第九章 決戦、不運なズージ
ホイベルガーは精霊たちが大騒ぎするので目が覚めてしまった。疲れがスッキリ取れて心地良い。そしてやっぱりな、と半ば予期していたので、甲板にヒッポグリフがいても驚かなかった。
出来立てのテーブルマウンテンに一頭、浜辺近くに二頭のワイバーン、浜辺でプロスペロと話すグライフが夫婦でいた。
「おはようございます」
〔おはよう。食べちゃいけないのが残念な位あなた美味しそうね〕
初対面の挨拶としてどうだろうそれは。声の響きからして牝らしいのだが、多分そういう意味での美味しそうではなく、最終的に排泄物となる美味しそうなのだろう、間違いなく。
(この場合、光栄だと受取った方がいいのだろうか?)
随分ウィクトル師弟の朱に染まった思考になっている。怖がって逃げてもいい所なのだろうが、不思議と怖くなかった。
胸の羽毛が緑で翼が赤い。ヒッポグリフを見たことは数回しかないが美しいと思った。だが間違えてはいけない。彼女彼らはそうやって人を魅了し、誘き寄せて餌とする。下半身は馬でも上半身は鷲、文字通りの肉食獣なのだ。
「私はマルセル・ホイベルガーです。お名前を窺がってよろしいですか?」
〔ベレンガリアよ。父と一緒に来たの〕
召喚獣は召喚されている間は人を襲えない。だが任意で来たという彼女はどうなのだろうか。
見透かしたように笑いの波動が届く。
〔安心して敵方の人間は食べ放題なのよね。だから我慢するわ〕
ここで何か引っ掛かるというのは人間の勝手なのだろう。どの道人間同士で戦っても、怪我をして海に落ちた者は海の生き物の餌食になるのだ。大地で死んだとしてもいずれは虫たちの餌食になり、所詮は何の捕食物になるかの違いでしかない。
作戦では屍人たちは《聖なる焔》で清められ、塵となって消えていく。獣たちの餌となるのとどちらが人間らしい死に方なのか、考えるだけバカバカしい、どちらも人間としては悲惨なのだ。屍人たちは浄化される以前に人間として悲惨な死を迎えていた。そして獣たちの餌となるのはこれから迎える悲惨な死なのだ。
他の者たちが起きて来て埒もない思考は終わらされた。
最後にウィクトルが欠伸しながら甲板に現れる。
「ランデスコーグの船が来る前に朝ご飯を済ませとこうよ」
まるで親しい知人が来るかのようなのんびりとした口調だった。
油断した。
イルマリはむざむざと船の侵入を許したことを後悔した。以前偵察に現れた船の一隻であったから、降伏か交渉の使者かもしれぬ、と船団内への侵入を許してしまったのだ。たった一隻だけで何が出来る訳でもない。
それなのに船団に船が入り込んで間もなく、屍人を載せた船だけが封鎖空間に閉じ込められてしまっていた。詠唱の声が空間内に大きく響き、焔の精霊たちが散らばったと同時に《聖なる焔》が勢い良く全船を包み込んだのだ。
封鎖空間を知識としては知っていたが、これまで対峙したことはない。一度封鎖されてしまうと封鎖した人間の側の空間になり、外への移動魔法は全く使えなくなってしまうのだ。船の周りを警戒していた魔物たちは外に飛ばされてしまい、空からの物理的支援は無くなった。後続の船団は風にさらわれてイルマリたちから離れていく。
朗々とした、こんな時でなければ聞き惚れてしまいそうな良い声での詠唱が続き、屍人たちが次々と塵も残さず燃え尽きていく。
魔導士たちの攻撃魔法は全て無効化されて、ジークリンデには傷一つ付けることが出来ないでいた。小柄なジークリンデの甲板には3人の人間の姿があり、詠唱師と精霊魔法師を守る様に少年魔法師が無効化魔法を操っていた。
熱を感じない、物理的なものを燃やすことのない焔で、船の乗組員たちはこれまで心を蝕まれそうだった穢れが焼失し、清浄な空間が広がっていくのを眼前にした。
元々戦意に乏しかった乗組員は、どの船も完全に戦意を消失させ、魔導士たちが物理的な攻撃を命令しても従わなかった。精神的鍛練を受けている魔導士たちには通用しないが、《聖なる焔》には心を鎮静させる力もあるのだ。この焔の中で戦意を維持するのは難しい。貨物船に満載されていた『不死の軍団』は一人また一人と浄化されていった。
