BEAUTIFUL SO WONDERFUL 2/2
♭ ♭
何もかもが燃やされてゆく。
私に纏わる何もかもが奪われ、燃やされ、焼け落ちて、消えてゆく。
家族も、大切な友人も、慕っていたボスも、何もかもが私の腕からすり抜けていった。
あぁ、行かないで。私を置いて行かないで。私を一人にしないで。
どれだけ泣き叫ぼうとも、誰にも声は届かない。
どれだけ暴れまわろうとも、必死に手を伸ばそうとも、その行為は全て無意味だった。
結局のところ、私は一人だった。居場所を求めようとも、最後には一人になってしまう。
誰かに認めて欲しかった。誰かに必要としてもらいたかった。
ただそれだけだった。それだけの願いも叶えることが出来ないまま、また一人取り残される。
また何も出来ないまま蹲る私に、奪われた大切な人達の怨念が囁いてくる。
『最初から、お前の居場所なんて無かっただろ』
『自惚れるのもいい加減にしたら? 自分の立場をわきまえなさいよ』
『勘違いも甚だしい。お前は最初から一人ではないか』
『『『『『誰も傷つけたくないんだったら、これからもずっと一人でいればいいだろ』』』』』
「だまれえええええええええええええええええ!!」
耐えきれずに叫ぶと同時に、私は目を覚めた。……どうやら、質の悪い夢だったらしい。
ゼーゼーと荒い息を整えて、びっしょりと掻いてしまった汗を拭うと、早くなっていた鼓動も次第に落ち着いてゆく。……本当に夢で良かった。ただ。それは置いといて。
「……ここは……?」
見覚えのない部屋の、見覚えのないベッドの上に存在していた。
目が覚めて、少しずつ思いだす。確か、ポイント内部に突入したはいいものの、途端に内部に居た大多数のクリーチャー共に襲われて、ボスたちとも逸れてしまって、怪我も負ってしまった。いつの間にか気絶してしたのか。そこを誰かに発見されて、運ばれたのだろうか。
服も血塗れの武装服は脱がされていて、元々下に着ていたタンクトップとショートパンツのみになっていた。少し肌寒い。
「……ヘッドホンとプレイヤー!」
命以上に大切な物が見当たらないことに気付いて慌てて辺りを見回すと、横の机の上に置かれていた。……良かった。失くしたらどうしようかと思った。
ただ、ここがどこか把握しようにも六畳ほどの空間は四方を壁に囲まれている上に、唯一存在している大きな窓の外はまだ暗い。それに存在しているのはベッドとテーブルだけときた。
壁にあった壁掛け時計を見つけて確認すると、既に深夜の三時を回っていた。
五時間近く昏倒していたらしい。分かるのはそれくらいか。流石に状況証拠が少なすぎた。
「いたっ……」
自分に何が起こったのか。ここがどこなのか。とりあえずベッドから立ち上がってみようとしたけれど、右わき腹の急に激痛が走った。
タンクトップを捲って確認してみると、下に巻かれていた包帯からどす黒い血がジワジワと滲み出ていた。ここに運んで来た誰かが緊急措置してくれたんだろう。だけど、まだ傷は完全に癒えていなかった。
それに今気づいたのだけれど、両手に頑丈な鉄錠が付けられていた。ベッドの足の部分に鎖で繋がっている。動こうにも動けない。何だこれは。これは本当にどういう状況……。
「……あっ、やっぱ目覚めてた……えーっと、大丈夫……あ、そっか日本語通じないかも……あー、はうゆーどぅ? えーっと……」
急に後方の扉が不意に開くと共に、聞き覚えのない男の声が耳に届く。
直ぐに反応して振り返り、腰元のホルスターに収めていた銃を構えようとしたが、ホルスター自体が見当たらない。
動揺を隠しつつ、慌ててベッド横のテーブルに置いてあったガラススタンドを破壊し、尖った部分を相手に向けて身構えた。
「うわいきなりかよ! ちょっ、ちょっと待てって! とりあえず、それ降ろそうか! 別にあんたに危害を加えるつもりはねぇよ! あーでも日本語通じないか! えーっと……」
そこに居たのは、やせ型の顔色の悪い痩せ型の男だった。
頭はボサボサの天然パーマで、服装はヨレヨレのTシャツに、色あせたグレーのパーカーにジーンズにサンダルというかなりラフな格好だ。
年齢はおそらく二十代前半から半ばくらいだろう。とにかく顔色が悪すぎる。目の隈も酷いし上に頬がこけていてやつれている。こっちが心配になってくる程だった。
「……誰。ここはどこ」
「あ、日本語通じるのね……まずは自己紹介か。春原晶だ。んでもってここは俺の家な。散歩してたら血塗れで倒れてるとこ見つけて、放置するのもなんかあれだったから勝手に運んで治療させてもらった。まぁ、そんなとこか。とりあえず安心しろ。別に何か危害を加えてもねぇよ。暴れられたら困るから動きは制限させてもらってるけどな」
「……家? この周辺に家は見当たらなかった筈」
「あるだろ。山頂に悪目立ちしてる悪趣味な城。あれ俺ん家。んでもってここその城の客間」
「……城?」
春原と名乗った男にそう告げられて、思いだす。確かに、ポイントの中心部にはシンボルとして古城が聳え立っていた。
情報によると、数十年前に遊園地のシンボルマークとして建てられたはいいものの閉園してしまい、城だけ解体されずに廃墟として残ったままになっていた筈だ。
そこに人が住んでいること自体は、提供された情報には無かった。だけど、問題はそこじゃない。彼の言う通り、ここが本当にその古城跡なのだとすると……。
「質問がある。ここが山頂に聳え立つ城ということは、ここは、地球を脅かす地球外生命体が根城にしている本拠地なのでは……」
「ん。あー、そういうことになるな。……ほら、こっから見えるだろ? 例のバカでかい花」
当たり前のように彼は告げると、窓に近付いてカーテンを開ける。
そして、そこに映る景色に思わず目を疑った。
目の前には、彼の言う通り、未知のウイルスをまき散らす巨大花が聳え立っていたのだから。
つまり。私は知らず知らずのうちに、敵の総本山に拉致されてしまっていたということになる。その事実を素直に受け止めきれずに、少し困惑してしまった。
「事実を受け止められないみたいな顔してんじゃねぇよ。まぁ仕方ないか。俺がその立場だとしても多分同じ反応するだろうし」
「……理解出来ないことが一つある。あんたは何者なの。感染していないわよね。普通の人間が、どうしてこんなところに住んでいるの。人が住んでいるなんて情報には無かったんだけど」
「一つじゃなかったけか。てか何者って言われてもだな……五年くらい前からここに住んでる普通の人間だし。情報に無かった云々なんざ知ったこっちゃねぇし。感染はもっと知らん」
「聞きたいのはそれじゃない。あんたと、対象Xとの関係性は何なの。どうして対象Xの根城にあなたが普通に生きて生活しているのか理解が出来ない」
「対象Xじゃないデス。アウルドルネ・クドォウグロイド・バルトロメヌス。名前はしっかり覚えておくデスよ」
謎の男に質問を続けていると、割り込んでくるように別の声が聞こえてきた。
女性の声だ。少し幼さが残るような甲高い声だ。
振り返るとそこには、水玉のワンピースを着た背が低いものの美しい少女が当たり前のように存在していた。
「あのなぁ、ビックリさせんじゃねぇよアウル。何しに来やがった。事情が事情なんだからあまりしゃしゃり出てくんなつったろ。余計に場がややこしくなるんだからよー」
