第二章 師匠を唆す
結果からいえば、三頭の炎竜は元気に炎を上げて生れ、プルカムに守られながら忌み地に無事辿り着いた。残念であり残念でなし。
殻は師匠の言葉通りで、生れた炎竜が身体を震わせると、渦巻く様に燃え上がり一瞬にして消えてしまった。
「触れますか?」
「食料になっていいのなら」
いいはずがない。そうだ、肉食だった諦めるしかない。
よちよち歩き何度も翼を羽ばたかせて何とか飛び立とうとする姿は、自分より大きな体であったが、愛しさで胸が一杯になった。
孵化した時刻がバラバラだから、プルカムにはその都度忌み地までの往復となった。それでも怒りの波動は感じられず、逆にどことなく嬉しそうだった。魔物は他の種族に全く関心を持たないはずだったが、竜の誕生には思うところがあるのだろうか。ワイバーンと竜は非常に近い、同じ竜種であるのだから。
最後の炎竜が飛び立つ直前、炎竜が不意に振り返った。キラキラした目で見守っていた少年と目が合う。その異質な感覚にプロスペロは心臓が絞り上げられた。細胞の一つ一つまで突き刺さるような視線に晒される。何も隠すことが出来ない。
(師匠の眩術は?)
竜には魔法を無効にする力があるのを思い出して焦ったが咄嗟に、
オピテル
と名付てしまった。名付の魔法が通用するかどうか、産まれたてとはいえ竜なのだ。
炎竜は強い鼻息を一つ、元のように進路に視線を定めて翼を広げると、強く岩を蹴って飛び立った。
冷汗がどっと噴き出る。無事だった。
「???成功したのか?相手にされなかったのか?」
弟子同様、師匠も首を捻る。
「咄嗟にしてはちゃんと名付られたと思ったんだけどねぇ儂も。プロスペロは以前に教えた事ちゃんと覚えてたね。感心感心」
笑顔で褒めるがそれで誤魔化されたりはしない。師匠に詰め寄る。
「誤魔化されませんよ。ワザとでしょう師匠⁉可愛い弟子を竜の糞にするつもりでしたか⁉」
「やだなぁ、これが実践教育じゃない。もし炎竜が襲って来てたらちゃんと守ったよ。態度が大きくて可愛げのない弟子だからって竜の糞にしたりしないよ」
「命懸けの試験は前置きして下さいよ」
「そしたら本当にやれるかどうかはわからないじゃない。意味ないよ。咄嗟に何処までやれるかが実力なんだよ」
正論ではあるのだが、全く心臓に悪いこと甚だしいのだ。寿命が縮む思い、というのを体験してしまっていた。
「ちゃんと名付は発動したんですかね。糞になり損ねたのはいいけど、今回は大目に見てやる的な態度じゃありませんでした?あんなものなんですか?」
「だよね。もっと反応があっていいんだけどねぇ。召喚してみればわかるけど、生れたばかりの雛とはいえ、竜を軽々しく召喚するのは避けなきゃね。どうしても炎竜を呼ばないといけなくなったらわかるよ。名前はちゃんと覚えておいてね。ところでオピテルって何処からとったの?」
「ハーレプリンセスの『麗しの黒騎士に乙女のハートはきゅんきゅん』の黒騎士の名前です。今読んでるんです」
返事はなかったが、師匠が聞かなきゃよかった、と物凄く後悔しているのが手に取るようにわかった。
「……『鬼畜エルフは清純巫女に夢中』とか『悪役王女の恥ずかしい秘め事』なんかはお勧めですよ」
少しは反撃になっただろうか、プロスペロはワザと反応を見ずにさっさと荷物をまとめにかかった。師匠は絶対に手伝わない。まあ荷物といっても服は着のみ着のままだし、パンとチーズと干し肉と水と本と何枚かの敷布、ただそれだけではある。子弟どちらも要るか要らないか考えて荷物を増やすよりも、ない不便を享受するタイプだった。つまり時間があるから香草茶を飲もうと何種類かの香草とコップとポットを持参するよりも、我慢する方を選ぶということだ。わざわざ持って行って淹れてあげたい、などという殊勝な気はない。子弟どちらも。
だが前回の旅の時は竜の卵を確認する二週間程の旅だったが、薬缶一つ持って行かず後悔していたのだ。なのに今回も持って来なかった。用意をする段階では必要ないと思ってしまうのだ。
ここで過ごす間に師匠は口承呪文を諳んじさせていた。心の中で繰り返しながら敷布を畳んでいるとツチラトが傍を通った。ふかふかの尻尾で頬を撫でて行く姿が前より一回り大きくなったような気がする。魔物だから神霊物質を吸収でもしたのだろうか。その為に来たかったのかもしれない。巣の周りには卵を守る為の竜の魔法が掛けられていたから。