ジークリンデに乗り移ろうとした魔導士は、何も出来ないうちに、個別に閉鎖空間に閉じ込められ掌に乗る程の小さな立方体にされてしまった。配下と共に空間移動したイルマリは、甲板に足をつくなり閉鎖空間に捕らえられ、立方体になって転がる羽目になった。それは呆気なくて信じられない光景だった。
ホイベルガーは驚嘆した。空間を作るのはかなりの上級魔法なのだ。自分であれば、部屋一つ分の空間を維持するだけでも全力を投入せねばならないだろう。なのにプロスペロは広さ高さ奥行き共に並外れた立方体の封鎖空間を作り、尚且つそこで無効化魔法と空間魔法を使っているのである。
密かに噂されているブルー・ナ・ノウスの後継者とはこれだけの能力を有する者なのだ。絶対敵になりたくない。
封鎖空間の中は詠唱の好い声が響いていたが、外は阿鼻叫喚だった。
先頭の『不死の軍団』を載せた船団が封鎖空間に閉じ込められたと同時に、巨大な口がぱっかりと開いて海から飛び出し、ピッポクリフに乗騎していた兵共々呑み込んでいった。それが阿鼻叫喚の合図であった。クルトの魔法で風が操られ飛獣が風に乗るのが難しくなると、黒い魔物が飛獣たちを操る魔石を外して、飛獣たちを開放してしまったのだ。ヒッポグリフにズージを任せたツチラトは、前回の雪辱を晴らした。自由になった飛獣たちは憎悪を込めてついさっきまで主人だった人間たちに襲い掛かった。
自分たちに敵対出来るような魔導士の同行をイルマリは許さなかったから、ヘンミンキの側に残った魔導士など大魔法師ウィクトルの敵ではなかった。
船団はクルトの風で後退させられ、魔物たちに蹂躙される。
炎を吐くグライフや空を行くワイバーンよりも兵たちを戦慄させたのは、巨体の海獣たちだった。首長竜の尾の一撃で船は航行不能になり、巨大な口の海獣が鋭い歯で咬み千切る。不格好な癖に飛翔力があり、高く飛び上がると船に落ちるという体当たりをくらわしたりする。海に落ちた兵も乗組員も次々と海獣たちの餌食になっていった。大小無数の海獣たちが嬉々として誰彼構わず海の中に引き摺り込んだ。方々で悲鳴や叫び声が上がり、海が血に染まる。救助の手を掴みかけた瞬間、縋り付いた木切れ諸共呑み込まれる。
王子の旗艦は指令があったのだろう無傷だったが、部下たちを助ける為、襲われた船に接舷して攻撃魔法で撃退していた。
ワイバーンや飛獣に乗騎していた者たちだとて、魔石にだけ頼っていた訳ではない。乗騎出来る時点で魔導士でないと無理なのだ。シェファルツ流には魔法騎士であり、ちゃんと飛獣と絆を持っている者もいた。
だが、そうして味方を助けようとするとクルトの風の魔法が邪魔をした。鳥は空を飛ぶ為に翼を大きくし、骨や肉を極限まで軽くしたのだ。飛獣たちはその空を飛ぶ原理を無視した存在で、ほぼ魔法で飛んでいると言っていい。それが邪魔されると失速し海に落ちることとなる。そうして辛うじて海面すれすれで体制を立て直した乗騎が、海獣の巨大な口に飲み込まれかける。
ヘンミンキは味方だった飛獣の攻撃を躱さず、海獣に爆裂魔法を放った。海獣が砕け散る。
「殿下?」
部下の放った《槍》のお陰で、致命傷は免れたが肩口から血が噴き出す。
封鎖空間が解かれると、呆気ない程さっと妖獣たちの攻撃が止んだ。悲鳴や叫び声に交じって詠唱の声が何処からともなく流れて来て、やがて全体を覆った。殺戮が終わったのだ。
海と空の魔物たちが退くと、ヘンミンキの所に小さな魔導士がグライフで現れた。独りだった。
「こんにちは」
ランデスコーグ語で挨拶される。丸い身体で虫も殺さぬような人の好い顔をしている。治癒魔導士に手当てされながら、のんびりした顔を睨む。
「察するところ貴様がウィクトルか?」
「然様ですよ。話が早いね。お願いがあるんだ。『不死の軍団』は全て浄化したから、軍を退けてもらえるかな」
イラッとする程悠長な話し振りである。
「そうしたいところだが、イルマリ・ヒルシという魔導士が生きている限り侵攻は繰返されることになる」
「わかった対処するよ。他には?」
ヘンミンキは頭を横に振った。
『不死の軍団』が浄化されたことに安堵を覚えた。
