第四章 ワイバーンを解放する
プロスペロは集まった人数分の香草茶を淹れた。庭で採れたハーブを本の通りに調合してある。村でも欲しがられるので缶に入れてストックしてあるのだ。師匠は大抵適当に淹れたもので文句を言わなかったが、時折リクエストされるので缶ごと持参していた。
「プロスペロはね、態度は巨大だけど、凄く良く出来る子でね。作物なんかは儂が作るよりよっぽど出来がいいんだよ。だから本と同じ調合だけど、香りの広がりも美味しさも全然違うんだよね」
確かに香りを嗅いだだけで、肩の力が抜けて寛げる気がする。滅多に飲まない香草茶をディートヘルムは早々と飲み干してしまった。
夫人とズージはお代わりまでしている。
人払いされた室内には領主夫妻と娘、大魔法師と弟子だけがいる。流石に名門アーベントロート辺境伯の娘ともなると居室も広く、調度も洗練されていて豪華だ。
「飲みながら聞いてくれたらいいからね」
と前置きして大魔法師は話しだした。
人々は魔力がないから、或いは特に使える程ではないからと、野放図にしている場合が昨今は多いが、それは間違いであること。特に家族間では見えない所で影響し合い、時に多大な影響を及ぼすことがある。
強い魔力を持って生まれたズージは、身近な家族が誰も魔法の基礎の勉強をしておらず、免疫がなかった為、己の魔力をどうしていいかわからず、無意識に力を使ってしまって雁字搦めになってしまったのだ。
「赤ちゃんの頃は何ともなかったのです……」
「それは間違いでね。子供は真似て言葉や物事を覚えていくでしょ?誰も使わないから使わなくて、使い方がわからなくって、だから強い魔力が溢れてくるのを無暗に封印しちゃったの。辛かったねズージ、誰に相談すればいいかも、どう説明したらいいかもわからなくて、苦しかったろう。よく頑張ったね。強い子だね」
ズージの眼からホロリと一粒涙が落ちた。雫が膝に揃えた手に当たって、そしたら止まらなくなった。声を上げずにほろほろと泣く子を母が抱きしめた。
領主殿を慮って誰もここでは魔法を使わない。だが辺境伯ベルゲマン家である、人の出入は多く野放図な無意識の魔法が入り乱れてしまって、それは小さくても始末が悪かった。魔法が使えなかったら気付けない弊害もあるのだ。
強力な魔法と小さな魔法の群れが入り混じりこんがらがる状態では、並みの魔法医師では見分けるのも難しい。
「娘には申し訳ないと思っている。我が家はこぞって魔力のない者ばかりで、折角魔力を持って生まれたのに活かしてやるどころか、苦しめてしまった……」
「ほれほれそこが間違いね」
手をひらひらさせてウィクトルはカスパルの名を出した。
「あの子に説得されて、絶対に許すまいと思ってたのに許しちゃう事ってなかったかな?変な人や都合の悪い人にも好かれちゃって、困ることはなかったかな?」
ハンサムではあるが誰もを魅了するような魅力を持つ訳ではなく、説得力のある容姿を持っている訳でもない。それなのに人に思いとは逆の「はい」をいわせることが多い。それに妙な好かれ方をするのも本当だった。それ故に子供の頃は何人も護衛を付けておかねば、攫って行かれそうになることがしょっちゅうあった。護衛でさえ攫おうとした。最近ではアレクサンダーの婚約者の兄に好かれ過ぎていた。だからといって男色方面の愛している、ではないのだ。何故か離れていることに耐えられないらしい。
「魅惑の魔法の才能があるのに基本がなってないから、半端に力を放っちゃってるのね。魔力の強弱大小に関係なく特異な才能で大きな力を使えるのが封印師でね。呼び方はいくつかあるけど法印師もそう。お姉さんは封印師の才能があるね。中々ない才能なんだよ」
封印師は微弱な魔力でもそれに向いた才能があれば巨大な力を封印出来るのだ。法印師は主に魔法陣の開発に力を持つ。呪文もそうだ。
レナーテは自覚しない才能で、歪んだ形で妹を封印していた。しかも妹はそれに感化されて補強してしまっていたのだ。