両手を広げて飛び降りたら受け止めてくれそうな程厚い雲が眼下に続いていた。空の快適な旅は癖になりそうだった。ドルスス山に着いてから四日経っていた。時間の流れのない洞窟を出たのは空が白み始めた頃だったから、炎竜の誕生を見守った後の、プルカムの背から望む朝日は感動的で、
「パロロ、お日様がきれいだよ」
と目を合わせると、パロロの大きな晴天の青い眼もうるうるしていた。二人して踊り出したいような衝動から騒いでいると、
「狭いんだから騒がないよ」
と注意されてしまう。
「師匠は感動しませんか?今朝の朝日は格別綺麗ですよ」
「儂もう馴れちゃってるもん」
「人生も黄昏時に差し掛かると心が擦れちゃうもんなんですね。やだやだ、そんな歳の取り方だけはしたくないわぁ」
ワザと大きく溜息をついた。パロロも倣う。
「どうしてこう、この弟子は二言位多いのかしら。態度は巨大だし…」
「育て方でしょう。育てた様に子は育つってパン屋の女将が言ってましたよ」
師匠はもう何も言わなかった。
陽射しで大気が温かくなった頃、人々がブルー・ナ・ノウスと呼ぶ屋敷に帰り着いた。
「また呼んでもいいですか?」
〔よかろう。特に竜の生誕には喜んで来ようよ〕
あ、やっぱり喜んでたんだ。
翼が巻き起こす風に負けずに手を振って見送った。
出迎えてくれたイスファーンが荷物を運ぶのを手伝ってくれた。人型を取る時は繊細そうな顎の細い黒髪の青年の姿になる。
「マイエとホイベルガーが昨日から村に来ています」
「ここには?」
「来ました。お帰りになられた頃にまた来られるそうです」
「やんなるな、嫌だって返事はしたのに」
マイエとホイベルガーはこの国の魔法師だ。ウラースロー大陸からの侵略軍を撃退する為の応援を頼んできていたが、師匠はずっと断っていたのだ。
侵略軍が来るなら国軍も出るだろう。名立たる魔法師たちだって出張る筈だ。
「なら俺はまた忌み地に隠れた方が良いですか?」
魔法師が訪問する時、プロスペロは忌み地に隠されることが多い。
「昔弟子に可愛らしくて優秀な女の子がいたんだよね。一緒に術を展開してる最中に死なせてしまって……彼女は皆にとても愛されてたから、その頃いた弟子は出てってね、未だに儂が弟子をとるのを許してくれないんだよね」
以前隠される理由を師匠は、目を合わせないようにしてそう説明してくれた。
師匠は教えるのも上手いし、とプロスペロは思うのだが、多くを語らないのでどんな術を展開していたのかもわからないが、術を使う時には慎重にしようと思った。孤児で人に知られたくない過去のある自分の、居場所を失いたくはなかった。
「しばらく屋敷を開けたからしなきゃいけない事も多いよね」
「ですね。虫の課題も明日から始めることにしてましたよね」
二種類のエサ用妖虫の飼育と多化性のマウリー妖蚕の養蚕。これはこの夏の虫系の課題である。
「いればいいよ。そろそろ弟子がいることをばらさないといけない時期にはきてるからね」
「いいんですか?元お弟子さんに…」
「それでも、君も時には外に出て研鑽を積まないといけないんだよ。ここに居てばかりじゃね……」
「俺がいなくなったら食事とかどうするんですか」
「どうとでもなるよ」
言募ろうとしたプロスペロに、
「取敢えずは荷物を片付けて、一休みしよう」
とやんわりと押し止められてしまった。
千切れそうな程尻尾を振ってラデクが飛び付いてきた。後ろに倒れそうになるのをイスファーンが高速移動で支えてくれる。
「ツチラト、貴様もいるのだ。弟子様を助けぬか」
つんと顎を上げてツチラトは行ってしまった。
ラデクの大歓迎に涎で顔がびしょびしょだ。
「有難うイスファーン。今日はどうしたんだろうラデクは甘えん坊だな」
「しばらく居られなかったので寂しかったんですよ。帰られて嬉しいのです」
知らなかった、何だかくすぐったくて嬉しい感覚が沸き起こる。自分を待っていてくれるものがいるのだ。
疲れは感じなかったので菜園に向かう。食糧袋の匂いを嗅ぎつけたラデクが今度は足に縋り付いて離れなくなったので、引き摺りながら歩いた。垂らした涎がズボンを濡らしてベタベタして気持ち悪い。
菜園ではプロスペロを見つけたバラージュが誇らしそうに籠の一つを運んで来る。発つ前に用意していた収穫籠は全て満杯になっていた。
「凄く沢山採れたね。一杯になったのは台所に運んで、そしたら倉庫からまた籠を取って来て。二つでいいよ」
根負けしてラデクにパンの残りをやると、大喜びで食べ始めた。
チャバとアリーズが雑草を抜いていて、ヤンカがよく茂った葉と葉の間に虫がいないか探している。チャバの手が欠けていたので、土を充てて修復する。他にも欠けがないか確認すると膝をつくことが多いからか膝の形が変わってきている。それは全員がそうで、膝当てを作るか、膝だけを別の材質にするか悩むところだ。
