ちっぽけな人間のちっぽけな人生のちっぽけな終焉
♯5 ちっぽけな人間のちっぽけな人生のちっぽけな終焉
※ ※
ハワイに居た。ワイキキビーチだ。
アロハギャルたちがきゃぴきゃぴはしゃいでいるのを遠くで眺めながら、リラックスチェアで寛ぎつつ、トロピカルジュースをでっかいストローでズズズっと飲み干す。
正しく、南国気分をこれでもかという程に味わっていた。
幸せだ。死ぬまでの間に、ここでリゾート気分を味わいたかったからか、本当に幸せな気分だった。本当に。……本当に。……本当に?
「……何で、俺ここに居るんだろう」
どうしてだろうか。大事な部分が抜けている気がする。何か大切な物を、忘れてしまっている気がする。
モヤモヤしていた。何もかもに、モヤモヤしている。忘れてはいけない何かを忘れているみたいだから、当たり前かもしれないけど。
そんな中、声が聞こえた気がした。俺を呼ぶ声だ。誰かが俺を、呼ぶ声だ。
このままでいいのかと、投げ掛けるような声だ。
「……そんなこと、言われてもだな」
分からない。何もかもが分からない。そんなことどうでもいいから満喫しようぜとばかりに、さざ波が砂浜に打ち寄せている。
……そうだ。どうでもいい。何も考えたくない。今はこの、幸せな気分に浸りたい。
リラックスチェアに深く腰掛けて、一つ欠伸をする。
「ふぁーあ……スケッチブック持ってくればよかったかもしれねぇな……ん?」
当たり前のように不意に口にしたその言葉に、違和感を覚えた。どうしてかは分からない。
分からないけれど、俺の中に何とも言えない違和感が渦巻いている。
「そのままで、いいんデスか?」
違和感の正体が分からずに唸っていると、不意に声を掛けられた。
顔を上げると、波打ち際に誰かが立っていた。
夕陽に照らされて、顔はよく見えない。聞いたことある声な気がするけれど、その正体が分からない。
「……このままでいいってどういう意味だよ。どういうことだ」
「そのままの意味デス。そのまま、現実から目を背けたままだと、何もかもを失ってしまうデスよ。それはあなたにとってあまり良い事じゃないと思うんデスよ」
「……うるせぇよ。ほっとけ。俺はこれでいいんだ。何もかもが疲れちまったんだよ。今はこの天国みたいな状況を満喫したい。ただそれだけだ。後悔? 現実? そんなの糞くらえだ。どこのだれか知らねぇけど、ちょっかい出すんだったら放って置いてくれないか」
「まだ何も、生きた証を残していないあなたが、何もかもを放って目を背ける権利があると思っているのデスか?」
無視をしてドリンクを飲もうとしている手が止まる。イラッとしたとか、カチンときたとかじゃない。その言葉に、何故か引っ掛かった。
「……どういうことだよ。生きた証って」
「生きた証デスよ。あなたは、何もなしえていない。何もかもが中途半端なまま、全てを投げ捨てようとしている。それだけは、避けるべきなんじゃないかなって思っただけの話デスよ。あなたらしくもないデスよ。どんな立場に落とされようとも、どんなに絶望の淵に立たされようとも、このままじゃ嫌だって悪あがきしていたじゃないデスか。それが何ですかこの体たらくは。呆れかえって反吐が出てしまうデスよ」
「あーもう! うっせぇ! うっせぇうっせぇうっせぇ! 俺のことなんざどうでもいいだろ! お前には関係ないことだろ! んだよさっきからウダウダウダウダ! 小姑か!」
「コジュウトという単語が何なのかは分からないデスけど、そんな細かい事はどうでもいいんデスよ。立ち上がって下さい。あなたにゆっくりしていい時間なんて皆無なのデスから。……それとも、あなたは絵を描くのが嫌い、なのデスか?」
うだうだと挑発を繰り返す謎の女に、沸々と怒りが煮えたぎる。マジでこいつ何なんだ。
「……んな訳ねぇだろ。絵を描くのが嫌いな訳ねぇだろ。描きたいに決まってんだろ。ただ、描きたい何かが見つからねぇだけだ。何かを描こうとしても、満足出来ねぇだけだ。それの何が悪いんだよ。これが俺なんだよ。夢だけ見て、現実を顧みない。生きる意味も希望も何もない。何もないんだよ! 何もないから、描きたくても描けねぇんだよ! どうすればいいんだよ! 俺はどうすればよかったんだよ! どうすれば……よかったんだよ……!」
