法師ウィクトルがどう撃退するのかと興味津々の魔法師たちがさり気なく使い魔を寄こしていた。
ここにきて師匠が意外な提案をディートヘルムにした。ズージを連れて行きたいというのだ。
「魔法騎士団の立会いだって拒絶したではないか」
「最近平和でこんな大掛かりな魔法合戦はないんだよね。だから見せておきたいんだよ。へっぽこ騎士団なんかに見せる物じゃない」
仰々しく鳴り物入りでやってきた騎士団がへっぽこなのか、それなのに見込まれた娘はどれ程の実力者なのか…、アーベントロート辺境伯家の誇りと喜んでいいのか、女子なのに物騒な人生になりそうなのを哀しめばいいのか、父には測り兼ねた。生きて帰れるかわからない戦場に行くのだ。
戸惑いを隠せなず兄に抱き着いたズージ自身も、同行を躊躇っている。当然だろう。
「師匠が領主に難しいこと言ってるよ、ツチラト。俺はいいからズージを守ってあげてくれないかな」
何時も少年の守護神である犬モドキは抱きしめられ、目を細めて頷く。
師匠は言い出したら引かないだろう。プロスペロがツチラトに願ったのは、師匠の我儘でズージが危険に晒されないように、晒されても守られる様にと他意のないものだった。具体的にどうして欲しいとも思っていない独り言の様な物だったのだ。
「あれ?」
少年の腕の中でムクムクとツチラトが巨大化し始めた。身を退いて見守ると、犬モドキからアーベントロート辺境伯家の館に飾られていた、装飾過多な甲冑の形をとる。立派な巨躯は胴体の部分だけでもズージがすっぽりと入れそうだ。というか、入ればよい、といっているのだ。胴体部に取っ手がついていて、それを自分で抓んで開閉させた。中の空洞が広い。黒い虹彩も瞳孔もない眼がプロスペロを見る。本物はそういう仕組みではない。
犬モドキの変化に息を詰めて見詰めていた人々は事態の推移に驚いた。なかには流石に大魔法師の魔法は違うと感心した者も多かった。
だが当のズージは怯えて、意味は分かったが頭を小さく嫌々と振った。自分を見てツチラトが涎垂らしていたのは極々最近なのだ。
「取敢えずツチラト。その格好で行って、ズージが危なくなったら頼むよ」
コクコクっと音がしそうな仕草でズージが頷いた。
では代わりにとばかりに大喜びでパロロが中に入る。
「流石にツチラトは《名前のない》魔物だけに行動が破格だね」
感心した様にアルトドルファーが呟いた。
「《名前のない》?」
それを聞いたベルゲマン家の長男が訊いた。
「《名前のない》魔物は召喚されても支配されないんだ。竜と同じだね。便宜上の名前はあってもその時々使役出来るだけなんだ」
「どう違うんです?」
「支配されないから自分の好きに動くんだよ。プロスペロの事を気に入ってずっと傍にいるとかね。召喚されてもいないのに頼まれれば助力するとか…」
「でも誰かに召喚されたんでしょう?」
「元弟子のディッペル殿にね。課題で召喚したけれど、契約もしなければ使役もせずに放りっぱなしさ。その場合は召喚無効で魔物は去る筈なんだけどねぇ。ツチラトはブルー・ナ・ノウスに居着いてしまったんだよ」
そういうモノに気に入られるという事だけでも、プロスペロの非凡が判ろうというものだ。
(我が家が人外になっていく気がする…)
アレキサンダーは思った。短期間に魔法が身近になってしまった。それはこの世界の人々には本来的に珍しいことではないのだが、魔法と縁薄かったベルゲマン家の人間は特異なものに思えてしまうのだ。
最後の指図を受けていた家令は、それでも不安気だった。何十隻もの大軍にたった一隻で迎撃に赴こうというのだ。
「向こうにはワイバーンや飛獣とかが揃っていると聞きましたが、人間と魔物一体で大丈夫なのですか?」
「召喚してはいるらしいのだが、現地集合らしい」
「現地集合……」
それで大丈夫なのか、と顔に書いてある。
「ウィクトル殿は余り派手な出発をして王宮方面からうるさくされるのが嫌なんだそうだ」
それでもどうなのだろう、先代から仕えて来た尊敬する領主なのだ、替えが利くものなら替えて欲しい。
まあ、これまで魔法が使えない貴族として蔑みの対象にもなってきたベルゲマン家だったから、当主が行って撃退すれば見直させることが出来はするだろう。今回の冷遇も魔法が使えない貴族が重要な辺境伯領を治めていることにある。統治能力と魔力は別物であるのだが、それが判らない者がなんと多いことか。
その事を考えると、家令の内心も複雑である。
ベルゲマン家の未来の為には行く価値があるのだが、個人として主人が命を失う目に遭って欲しくもないのだ。主人の人徳もあるのだが、ベルゲマン家には良い家臣が揃っている。それは家令の大ぴらには口にしない密かな自慢でもあった。目のある人はその事に気付いてくれるのだ。
「リンケもう一度頼んでおく。私に何かあったら妻と子供たちを頼む」
しっかりと家令の手を握って領主はジークリンデに乗り込んだ。