薬草園ではヤンカが丁寧に虫を獲ってくれたのだろう、虫による被害も諸共葉を千切った様な後もなく、すくすくと成長している。蕾がたくさん大きく膨らんでいて、明日にも咲きそうだ。ヤンカに夜明けから花を摘むように指示する。
ゴーレムの頭に手を当てると、数種類の花の画を送った。
「わかった?頼んだよ」
甘い芳香を放つ青いスリンガの花は猫モドキのダシャが好んで食べるから、うかうかしていられない。モドキ共はここの作物が好きなのだが、ダシャは特に品種限定で食べるのだ。名前が付けられているだけに特別なのがわかる。プルカムに渡した猫モドキは名がついていなかった。
夏の課題として植物では一年草の薬草を三種、小型妖魚の色付けとどれも手の掛かる課題ばかり与えられている。ゴーレムたちの助けがあったとしても、当分は朝から晩まで忙しいだろう。しかも花摘みは早朝勝負だから、起きる時間も早くなる。
(師匠も手伝ってくれなくなったしなあ)
去年から菜園、薬草園の一切をプロスペロに任せ、自分は温室の世話しかしなくなっていた。温室ゴーレムがいそいそと働いているのを見るから、どれだけ自分でしているのかは不明ではある。
台所で野菜を選り分けているとイスファーンが顔を出した。
「もうすぐマイエ魔法師一行が来ます。主はなるべく目につかない場所にいるようにと仰せです」
「わかった」
「アルトドルファー様がご一緒の様です。時間が掛かるかもしれません」
来客が魔法師の時はイスファーンが対応する。帰って来て間なしの訪問は余程急ぎなのだろう。
意外だったのはアルトドルファーが一緒だったことだ。師匠と旧知でプロスペロも会った事がある。垂れ目のごく普通のおじさんにしか見えない驚く程魔法師臭のない人で、お土産に必ずお菓子を持参してくれるいいおじさんなのだった。アルトドルファーだけは師匠も屋敷に泊めるかもしれない。パンもチーズもなくなっていたから、夕食の献立に悩んでしまう。竈の上がオーブン窯になっているが一人では使ったことがない。
冷却魔法の掛かった冷蔵室には、村人たちがくれた仔牛の脚一本だとか、丸ごとの鶏だとかがわんさと入っている。調理が面倒で入り切らなくなったら庭に出しておく。するとモドキ共が食べているのだろう、しばらくしたら消えている。
鵞鳥と豚の塊肉を取出す。取敢えず塩を擦り付けて焼けば何とかなるだろう、という算段である。野菜を串刺しにして焼けば焼き野菜の付け合わせになる。野菜スープも用意すれば十分だろうか。粗食に文句を言う人ではないが、客人が来た時位料理に挑戦すべきだろう。おもてなしだ。
香草茶を用意しにイスファーンが現れたのに肉を切るように頼む。
「生で食べるのが一番ですがね」
「鶏食べていいからお願いね」
途端にイスファーンの口が大きく裂けた。笑っている。
「イスファーンはオーブン使える?」
野菜を切るように簡単に鵞鳥を切り分ける。
「ダシャに頼めばいかかです?あれは料理が出来ますよ」
「ええ、初耳!?」
ダシャの方が先住でずっと一緒に暮らしていたのに知らなかった。ダシャは気位が高くて稀にしか口を利いてくれないのだ。
「主の前の主の時に覚えた筈です。プロスペロがいない時は作っていますよ」
なる程、どうにでもなる、のだ。
「ダシャは俺の言うこと聞いてくれない…」
新参者を露骨に見下している。
「私から言ってみます」
皆が暮らす六角形の建物は六本の辺それぞれに東方文字で名前が付いていた。正門から時計回りに以・呂・牙・丹・歩・巴と大きな一文字が廊下に描かれている。プロスペロたちの住居空間があるのは歩筋で台所やいくつかの貯蔵室、浴室、洗濯室がある。プロスペロは一階の使用人部屋を使い、師匠は二階に居室を持っていた。丹筋は実験棟のようになっていて、二階は筋全てを使って大図書室になっていて、壁がなく本棚が所狭しと並んでいる。保管の魔法が掛けられているから、本たちは収集された時から変わらないまま歳月を過ごしている。一階では妖虫の飼育や実験、薬草の調合や師匠との講義も行われた。
夕食をダシャに頼めたので簡単に養蚕室を掃除する。飼育箱の掃除は以前に済ませていたから、冬の間に積もった埃を払う程度のものだ。多化性のモウリー妖蚕は卵や良い繭は高額で売れる。課題で出されたものが売れれば代金はプロスペロが貰えることになっていた。必要なものは師匠が用意してくれたし、プロスペロも特に欲がない方だったから、概ねここの暮らしには満足していた。だから欲しいものと言えば師匠が買ってくれないだろう本しかなかった。