「現役を退いた女性でね。導くのにいい封印師がいるから紹介させてもらうね。学校では上手く教えられない魔法の一つなんだよ」
数代前から我が家には魔力がないものとばかり思っていた。目から鱗であった。眼に見えないからこそ注意せねばならなかったのだ。
「家族は影響し合うんだよ。面倒だから一人一人は言わないけれど、一族に魔力が強い人もいるでしょう?一度きちんと全員見てもらった方がいいね」
「弟は風の魔法が使える。今は敵の船団を探りに航海に出ているのだが…」
ウィクトルはディートヘルムを見詰めた。
「うん、じっくり解していこう。人の心は簡単にどうこうならないから、時間を掛けるしかないからね」
「有難うございます。何とお礼を述べればいいか。私に、我が家に出来ることがあれば何なりといわれよ」
「………だったらお願い出来るかな」
そらきた、ディートヘルムには覚悟が出来ていた。吹っ掛けられても辺境伯の名に懸けて値切りはしない。
「儂ね。基本志しかもらわないことにしてるから、本当に心苦しいんだけどね」
金を取らないから村人は自分の得手なもので返そうとしてくれる。それが日々の糧になった。
「言われよ。希望に沿おう」
「ワイバーンを解放して欲しいんだよね」
王女のワイバーンだ。王女の、といっても費用はベルゲマン家から出ている。
「竜というのは鎖をつけて飼い馴らすものじゃなくてね。偉そうに言うつもりはないけど、ワイバーンは病気になってるから、解放してあげて欲しいんだ。頼めるかな」
「承知した」
「後ね、ズージの治療はプロスペロに任せるよ」
「はあ、おれぇ?」
当のプロスペロが予想だにしていなくて奇声を発した。
「儂ランデスコーグ軍の対応で忙しくなるからね。女の子の治療だよ。嬉しいでしょ?」
「でもこういうのは師匠の年の功を発揮させないと…」
「レナーテの魔法気付いたでしょ?レナーテに入知恵してたよね」
レナーテへの忠告は、師匠の名を借りてプロスペロが独断でしたものだった。
「美人だったから顔見に行ってただけですう」
ばれてるだろうし、隠す気はなかったが、師匠がこう出るとは。
「要所要所は手伝うよ。難しいからね。出来ることをやってごらん」
「待たれよ。娘の治療をこんな…年若過ぎないかね」
機嫌を損ねないよう言葉を選んで抗議する。
「そうね不安だよね」
「当然だ。私は何人もの魔法医師に頼んで匙を投げられてきた。そんな難しい治療を当の娘よりも年下の少年に任せるというのかね」
「そう。儂を信じるように弟子も信じて欲しいんだよね。プロスペロはね、態度は巨大で可愛げがなくてふてぶてしいけど、難しい事も面倒な事もとても丁寧にやるんだよ。手は抜かない子なんだ。口では何と言おうと敬う事を知ってる。儂が保証するから、どうか信じてやって」
余計な部分もあるが、そう持ち上げられればプロスペロにしてもこれ以上抗議は出来ない。領主夫妻も承知したが半信半疑で弟子を見ている。
「それとねズージ。治してもらう気じゃ駄目だよ。積極的に自分から治す気でないとね。いいかな」
ズージはこくりと頷いた。
ディートヘルムは娘の頭を撫でた。
「娘は魔法学校か寺院に入れるべきなのだろうな。私たちでは魔法は教えられない」
「ズージに学校は難しいね。治療が上手くいっても変な癖が残るだろうし、それを解って教えてやれるのはアルトワ・ルカスの聖女の下か……聖ルカスは今ややこしいからお勧めしないよ」
「儂らはよく知らぬのだ。紹介はもらえるかね」
「ううん……考とく」
「お願いする」
両親の元を離れたくなかった。大好きな両親なのだ。厄介な娘を苦言を言わずに慈しんでくれる。しかし早ければ嫁いでいてもおかしくない歳なのだ。生きていても死んでも、親元を巣立つ時期は近付いている。親も知らない世界に行くのは不安だったが、それが自分に与えられた人生なのだ。