「駄目だよ。海に出るんだから風の魔法師だけは何が何でも強いのを連れて来ないと」
そんなことはわかっている。怒鳴りつけてやりたかった。自身の弱味を握られたことで、多くの部下や兵たちをむざむざと失うことになってしまったのだ。
「うちの風の魔法師をつけるよ。船の応急処置が済んだら送ってもらうね」
「痛み入る」
これ以上部下を失いたくはない。腸は煮えくりかえっていたが申し出を受けた。
会見は短く、呆気なかった。ヘンミンキは帰還する為の船団の建て直しを命じた。
シェファルツ側で唯一と言っていい程不運だったのはズージだ。
殺伐とした妖獣戦争を少女に見せるつもりもなかったウィクトルは、封鎖空間のすぐ外からプロスペロの魔法を見ているように指示していたのだ。
最初こそは、
〔ねえ、あなたも女なんでしょう?小さいけどもう好きな男とかいる?〕
という恋バナに始まり、それで話が弾めばよかったのだが、ズージは家族以外とは会話が難しいかったから、結局付き合っている男の愚痴だの家族の愚痴だの、独り言の様なそれを聞かされる羽目になった。
〔男なんて簡単に信じちゃ駄目よ。うちのパパだって、グライフママ一筋だとか甘々だけど私のママと浮気したんだから。じゃあママは何って訊いたら馬は数に入らないって言うのよ。ムカつくーーッ。「じゃあベルちゃんは」って、皆なベルって呼ぶんだけどね、「ベルちゃんはパパが嫌い?」とか「ベルちゃんは生まれて来たくなかったの?」とかきっしょウザいこと言う訳、どう思う?〕
〔異母兄弟とかは私が小さくて可愛いとか言ってさ、むっさいオッサンが抱き着いてきたりする訳。エロい世界では近親相姦流行ってるって聞いてさぁ、マジ勘弁ってぇかぶっ殺したくなるじゃない。どう思う?〕
どう思うと聞かれましても、グライフ家の微妙な家族関係に関する意見を、思春期ヤンキーのヒッポグリフ少女にどう言えというのか。レポートを提出しないといけないのに、眼下の魔法合戦に集中させてもらえない。
しかもヒッポグリフのベレンガリアは美味しそうな血の匂いに釣られて、大して面白味のないプロスペロの魔法に飽きもして、言いつけを守らず、戦いの中にズージを連れて行ってしまったのだ。
「そっちは、あぶ…、いから、…って…」
そっちは危ないから行くなって言われてる、と言いたかったのだが、ちゃんと伝えられないままに、血が噴き出し肉の舞う阿鼻叫喚の真っ只中にいたのだ。
千切られた脚が飛んで来て、避けたそれを飛獣の嘴が捕らえた。その目がギロリとズージを捉えたがそのまま飛んでいく。一息吐いてもいられない。ベレンガリアは危ないものを間一髪で避けるのを楽しんでいて、飛び出して来た海獣のギザギザの歯を寸での所で避ける。
〔やだ、あの人間美味しそう!ねぇ、サシの入り方がいいと思わない〕
思わない思わない、思ったらちょっと大分問題。見る気もないしどの人体かもわからない。
〔私の分~~、パパちゃんと取っといてくれるかなぁ。グライフママは絶対取ってない!賭けてもいいよ〕
何処の世界でも継子関係は難しい。ベレンガリアは頬を膨らませた。
目を瞑れば光景は見えないが、叫び声や血の匂いはどうにもならない。何処からか噴き出した血がドバっと掛かる。何の血であるかわからないが、わかろうとわかるまいと同じ位不愉快だった。ベレンガリアにしがみ付いて気分の悪さに耐える。
〔あ、ツチラトだあ〕
知った名を聞いて目を上げたのが悪かった。本人はズージを気にして様子を見に来てくれたのだろうが、それなら持ち物には気を付けて欲しかった。腸をぶらぶらさせた胴体付き人間の腕を咥えていたのだ。ズージの意識は飛んだ。
ツチラトの甲冑の中から必死で脱出しようとした。でも大きな甲冑は鉄製ですべすべして手が滑ってしまう。手に引っ掛かる物を探したが何もない。悲鳴が甲冑で反響して辛い。血の匂いが間近で濃厚にムッとする。気配がして振り返ると瞳孔が開きっぱなしのツチラトの顔が浮かび上がっていた。見たくもないのに視線を下げてしまうと、片手と腸をぶら下げた胴体が見えた。
(あなた溺死した筈じゃあ!?)