それは村のおばさんが点けた火だった。
世間からウィクトルと呼ばれる師匠は、極端に性的描写を嫌ったから、文学作品はあることはあるが、性的描写のあるものは悉く別のコーナーに置かれているのだ。ノブに触ると《R⑱》と浮かぶ。どんな本でも読む価値はある、とのたまわりつつ読禁本を作るとはどういうことなのかプロスペロは理解に苦しむ。
おばさんでさえハーレプリンセスは少女用の恋愛小説だからとプロスペロにも貸してくれたが、更にその上にあるプエラアマレ文庫というハイティーン以上の女子たちが読む文庫は貸してくれない。おばさんも数冊持っているらしいが、
「あたしにゃぁちょっと刺激が強過ぎてね。こう見えて純情なんだよ。もう少し大人になってからの読み物なのさ」
と頬を赤らめて恥じらい、貸し渋るのだ。
娯楽が極端に少ない辺境の地で、好奇心が強く大人になろうとしている少年は、大人たちが禁じるからこそプエラアマレ文庫を読んでみたかった。密かに購入するつもりだった。
台所に戻ると可愛いエプロンドレスを着た美女が料理を作っていた。無機質だったテーブル上には花が飾られ、パステルカラーのテーブルクロスも敷かれている。そしてつまみ食いするパロロもいる。
「ダシャ?」
「そうよ」
にっこりと微笑む。
「お料理させてくれて有難う。主様にご奉仕出来るなんて幸せ?」
うっとりとのたまう。ぷるんぷるん音がしそうな豊満な胸をかなり露出していて、目が釘付けになってしまう。パロロが避難がましく肩に乗って頭を叩いたが、柔らかい肉球では痛くない。
「ねぇ、プロスペロからも言って!美味しいご飯食べさせてあげるから~。主様に家事はダシャに任せたいって。ダシャはずっと主様にご奉仕したいの、料理もお掃除も洗濯も夜伽も全部してあげたいの」
渡りに船の提案だが、当の主様はダシャの姿を見るなり回れ右をして逃げ出そうとした。アルトドルファーが首根っこを押さえて連れ込む。
「ダシャ久し振りだね。愛しの主様を渡すよ」
ダシャの胸に押しやるとダシャは大喜びで抱きしめた。
「久し振りプロスペロ。また背が伸びたようだね」
返事を返すと、アルトドルファーはプロスペロの首輪を触る。
「どう見ても愛玩奴隷の首輪だね」
粗末な身形とはいえ、夢のような美貌の少年が名前の刻まれた首輪をしているのだ。そう見えても仕方がないのだが、いきなりの言葉に返答に困ってしまう。
「うわー師匠、この間モテないって言ったことは謝ります。凄い美女に好かれてますね」
素知らぬふりで話題を変えた。
「剥がしてよプロスペロ!?この子は儂が好きなんじゃなくて、主に奉仕するように作られた子なの!?」
「奉仕してもらえばいいじゃないですか。俺の不味い飯食わなくてよくなりますよ」
「朝から晩まであの手この手で奉仕しようとするのが苦手なの」
「俺なら喜ぶけどなあ」
背の高いダシャをどう剥がせばいいのか迷って胸肉を掴んでみる。凄い弾力だった。往復ビンタが5往復する間に師匠はちゃっかり食卓についた。
「私は主様のものよ。軽々しく触るんじゃない?」
「羨ましいねウィクトルは。私もこんな可愛いことをしてくれる使い魔を召喚したかったよ」
「儂は家事をしてもらいたかっただけなの!?」
「いいじゃないですか師匠。余分を楽しめば」
腫れた頬をパロロが撫でてくれた。
「要りません」
常にはなくキッパリと拒否する。
「ははは、前から子供とは思えない口を利く子だったけど、随分ませた口を利くようになったね」
「そうでしょうアルトドルファー、何とか言ってやってよ。村のおばさんにいかがわしい本を借りて熱読してるんだよ」
「いかがわしくありません~。少女向けの恋愛小説です~」
「あれかね、それはいちご文庫かね?それとも蜂蜜文庫?」
やけに具体的なのである。
「ハーレプリンセスです」
「なんだ、ウィクトル大したことないよ。性に目覚めた頃の少女が読む本だよ」
師匠が目を剥く。
「よくご存じですね」
「娘がまだ可愛い少女の頃に愛読していてね」
「なる程。で、いちご文庫や蜂蜜文庫と仰るのは?」
「聞きたいかい?」
ニヤリと笑う。
「勿論、物凄く」
「よしなさい。夕食にするよ」
食卓にはパンもチーズも並んでいた。パン屋のものではない。ホカホカしているから魔法ででも作ったのだろう。しかし魔法で作ったのだとしても料理の腕前は確かだ。スープも肉料理も素晴らしく美味しい。掃除も洗濯もしてくれるというのだ、師匠の貞操など知ったことじゃない。どう説得して家事を続けてもらおうか。