「出てきた方が面白ろそうだなって思ったのデス。あとなんか暇でしタ」
「おいふざけんのもいい加減にしろよ。面白がってんじゃねぇかよ」
謎の幼子に対し、顔色の悪い男は面倒くさそうに対応する。どうやら顔見知りらしい。
それを尻目に、私は不思議なオーラを醸し出している彼女に注目していた。
顔のパーツのどれもが一級品だ。女性から見ても、別次元のレベルで美しい。
ただ、普通の人間ではないのだろうか。額に謎の種子が埋め込まれていて、頭に謎の花の蕾が生えている。何かの仮装の類か何かかと思っている最中、私はすっかり忘れていた。
彼女が、自らを対象Xだと認めたという事実に。
「……あんたが……あの……対象X?」
「だから対象Xじゃなくってアウルドルネ……訂正するの面倒臭いしそれでいいデスけど」
私の質問に、だから何だとばかりに彼女は堂々と認める。
その事実を目の当たりにして、サーっと血の気が引いていく感覚に襲われた。
ある日突然、日常を破壊し非日常に追い込んだ張本人が、目の前に存在している。
当たり前ながら、理解が追いつかない。
ミッションに失敗して死んだと思いきや、何故か諸悪の根源に助けられたのだから、もう本当に意味が分からない。
その諸悪の根源の正体も、もっとしっかりとしたクリーチャーじみたエイリアンのような見た目を想定していたから、余計に混乱している。
「あー、うん。分かる。マジかよって思う気持ち凄い分かる……」
混乱している横で、顔色悪男は勝手に同意してウンウンと頷く。
彼にも色々と聞きたいことが山ほどあるけれど、今は置いておくとする。
頭痛と目まいが同時に襲いかかってくる。少しだけ吐き気も催してきた。
だけど同時に、沸々と一つの感情も湧きあがってくる。それは怒りだった。
どうすればいいのか分からない、やりきれない怒りが、空っぽの私を徐々に支配してゆく。
「ん? どーかしたデス? なんか黙っちゃったデスけど。おーい。聞こえてるデスー?」
怒りの矛先が、心配そうに私の眼前で手を振っている。
頭が痛い。気持ちが悪い。今にも吐き出してしまいそうだ。
やめて。こっちを見ないで。やめて。殺す。許さない。殺す。やめて。見ないで。やめて。
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめやめやめやめやめやめやめやめ。
もうダメだ。我慢出来ない。今すぐに、こいつを殺さないと。
気付いたら私は、手枷と足枷を無理矢理壊して、隠し持っていたサバイバルナイフを諸悪の根源に向けていた。
「おっ、おいおい! ちょっ、マジかよ! 何してんだって!」
「動くな! 一歩でも動いたら容赦なく殺すわ!」
「あ、はいすんませんした!」
アタフタと動揺している男を黙らせて、張本人を睨み付ける。
流れている血が沸騰している。身体が凄まじく熱い。目まいと頭痛が酷い。だけど、そんなことどうでもいい。自分自身の中に蠢いている殺気全身全霊を刃に込めて、対峙していた。
「……これはどういう意図なのデスかね? 一応、こっちはあなたを助けたのデスけど?」
「別に助けてと頼んだ覚えは無いわ。あなたは平穏な日常をぶち壊した。私にとって大切な存在を何人も殺した。そんな諸悪の根源が目の前に居るのよ。だったらするべきことは一つしかない。……刺し違えてでも、殺すしかないじゃない」
「あー、そーゆーことデスか。面白いことぶっちゃけるデスねこの人間。もう笑いが止まらないデスよ。喧嘩を売る相手間違えてないデス? 一応、侵略者なのですよ? あなた方が束になっても歯が立たなかった侵略者なのデス。……あなた如きのみみっちい存在が、支配者たる私を殺せるとでも思っているのデスか?」
「こいつ……死に掛けていたと思って舐めてんじゃないわよ!」
「別に舐めてなんていないデス。事実をぶっちゃけただけデス。むしろ、驚いたくらいなんデスよ? 治癒したとはいえ深手を負った人間が、拘束して武器取り上げた状況を無理矢理打破して切り付けてくるとは。いやはや、人間という種族はヴァルハラみたいにひ弱で卑屈な根暗クズだけじゃないのデスね。考え方を改めないと」
「おい。さり気なく俺馬鹿にしてんじゃねぇかよ」
「そうよ。私はそこの軟弱者とは違って、血反吐まき散らす程の厳しい訓練を受けてきたんだから。一緒にされるのなんて失礼極まりないわ」
「さり気なくお前も馬鹿にすんじゃねぇよ! 初対面だろお前! おい! 泣くぞ!」
「やりたきゃご自由にどーぞ? 特別に、初手はそっちに譲っちゃおうじゃないデスか。まぁ、手を出した瞬間、あなたの頭はスポーンって飛んじゃってるでしょうけどネ」
「無視かよ! 何なんだよこの扱い!」
軟弱男の邪魔なしつこい追及は無視して、挑発を繰り返してくる対象Xを睨み続ける。
しかし、当の本人は全く意に介していない。あくまで侵略者としての余裕を垣間見せつつ、凄まじい殺気をまき散らしていた。
一歩でも動けば、一瞬で勝負は決まる。刃を少し動かすだけで、殺すことが出来る。こっちが優位の筈だというのに、こっちの方が精神的に追い詰められていた。
正直言って、彼女が地球を支配しようとしている張本人とは思えない。だというのに、全く動けないでいた。
どう動いても、返り討ちになってしまう未来しか見えない。死線を掻い潜って、彼女を追い詰める選択肢が見えない。
一歩も動けないまま、時間だけが刻々と過ぎてゆく。
……そして、呼吸を整えて覚悟を決めて、足を動かした。
同時に、盛大に場を掻き乱す音が鳴り響いた。……自分のお腹から。
一瞬で、場が静まり返る。あんなに興奮していた私の頭も直ぐにスーッと熱が引いてゆく。
よくよく考えてみる。……そういえば、しばらくご飯を食べていなかった。
「……えーっと。とりあえず、飯……食うか」
気まずそうに、軟弱男が提案をしてくる。
……三大欲求には、勝てなかった。
♭ ♭
「えーっと、星美・ランドルフ・樹利亜准尉……政府直属の傭兵部隊【フェンリル】の副隊長……奇襲かけて結界内に侵入成功したはいいけど、感染密度が濃い造譲獣共にコテンパンに叩きのめされちゃった所、ヴァルハラの気紛れで助けられたと。……よくわかんねーデスけど、フェンリルってすごいのデス?」
十畳以上はある広々としたエントランス。
長テーブル越しに、提供した情報デバイスを興味深そうにつつきつつ、対象Xは男に尋ねる。
地球の言語を理解しているどころか、文字まで読めるらしい。学習能力の高さに少し驚きつつ、目の前のカレーを平らげる。
「いや、本人に聞けよ。まぁ、政府直属だから凄いんじゃね? ……凄いんだよな?」
「んぐっ……フェンリルは、世界各国の紛争地などで実際に活躍している現役の兵士や特殊部隊に属している軍人の精鋭が政府の命によって緊急招集された部隊よ。凄いに決まってるじゃない。その解釈で合っているわ。……後おかわり」
「でも、全滅しちゃった訳デスよね。造譲獣共に歯も立たなかったみたいデスし」
「アウル。煽るな。お願いだから場を荒らすな。本当に頼む。……ほい、おかわりお待ち」
不敵な笑みを浮かべつつ、対象Xはいじらしく煽ってくる。