息が出来ない、口に入る水がしょっぱい。
ツチラトが腸を差し出して来る。
『いいサシが入ってるよ』
嫌あああぁぁ……。
暗闇の中、果てしなく落ちていった。
「ズージ、ズージ」
聞覚えのない声が自分を呼ぶ。切羽詰まった感じが危険を覚えて、ズージは無理に自分を覚醒させた。
太陽が眩しくてすぐには眼が開けられなかった。水の中にいるようだが海水ではない。軽く開いた口に注がれる清水でわかった。塩水で苦くなった口に気持ちいい。ようやく眼を開けると、見ず知らずの筋肉マッチョなお兄さんが映る。
「誰…?」
「ツチラト」
ヒッと悲鳴を上げて逃げようとしたが引き戻される。
「お前の為に人型してるが全裸なんだ。吾は気にしないんだが…」
人間は気にするだろう、と言外に仄めかす。
「女性では…」
「構わないが、全裸だ」
「…………そのままでいいです」
軽く頷く。
「すまなかったな、ヒッポグリフの雌は人間と付き合いがなかったそうだ」
あったとしてもきっと餌である。ツチラトとてお腹を空かせて涎垂らしてズージを狙っていたことがあるのだ。思い出さなくていい事を思い出してしまって気分がへこむ。程よい大きさまで育てられてる鶏の気分だった。近くでさっきまで仲間だった鶏が晩餐用に毟られている、そんな感じが近いだろうか。
一応腰回りは毛皮にしてくれているらしいのだが、顔を出してしまうらしい。そこは年頃の乙女として一番何とかして欲しい部分なのだが。ツチラトに必要なのだろうか。いや一時だけ無くしてくれても好いモノではないだろうか?しかしそれを口にするのは少女としては憚かられた。
「ベレンガリアは?」
「吾がお前を引き受けたら、飯喰いにいった」
もう一度気を失っていいだろうか。とても失いたかった。
ツチラトの肩口からヘンリクが顔を出している。
〔大変だったね〕
そういえば滝の音がしている。プロスペロが気張って作った滝だ。
「足に触るがお前は足元を見るなよ」
折角事前通告してくれたのだが、無意識に反射的に足元を見てしまった。
「ぎいやあああああああーーーーーーー」
悲鳴という名の大騒音にツチラトが顔を顰める。
「とってーーーーーーッ」
渾身の力で叫んだ。
頼まれなくても取る為に予告したのだ。
失神した少女を運ぶ時、適当な縄が手元になかったので、ズージも目にした腸を代わりにしたのだ。ついた血肉を落とす為ズージは水に浸けられてざぶざぶと何度も振り洗いされる。
「中々取れないな」
また振り洗いしようとするのを、
〔手で取った方が早いよ。ズージが弱っちゃいます〕
「ああ、人間はすぐに死ぬからな」
確かにズージは死兆星を見ていた。
「吾の知識では濡れた服を脱がして乾かさないと病気になってやっぱり死ぬと思うんだが、人間はどんな時でも、特に雌は服を着ていることに固執するんだな。しかし死ぬんだが…」
彼にとってはどうでもいい事だが、彼が飼っている人間が悲しむ。大魔法師がウザい。
〔ああ、そうみたいですよね。人魚なんか(人間的に)ナイスバディなのに全裸なんですけどねぇ?〕
「あれは逆に全裸でないといかんらしい」
〔ええッ、どういう基準!?〕
げほごほげっげ、振り洗いの時に鼻や口から入った水を吐き出すズージの頭上で、人間あるあるを人外の生物が話している。とんでもない展開になりそうなのに、散々に水中で振られたものだから、頭がクラクラして身体を動かせなかった。人語を解するのでせめて言葉でも伝えたかったが、肺に入った水を吐き出すのに体力を使い、声が出せない。天空にはまだ死兆星が輝いている気がする。
「まあいいか、お小言はもらうだろうが死ぬよりいいだろう」