「アルトドルファーさんは何時までご逗留される予定ですか?」
客がいる間の猶予だ。
「ウィクトルを説得出来るまでかな」
「しつこいんだよね。儂はずっと嫌だって返事を送ってるじゃない」
「しかしシェファルツの民として見過ごす訳にはいかんだろう」
「勝手なこと言う。人の住む地を勝手にシェファルツ王国の領土だとか宣言して。儂の知った事じゃないね」
「ウラースロー大陸からの軍はそんなに強いんですか」
「ランデスコーグ王国の第四王子が主将なんだけどね。これが…外法の術を好んで使う人物でね」
「外法の術?」
「どうやら我が国を『不死の軍団』に蹂躙させようとしているんだよ」
「『不死の軍団』というとかなり強いという意味ではないですよね」
「その通り。甦りの兵士達だよ。死んでるからもう何をされても死ぬことはない、おぞましい軍団さ。手足をバラバラにされない限り立ち上がってくるから質が悪い」
「『骸骨軍団』って呼称されないからには肉付きってことですよね?それは確かにおぞましいな、かなり見たくないかも」
「……変なところを気にするね。人間相手なら強気になれる勇者も甦りの兵士には気後れする。死なないしね。いや、魔法具で倒せはするのだけど数が足りなくてね」
「魔法具位作るのに協力すればいいじゃないですか」
「儂が要請されてるのは魔法具を作るのじゃないよ。それだって嫌だけど」
「撃退するのに力を貸して欲しいんだ。『不死の軍団』を上陸させたくないんだよ。エウリュシア大陸を穢させたくないんだ」
柄に似合わず力説するのに、師匠は鼻をほじって聞き汚いモノを指ピンで飛ばした。
「中央から魔法騎士団とか来るんでしょ」
「要請したさ。陛下に拒否されたよ。王都の防衛の方が重要だとね」
上陸が予想されるエルレヴェ半島はアーベントロート辺境伯領なのだが、そこの領主ディートヘルム・ベルゲマンは魔法が使えないのだ。王というより、魔法貴族至上主義の側近たちに嫌われている。領主は姉を側室に差し出しているというのに肝心の魔法騎士の応援はなく、あの手この手で領地防衛を妨害されていた。
魔力を持たない貴族を貴族社会はとても嫌う。それだけで長子でありながら廃嫡する貴族もいるのだ。
ディートヘルムはその偏見を跳ね返すように領地に様々な改革を行い、アーベントロート辺境伯領を栄えさせている。魔力がなくてもそれを補って余りある才能を見せつけたのだ。それがまた偏見貴族たちの気に障った。特に現在の王の側近集団は魔力を持たない貴族への蔑視が強い連中であるから、王を焚付け、王都周辺に主力を結集させながら、水際で撃退しろと指令を出して来るのだ。無茶と言うしかない。
「ね、プロスペロ。もう地方が蹂躙されるのは確定事項なんだよ。そういうのだから儂は嫌なの。応じたら応じたで次から次へと要求が上がるしさ。魔法障壁にでも挑戦してみたら?」
東方は完璧な魔法障壁を作って侵入を阻んでいる。西方の魔法師たちも挑戦していたが成功させた者はいない。
「そんな力が我々にない事は百も承知だろう。撃退に力を貸してくれたら沿岸地域の領民全てが君に感謝するよ」
それでもウィクトルの心が動いた様子はない。
「屍人たちが上陸してしまえば、浄化にどれほど時間が掛かるか!我が国の人間も殺されれば仲間入りする。増えても減ることはないんだよ」
確かにそれは領主より領民が気の毒だ。故郷が屍人の穢れに犯され、家族が屍人の仲間入りをするなどゾッとしない。
「そんなことになったらマケールさんもスウェンソンさんも美味しいチーズや腸詰作ってる暇ないですね」
パロロがコクコクと頷く。
「え、そうなる?」
師匠が頓狂な声を上げた。
「そうなるでしょう。戦闘で『不死の軍団』が海に落ちたら魚食べられなくなるでしょう?塩漬けとか燻製もらえなくなりますよね。家畜って結構神経質だから穢れの影響が漂って来たら、牛も山羊も羊も乳出さなくなるだろうし、軍団の食糧調達で連れて行かれることもあるだろうし」
パロロが暗く沈んでコクコクと頷く。
「え?そうなる?待って、魚食べられない?」
「食べれます?俺は嫌ですよ、そんな腐肉を喰った魚なんて、水だって穢れてるし」
「ああ、まあそうね」
「スウェンソンさんとこは酪農が主力だから、家畜連れて行かれたら商売あがったりで一家離散かな…。一家揃ってガタイがいいから徴兵されるかも。残念ですね、スウェンソンさんの作る腸詰美味しかったのに、マケールさんとこのチーズも何時食べ納めになるかな。買占めときます?」