知らない誰かに、ただただ俺は吐露した。なぜか涙が止まらない。悔しかっただけなのかもしれない。分かって欲しかっただけなのかもしれない。それとも、ただの一方的な八つ当たりなのかもしれない。どうでもいい。頭が痛い。ただ、やるべきことはやっと思いだした。
絵を描かなければ。……絵を、描かなければ。
「どうすればよかったのかは知りません。私は、あなたの保護者でも、親戚でも、友人でも幼馴染でも何でもありませんし。あなたが何を抱えてようがどうでもいい。だけど、これだけは言えるデス。……後悔だけは、して欲しくない。これはあなただけの問題じゃない。あなたがそうしなければ、悲しむ存在が何人も居るのデスから」
「……それは、お前もか」
「さぁ、どうですかね。いかんせん、私は人類じゃありませんしね」
「なんじゃそら……意味分かんね……」
顔も見えない誰かに、意味の分からないことを延々と告げられて、もう一杯一杯だった。
大きく溜め息を吐いて、よっこらしょと立ち上って、ビーチに背を向けて歩き出す。
「どこへ向かうのデス?」
「あぁ? んなの決まってんだろ。……絵を描くんだよ!」
捨てセリフを吐き捨てて、一歩、また一歩と歩き出す。
淡いボヤーっとした光が、辺りを包み込む。
そして、魘されるがまま目を覚ました。
「……夢だったか。やっぱり」
天国のような場所から、地獄のような喧騒に戻される。というより、凄い恥ずかしい。夢とはいえ何を考えているんだ俺は。
色々とウダウダ考えている自分の頬を叩いて、立ち上がろうとするものの、想像以上の身体の重さによろついてしまう。
というより、色々な管が体に繋がれていた上に、酸素マスクまで付けられていた。おまけに点滴とかよく分からない医療機器まで。
「いつっ……」
胸のあたりに急に激痛が走ったと思うと、巻かれていた包帯から血が滲んでいた。
やっと、自分自身のおかれている状況が読めてきた。
そうだった。波留を慰めるために湖に行って、襲撃を受けたんだった。
周りを見回してみるものの、誰も居ない。後、外が凄まじく騒がしい。あれからどれくらいの時間が経ったのかは分からないけれど、俺自身が生きているという事実だけは確かだった。
「……ははは、よく生きてたな俺……うおっ!?」
こうやって生きているだけでも奇跡だった。苦笑いをしていると、凄まじい衝撃音と地響きが襲ってきた。驚き過ぎて心臓が止まりそうになりつつ、慌てて窓の外を見る。
そして、目に映った光景に釘付けになった。
言葉を失う程の、圧倒的な絶景だった。身体の重たさやら痛みやら何もかも、どうでもよくなってしまう。ただ、あっという間にその光景は過ぎ去ってしまう。
ハリケーンかのような暴風と地震が襲いかかって窓ガラスにひびが入る。
更に留めとばかりに小さな隕石のようなものがアトリエに直撃した。半分程崩れてしまい、天井から綺麗な満月が覗いている。
……だけど、どうでもいい。そんな些細なこと、俺にとってはどうでもいい。
「……はは、ははは……来た……来た来た来た……来た来た来た来た来た! 降りてきたああああああああ!!」
初めてだった。ここまで興奮するのは初めてだった。初めて、自分が描くべき作品、描かなくてはいけない作品が出来た。
残さなければいけない。もうすぐ死ぬとかそんなことどうでもいい。命をすり減らしてでも、完成させないといけない。
……描こう。描くしかない。俺が居たという証拠を、墓標を、遺作を、魂を。
「アキラ! 大丈夫……えっ?」
「ワンワン! ワンワンワン!」
「おじちゃん! ……おじちゃん?」
ジュリア達が慌てた様子で駆けつけてきたのが見えたけど、何も言ってくることはなかった。むしろ好都合だ。邪魔をしないで欲しい。ただただ、描かせて欲しい。思う存分描き続けたい。
脳内でとめどなく溢れかえってくるインスピレーションの数々を、キャンパスにぶちまける。