スーッと頭に血がのぼり、思わず殴りそうになる気持ちをどうにか抑えつつ、差し出されたお代わりのカレーをスプーンですくって口に運ぶ。
……この侵略者。立場が上なのをいいことに言いたい放題言いやがって。
「ありがとう。……別に。どうとでも言いなさい。歯が立たなかったのは事実な訳だし」
「お、意外と素直なんだな。ヒステリックになって歯向かってくると思ってたんだけど」
「……馬鹿にしてるでしょ」
「被害妄想が過ぎるだろ。そんなつもりねぇよ。……ねぇけどさ……」
「……何よ。正直に言いなさいよ。ぶん殴るわよ。あとおかわり」
「怖ぇよ。……いやその、あれだよ……食べ過ぎじゃね?」
「……えっ?」
空になった深皿を回収してきた顔色悪男に指摘されて、食べる手が止まる。
そんなこと言われても、いつも通り食べてるだけなのだけれど。
「いや、えっ? じゃなくて。どう考えても喰い過ぎだろ! カレー何杯目だと思ってんだよ! 三十杯だぞ三十杯! フードファイターかてめぇは! 米もレトルトもいくらあっても足りねぇよ! どんだけ食い意地張ってんだよ!」
「そっ、そんなこと言われても仕方ないじゃない。仕事上、これだけ食っておかないと体が持たないのよ! むしろ足りないし……」
「はぁ!? 足りない!? こんな食っても!? お前の胃袋ブラックホールかよ!」
「ブラックホール!? なによその言い方! 一応気にしてるのよ!?」
「気にしてるとかのレベルじゃねぇだろこれ! むしろ気にしろよ! マジで頼むよ!」
「そうデスそうデス! このご時世食料手に入れるのどんだけ苦労すると思ってるデスか! 恥をして自覚するデスよ!」
「てめぇもちゃっかりカップ麺ドカ喰いしてんじゃねぇよ! あっ! てかそれ俺のお気に入りのカップ麺じゃねぇかよ! 何勝手に喰ってんだこの野郎! 名前書いてただろ!」
「小腹すいちゃったから仕方ないのデスって。後あたし文字読めないからしりませーん」
「さっき普通にスラスラ文字読んでただろいい加減にしろ! ……とりあえずその、星美、さん? これ以上喰うのはマジで勘弁してくれって、頼むよ!」
「はぁ!? 意味わかんないんだけど! 料理出したと思ったら喰い過ぎるなって言ったりとか……はぁ……もういい、これくらいで勘弁してあげる。空腹はしのげたし……」
ただ提供された料理を食べていただけだというのに、酷い仕打ちだった。
まぁ、確かにちょっと食べ過ぎたかもしれないけど……。
「はぁ……とりあえず感謝はするわ。一応、死にかけだったところを助けてくれたわけだし。感謝はする。するんだけど……とりあえず意味も意図も理解出来ないわ。どうしてこんなことになってるのよ……」
「あー、うん。そりゃそうなるよな。気持ちは分かる」
腹ごしらえも済んだし、色々と落ち着いたはいいけれど、状況の整理は全く付いていないでいた。こっちの情報を提供する代わりに、エントランスに案内されて料理を待っている間、色々と教えて貰ったはいいものの、突拍子が無さ過ぎた。
特にこの男、事情が複雑過ぎてどう反応すればいいのか分からない。
「まぁ、人生生きてたらこうやって異星人とドッタンバッタンすることもあるんデスし、妥協して受け入れるのがいいかと。色々と考え過ぎた所でいいことなんて無いと思うデスよ」
「こんな終末的状況あってたまるか。ったく。未だに信じられないわよ。あんたが本当に、この地球を侵略している対象Xだなんて」
「まだ信用されてないのデス? だったら、今すぐここでバトっちゃってもいーんデスよ?」
「……する訳ないでしょ。どんな手を打っても返り討ちにされる未来しか見えないんだから」
「そりゃ残念デス。ヴァルハラより手ごたえがありそうだったんデスけどね。折角邪魔くさい枷も取っ払ってあげたっていうのに」
「……いくら煽っても挑発には乗らないわよ。代わりにそこのヒョロ男とドンパチすればいいんじゃない?」
「えーっ、だってヴァルハラだったら一秒も持たずに消し炭にしちゃうデスもんー。手ごたえ無さ過ぎてつまんないデスよー。死体蹴りは趣味ではないのデス」
「お前らはどんだけ俺を存外に扱えば気が済むんだよ」
隙あれば煽ってくる対象Xは、相手にしたところで時間の無駄なのは明らかだった。
今はスルーしておこう。私自身がどう抗おうと、この状況を覆すことは不可能だ。
枷は外れてるものの、武器も無いし味方も居ない上に、対象Xの弱点さえも分からない状況でどうこうするなんて無謀の他でも無かった。今は大人しくするべきだろう。……今は。
「……ところで、聞きたいことがあるんだけど。結局私の処遇はどうするつもr」
「あーもー、さっきからなんやうっさいなぁ。ちょっとくらい静かにしたらどうや。ただでさえ逃した虫けら捜索でリソース割いててんやわんやしとるっちゅーのに……」
現状、一番気になっていることを訊ねようとすると、エントランスの扉が開いて何かが入ってくる。そこに居たのは、関西弁を喋る小さなハリネズミのような生物だった。
ハリネズミが植物に支配されたかのような奇っ怪な見た目に、正直言って言葉を失った。
……えっ、何このUMA。本当に何。
「……ん。あっ、おいおい敵さんの生き残りそんなとこに居ったんかいな! そりゃ城の外しらみつぶしで探しても見つからん筈やで……ったく。手間かけさせんなっちゅーねん」
私の存在に気が付いた謎の生物が話し掛けつつ、私の前の席にチョコンと着く。
「……ねぇ。何このへんちくりんな小動物。あんたのペット?」
「こんなちんちくりんなペット居てたまるか。ヴェネティだよ。ほら、説明したろ。外で徘徊してる化物共を従えてる親玉だよ」
「あっ、えっ? それがこれ!? いや冗談は顔だけにしなさいって!」
「あ? 何やねんこの嬢ちゃん失礼なやっちゃなー。見かけで判断すんなや。……これでも、おんなじこと言えるか?」
確かに、ヴェネティという腐植獣を支配している存在の説明は受けた。だけど、こんな小さくて可愛らしい関西弁を喋るひょうきんな小動物がそれだとは少なくとも思えない。
しかし、私の発言が気に喰わなかったらしい。次の瞬間、小さいハリネズミがグリズリーレベルの大きさまで肥大化した。威圧感も、オーラも何十倍にも増している。
対象X程ではないものの、現在の私が勝てる勝算は無かった。
「……ごめんなさい。まさか大きくなるとは思わなかったから……」
「ふん。分かってくれたんやったらええんや」
謝ると、素直に引き下がってくれた。意外と単純なのかもしれない。
「ところで、結局のところ、私の処遇の件はどうなるのよ。奴隷にでもするの? もしくは地下の牢獄か何かに閉じ込めて監禁でもする? 別にどうでもいいけど、これ以上あなた達に渡す情報はもう無いんだけど」
「まぁ、問題はそこデスよねー。別に私はどうでもいいデスよー。ヴェネティはどうデス?」
「どうって言われても、好きにしたらえーんちゃう? わいにそういう決定権は無いし」
「となると、ヴァルハラ次第ってことになるデスかね。助けたのもヴァルハラの独断でしたし。んで、どーするんデス? 彼女をどうこうするのはあなたの勝手デスけど」
「……あー、そうなるよな。って言われてもだな……」
視線が一斉に、ヒョロ男の方に向く。当の本人は、少し困惑した表情をしていた.