「ちょッ…そんな言い方止めてよ」
「知ってました?スウェンソンさんとこの息子さんたち、ウェーバーさんの腰が悪いからって畑仕事手伝ってたんですよ。ほら、時々ウェーバーさんの貼り薬も取りに来てるでしょ」
当然ながら知っている。老人しかいない家は周囲が助ける。貧しい村では相互扶助が基本だ。
ごつい兄ちゃんは時に牛の脚一本なんて豪快に持って来る。
パロロが涙ぐんだ。大きな青い眼からは涙が零れそうだった。
「あの美味しいウェーバーさんのフルーツタルトも食べれなくなるんですね。ある日訪ねて行ったらベッドで腐乱死体に……」
「フルーツタルトが腐乱死体!?」
ちょっと違う。
「まあうちはダシャが魔法で美味しい料理を作ってくれますから他人事ですけどね……」
「そうよ♡ダシャが主様の為に心を込めてフルーツタルト作るから、主様は気に病むことはないわ。甘い果物みたいにダシャも甘くて柔らかいから味わっていいのよ?」
ダシャは本当に可愛らしかった。弾力のある豊かな双球に顔を押し付けたらさぞ気持ちがいいだろう。
「あー羨ましい(棒読み)。シェファルツ王国の軍団を三回も撃退した師匠が、普段村人に好い人面してる師匠が、他人事だって高みの見物で見殺しにするんですね~~」
「その話儂したことなかったよね!」
「村の古老がね。三回目は先王の時でしたっけ?「わしゃこの目で見たんじゃよ、フォッフォッフォッ」って」
話してくれた古老の真似をする。
小さくて丸くて虫も殺さぬ顔をして軍団を撃退したとか本当かよ、と眉唾を疑わないでもないが、師匠はとっても嫌~な顔をした。
「わかったよ。行けばいいんでしょ」
「行ってくれるか友よ!?」
大喜びでアルトドルファーは友の手をとり少年に感謝の眼差しを送った。
行ってらっしゃい師匠、お手並み拝見です。といきたかったが、次の言葉には驚いた。
「ただし、プロスペロも行くんだよ」
「お…俺も」
人目の多い所は首輪があっても遠慮したい。
「ええ、いいのか?元弟子たちが……」
「プロスペロの成長の為にも、何時かは明らかにして元弟子たちと話しさないといけないしね。出来る子だから思ったより早かったけど……だから、いいよ」
思わぬ決意にプロスペロはハッとした。
「師匠、怒らせてしまいましたか?すいません。俺の事追い出さないで下さい。師匠の下にずっといたいんです」
外に出るには、幼児の頃の記憶が彼には重過ぎた。師匠が一緒だというから旅にも出るが、一人でと言われたら恐怖でしかない。
「追い出さないよ。儂位しか導いてやれない弟子だもの。ずっと弟子だよ。それでもねプロスペロ。今朝も言ったよね。外へ出て見聞を広めないといけない時もあるんだよ」
このままでいれば温室の花のように咲くことは出来るだろう。だがそれはウィクトルにも本意ではない。
「有難うプロスペロ。一生恩に着るよ!?」
アルトドルファーの魔力を持たない孫娘は、エルレヴェ半島の貴族に昨年嫁いだばかりで、彼にしてみればそれ故の肩入れだった。
且つては誰もが持って生まれた魔力だったが、この百年程、エウリュシア大陸では魔力を持たない子が産まれる割合が高くなっていた。名高い魔法師ウィクトルが認める程の魔法師アルトドルファーの血筋であっても魔力を持たない子が生まれるのだ。魔力を持たない子は親にも蔑まれる場合が多かったが、アルトドルファーは慈しんでいた。幸せになって欲しかった。
「夏の課題はどうしますか?」
課題から入る収益に期待していたから、後ろ髪を引かれる。それに村の子らとの川遊びの約束も断らないといけない。楽しみにしていたのだが。
「夏中一杯かかる訳じゃないと思うから、妖蚕はそれからでもいいよ。後はコーリンに頼めば屋敷を見ていてくれし」
藪蛇だった。大きな溜息が出てしまう。人の難儀には手を貸してやりたいが、これはそんなレベルではないのだ。
「俺のプエラアマレ文庫~~」
その呟きをアルトドルファーは聞き逃さなかった。師匠に聞こえないように潜めた声で語りかけてくる。
「プエラアマレ文庫は君の歳にはまだ刺激が強過ぎるよ。良かったら娘の蔵書を一部譲らせてもらうよ。いちご文庫なんかどうかな」
途端に少年の顔から暗雲が晴れた。
一緒に読んでいるくせに、パロロは「いやらしい、不潔よ」とでも言いたげに肩口をぽかぽか叩いたが、柔らかい肉球では残念なことに気持ちがいいだけだった。
翌日訪れたマイエとホイベルガーも大喜びでプロスペロの手を強く握って感謝してくれた。魔法学校の校長先生であるマイエには自身のことを根掘り葉掘り訊かれて閉口した。