夫人は腕に抱いた娘の形が少し変わった事に気が付いた。顔がふっくらしてきている。身体も肉がついてこれまでよりずっと柔らかい。外にやることはないだろうと思っていた娘を、一番に手放すことになりそうだった。その日が来ても忘れないようにたくさん抱きしめておこうと母は思った。
三回失敗してようやくゴーレムの錬成に成功した。
一度目は構成物質が硬過ぎて脚を上げた途端音を立てて砕けた。二度目は動きが硬過ぎて使い物にならず、三度目は柔らかくて動けるが、荷物を持つとぐにゃりとヘタレてしまった。
ゴーレムを作る難しさをプロスペロは実感していた。ブルー・ナ・ノウスのゴーレムの構成物質や、細かな部分部分を懸命に詳細に脳裏に浮かび上がらせ、そのままではダメ出しを喰らうので、丈夫で長持ちする工夫をせねばならなかった。
傍らには久し振りに庭に出たというズージがいた。幾分昨夜よりもふっくらした姿でベンチに座って見ている。師匠に魔法に免疫をつけさせる為になるべく一緒にいなさいと指示されたのだ。繭という比喩はあながち間違ってはいない。繭の様に一本の糸ではなく、多くの持ち主の解らない糸が絡まり合っているのが違うだけだ。しかも師匠が所々穴を開けた、つまりそこでブチ切れてしまった糸もあるのだ。
一本一本の糸を構成する魔法やズージの糸でなければ持ち主を特定せねばならないが、そんなものすぐに判る筈がない。絡まった糸や紐などを解したことがある人には難しさが分かるだろうが、色や素材が判っていても絡まりを解すのは難しいし神経にくるのだ。無効化魔法を禁止されてしまい、凄く凄く面倒だった。レナーテの半端な封印も彼女が魔法を知覚しなければ完全には解けない。
(何だかんだいって、面倒臭いから押し付けられた気がする)
犬モドキのツチラトは草の上に寝そべり、パロロがその上でプロスペロを見守っていた。心なしかワクワクしているようにズージには見えた。二体には魔法が感じられる。これが使い魔というものなのだろうか、触ってみたかったが怖かった。
やっとこ錬成した四体目のゴーレムを、師匠は指一本で胸を突いて粉砕してしまった。
「や~り~な~お~し~。精々三日位しか保たないよ」
塵取りと箒を借りて、土盛りになったゴーレムを片付けるのをズージも手伝った。
「ねぇズージどう思う?耐久性がないってことだよね。そうすると元の素材の土も関係するのかな?錬成の問題?」
ズージは答えたかったが声が出なかった。家族以外とは何故かちゃんと話せないのだ。これも魔法の影響なのだろうか。
プロスペロはゴーレムを作る間もズージに話し掛けてくれたのだが、申し訳ない程に言葉が出なかった。それでも気分を悪くした様子もなく、最初は返事を待っていてくれたが、その内独り言のようになった。ズージが喋れたとしても魔法の基礎を全く知らなかったから、有益な返事など出来なかったが。
元の庭に戻ってプロスペロが土を弄くりながら考え込んでいると、カスパルが陽気な顔を出した。兄の婚約者の兄のことが解決して上機嫌なのだ。ズージは明るい兄に抱き着き、受け留めたカスパルは頬にキスをする。
「どう?ゴーレムは作れた?」
「師匠に粉々にされた」
「それが残骸?」
「そう、難しくて」
「昨日は簡単そうに言ってなかったかな?」
プロスペロはチャバと同じ型のゴーレムを錬成する。
「菜園で使ってるチャバ。実物知ってるからこれはちゃんと作れる。兄姉弟子たちが作ったんだ」
これを見せるつもりだったのだ。
突如出現したゴーレムに兄妹は驚いた。
「魔法陣使わないの?」
「ああ、魔法陣ね。ゴーレムって用途別で魔法陣が違うんだよね。無料でも八十種類位あってさあ。全部覚えてないけど、重労働用はこれかな…」
胸の前で水平に魔法陣を描くと、それを地面に拡大して投影する。中心から巨大なゴーレムが作り出された。
「ちょっと大きいかな…」
細かい作業が想定されていないのだろう、指は五本あるが平べったいし、肩や脚の関節は滑らかには繋がっておらず、球形を繋げたようになっている。
(このゴーレムも使ってたら感応してくるのかな?)