命を助けてお小言をもらうのは何時だって不条理だ。幼児のプロスペロの面倒を見ている時だって、お小言ばかりもらっていた。彼のペットだというのにだ。
服を破いたらお小言をもらうだろうから、ちゃんと脱がせようとする。外套は簡単に脱げたが、伯爵令嬢が着る流行の服の脱がし方がわからない。
「切るか…」
ヘンリクが頷く。
〔早くしてあげましょう。さっきまでうごうごしてたのに、動きがなくなってきましたよ。弱ってきてるんですよ。きっと〕
それはツチラトが魔物の力で無意識に押さえつけているからだった。
人差し指の爪が鋭い刃となって襟首にかかる。
竜巻のように巻き上がった滝壺の水がツチラトを襲う。予想した程の威力はないが少女の想いを届けるには十分だった。ツチラトが襟首を掴んで引起すと、少女は何をする力も残っていない癖に、目だけは挑戦的に睨み付けるのだ。
甚だしく不本意である。折角酒池肉林を楽しんでいたのを切上げて、嫌々助けてやっているというのに。プロスペロはお気に入りのペットだから世話してやっている。だが本来人間はツチラトにとって餌でしかない。そうこの雌も美味しい魔力を持つ餌でしかないのだ。雌雄を持たず種を持たず、単独の存在であるツチラトは、生殖に無縁であるから純粋な好悪しかない。
滝壺では第二波が頭を擡げて出番を待っている。
首根っこを掴まれた猫のような格好で、ズージは怖いながらも精一杯ツチラトを睨み付けた。頭が恐慌を起こしていてちゃんと考えられなくて、気持ちどうにでもなれ、的な感じだった。身体が苦しい、喰われなくても死ぬと思った。
男の頭が見る間に歪んで巨大な狼の頭部となった。ニタァと笑うと大きく裂けた口から飛んでもなく血生臭い息が吹きかかる。
〔食べられるのがいいか?服を脱ぐか?〕
人生終了を確信した瞬間であった。
戦闘が終わると海に落ちた敵兵たちの救助に忙しかった。転送魔法が使えるマイエはランデスコーグの魔導士と共に懸命に無事な船に転送する。転送魔法はかなり力を消耗する為、戦闘終了まで師匠に隠されていたのだ。
王子の旗艦にヒッポグリフから降り立った美貌の少年に、ランデスコーグ兵は作業も忘れて魅入ってしまった。
「ヘンミンキ王子にご面会申し上げたいのですが」
人品卑しからず、背筋が綺麗に伸びた少年は、誰にともなく請うた。表情にも声にも恐れは微塵もない。
その場で一番階級の高い軍人が、部下に案内するように命じる。
次々ともたらされる船団の損傷の報告を執務室で受けていた王子は、一人で訊ねて来たという少年に驚いた。疲れたのかちょっと眠たげに見受けられる。持参した布袋の中身を執務机の上に広げると、それは小さな立方体に封じられた魔導士たちであった。カホネン将軍以下同室した幕僚たちがざわめいた。
「我が師がイルマリという魔導士の処分を引受けたそうですが、顔を知りません。この中にイルマリはいますか?」
ウラースロー大陸での公用語であるウルス語を流暢に話した。
「これだな」
抓み上げる。媚を売るように眼で訴えている。何か言っているようだが聞こえない。
少年は袋の口を広げて差出すと、察してイルマリを袋の中に落とす。手を引こうとした少年を引き留めると、ぞんざいに他の魔導士も放り込んだ。
「よろしいのですか?」
「イルマリの配下の嫌な連中だ。外法を使う連中は好かん。好きにしろ」
「噂では王子が外法を好むと聞いていました」
手元にあったウラースロー大陸の金貨をヘンミンキは指で弾いた。プロスペロが上手く掴む。
「頼みがある。そういう噂を聞いたら一々修正してくれ、金輪際外法とは縁を切る」
「了解」
少年は明快に答えた。
ヘンミンキにしてみれば元々結びたくもなかった縁である。