美味しい料理を作ってくれるダシャは、師匠がお色気攻撃に耐えられず猫モドキに戻らされた。八つ当たりされたプロスペロは身体中に引っ?き傷が出来た。
旅から戻ったばかりだというのに慌ただしくまた旅の準備をしなくてはいけない。滞在は長くなるだろうとアルトドルファーは嬉しくないことを告げた。辺境伯家の蔵書は多いと聞いたし、自身の持ち物も少ない。それよりは菜園の世話に時間が掛かった。魔法師たちは師匠の気が変わらないうちにと急かしたから、コーリンの訪れを待たずプロスペロは先発することになった。
元弟子たちに公表するとは言いながら、師匠は何処か落ち着かなかった。出発の当日、元弟子のコーリンは予告より先に着いて師匠を慌てさせた。転移魔法は使えないように結界を張っていた。鏡の魔法でも出入出来ないように塞いだというのに噴水からずぶ濡れで現れたのだ。
大小二個の鞄を手に縁を跨いで大地に立った足は裸足である。荷物をイスファーンに押し付けて牽制すると、丁度旅装でゴーレムの作業を見守っていたプロスペロに近付いた。
初見の魔法の発露を感じて眺めていたら、現れた人物が真っ直ぐに自分に向かって来て、逃げようかとも考えたが踏み止まってみた。十中八九兄弟子だろうし興味があった。
「君の名は?」
端正で上品な面立ちの長身の青年は濡れた髪を掻き上げた。濡れるのがわかっていたからだろう軽装で、なのにとても高そうな服を着ていた。良い絹なのは養蚕しているからわかる。
緊張に唾を呑み込んだ。
「プロスペロです」
「プロスペロ、何?」
姓を訊いているのだとわかった。
「ただの孤児のプロスペロです」
「師匠が付けたのかな?」
返事に困るとイスファーンが代わって答えてくれた。
「本人がそう告げたのです」
「この子は何処から来た?」
「これ以上は主にお聞き下さい」
「そうしよう」
穏やかな声だったので離れるかと思いきや、少年の首輪を指で強く引いた。
「外れないね。これは?」
魔法で外そうとしたのだ。プロスペロは脊髄反射で青年の腕を強く叩いた。
「師匠の元弟子とお見受けしますが、名乗りもせず人を詮索して、俺が孤児だとしても無礼でしょう」
首輪を引かれて猛烈に腹が立った。
「これは師匠にお願いして自分で付けました。記憶も定かでない小さな頃、餓死しそうになっていたのを師匠に救われたんです。自分が何処から来たのかは自分でも知りません」
嘘もあったが怒りで後ろめたさを感じなかった。こんな時は欲しい情報をくれてやればいいのだと理解している。
何時の間にか足元に来ていたツチラトが歯を剥いている。
「すまなかったね。確かに私は無礼だった。初対面で名乗りもせず不躾なことを訊いてしまって不愉快だったろう。謝るよ」
青年は素直に謝って苦笑した。
「私はアルトワ・ルカスのアドリアン・ル・フォルジュ。誇り高いプロスペロ殿、どうかお見知りおきを。ウィクトルはコーリンと呼んでいるだろうが、私をコーリンとは呼ばないで欲しい。決別した名だからね」
「ル・フォルジュ殿」
「アドリアンでいいよ」
「……俺は一足先に出発しますので、後のことはよろしくお願いします」
面倒を避けようと離れるのを腕を掴まれた。
「私が来てしまったからもう先に出発する必要はないだろう。ウィクトルと一緒に出発するといいよ」
一転して甘いと評される笑顔になった。バレている。
「ツチラトだっけ、何もしないからもう威嚇しないでいいよ。さ、ウィクトルに挨拶しに行こうか」
逃げようとしたが強い力で腕を引かれて逆らえなかった。ツチラトは気掛りな様子で後を追った。
「私が時折訪ねて来ていたのは知ってるね」
はいと言うしかない。その間は忌み地に隠れていたことを素直に白状する。
アドリアンは表面上苛立ちを上手く隠してはいたが、抑えきれないものを感じた。勝手知ったるウィクトルの居室に姿はなかった。
どうにか逃げようとするが華奢な外見の割に力が強いアドリアンの腕はびくともしない。段々青年がとても怒っているらしいことが判ってきた。ツチラトが付いて来てくれるのが頼もしい。イスファーンはアドリアンの一喝で引き下がってしまっていた。
丹筋にある図書室へ続く廊下で、本棚の陰から白旗を振る師匠が、おずおずとこちらを覗いている。
「ウィクトル!?こちらにいらっしゃい話があります」
白旗を顔の前に翳したままトトト、とパロロを後ろに従えて来る。
(師匠、情けないです)
誰が国王の軍団を撃退したんだと?