大口開けて呆然としていたカスパルは、我に返ると感激して少年の肩を叩いた。
「すごい方法だな。流石大魔法師が見込んだだけある。ずっと魔法陣は地面に手描きするもんだと思ってた」
「間違ったら違う魔法になるから、普通は手描きらしいよ。師匠は魔法陣をそんなに使わないんだ。このゴーレムも使ってくれたらいいけど、師匠の課題は自力作成だと思う。でないと簡単過ぎるから」
「簡単なんだ」
「簡単だよ。魔法陣と呪文があれば魔力なくても誰でも錬成出来るんだし」
「それは聞いたことはあるが…でも君は呪文使ってなかったよね」
兄同様に驚いてズージもコクコクと頷いた。
「魔法陣の描き間違いはダメ、呪文も発音や抑揚を間違えたらダメ。そりゃ難しいよねぇ?」
正直魔力が強くて良かった。記憶力には自信はあるが、全部覚えるなんて面倒なのだ。
「ああ、魔力があればどちらも要らないんだね」
「その代わり複数作る時は同質のものが出来る訳じゃないけどね。まだ実践したことはないけど、そうらしいよ」
魔法陣で作れば何体作っても同質のものが出来るが、感覚で作るのは芸術品の様な物で、同じように錬成しても気分や体調で変わるらしいのだ。一体を同質複製すればそれも防げはする。説明すると感心してくれる。
「僕もね、明日からアルトドルファー殿に手習いする予定なんだよ。魅惑の魔法だけは取り急ぎ学ばないとね」
訳の解らん好かれ方をするのはもううんざりだ。
「俺は男が好きな訳でも、君を妹の婚約者の弟以上に好きな訳でもないんだ!?」
アレクサンダーの婚約者の兄に必死に訴えられた。
「それなのに君の側にいたくてどうしようもないんだよ」
知らずに使っていたとはいえ、世間的に彼には同性愛者を通り越して変態ストーカー疑惑まで掛けてしまい申し訳なかった。兄の婚約が破棄されなかったのは、これまでもこういう事があったからだ。しばらく距離を取って離れていたら納まるので、何時ものように叔父の船に乗せてもらって航海に出ていたのだ。
「しかしそのアルトドルファー殿でも僕に魔力があることが分からなかったんだね」
「きちんとコントロールされた魔法は解り易いよ。その人の意識下に収まるから。ほったらかしにされてる魔法は、ここは人の出入りも多いし、本人も意識してなくてワイワイガヤガヤごちゃごちゃってうるさく入り混じり合ってるから。それにある程度の魔力がないと、人の魔法を知覚出来ないって習ったよ」
ある程度以上に魔力があるので、ない状態がプロスペロにはわからない。カスパルが行ってしまうとズージに声を掛けた。
「ズージ休憩しよう。ご飯食べといでよ」
パロロが待ってました、とばかりにズージの膝に乗る。怖かったが小さいしそのままにした。
「パロロにも何か食べさせてあげてくれたら嬉しい。俺今日から断食始めたからさ」
「だ、だ、……」
何故断食するのか訊きたいのに言葉が続かない。
「ほら、ごちゃごちゃわちゃわちゃしてる、って言ったろう?単純に食べ過ぎもあるけど、感覚を鋭くして気配を追いたいんだ。修行で時々やるから馴れてる。気にしないでいいよ」
庭の木の適当な場所を指してゴーレムに待つように指示する。
とアデリーネが廊下から明るい声を投げて来た。
「プロスペロ様、ズージ様昼食のご用意が出来ておりますよ」
「俺は要らないって伝えたよね」
「はい大魔法師様がお食べになるとおっしゃられたので一応作っております。お嬢様はご一緒される様にと奥様からのご指示です」
そうなのだ、朝食の席で当分食事は要らないと告げた時、師匠はプロスペロの分も自分が食べると言ったのだ。
言葉通り修行による断食には馴れている。その隣で師匠がガツガツ食べていても気にしないのがわかっているから遠慮なく食べるのだ。
しかしだからと弟子の分まで食べるとは、アデリーネは最初信じられなかった。
「ここのパンは美味しいね。村とは使ってる粉が違うんだよ。儂わかるんだ」
簡単な話、ど辺境の村と名門貴族の家とでは、小麦だって天と地ほどの差があるのは自明の事だ。嬉しそうにバターをたっぷり塗った上に更にジャムもたっぷり塗って頬張っている。その三分の一ほどをパロロにもお裾分けしていた。主菜は海産物の揚げ物で、揚げ物は屋敷では絶対にしないので、オーロラソースやタルタルソースをやっぱりたっぷりつけて本当に美味しそうなのだ。