楽しい、ただただ楽しい。周りが全く気にならない。絵を描くことだけに集中出来る。こんな状況は、生まれてこの方初めてだった。
「はは……はははは……やっべぇ……止まんねぇ……はは……はははげっふぉ! ゲホッ! ゲホゲホッ!」
描いている途中で急に何かがこみ上げてきて咳込んでしまう。手を確認すると、赤黒い血がべっとりとこびり付いていた。返り血がキャンパスにも飛び散ってしまう。
あぁ、いつものことだ。無理するなってことか。落ち着けってか。
「落ち着いて……られるかよ!」
口元についた血を袖でゴシゴシと拭いて、上がる口角を下げれないまま、ただただ絵を描く。
何度も吐血がぶり返して、何度も血をまき散らしてしまうものの、そんなことどうでもよくなる程に筆が止まらない。
体調は最悪だ。身体が熱い。頭に血が昇っている。目まいがするし、今にもぶっ倒れてしまいそうだ。だけど、そんなことどうでもいい。
脳内にこびり付いて離れない光景をキャンパスに残さなければ。後悔だけはしたくない。
楽しい。とにかく楽しい。楽しすぎる。いつ振りだろうか。絵を描いて、楽しいと思えるのは。こんなに楽しいと思えるのは本当に久しぶりだ。むしろ初めてかもしれない。
いや、そんなこと思ってどうする。どうでもいい。時間が足りない。人手が足りない。画力が足りない。表現力が足りない。だけど、これを描きたいというイメージがこびれ付いて離れない。あぁ、ダメだ。足りない。何もかもが足りない。もっと、もっと、もっともっともっと!
「あぁくっそ絵の具切れた! おい! ……おい! ジュリア!」
「……え、ちょっ、何、何よいきなり!」
「水性絵の具が切れちまったから倉庫から予備持って来てくれねぇか!」
「倉庫!? 倉庫ってどこよ! てかどの色の絵の具を持ってくれば…」
「ここ出て右奥に行った部屋だよ! 一式揃ってるからそれ全部!」
「え、奥? えっ?」
「いいから!」
「あ、あーもう分かったわよ! 持ってくればいいんでしょ! ハル! 行くわよ!」
「う、うん! わかった!」
「ワンワン!」
戸惑っていたものの、吹っ切れた形でハルとワンタンを連れて慌てて部屋を出る。
その間にも絵を描く手は止められない。興奮する心を止められないまま、本能に赴くがまま描き続ける。
少ししてジュリア達がバタバタと戻ってきて、机の上に大量の絵の具をどさーッとまき散らした。あっという間に、机の上に絵の具の山が築かれる。
「これでいい? 全部持って来てやったわよ」
「ははっ、本当に全部持ってくる奴がいるかよ……でもありがとよ!」
感謝を告げて、絵の具の山から欲しかった絵の具を取り出して、パレットにぐちゃあっと吐き出した。同時にまた口から血が出てしまうものの、最早どうでもよかった。
身なりなんて気にしていられない。ただ目の前の絵を完成させるためにはどうなってもいい。
死んでもいい。どうして人はいつか死ぬんだ。だけど今は死にたくない。死神が、後ろでニッコニコして手招きしているのが見える。
邪魔だ。全員邪魔だ。邪魔すんな。どうでもいい。邪念を振り払うがごとく、荒々しく絵筆をキャンパスに叩き付ける。
「はは……ははは……よし……もうちょっと……いやでもこれは……あぁでもそうか……よしじゃあこの部分は……」
ブツブツと独り言をつぶやきながら、絵を完成させてゆく。
バラバラだったピースを一欠けらずつ組み合わせてゆく。何も無かった荒地に、立派な建造物を作り上げてゆく。
まるで、童心に帰ったかのように、その作業が楽しくて仕方がなかった。あんなに辛かった日々が、蹂躙されて苦汁を飲んで辛酸を嘗めてきた地獄の日々が、瞬く間に浄化されてゆく。
興奮し過ぎて今にもぶっ倒れてしまいそうだった。色んなアドレナリンやらドーパミンがドバドバと溢れている。
ずっと、このまま。ずっとこんな楽しい時間が続けばいいのにと思ってしまっている自分が、本当におかしく思えた。
そうか、絵をかくことって、こんなに楽しかったのか。
もっと描きたい。もっと突き詰めたい。もっと、もっともっともっともっと!
もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと!
「まだだ……まだいけるだろ……まだ…まだゲヴォウェ! ゲヴォゲヴォゲフォッ……ヒュー……ヒュー……」
「ちょ、ちょっと! アキラ! ヤバいって!」
「近寄んじゃねえ! ……大丈夫だ……か、ら……ぜぇ……ぜぇ……」
苦しい。血が止まらない。心配そうにジュリアが近付こうとしていたけれど、止められたくない。止めないで欲しい。思う存分、この瞬間を生きていたい。
それだけの理由で無理やり止めて、ドクンドクンと酷い不整脈を繰り返している心臓を無理矢理ぶっ叩いて再起動させる。
無茶苦茶苦しい。苦しすぎる。意識が今にもぶっ飛びそうだ。だけど、反比例するようにドキドキとワクワクが止まらない。
もう頭がおかしくなってしまった。こんなに苦しいのに、こんなに楽しいなんて。
「……もっと……もう、ちょっと……ゲホッ……も、もう……ちょっと……」
意識が混濁してゆく。もう絵筆を持つ力すらない。だけど、まだ満足していない。まだ改善出来る筈だ。俺が思い描いていた絵はこんなものじゃない。
ほとんど意識なんてなかった。ただの意地だけで、歯を食いしばいつつ笑顔で描き進める。
そして、何時間か何日か経って。
ようやく、完成した。
「……でき……た……」
声も出ない。その言葉だけ絞り出して、出来上がった作品を茫然と見つめる。
「……アキラ、それって……」
茫然と立ち尽くしていると、後ろから声がした。ジュリアだ。ずっと、後ろで見守っていたらしい。血塗れのメイド服を着て、身体や顔のあちこちが傷だらけだ。
「……お前、ひっどい格好だな。大丈夫なのかよ……」
「あ、あんたに言われたくないわよ……」
笑った。いや、泣いている。ボロボロと、泣き崩れている。俺じゃない。俺が作り上げた作品を目の当たりにして泣いていた。違うかもしれないけど、そういうことにしておこうと思う。
ホッと一安心して、ふっと力が抜けて倒れ込む。
「ちょ、ちょっと! 大丈夫!?」
「大丈夫な訳ねぇだろ……でも、出来た。やっと、出来た……俺の、魂の、命の、心血全部注ぎまくった作品が、やっと……出来たんだよ……」
「うん……うん……」
やっと出来た。描きたかった作品が、描けた。二十数年生きてきた俺という人間の全てを注ぎ込んだ作品が、やっと出来上がった。
涙を堪えながら、ジュリアは声を震わせる。
燻っていた何かが、絡まっていた何かが、何もかもから解放されてゆく。
満足感というか多幸感に浸っていると、景色が滲む。どういうことかと思ったけれど、直ぐに察した。
そうか、俺も泣いているのか。嬉しいのか。やっと、悔いも何もかもを残さずに死ねるから。
「なぁ……ハルと……ワンタンは……」
「……寝てる。出来上がるまで起きてるって言ってたけど、流石に限界だったみたい……そりゃそうよね……あんた、一週間近くずっと描いていたんだから……」
「はは、そんなに時間かけてたのかよ……そりゃこんなに体調が最悪な筈だぜ……」
全然分からなかった。そんなに時間が経っていたとは。笑いが止まらない。
だけど、それとは逆に、段々と意識が遠のいてゆく。瞼が段々と重たくなる。……もう、ダメだ。抵抗する力もない。
「……なぁ、ジュリア。あいつら、頼んだぜ。俺が言うセリフじゃねぇけどな……守ってやってくれ。あいつらには、お前みたいなのが、必要なんだからよ……」
「……何勝手に寝ようとしてんのよ。頼まれても、困るんだけど」