少し大きめの見掛けたことのない金貨だ。誰かの横顔と裏面にはシンボルが刻まれているが、文字が入る場所は空いたままだ。
「来歴をお聞きしても?」
「父がウラースロー大陸を統一した時に出す予定の金貨の見本だ」
「有難く頂きます」
珍しいものだから素直に嬉しい。
「貴様の師は噂に勝るな。あんなに巨大な封鎖空間を作るとは、度肝を抜かれたぞ」
「あれは私です。師は面倒臭い魔法は私にさせます」
室内にどよめきが走った。
あれをこの細っこい少年一人でやったというのか。誰もがプロスペロを凝視した。
信じられない話ではあるが、ウラースロー大陸にまで名を響かせる大魔法師ウィクトルの弟子だ。破格ということなのだろう。
ブルー・ナ・ノウスを出てからの人々の反応は、プロスペロの全く予期していないことだった。
師匠は比較しない。歳の割に、とか弟子の誰それよりどう、とかをほとんど聞いた覚えがない。だから自分が人より何がどう優れているか認識してこなかった。無効化魔法が得意だね、上手だね、と言われても、誰かと比較して優劣を告げられたことはなかったし、ほぼブルー・ナ・ノウスと村だけが世界だったから、外の世界と自分の対比がなかったのだ。
人々がプロスペロの魔法に驚くことに驚いていた。
彼が冷静に見えるとしたら、魔法を習い出した頃に焦って魔法師を一人跡形もなく消し去った事での自戒から、冷静でなくてはならぬ、と頑なに守っているからだ。それに持ち前のきかん気も手伝って、人々の反応一つ一つに一喜一憂していないように見せかけていた。
「このキューブもか?」
「転移魔法で船に乗ってきたら発動するように魔法陣を仕掛けました。面白いように掛って吃驚しました」
こっちが吃驚だ、とは口には出せなかったが、ヘンミンキは飛び抜けて綺麗な顔をまじまじと見てしまった。
「名を何という?」
「プロスペロです」
「………プロスペロ、何?」
少し待ったが続きがないので促した。
「ただのプロスペロです。孤児なので」
物怖じしない様子からてっきり貴族の子弟だろうと踏んでいたのだが。
王子は抽斗の中のモノを取出した。それは今思い付いたウィクトル師弟への贈り物だった。
治癒魔法をよくするアルトドルファーには戦闘は辛いものだった。終わった時は気分が悪くなる程ホッとした。緊張が解けて一気に血流が良くなったからだ。和平がなったとあれば敵も味方もない。
心底くたくたになって船に戻ると、転移させてくれたマイエが心配そうにしていた。
「お疲れ様。長い一日だったわね。早速で悪いんだけどツチラトを見なかった?」
「見たよ。ペガサス咥えてたよ」
正直人間でなくてよかったと思った。
「じゃあズージは一緒にいなかったのね」
連れてはいなかった。
マイエの説明によると、グライフ一家が引き揚げたのだが、ズージを任せた筈のベレンガリアが、途中でズージをツチラトに任せたというのだ。だがマイエが目撃したツチラトもズージを連れてはいなかった。船にもいない。《年経た亀》に降ろしたかもしれないと探しに行くと、滝壺の側で彼女の服が干されているのを発見した。下着まで丁寧に干されているのに、中身は何処にも見当たらなかった。
父であり領主のディートヘルムはさっきまで詠唱していたので、喉が痛いとホイベルガーに治療を受けていてまだ話していないという。
ウィクトルがしてくれた話を思い出して冷汗が出た。話している間にウィクトルが戻って、二人で冷汗を共有する。
実を言えばプロスペロを拾って来たのはツチラトなのだ。忌み地で拾ったという。よく生きていたなと思ったし、よく食べられなかったなとも思った。
「非常食だ」
などと嘯いていたが、人型をとって世話をする様子は、女房に逃げられた亭主のようであった。