ズージも昨夜からは二人前はペロリと平らげるようになっていた。誰の眼にも姿が変化している。背も少し高くなっているから、血肉になる栄養がいるのだ。夫人もレナーテも美人だったから、肉が付いてくるとやはり母姉に似た可愛い顔が現れてきている。
夏なので暖炉に大きな火はいれないが、脇に湯を沸かす用のコンロが設えられており、プロスペロは薬草茶を飲んで見守っていた。昨夜と匂いが違うので、それは何のハーブか訊こうとしたが声が出ない。なのに大魔法師の弟子は的確に答えたのだ。
「乾燥させて細かくした樹皮と根とオレンジの皮。渋いんでステビアも入ってる。身体の中の要らないものを出すんだ。師匠が実践の機会にするって言うから、必要かも、って予感があったんだ」
何故わかるのだろう、驚いてしまう。
「何となくわかるようになって来た。どっちの能力かわからないけど」
「儂もわかるよ」
自慢げに胸を張る。
「当然でしょう。わからなかったら思いっ切り嗤ってあげますよ、はっはっは」
パロロもプロスペロと同じ表情を作る。
「あ、やな方の『嗤って』使った!?本当可愛げのない弟子!?アデリーネ、可愛げのない弟子の分のデザート持って来て」
「さっき二人前を盛ってお出ししましたよ。かぼちゃのスコーンか紅茶のスコーンをお出ししましょうか?」
輝くような笑顔である。
フランボワーズのムースをパロロと二人?で美味しそうに食べていたのに忘れたというのか。見た目以上にボケが始まっているのだろうか。
「アデリーネの優しさが身に染みるなぁ。両方ね。林檎ジャムとクロテッドクリームつけてね」
「はい。お茶のお代わりはいかがでしょう?」
「お願い」
お茶のお代わりまで笑顔で聞いて、部屋の一角に常備してあるお菓子の中から用意する。
プロスペロはその姿をじっと見詰めた。彼女には正真正銘魔力がない。それなのに魔法とは違う理の外の匂いを感じた。だが口から出たのは師匠への憎まれ口だった。
「ここにいる間に縦と横の差がなくなりそうですね。何処に話し掛けたらいいかわからなくなりそう」
まん丸になった大魔法師を想像してズージは可笑しくなった。
「防衛戦で消費するから大丈夫ですぅ~」
「ならたんと食べて下さいね。これ以上頭が寒々しくならないように」
「言い方ってものを知らないんだから!風通しがいいって言って!」
「荒れ地を風が寂しく吹き抜けていくようにですね。ああ、文学的…」
手にした茶匙から茶葉がパラパラ零れ落ちてしまって、アデリーネは笑いを噛殺しながら零れた茶葉を片付けた。
師弟関係というものはこれでよかったろうか。大魔法師というから、弟子に恐れられ反論一つされないものだと思っていた。憎まれ口など論外だ。どの物語の魔法師も厳めしく偏屈である。ズージまで笑っている。部屋付きではないが最近まで姉妹の侍女をしていたから、その様子には大魔法師に感謝していた。
ノックの音にアデリーネが対応する。
「大魔法師様、主人がお食事の後ご足労頂きたいと申しております」
「何処に?」
「西翼のワイバーンが居ります所です」
「ズージも行こうか。東方では功徳を積む為に囚われた動物を放つんだって」
大きさだけでみればかなりの功徳を積めるのではないだろうか、ただ、ズージには従姉妹の王女が素直に「はい」と言う訳がないとわかっていた。
案の定一行が西翼に着くとギルベルタが涙ながらに抗議していた。
彼女の感情の発露が肌に刺さる様な気がする。ワイバーンの憎悪にも足が竦んだ。それがすっと無くなったのは、プロスペロが両手をズージの耳の辺りに翳してからだ。
「成功した?大丈夫?」
「だ、だ、だい…」
「うん、わかった」
大魔法師の登場にギルベルタは矛先を変えた。
「ワイバーンは私が叔父様に贈られたものよ」
強引に贈らせたものではある。
異母姉がワイバーンを召喚して見せびらかしたので、悔しくて欲しがったのだ。悔しければ修練すればよいのだが、そんな気は小指の先程も起こさない。教師たちに出来る異母兄弟たちと比べられて、すっかりやる気を無くしてしまっていたのだ。