「もう疲れたんだよ……もう疲れた、全部出し切った。もう、疲れたんだよ……もう、満足だ。俺がここに居る理由は、もう……」
「……そう……馬鹿……」
泣いていた。綺麗な顔が台無しだ。きっと、怒りたかったんだと思う。そんなこと言うんじゃないとか言ってビンタしたかったんだと思う。
だけど、しなかった。したところで、ただの愚行でしかならない。現実は、覆らない。
それを察して、全てを押し込んだうえで、それだけ口にした。……良かった。こいつが、察しのいい人間で。そう思っていると、一つ思い出した。大事なことを、思いだした。
あいつだ。勝手にこの星に侵略しに来て、俺の家を根城にして、好き放題しまくっていたあいつだ。そのくせ優しくて、俺の心配をして、俺を守ろうとして、俺を正そうとしていた異星人たちだ。
あいつら……どうしてるだろうか。
「……なぁ、アウルと、ヴェネ公はどこだよ……」
「……因縁付けにいったっきり帰ってきてないわよ。……それがどうしたの」
「……あいつらにも、伝えたいことがある……ゲッフォ! ゲホッ! ゲホゲホゲホ!」
「ちょ、無理しないでって……」
「大丈夫……大丈夫だから……」
心配そうに近づいてきたジュリアに、伝えて欲しい事を耳打ちする。
「……分かったわよ。あんたの要望通り……伝えとくわ……」
「頼む……ケホッ」
伝えたいことは伝えた。一つ大きく息を吐いて、天井を見上げる。
光がしていた。視界が、靄かかってゆく。音が、遠ざかってゆく。周りの音が、消えてゆく。光が、収縮されてゆく。
「……! ……!」
ジュリアが、何かを言っている。酷い顔だ。涙で顔がぐじゅぐじゅだ。だけど、何を言っているのか分からない。
だけど、いい。これでいい。やりたいことは全部やった。もう、悔いはない。
これで、いい。これで……。
そして、灯が消えた。
♭ ♭
「……アキラ……アキラ……ああああああああああああああああああああああ!!」
死んだ。アキラが死んだ。クルックルの天然パーマで、ひっどい隈を張り付けたヒョロガリ脆弱野郎が、息を引き取った。あいつには似つかない、爽やかな笑みを浮かべて。
もうピクリとも動かない。脈も無い。息も無い。生気がない。魂が抜け去って、そこにはただの抜け殻が存在していた。
それを抱きしめて、泣いた。ただただ泣いた。泣くことしか出来なかった。
どうして、こんなに悲しいのだろうか。どうして、涙が止まらないのだろうか。
分からない。どいしてこんなに、心が掻き乱されているのだろうか。
分からないまま、泣いていた。すると、顔に何か湿っぽい感触を感じた。
横を向くと、いつの間にかワンタンが不安そうな表情を浮かべて私の頬を嘗めていた。いつの間にか、起きていたらしい。
「くーん……くぅーん……」
「何よ……そんな顔しなくても私は大丈夫よ……」
「ワン!」
「ふふふっ、あんたは強いわね……」
優しくなでると、元気に鳴き声を上げた。安心したのだろう。不思議なものだ。撫でるだけで、こんなに安心するなんて。
涙を無理矢理止めて、アキラの亡骸をベッドに優しく寝かせて、ソファでスースーと眠っているハルに近付く。
「……ハル、起きなさい。もう朝よ」
「……ん、んん……あれ、姉ちゃん、どうしたの? 目が赤いよ?」
「……気のせいよ」
流石子供だ。感性が鋭い。適当に誤魔化して、そっと起こす。
ハルは眠たそうにファーッと欠伸をして、眠たそうに目を擦る。
そして、目の前の絵を見つけた。