どうやらプロスペロの先祖に恩義を受けたことがあるらしい。恐ろしく魔力があったので手元に置いたが、普通のレベルなら取上げて孤児院に入れていたことだろう。
ツチラトは《年経た亀》のヘンリクよりずっと長く生きているが、魔物なのである。趣味や特技が子守り、などという訳でもない。プロスペロは何度も命の危機に瀕した。
幼児のプロスペロが屋敷の水路に落ちた事があった。風邪などひかない魔物に濡れた服を着替えさせるなどという知識はなく、幼児の様子がおかしいと、研究に没頭していたウィクトルに知らせに来た時には肺炎になっていた。
熱を下げる為に身体を冷やしてやらねばならない、と教えると冷蔵室に入れようとした。慌てて冷蔵室に入れるのは死んでからだ、と告げると「理屈がわからない」と呟いていた。
村人のしているのを見て真似たのだろう高い高いをしていたが、本当に高く高く空に投げ上げていたから、通りがかりのコカトリスにナイスキャッチされてしまい大急ぎで追いかけていた。魔物がブルー・ナ・ノウスの上を低空飛行などは絶対にしない。どれだけ高く飛ばしていたのか、しかもプロスペロは大喜びだった。
取敢えず鍋に放り込んで煮るだけ、というスープを作ったのもツチラトだった。鮮度抜群、生肉一択の魔物である。逆に煮るを覚えただけでも褒めたものだ。
第一発見者の権利を主張するツチラトを、プロスペロから離すのは至難の業だった。最後は強権を発動してひっぺ剥がした。動物型でなら傍にいることを許したら、何とか退いてくれた時には色んな意味でホッとした。
思い出せば幾らでも湧いてくるあれやこれを、ウィクトル自身キレイに忘れてしまっていた。ズージも服が干されているからと中身が無事とは限らない。惜しい魔力の持ち主だった。父親に何と告げたものか、雲隠れしよっかな~、などと考えてしまう。
「プロスペロは?」
「「疲れた。ご飯いらない。寝る」っていつぞやのうちの息子と同じ事呟いて寝ちゃったわ」
「………………」
ツチラトはウィクトルが召喚した魔物ではないし、契約もしていないから遠話が繋がりにくい。プロスペロなら気に入られているから簡単なのだが。
百%逆上するであろう父親に告げる前に、ある程度善後策を講じておかねばならない。過失致死などディートヘルムは受け入れないだろう。盾になるモノがいる。少々可哀想ではあるがプロスペロを叩き起こすしかない。しかし返す返すも惜しい才能だった。プロスペロに勝るとも劣らない魔力を持っていた筈だ。
鬼畜の如き思考をコンマ何秒という短時間で整理し、プロスペロを起こしに行くべくアルトドルファーに声を掛けかけた時、ヘンリクがよちよちと現れた。
大木の洞で、精霊に付添われたピンク色のドワーフロップはよく眠っていた。
精霊の眠りは与えられたモノを癒す。恐ろしく苦しく長い一日だったが、酷い精神的な衝撃は軽減されていた。勿論精霊に頼んだのはヘンリクである。ツチラトを嫌わないように、とかの配慮ではなく、単に疲れているだろうと考えただけである。ヘンリクも人外であるからツチラトを嫌う理由などわからない。どころかツチラトの誠実な態度に幾ら感謝してもしきれない、はず、という思考である。
小さなピンクの耳垂れウサギを、マイエは愛しそうに洞から取出す。精霊から離れてすぐズージは目覚めた。
きゅいきゅい~。
と可愛らしく鳴く。
後日ズージのレポートを元に、ツチラトは「人間の助け方の基本」の講義を受けるに至った。あくまで後日の話である。
ズージをウサギにした魔法は、誰にでも簡単に解けるようにされていたから、彼女に与えられた船室で解くことが出来た。まあわかるところはツチラトも配慮しているということである。