恐らく、こういった場には慣れていないのだと思う。
そして、しばらく何とも言えない沈黙が響き渡る。
「……怪我が完治するまでは現状維持のつもりでいたんだけど。それで別にいいよな?」
その言葉に、一番拍子抜けしたのは私だった。
他の一人と一匹は、だろうなといった表情を浮かべている。
「んー、いいんちゃう? 坊主ならそう言うやろなって思ったし。ボスもそれでええやろ?」
「流石ヴァルハラ、甘ちゃんデスね。いいんじゃないデスか? そもそも、拾ってきたのはヴァルハラデスし。責任を取るのは自分自身っていうことで。反論は無いデスよー」
「……一応忠告しとくぞ。お前らも、星美さんにちょっかいとか出すんじゃねぇぞ。怪我人なんだからな? 色々と拗れるとめんどくせぇんだから」
「はーい、そーするデース」
「わいもそーしまーす」
「……馬鹿にしてるよな。確実に」
彼の提案に反対することはなく素直に受け入れるその様子に、私はやっぱり困惑していた。
確かに、ここに住んでいた主はこの男だ。
なのに、どうして素直に受け入れることが出来るのだろうか。主従関係があるわけでも無い上に、そもそもの話、生物学的にも全く違うというのに。とにかく、全く理解が出来なかった。
「……あんたもいいかそれで。一応、動ける範囲は制限させてはもらうけど、衣食住はきちんと提供することは約束する。何か要望があれば受け付けるけどよ」
「……それでいいわよ。別に抵抗するつもりは無いし」
視線が一斉にこっちに向く。
……色々と思う事はあるけれど、今は従っておこう。郷に入っては郷に従えともいう。
こうして、対象Xとハリネズミと死にかけの男との奇妙な共同生活が始まった。
……なんだこの悪夢は。
※ ※
無駄にデカい3Kテレビのモニターからは、各地の被害情報が延々と垂れ流されていた。
ウイルスの感染区域が拡大しているからあらゆる市区町村が封鎖されたりとか、感染しちゃった人間には二次感染の可能性が高くなるから絶対近づくなだとか、新規の避難所が開設されただとか、焚き出しやらボランティア云々の案内やら。
マスコミが被災地へ赴いて、悲惨な現状を大げさに誇張して報道する姿もお腹一杯だった。
飽きた。確かに情報は大事ではあるけれど、俺にとっては本当に暇でしかなかった。
ただ、少しだけ興味深いことがあるとすれば、侵略が始まって二ヶ月弱経ったというのに、まだこういった公共の電波は生きていることだろうか。
被害は日本にとどまらず世界各国に拡大し、既に被害者が三千万人以上に達し、世界の人口が著しい速度で減少しているとか言っていたのに。
意外と、こういう情報媒体の寿命はしぶといんだな。こういう時に実感する。
「……ふぅん……日本の六割が既にウイルスに汚染されちゃってる、ねぇ……」
もうそんなに汚染されてるんだなぁと他人事のようにしみじみしつつ、淹れ立てのホットコーヒーを一口啜る。……うん。目覚めの一杯は本当に美味しい。
外で繰り広げられてる地球規模の異種格闘技戦が盛大に行われていなければ、俺自身が不治の病に侵されていなければ、とても優雅な朝のひと時だっただろう。
とにかく騒がしい。さっきもまた、地響きと共に盛大な爆発音と閃光が届いた。戦闘機が轟音と共に火だるまになって墜落していった。
急に喉が焼ける感覚に襲われて盛大に咳込むと、掌にはびっちゃりと血反吐がこびりついていた。着ていたパーカーの袖にも血が飛び散ってしまう。
「あーあー、またやっちまった……」
溜め息を吐きつつ、室内に備えつけの流し台で手を洗い、口元をゆすいで拭き、血が付いたパーカーを脱いで着替える。そんな異常な状況に慣れてしまっている自分が末恐ろしい。爆撃音に至っては、むしろちょうどいい目覚まし代わりになっていた。本当に、慣れって恐ろしい。
「さてと、今日も描くか……」
首や肩を回してポキポキと鳴らしつつ、ぺチンと頬を叩いて、今日も今日とてキャンパスに向かう。邪魔されない様に、プレーヤーの電源も入れて、お気に入りのレコードを爆音でかけた。せめて少しずつでも描き進めないと……。
「ふぅん……見た目によらず爽やかで繊細なタッチの絵を描くのね。ちょっと意外だった」
目の前のキャンパスに向かって集中していると、不意に後方から声が届く。
振り向くと、銀髪ショートカットの目つきが凶器な女が、キャンパスにメンチを切っていた。
「……んだよジュリアかよビックリした……あのなぁ、気配消して近づいて急に話し掛けてくんのはマジでやめてくれって。心臓が幾つあってもたりねぇよ。ここ入るならノックしろっつったろ。鍵もかけてたっつーのに……」
「言われなくても何度もノックしたわよ。返事なかったから死んだんじゃないかって心配してデリンジャーで鍵ぶち壊したけど」
「無法地帯かよここは。西部劇じゃねえんだから拳銃で鍵ぶち壊すのは止めてくれ……プライバシーの欠片もねぇのか俺には」
「壊されたくなかったら爆音でレコード流すの止めたらいいだけの単純な話でしょ。それでも馬鹿みたいにポリシー貫いてるあんたが馬鹿なだけじゃない」
「し、仕方ねぇだろ! 音楽聴きながらじゃねぇと気分が乗らねぇんだよ! てかお前だって家事しながら音楽よく聴いてるんだから気持ちは分かるだろ!」
「気持ちは分からなくはないけど、それとこれとは関係ないと思うわよ。まぁ、異星人に地球侵略されてる時点で常識なんてとっくに消え去ってるけどね。残念ながら」
「全部正論過ぎて何も言い返せねぇ……」
苦言を呈したというのに、見事に言い包められてしまった。落ち込む俺をよそに、毒舌女はプレーヤーの電源を消し、閉め切っていたカーテンと窓を思いっきり開け放つ。
いつの間にか手に持っていた掃除機とクイックルワイパーを使い、散らかった部屋を当たり前のように掃除してゆく。
手持無沙汰のままボーっとしていると、彼女は不意に近づいて手をさしだしてきた。
「……何だよ」
「何だよじゃないわよ。さっさと脱ぎなさい」
口から出た衝撃的な言葉に、見事にフリーズしてしまう。……えっ、まさかこのタイミングでこの展開はもしかするとまさか。
「何を勘違いしているのか知らないけど、洗濯するから脱げっつってんだけど。どうせその服洗ってないんでしょ」
「……あ、あー、そりゃそうだよな……はい、すんません」
冷めた目で告げてきたその言葉に、急上昇していた体温と心拍が一気に冷めた。
というよりすさまじく恥ずかしい。何を勘違いしてるんだ俺は。アウルとヴェネ公がこの光景を目の当たりにしたら大爆笑で馬鹿にしてきたことだろう。
恥ずかしさをひた隠しつつ、着ていた部屋着を脱いで渡す。変えの部屋着を探しにクローゼットに向かおうとすると、それを遮るように何かを差し出してくる。替えの服だった。
しかも、いつものクッタクタでヨレヨレのシャツとズボンではなく、ピシッと端から端まで完璧にアイロンをかけてくれている。
「……あ、あぁ……ありがとう……」
用意周到過ぎる手際よさに少し引きつつ着替えると、ふんわりとした柔軟剤の香りが鼻を擽る。あぁ、なんかすごい落ち着く……。
すると、間髪入れずにまた何かを差し出してくる。言わずもがな朝食だった。
「どうせ徹夜でキャンパスに向かって描いてたからご飯も食べてないんでしょ。食欲はないでしょうけど食っときなさい。薬もそこ置いてるから」
「お、おう……」
ベーコンエッグにチーズトーストにサラダにプチトマトというシンプルかつベーシックなモーニングセットだ。おまけにホットコーヒーまでついている。勿論美味しい。
至れり尽くせり過ぎて最早ドン引きだった。しかも全部卒なくこなしてくる辺り本当にヤバい。ドン引きを通り越して軽く惚れそう勢いだった。
そんなこと言ったら思いっきりぶん殴ってくること請け合いだろうから言わないけれど。