パタパタと走り出して、絵の前で立ち止まって、ジーッと不思議そうに見つめる。
「ねぇ、これって、おじちゃんが描いたの?」
「……えぇ、そうよ。アキラが描いたの。凄くない。あんな見てくれで、こんなきれいなの描くなんて誰も思わないわよね」
「うん。きれい。すっごい、きれい。……だけどね、ハル、わかってたよ」
「……分かってたって、何がよ」
「おじちゃんは、とってもきれいな心もってるもん。だから、かいている絵もすっごいきれいで、キラキラで、ピカピカなんだよ」
その言葉に、ハッとした。……そうか、子供だからこそ、分かるのか。
あいつが心に秘めていた物の純粋な価値を。
「……ねぇ、おじちゃん、大丈夫? 寝てるの?」
アキラの姿を見つけて、不安そうに見つめる。
「……えぇ、寝てるわ。全部出し切って、満足して、寝ちゃった。……起こさないであげましょ。ずっと、頑張ってたんだもの」
「……うん。わかった」
「ワン!」
何かを察してくれたらしい。そう告げて、その場が静まり返る。
朝日が差して、あいつが描き上げたキャンパスがカーテンから差す日の光に包まれる。
そして次の瞬間、何もかもを吹き飛ばすような轟音と衝撃が後方から届いた。
「ちょ、何よこんな時に!」
突然過ぎて混乱しながら、慌ててアトリエから出て辺りを見渡す。
勿論、ハルとワンタンを守りながらだ。
そして、そこにあった姿に目を疑った。何せ……。
「……はぁ……はぁ……やっと着いた……デス……」
「ぜぇ……ぜぇ……ホンマやで……ボス、もうちょい、痩せた方がええんとちゃうか……」
「余計な、お世話デスよ……」
そこには、血塗れで傷だらけのジュリアとヴェネティの姿があった。
後ろの内壁が思いっきりぶち壊されいて、破片が散乱している。どうやら、空から直接ここに突っ込んできたということらしい。……全く、こいつらときたら。
「あーるどーね! ヴェネっちー!」
「ワンワン! ワンワンワンワン!」
「えっ、ちょっ、あんたらどうしてここに……」
「どうしても何も、因縁の宿敵ぶっ倒してきたに決まっとるやないかい。大変やったんやで? あー、しんどかった……」
「本当に紙一重でしたデスよ……何回死を覚悟したところか……」
「そう、生きてたんならよかったけど……生きてたなら連絡の一つくらい寄越しなさいよ!」
「いや、無理やって、さっきまでぶっ倒れとったんやし。目ぇ覚めたんが奇跡みたいなもんや」
「あの不気味なゴーレムの化物倒したのね、まぁ、あの爆発以降ゴーレム共の動き止まって崩れ去ったから、そうかなって思ってたけど……」
やっと、納得出来た。そりゃあ、連絡も繋がらない筈だ。……でも。
「……あんたら、大丈夫なの? 大怪我にも程があるじゃない」
「大丈夫も何も、見たら分かるじゃないデスか。……いつ死んでもおかしくないデス」
「わいもやでー……ぜーんぶ力使い果たしてもーたわ。溜め込んどったエネルギーも、あと絞り粕くらいしか残っとらん。ここまでたどり着いたんも奇跡みたいなもんや……」
「……やっぱり」
想像の通りだった。そんな予感はした。
なにせ、アウルは右腕が引きちぎられて、左わき腹と左足を抉られてるし、ヴェネティに至っては腹部が大きく食いちぎられたかのように抉られているのだから。
この状況で当たり前のように話をしているのが信じられない程だった。
そんな状態の中、わざわざ戻ってきた。その目的は、何となく察していた。
「……あいつのことが心配になったんでしょ」
「えぇ、ご察しの通りデス。……どうなったデスか」