レナーテは溜息をついた。ご機嫌をとるのは彼女の仕事になるだろう。
今朝彼女は母の立会いの下、大魔法師と話した。自分には封印師の才能があると聞かされて戸惑ったが、それが妹を苦しめている一因であったから、何の反論もせず勧められた封印師に師事することを承諾した。
ランデスコーグの侵攻を防いだ後はギルベルタの話し相手として王都に登る筈だったから、話を聞いてギルベルタは機嫌を悪くした。そこにワイバーンを解放すると告げられて機嫌を拗らせ、ずっと叔父のディートヘルムに喰って掛かっていたのだ。
ワイバーンの召喚士が険しい顔をしている。派手な服装をした軽薄そうな男であった。ワイバーンを売りその飼育人として、一生暮らせるだけの莫大な収入を得ていた。気を良くして派手な金遣いで目減りさせていたから、収入を断たれるのは有難くないのだ。
まだ幼い小さなワイバーンの首周りと脚の羽はごっそりと抜け落ち、その後が皮膚病になっている。適当な手当てしかしていないのだろう腐っている部分もあり臭いが酷い。太い魔法錠で繋がれ、憎悪だけを膨れ上がらせている。
「生まれてどれ位なんでしょう?」
「十歳位だね。ワイバーンとしては、お尻に殻をつけたまま、と見做されちゃう歳だよ」
三流の召喚士には力の弱い若いワイバーンの召喚が精々なのだ。
「だからどうしたというの?これから歳を重ねていけばいいだけでしょう」
「姫様、このままではこのワイバーンは幾歳も重ねずに死んじゃうよ」
ウィクトルは穏やかに諭したが、ギルベルタの神経を逆撫でしただけだった。
「じゃあ、それまでは私のモノよ。勝手なことさせないわ」
「解放してやれば、回復して立派なワイバーンになれるんだよ」
「解放したければ、代わりのワイバーンを用意して、これ以上のをね」
「ワイバーンを使役したければ自分で召喚しなさい。下種な召喚士に召喚させて威張るのはみっともないことだよ。ワイバーンを知る者にこの姿を見せたら、あなたは見下されちゃうよ。そう思っている者は、ここに招待された魔法師でもいるだろうね」
凄い眼でウィクトルをねめつけてギルベルタは地団駄を踏んだ。
「王女に向かってなんて無礼なの!?みっともないのはお前よ。叔父様こんな小男に騙されないで、ズージを治療出来る魔法師は他にもいる筈よ」
ズージをキッと睨み付けた。
視線を遮るようにプロスペロが後ろに庇う。
「ディートヘルム、いいかな?」
領主は頷いた。
プロスペロが魔法錠を無効化させると、ワイバーンは自力で口輪や鎖を壊した。だが彼に出来るのはそこまでで、飛ぶ為の風は最早起こせなくなっている。ワイバーンの翼は本来長距離を飛ぶもので、離着陸には風の魔法を使わねばならないのだ。自分が哀れで情けなくて涙が出た。
ウィクトルは進み出て話し掛けた。
「悲しまないで幼い子よ。儂が治療させてもらうよ。そしたらプロスペロが風を起こしてくれるから、それに乗って飛び立てるからね」
ふんわりした光に包まれると、痛みや痒みが遠ざかっていく。風を起こす力はないが、忌み地までは飛べそうだった。巨大な魔法陣が足音に現れ風が起こった。彼を一気に風に乗れる高さにまで押上げた。
久し振りの飛行に翼が痛んだが、解放された悦びが勝った。身体が病んで、もう二度と大空を飛ぶことはないと絶望しかけていた。
同胞が彼の周囲を旋回した。迎えに来てくれたのだ。声を出すのも久し振りに吼えると、同胞も吼えて応えてくれた。こんな自分を晒すのは恥ずかしかったが心強かった。
「あれはプルカムじゃないね」
「深く眠り込んでて起こすのが面倒だったから。彼は呼び掛けに応えてくれたんです」
「呼び掛けたんだ」
「はい?」
何処に師匠が引っ掛かったのかわからない。召喚より難しい技を軽々としてのける弟子なのだ。
「その調子でゴーレムも頑張ってね」
王女がヒステリックな声を上げた。鋭い声がズージを竦ませた。
「あなたの所為よズージ」
レナーテと乳母がギルベルタを制止する。
立ち竦むズージの手を取って、プロスペロはゴーレムを作る為に庭に向かった。