言わないけれど、一つだけ気にかかることがあった。
何故か、メイド服を着ていた。
当たり前のようにメイド服を着ていた。しかも、風俗店とかメイド喫茶とかで着ているミニスカメイド服ではなく、英国風の本格的なひざ下丈のテーラーメイド服ときた。おまけに高そうなヘッドホンも付けている。
星美・ランドルフ・樹利亜。毒舌暴力乱痴気脳筋メスゴリラが、何やかんやでここに居候することになってから約二週間は経っただろうか。
愛想は最悪だし毒舌だし直ぐ暴力振るうし部屋の鍵を当たり前のようにぶち壊してくるものの、なんやかんやで普通に馴染みつつあった。
誤算があるとすれば、家事のスキルが異常に高いことと、こういった特異過ぎる環境に対する順応性が想像以上に高かったことだろうか。
順応性云々は、幾重にも死線を掻い潜ってきた軍人だからこそ、特殊な環境下で訓練してきたんだろうなとは勝手に想像はつくものの、家事スキルに関しては本当に想定外だ。
炊事掃除洗濯、どれをとっても完璧としか言いようがないレベルだし。
元々、家事は全部俺がやっていたのだけれど、今となっては全部彼女が担当していた。
文句言わずに率先してやってくれるから、大助かりではある。……あるのだけれど、俺の立場が見事に奪われてしまった。
家事や掃除は面倒くさいと思っていたけど、いざ奪われてしまうと少し寂しい。
その異常なスキルに、アウルはおろかヴェネ公でさえ躍起になって喜んでる辺り、虚しさに拍車がかかっている。俺の器が小さいだけの話ではあるけれど。
そんな彼女が、何故かメイド服に身を包んでいた。ここで厄介になり始めてからずっと。すまし顔で当たり前のように。……突っ込み待ちなのだろうか。もしかして。
「……なぁ、聞いてもいいか。気になってたことあんだけど」
「……何よ。忙しいから手短に言って」
「……何でメイド服着てんだよ。ずっと……」
「動きやすいから」
手に持った掃除機で手際よく周辺の掃除をしつつ、サラッと理由を告げる。
「……はっ? それだけ?」
「この服は地下二階の奥にあった物置のクローゼットで見つけた。新品同様で何十着もあったし、サイズもぴったりだったから着ているだけの話よ。文句ある?」
「い、いや、動きやすいからっつってメイド服着る理由無いだろ!」
「理由無いも何も、この家の中にあった女性物の服がこれしかなかったんだけど」
流石にそんな理由でメイド服着るのは無理があり過ぎるだろと思ったけれど、その一言で見事に言葉を失った。
それもそうだった。元々、ここに住んでいたのは俺一人だけだ。その前は、偏屈頑固ジジイだけだったし。女性物の服なんてある訳もない。だけど、その疑問に関しては直ぐに解決した。
「……あのジジイ、住み込みでメイドさん雇ってやがったな……」
そうじゃないと辻褄が合わない。あの頑固ジジイ、そんな趣味あったのかよ。流石にドン引きだった。
「あのねぇ、私が何を着ようがそんなことどうでもいいんだけどさっさとそれ食ってくれない? 冷める前に食って欲しいんだけど」
「あ、あぁ。すまん……」
素直に謝って、残っていたスクランブルエッグを平らげる。本当に美味しい。
忘れないように、処方された大量の薬も服用する。うん。苦い。不味い。
「で、どうなのよ。体調は。変わらず?」
「……あぁ。食欲もねぇし頭フラフラするし微熱気味だし吐き気するな。いつも通りだ。いつも通りだし寝込むほどでもねぇよ。むしろまだマシな方だし。……そっちの怪我はどうなんだよ。大丈夫そうだけど」
「見れば分かるでしょ。もうほとんど傷は塞がってるわ。自分でもびっくりしてるわよ。【ザウロエネルギー】の効用がここまでなんて」
ジュリアはそう告げつつ、メイド服の裾を少し捲って右わき腹を見せてくる。
既に包帯は取れていて、傷口も特に見当たらなかった。
右わき腹が抉れてる上に内臓も傷ついていたというのに。
だけど、そこまで驚いてはいなかった。治療に用いたザウロエネルギーの効用は、俺の予想を超えてすさまじいものなのだから。
エネルギー粒子を注射でごく少量を体内に取り込んだだけだというのに。
「まぁ、アウルが言ってたもんな。そもそも有害なウイルスじゃなくって、体内の細胞を活性化させる効用があるし、自然治癒能力を高めることも出来るとか。過剰摂取し過ぎたら外で徘徊してるゾンビになっちまうけどな。一度摂取したら耐性つくっぽいけど」
「侵略行為自体を擁護するつもりはないけれど、ザウロエネルギーに関しては納得するわ。粒子の摂取量が多すぎるだけでこんな事態になるなんてね。もう笑うしかない……」
「ははは……それは俺もだわ……」
地球がこんな世紀末的な状況に陥っている理由は、いたって単純だった。
アウルがここに来て、華からばら撒いている高濃度のザウロエネルギーによる暴走。
そんな些細な原因で、こんな状況になっている。……なんか虚しい気分だった。そんな俺達を嘲笑うかのように、外では戦闘機がまた墜落して盛大に爆発をかましている。
非日常を背に、ジュリアは黙々と掃除を続ける。
多分、俺以上にこいつは複雑な気持ちだろう。俺以上に苦悩しているのだろう。何せ、ひょんなことで部隊は全滅したし大切な人は失うし、元凶のすぐそばでメイドをしているのだから。
だからこそ、不思議に思った。どうして、逆らったりせずに我慢することが出来るのだろうか。何かしら理由はあるんだと思う。
だけど、聞けないでいた。聞くことが出来ずに、ただ時間だけが過ぎてゆく。
「……何よ。おかわりはないけど」
「別に、何でもねぇよ。……ごちそうさまでした」
「……あっそ。変なの。あ、そこどいて。布団も干すから」
「あぁ、すまん」
言われるがままそこを退くと、慣れた手つきで布団を剥がしてテラスに持っていく。
「……ねぇ、こっちも一つ聞いていい」
そんなテキパキとした姿を眺めていると、ふと声を掛けられた。
「なんだよ。聞きたいことって。どうして助けたのとかそういうのか」
「……なんでわかるのよ」
「気にしてそうだったから」
「……あんたって勘が鋭いのか鈍感なのかよく分かんないんだけど」
「人に尋ねといてその態度は何なんだよ。……別に、助けた方がいいと思っただけだ」
パレットに絵の具を垂らしながら答えると、信じられないといった表情でこっちを睨む。
「……んだよ。真面目に答えったってのに」
「真面目に答えてないようにしか聞こえなかったからよ。……何それ、余計に意味が分からないんだけど」
「そのまんまの意味だ。……助けなかったら、後悔すると思った。後悔したら、それを引きずってしまって、描きたい絵も描けない。……そのまま、何も出来ないまま死にたくねぇんだよ。俺には絵しかない。こんな状況に陥っても、絵を描くことしか出来ねぇ。……だからこそ、俺はお前を助けたんだよ。ウジウジするのは嫌いだしな」
「……何よそれ。ただのワガママで私を助けたっていうの?」
「そういうこった。……納得したか?」
「……余計に意味わかんなくなったわよ」
「ケッ、そりゃ残念だったな」
問い詰めるのを諦めたらしい。何を聴いたところで無駄だと思ったのだろう。
踵を返して、止めていた手をまた動かし始める。
「そうだった。対象X……アウルドルネが呼んでたわよ。ラボに来るようにって」
「ん? 呼んでいた? またどうして……」
「私が知る訳ないじゃない。さっさと行けば? あんたに言えば分かるって言ってたけど。あとこれも渡しといて。頼まれてたやつ」
そう告げると、俺に向けて何かを投げて寄越してくる。プラスチック容器に入っていた、三種類のサンドイッチだ。美味しそう。
色々と思うことはあれど。促されて仕方なく席を立つ。
テキパキと家事を続けている彼女の背は、どこか儚げに見えた。
※ ※