「……丁度いいわ。見せたいものがあったし。後は直接見た方が早いわね。……ハル」
「ん? なに?」
「アウルとヴェネティ、お風呂入りたいってさ。お風呂沸かしてきて。出来るわね、一人で」
「え、お風呂? なんで?」
「……あー、お風呂入りたいなー、疲れたからー、疲れを取りたいなー」
「そうデスねー、こういうときは、お風呂に限るデスもんねー」
「……うん! 分かった! おふろいれてくるね!」
「ワン! ワンワンワン!」
ハルは元気に返事をして、駆け足でその場を後にする。螺旋階段をたどたどしく降りていく音が遠くで聞こえる。
「……流石に、無理矢理すぎちゃうか?」
「いいのよ。……ほら、こっち来なさい。てか立てるの二人共」
「えぇ、大丈夫デスよ。どうにかデスけど……」
フラフラとよろめきながら立ち上がる二人を支えつつ、アトリエへと連れてゆく。
そして、アトリエに入るや否や、二人は感嘆で言葉を失うのだった。
「……これは、凄いデスね」
「あぁ、やっばいな。……これ、坊主が描いたんか」
「えぇ、一週間足らずでね。……で、描き上げて、力尽きた。ついさっきね」
そう告げて、ベッドの方促す。そっと近づいて、眠りについたアキラの顔を見る。
それだけで、彼が死んだという証拠には充分だった。
「……はは、なんや、坊主もこんな顔出来るんやな」
「……えぇ。そうデスね。ちょっと意外デス。可愛らしい笑みじゃないデスか」
「それ、あいつが聞いたら絶対に怒り狂うわね」
「えぇ、目に浮かぶようデス」
乾いた笑いが、辺りを包む。分かっていた。生きて、彼とは再会したかった。アウルもヴェネティも、それを望んでいたのだろう。だから、死にかけながら戻ってきたのだから。
それを思うと、胸が痛んだ。寸での差で、間に合わなかったのだから。
「……そうだ。あんた達に、伝言があったわ」
「ん? 坊主がか? 何てゆーとったんや」
「……ありがとう」
「……それだけ?」
「それだけ」
「なんやそれ。もうちょいなんかあったやろ……なぁ、ボス」
「えぇ、そうデスね。……でも、ヴァルハラらしいじゃないデスか。とっても」
「……まぁ、そうやけどな」
あいつらしい言葉だった。だけど、その五文字に、あいつの全てが詰まっていた。
一番伝えたかったのだろう。この二人に。
この二人に出会わなければ、この作品は完成しなかったのだから。
伝言を受けて、二人共優しい笑みを浮かべていた。とても、純粋に、嬉しそうに見えた。
せめて、その顔を見せてあげたかった。そう思うと、少し胸が痛んだ。
「……はぁ、疲れた……ボス、もう満足したやろ。こちとらもう限界なんやけど……」
「……はは、それもそうデスね。こうやって、素晴らしい作品を見せてもらうことが出来たので、よしとしようじゃないデスか。……いやはや、芸術という物は中々興味深いものデスね。これほど、人を魅了させるとは。もっと早く出逢いたかったデスよ」
「それはわいも同感やで。あの坊主、最後の最後にとんでもないもん完成させおってからに」
そう言うと、糸が切れたかのようにその場に倒れ込んだ。分かっている。もう、限界だったのだろう。ヴェネティも、アウルも。
「は、ははははは、なんや、死ぬっちゅーのに、ちょっと清々しいんやけど。不思議なもんやな。笑いが止まらんわ」
「どうしても何も、イヴァンを倒したからに決まっているじゃないデスか。それに、大切なあなた達を守ることが出来たのデス。正直言って、この星自体はどうでもいい。だけど、あなた方がこうやって生きている。それだけでも、私は嬉しいんデスよ。使命を果たすことが出来た。それだけでも、充分じゃないデスか」