肩から力が抜ける。アルトドルファーは外法を使う敵を前に、こんな魔法師に頼ろうとしているのか。
「コーリンは……アドリアンは弟子のことでそんなに怒るとは思わなくって」
元弟子の中ではアドリアンは決して弟子をとることに反対していなかった。闇雲に弟子をとらせようとしないのは逆効果と考えていたのだ。事件の事で許せない思いを持ってはいるが、それよりはウィクトルが弟子の扱いを間違えないように見守れるように交流を持つ方が良いのだ。その考えは正しかったと思っている。反対したことでプロスペロは完璧に隠されていたではないか。ウィクトルの下を巣立った弟子たちで、事件の当事者でない者たちは特に反対してはいない。一歩使い方を間違えれば多大な損害を術者に与える、それが魔法なのだ。
「この子は何処で拾われたんです?」
質問と同時に少年を放した。
「正直に仰い!正直に話せばゲルハルトやタイスに取り成して上げます」
白旗の陰からチロッと眼を出す。
「本当?」
「本当です。ただし正直にね」
「………プロスペロは…下がらせてあげて」
振り返るとプロスペロは勝気な瞳で正面からアドリアンの視線を受け止めた。
「ふてぶてしい顔をしているから大丈夫でしょう」
「知ってるよ。そうじゃなくて、まだ聞かせたくないんだよ」
「それでは行かせる前に首輪の形を変えて下さい。こんな形だったら探ってくれと大声で叫んでいるようなものです」
「え、ダメ?一生懸命考えたのに」
「あなたは本当に美的センスがない」
アドリアンがついた大きな嘆息に、師匠の受けた衝撃が音で聞こえるようだった。
「まるで愛玩奴隷か犬の首輪です。何の変哲もない金の鎖の方がまだ目立ちませんよ」
「でも金目の物だって狙われるかもって…」
「使い魔にでも守らせておけば、そうそう首を切ってでも盗もうだなんてしません。名前なんか要りませんよ。酷い魔法臭がする」
愛玩奴隷だの犬の首輪だの酷い魔法臭だの、見えない拳が師匠のボディに炸裂する。愛玩奴隷と言われるのはプロスペロの美貌が主な原因だった。
「細い金の鎖でいいんだね」
アドリアンは腰に帯びた革細工の小袋から魚型のラピスラズリを取出した。表面にはウラースロー大陸で一般的に見かける、シンプルな三叉槍を放射線上に重ねた護符が彫られ、その線は金泥雲母で塗られている。
「これを付けて下さい。私からの贈り物です。何を隠しているのかはわかりませんが、これで大僧正もアルトワ・ルカスの聖女も気にも留めませんよ」
「本当に?余計目立たない?」
疑わしそうだった。
「ええ、お守りに見えるでしょう。正真正銘護符ですからね。清貧であればいいってものじゃないんですよ。人々の納得する形というものがあります。ウィクトルの弟子のお守りのペンダントなら、これ位でないとね。魔法臭がしてもそもそも護符なのだから」
黙って元弟子に従う。
新たに自分の首に下げられた青い魚を触ってみる。指先に波動を感じる。鎖が短いので鏡がないと巧く見えないが良い物をもらったことはわかる。
「あの、有難うございます。感謝します」
しおらしくお礼を言うとアドリアンはまた柔らかく笑った。
「ウィクトルには相談しても理解してもらえないことが多々あるだろうから、どんなことでも相談にのるよ」
何だか師匠より頼もしく輝いて見えた。
「さて、ウィクトルには積もる話を聞かなくてはね。いらっしゃい」
連行されて行く。本当に頼もしい。
それでもどれ程頼もしくともプロスペロは師匠を変える気はなかった。厄介者になるかもしれない少年を、それと知って養い魔法を教えてくれたのはウィクトルなのだ。