中庭へと出ると、四季折々の色鮮やかな草や木、花の数々が出迎えてくれた。
言わずもがな、全てジュリアが一から中庭を整地して耕して手入れしてくれた。ザウロエネルギーの影響か、見たことない華も大量に存在しているけど。
あんなに荒れ放題だったというのに。あいつに出来ないことは無いのか。日本庭園レベルだぞこれ。入園料取れるレベルだ。
有能過ぎるメイドにドン引きしつつ、整地された石畳を進んでゆくと、目の前には真っ黒なダイヤモンドの形をした見るからにヘンテコな建物が現れた。
全長は十メートル程、材質は不明。変な幾何学模様がウネウネと忙しなく動き回っている。地面に接している面が僅か数センチだけなのに、当たり前のように聳え立っている。
元々は俺が使用していたアトリエが存在していた筈の場所なのだけれど、ぶち壊された後に、いつの間にか出来上がっていたものだ。
言わずもがな場違い感が甚だしかった。いくら何でもSFチック過ぎる。
明らかに地球上には存在してはいけないことは明らかだった。だけど、そんなに驚くことも恐れ戦くこともせずにテクテクと近付き、謎の建物に触れる。
すると、触れた部分が淡く光ると同時に自動的に左右にスライドしていき、人一人分が通れるほどの入口が現れた。
入口をくぐると自動的に閉まり、作動音と同時にエレベーターが作動し、上昇し始める。
止まった先は壁しかなかったのだけれど、手を翳すと反応して壁がふいに消え去り、ようやっと目的地にたどり着くのだった。
「おっそいデスよー。呼ばれたら三秒以内に駆けつけるよーにって常日頃から口酸っぱく言ってるじゃないデスかー。約束を簡単に破る奴は良い成体にビルドアップできねーんデスよー」
「いや、いくら何でもこのセキュリティまみれの障害物レースを三秒以内に突破は無理だからな。人間様なめんじゃねぇ。お前が思ってる以上にポンコツだから」
「それはヴァルハラに限ったことじゃないのデス? 少なくともジュリアはどこからでもすぐ駆けつけてくれるデスけど」
「それはジュリアが色々な意味でおかしいだけだ。後、さり気なく俺をディスるのは止めろ」
辿り着いたそこは、大量のモニターと用途不明な実験器具に、謎の液体やら培養液が収められた大小様々な容器やらが乱雑に敷き詰められた謎の空間だった。
モニター類にはケーブルが繋がれていて、それぞれのケーブルは中央に存在している謎のヘッドギアに集約されている。
俺を呼び出した調本人は、ヘッドギアを装着した上で、質素な椅子に体育座りをしていた。
モニターには、様々な映像やらデータやらが一定間隔で切り替えながら映っている。
まるで、秘密組織の情報司令部に研究施設を足したような空間だった。
そんな空間で、全ての情報が集約されているヘッドギアを被ってニヤニヤしている彼女は、正しく総督といった風貌を醸し出している。
まぁ、実際のところ、ここは確かに宇宙船でもあるし、情報司令部な上にラボでもあるし、こいつも一応地球を脅かしている未確認生命体のボスではあるのだけれど。
飯食うか寝る時間以外、アウルはここに引き篭もって情報収集や情報伝達や、仲間の造譲獣達に命令したりしている。邪魔されないように特殊擬態迷彩や強固なセキュリティロックを何重にもかけて。そんなプライベート空間に、わざわざ呼び出されていた。
「……で、何のようだ。わざわざ呼び出しやがって。あ、あとこれ、渡されたんだけど」
「そんな分かりきったこと聞いてくるのデス? 全く。相変わらず理解能力が乏しいんデスから。お腹が空いたからに決まってるじゃないデスか」
「ブッ飛ばすぞ」
「はっはっはっ、冗談デスよ冗談。まったくヴァルハラは冗談も通じないんデスから」
俺に苦言を呈しつつ、ヘッドギアを一旦外し、ジュリア手作りのサンドイッチをモサモサと頬張る。ただ、ここに呼び出された理由はなんとなく察していた。
「はぁ……ジュリアのことだろ? ここにはあいつが立ち入ることは出来ねぇし」
「お、馬鹿正直のヴァルハラでもそれくらいは察してるのデスか」
「どちらにしても馬鹿にするんじゃねぇよ」
「馬鹿にしてないデスよ。むしろ説明する手間が省けたからありがたいのデス。……どうです? ジュリアの様子は」
「どうもこうも、相変わらずだぜ。無愛想だし、俺に対しての扱いは酷いし、何考えてっか分かんねぇし。……家事スキル凄まじいのは予想外だったけどな」
「確かに想定してなかったデスね。ヴェネティに至っては、彼女が作ったご飯以外はもう受け付けない程に気に行ってる様子デスし。そしてヴァルハラのダメ人間っぷりがここまでとは」
「おい。言いたいことは分かるけどディスるのは本当に止めろ。悲しくなるから」
あいつがここで厄介になってからというものの、俺自身が何も出来ないんだなと本当に痛感しているから、その言葉は鋭利な刃物となって俺の心にグサリと刺さる。
俺自身が一番分かってるから余計に。
「ヴァルハラがダメ人間なのは置いといて、無愛想なのは仕方ないデスね。心を開いてない証拠でしょう。心を開いてないというより、心が空っぽと表現した方が的確デスかね。なにせ、心の拠り所を全部奪われてしまったんデスし」
「……意外と鋭いんだな。絶対そんなこと考えてずにやりたい放題してると思ったんだけど」
「失敬な。もし私が何も考えずにやりたい放題しているのだったら、ヴァルハラは既に跡形もなく殺るか高濃度のザウロエネルギーを注入して実験台やら繁殖用の苗床にしてるデス」
「発想が怖すぎだろ」
「冗談デスよ。……で、当のヴァルハラ自身はどうなんです? 調子は」
「見りゃ分かるだろ。……相変わらず最悪だ」
「まぁ、でしょうネ」
「分かってたら聞くんじゃねえよ……」
虚しかった。もどかしいにも程がある。
というより、こいつ自身何を考えているのかさっぱり分からなかった。
この星を本気で支配することの出来る力の持ち主だというのに、どうして俺を殺さないどころか、気に掛けているのだろうか。
謎に包まれ過ぎてて、分からないことが多すぎたった。何かを隠しているというより、本能の赴くまま動いてるようにも見える。
……考え過ぎても仕方がないか。考える時間がもったいない。
「……で、結局ここに俺を呼んだのは何の目的なんだよ。わざわざジュリアの話を聞きたかっただけじゃないんだろ」
「あ、そーでした。話が逸れてしまってたデスね。これちょっと見てもらえるデス?」
そう言うと、いくつかあったモニターの一つを俺に見せてくる。 定点カメラの映像だった。
元々は警備用に古城周辺に幾つも設置してあるものを、アウルが流用しているものだ。
そこには、リアルタイムで巨大華に向かって空から陸から波状攻撃を繰り返している様子が映し出されている。毎日飽きることなく続いているなんてことないいつもの光景だ。
「……これがどうしたんだよ。いつもの光景だろ」
「えぇ。いつもの光景デス。だけどここ最近、攻撃してくる頻度と規模が一定なのデスよ」
「あ? 一定だからなんだっつんだよ」
「一定だから問題なんデス。……侵略を始めてから、攻撃してくる敵を幾重にも屠ってきたのデスよ? テレビとかいう情報端末でも被害状況を常に垂れ流しているではないデスか。何十万規模の被害が出てるって。人類の総人口自体も著しい勢いで減ってきているということは、戦闘員の人数自体も減っている筈なのデスよ。もしそうだとするならば、頻度も規模の小さくなっていく筈。だというのに、同じ規模、同じ頻度でローテーションみたく攻撃をし続けてるんデスよ。……ここまで言ったら、流石にヴァルハラも分かるデス?」
「……何か敵が企んでるとかか? 近日中にバカでかい攻撃を仕掛けてくるかもとか」
「そのとーりデス。敵の兵士一人にザウロエネルギーを感染させて偵察に使って探ってみたら分かったんデスけどね。流石に何を企んでいるかまでは分からなかったデスけど」