「……せやな。でも一個だけえぇか。ボス」
「……何デスか」
「涙が、止まらんのはなんでやろな……」
「さぁ……何でデスかね……分からないデス……」
平気な振りをして、二人共涙が止まらなかった。嬉しいのか、悲しいのか。分からないけれど、それを聞くのは野暮だろう。
私はそんな二人の様子を、黙って見守って居た。
「……ジュリア。伝えておきたいことがあるデス」
「何? あんた達の分まで生きろとかだったら無理な話なんだけど」
「いいえ、そうじゃないデスよ。……伝えていってくだサイ。この星で何があったのか、私という個体種が、どうしてこの星に降り立ち、どうしてこの結末に至ったのか。伝えてくだサイ。残してくだサイ。余すことなく、全て。……あなたには、その権利があるデス」
「……この星で、生きていたという証を残したいってこと?」
「そういうこっちゃ。なんせわいらの星、もう跡形もぶち壊されとるからな。文献もなーんも残っとらん。あ、後、湖んとこに散らばっとる宇宙船の残骸も出来るだけ拾っといてくれんか? 嬢ちゃんのとこで保管しといて欲しいんや」
「……分かったわよ。色々と落ち着いたらやっとくわ。……ほかに何かある?」
「そうデスね、では、一つだけ……私達のことを、恨んでもいいデスけど、忘れないでくだサイ。忘れたら、悲しくてないちゃうデス」
「……は、あんたがそれを言う? 忘れるわけないじゃないのよ……」
「ははは、でしたら安心デスね。……だったら、一安心デス」
「……なんやろな。他所の星でこんな形で死ぬやなんて。想像も出来んかったわ」
「それもそうデスけど、いいじゃないデスか。……こんなに素晴らしい作品と、巡り合えたのデスから」
「……それもそう、やな」
そこからは、お互いポツリポツリと、噛みしめるように話していた。
そして、自然な流れで、息を引き取った。
喋らない。動かない。二人の身体に触れたけれど、思った以上に冷たかった。
正直言って、蟠りは残っている。完全に許したわけじゃない。恨んでいるまである。
……だけど。
「……あんた達まで、置いて行かないでよ……」
悲しかった。とにかく、悲しかった。
もう涙なんて、出ないと思っていた。だけど、意外な発見があった。
私は、思った以上に涙もろいようだ。
「お風呂湧いたよー! ……あれ? 二人も寝ちゃったの?」
「ワンワン! ワンワン!」
バタバタと廊下を掛ける音が聞こえて、ハルとワンタンが戻ってくる。
「……えぇ、寝ちゃった。疲れちゃったみたい。そっとしておいてあげましょ」
「……あれ? どうしたの? 姉ちゃん、泣いてる?」
私の顔を見て、心配そうに近づいてくる。
その答えに、素直に答えることなんてできなかった。代わりに、ハルとワンタンをギュッと抱き寄せて抱きしめる。
「……わふっ?」
「……どうしたの?」
「……なんでもない。ごめんね、ハル。ワンタン、……もうちょっとだけ、もうちょっとだけ、こういさせて……」
「……うん」
もう、どうにかなってしまいそうだった。大切な存在を、失ってしまったのだから。
私がしっかりしなければいけないのに、心が押しつぶされてしまいそうだった。
そんな私を、ハルは優しく包み込んでくれる。
しばらくの間、私は泣き続けた。溜まっていた全てを洗い流すように。
こうやって、世界は終わりを告げた。そこに残ったのは、どうってことない空虚だけだった。