「意外と器用な使い方出来るんだなザウロエネルギーって。でも、どうしてわざわざ教えてくれるんだよ。俺が現役バリバリの兵士だとしたら分かるけど……」
その質問を投げ掛けた瞬間、アウルはニヤリと微笑んでこっちを見つめてきた。
……えっ、何か嫌な予感する。
「ふっふっふー。本題はそこなのデスよ。ヴァルハラ。……ジュリアと、デートでランデヴ―してもらいたいのデス。さもなければあなたのアトリエを破壊するデス」
「……えっ?」
※ ※
「ふむふむ、つまり? あの嬢ちゃんと打ち解けるために? デートに誘って交流を深めとけってボスに言われたはええけど? 誘い方が分からんからどうすればいいのか教えて欲しいと。……いや、知らんがな。わいに聞いてどないすんねん。本末転倒過ぎるやろ」
夕方。ドンパチが一段落して暇そうにしていたヴェネ公をアトリエに連れ込んで聞いてみたはいいけど、返ってきたのはそんな心もとない返事だった。
……まぁ、ごもっともだろう。俺だって多分そんな答えする。
「そんなこと言わずになんか教えてくれって。ほら、芋けんぴもう一袋追加すっからよ」
「芋けんぴで買収出来ると思ったら大間違いやからな。嫌いやないから貰うけどやな……」
心底嫌そうな顔をしつつ、賄賂として差し出した芋けんぴの袋を器用に開けて、ポリポリと食べる。嫌そうな顔をした割に、美味しそうに頬張っていた。
「仕方ねぇだろ。相談できる面子がヴェネ公しか居ねぇんだから。色んな星で苛烈な戦場を生き抜いてきた百戦錬磨の眷属獣なんだろ? 女の一人や二人簡単に落とす方法知ってんだろ? 少しくらい教えてくれたっていいじゃねぇかよー。頼むよー。俺を助けると思ってさー」
「お前は馬鹿か! どうしようもない馬鹿なんか! 御幣あり過ぎて突っ込みが追いつかんがな! そもそも価値観どころか種族からして違うんやぞ! 落とす落とさない以前の問題や! 自分でどうにかせえ! 尻の青いガキの世話なんざしてられるかい!」
「自分でどうにか出来たら相談なんざしてねぇんだよ! そんな経験ねぇからどうすりゃいいか分かんねぇんだよ!! てかどうにかしないとアトリエまたぶち壊されるんだぞどうすりゃいいんだよちきしょう!」
「い、いや、泣かれても困るんやけど……ほ、ほれ。芋けんぴ食って落ち着けって、な?」
「うぅ……ぐす……ありがとうな……ヴェネ公は優しいな……」
「うっわー、男に感謝されても全く嬉しくないんやけど」
非情な現実を突き付けてくるヴェネ公に、俺は泣き寝入りをするしかなかった。
この世に生を受けてから二十五年。交際経験はおろか、異性と話したことが殆ど無い。
そもそも人と関わること自体が苦手だったのもあって、人から避けて生きてきたのだ。
そんな俺に、女性をデートに誘ってスキンシップを試みろと言われた所でムリゲー過ぎてどうしようも出来なかった。
「で、結局どうすればいいんだよ。誘い方が分かんねぇんだけど……」
「いや、だから知らんがな。適当に口実つけて誘えばええんちゃう? ほら、買い物に付き合ってくれとか、探し物手伝ってくれとか」
「それで断られたらどうするんだよ。ただでさえメンタル弱いんだぞ。断られるどころかケチョンケチョンに罵倒されたあかつきにはもう立ち直れる自信がねぇよ……」
「んじゃあ、あれや。家事手伝ってみたらどうや。一応それもデートの一環やろ」
「この前料理手伝おうかなって思って声かけたら凄い嫌そうな目で睨み付けられて拒否られたんだけど。邪魔したら両手斬り落とすって言われたし」
「あー、うん。せやろな。あの嬢ちゃんなら言いかねん。……んじゃ、とりあえずちょこちょこ話しかけて色々と趣味嗜好調べてからデートに誘うってのはどうや。相手のことをまず色々知ることが大事やとは思うんやけど」
「いや、話すらまともに取りあってくれないんだけどよ……」
「……詰んどるやん」
「詰んでるんだよなぁ……」
芋けんぴを一口齧って、大きな溜息を吐く。俺だけじゃなくてヴェネ公も。情けない。
見事に詰んでいた。どう足掻いても絶望だ。ムリゲーにもほどがある。
せめてこっちに興味を向いてくれたらいいのだけれど……。
「はぁ……ほんま何考えとるんやろなあの嬢ちゃん……」
「俺が聞きてえよ……あんな鉄面皮とデートするなんざ無理だって……」
「あんなぁ、無理って最初から決めつけるんはあんまりよくないんやで? 何事もとりあえずやってみてから決めるんが鉄則なんや。あんな気難しい嬢ちゃんやけど、なにかしらの共通点やら突破口はあるんちゃう? まぁ、そんなんあったらこんなに坊主が悩むことはないか」
「無理なもんは無理だろ……共通点なんざある訳……ん? 共通点……」
共通点という言葉に、何故か少しだけひっかかった。ジュリアと共通点なんて無い……。
……ん? あれ、そういえばあいつ……。
「……あ、あったかもしれねぇ。共通点」
脳味噌をほじくり返した結果、なんかあった。普通に。結構単純かつ明快な共通点が。
「あ、そーかそーかよかったやん。……えっ、あるんかい!」
「ありがとなヴェネ公。少しだけ突破口が見えたかもしれねぇ。もう一個芋けんぴ付けるわ」
「いやわいの報酬芋けんぴだけかいな! もうちょい何かあるやろ! せめてティラミスとかあるやろ! この前あの嬢ちゃんが作ってたあの甘いやつ! おい! 聞かんかい! おいごら小僧! おおおおおおおおおおおおおおい!」
ヴェネ公の訴えはスルーして、アトリエを一旦後にする。
そうと決まれば即行動を開始した。ヴェネ公の言う通りだった。とりあえずやってみよう。これなら出会って五秒で即バトル展開は無いだろう。……そう思いたい。
※ ※
「え? 嫌だ。私忙しいし」
「……えっ? いや、ちょ、えっ?」
彼女からすんなり出た言葉に、見事に呆気にとられてしまった。
俺が思いついた策は、普段使っている画材類の予備が切れてしまったから、地下にある保管庫から画材を運ぶのを手伝って欲しいというものだ。
勿論嘘だ。本当に連れて行きたい場所は別にある。だけど、素直に俺の頼みや誘いを聞くような人間ではないのはもう分かりきっていた。
だからこそ、俺の体調を考慮した上で最善の策を考えたのだった。量が多いし人手が必要とでも言って懇願してでもしたらきっと向こうもやれやれといった具合で折れてくれる筈……と、思ったんだけれど。出会って五秒も経たずにすんなりと断られてしまった。
結果、凄まじく動揺してしまっている自分が居た。どうしよう。断られた後のこと全く考えてなかったぞ。
「いや、だから言ったじゃねぇかよ! その、色々と試したい題材があってだな、そのためには色々と画材が必要で……」
「一人で行けばいいじゃない。あのねぇ、引き篭もって絵ばっかり描いてるあんたとは違って忙しいのよ。今からやらなきゃいけないことが盛り沢山だっていうのに……」
「だ、だから一人だと運びきれねぇんだって! だから手伝って欲しくて……」
「じゃあ私じゃなくて対象Xとかヴェネティに頼めばいいじゃない。わざわざ私じゃなきゃいけない理由も無いでしょ。じゃあ、私行くから。風呂とリビング掃除と晩御飯の準備が待っているんだから……」
「いや、ちょっ、ちょっと待てって! せめて話を……」
怪訝な表情でこっちを睨みつつアトリエを去る彼女を背に、心底焦っていた。焦り過ぎて動悸と息切れと目まいが同時に押し寄せて、頭がクラクラしている。
こういう時にどうすればいいのか最善策が思いつかず、脳内回路がショート真っ最中だった。
ヤバい。このままだとヤバい。このままじゃデートどころか、お互いの溝がもっと離れてしまう。どうにかして結果を出さないと、このアトリエを奪われて追い出されてしまうというのに。俺の唯一の居場所が、存在価値が無くなってしまう。
どうにかしないと。それだけはヤバい。それだけは本当に嫌だ。
だというのに、俺の焦りは虚しく、彼女は一歩、また一歩と離れてゆく。
こういう時に限って、発作がぶり返して、具合が段々と悪くなっていく。ゲホゲホと咳を吐き出すと、夥しい量のどす黒い血がドバドバと撒き散らす。ヤバい。ガチで痛い。ガチでヤバい。……まっ、待って……。
「……ったく。世話がかかるんだから……」
意識が朦朧とし始める中、不意に目の前に何かの影が覆いかぶさった。伸ばした手を誰かが掴んで、頭に優しく触れる感触が届く。ふんわりと仄かに甘くて良い香りがした。
そして、ペットボトルの飲料水と、幾つかの錠剤を俺の口に放り込んできた。
薬が体内に駆け巡り、徐々に動悸が収まってゆく。
意識も徐々に回復してゆくと同時に、手を差し伸べてくれた存在の顔が露わになる。
その場を去ろうとしていたジュリアの姿だった。心底面倒くさそうな表情をしているものの、血塗れの俺の口周りとタオルで拭い、優しく手当てを施してくれる。
「……すまん。本当に……」
「末期がんの患者が目の前で発作起こしてんのに放置する人間がどこにいるのよ。いいから黙ってなさい。本当に面倒臭いんだから……」
徐々に意識が回復してくると同時に、情けない心情がこみあげてきた。ポロッと謝罪がこぼれ出てしまうけれど、彼女から出てきたのはそんな言葉だった。
少しだけ、分かった。こいつ、口振りは酷いけれど、心は素直で温かい人間だ。
不器用ではあるけれど、冷徹に見えるけれど、全てを切り捨てることは出来ない人間だ。
そんな人間臭さが垣間見れて、少しだけ安心した。
「……な、言っただろ。激しい運動は出来ないんだ。いつこんな状況になるのか分かんないんだよ。だから、手伝ってくれよ……いつ野垂れ死んでもおかしくないんだからよ」
「……あんたねぇ、そのやり口は卑怯だと思うんだけど。断る選択肢が無いじゃない」
「はははっ、卑怯って言われても仕方ねぇか。自分の病状を都合よく利用してるだけなんだからよ。何とでもいえば言い。だけど、これだけは言えるんだ。これを完成させないと、絶対に俺は後悔してしまう。いつ死ぬか分かんないんだから、後悔したまま死にたくねぇんだよ。だから、手伝ってくれ。ワガママなのは分かってる。だからこそあえて……」
「あーもー、分かった分かった! 分かったから! 手伝うから! 手伝えばいいんでしょ! ったく。さっさと案内しなさいよ……」
俺の思いが、どうにか届いたらしい。諦めたように話を遮って、俺に手を差し出してくる。
目を反らして少し頬を赤らめて照れ隠ししている辺り、こいつは実は良い人なんだなと実感する。絶対に口に出せないけど。
そんなことを思いつつ、差し出された手を取った。
※ ※
「ねぇ、まだ着かないの? 流石に疲れたんだけど」
地下へと続く薄暗い階段を降りて、ジメッとした閉塞感のある細い廊下を歩き続けていると、後ろから心底面倒くさそうな声が届く。
顔を見なくても分かる。こいつ、凄まじくイライラしている。変なこと言ったら後ろから思いっきりヘッドロックかまされる。絶対に。前言撤回。こいつ全然良い人間じゃない。
超怖いことこの上なかった。でも気にすんな俺。気を確かに持て。負けんな俺。折れるな俺。
「安心しろ。もう少しで着くから……あぁ、そこ窪みあるから」
「そう言って十分以上降経ったんだけど。あんたのもうちょっとの許容範囲広過ぎでしょ。てか前々から言いたかったんだけど、そもそもこの城広過ぎなのよ! 地上だけでも充分広いのに地下の方が十倍以上広いとか聞いてないんだけど! アリの巣でもこんなに広くないわよ! 掃除すんのも面倒だわ!」
「仕方ねぇだろ。そもそもこの城、爺さんがここだけで生活出来るように資産をほとんどつぎ込んで改築増築繰り返して作り上げたリアル九龍城みたいなとこなんだからよ。それに、こんな世紀末的状況に陥っても今の所普通に生活出来てんのもこの施設のお蔭なんだぜ? 少しくらい許容してくれって……」
「確かに、自家発電設備も温室栽培ファームも上下水設備も完備してる上に、食料も水も充分過ぎるくらいに備蓄されてるから、それに関しては文句は言わないわよ。でも、それとこれは話が別! 広すぎるのよ! 無駄に広すぎるのよ! あのねぇ、はぐらかすのもいい加減にしてくれない? こっちだって色々と忙しいって何度も言ってるでしょ。もう帰る」
「いやいやいや、ちょっと待てって! もうちょっとだって! もうちょっとだぐふぇ!?」
拗ねて帰ろうとしている彼女を焦って止めようとしたものの、窪みに足を取られて見事にすってんころりんしてしまった。
廊下の先にあった急な階段をすさまじい勢いでローリングしてしまい、思いっきり叩きつけられた。一瞬息が止まるレベルで痛い。ヤバい。言葉が出ない。痛い。ただ痛い。
「……つっ、っつおおぉぉぉぉ……」
「……大丈夫。ヤバい音したけど。骨何本かイッてない?」
「だ、大丈夫……だ、と……思、う……」
流石に心配してくれた。慌てて駆けつけて、怪訝そうな表情で手を取ってくる。まるで、傷だらけの町娘を助けようとはせ参じた貴族の王子様のようだ。……俺が町娘ポジションなのは納得いかないけど。よろけつつ立ち上がって、呼吸を整える。
とはいえ、丁度良かった。目の前には、目的地であるマークが塗られた鉄壁が聳え立っていたのだから。爺さん秘蔵の物が隠されている秘蔵の蔵が。
「……待たせたな。着いたぜ……」
「いや、ただの壁じゃない。馬鹿にしてんの?」
「してねぇって……ちょいと待ってろ」
疑っているジュリアを尻目に俺は近づいて、壁のマークが塗られている部分に触れる。するとカチッという作動音が聞こえて、その部分だけゴゴゴッと動いた。
それを確認して俺は手を引っ込めると、壁だったその部分が横にスライドして、あっという間に目の前には人一人は通れるほどの入口が出来上がった。
「……えっ? えーっと……えっ?」
突然の出来事を目の当たりにして、彼女は拍子抜けした様子で目を丸くさせている。凄い間抜けな表情だった。いつもは人を殺せるレベルの鋭い眼光の持ち主だというのに。
こんなコミカルな表情も出来るんだな。こいつ。
その反応を少しだけ面白がりつつ、先に中に入る。
「……おーい。ボサッとしてないでさっさと入って来いよ。……聞いてる?」
「え、あっ、うん……いやじゃなくって! 何よこの隠し部屋!」
「あぁ、ここか? 爺さんが大切にしていた秘蔵コレクションの保管庫なんだよ。たまに気分転換するときにここに寄ったりするんだけど、意外な掘り出し物があったるするんだよなぁ」
「秘蔵コレクション? 何よコレクションって。そもそも、ここには画材の補充に……」
「まぁまぁ落ち着け落ち着け。あぁ、そこで待ってろよ。今電気点けるから」
「いや話聞きなさいって! どういうことなのよ! なんでわざわざここ……に……えっ?」
疑問を呈するのはごもっともだった。しかし。そんな彼女も、部屋の電気を点けた瞬間、一瞬で黙り込んだ。
いや違う。絶句していた。目の前の光景が信じられないとばかりに、目を見開いていた。
それもそうだろう。電気が点いたその空間に広がっていたのは。
彼女が普段聴いていた、ジャズのレコード盤が大量に陳列されている光景だったのだから。
往年の名盤から、知る人ぞ知るアーティストの円盤、廃盤になっているレアな物まで勢ぞろいときた。その数およそ一万枚以上。
ジャズのレコード盤収集が唯一の趣味だった爺さんが、絵画で儲かった金を使い込むレベルで収集し続けた結果、気付いたらこのような量になっていたのだ。勿論、保存状態は完璧だ。指紋一つも許さないレベル。博物館レベルの量だと思う。博物館もドン引きレベルだろう。
「絵画馬鹿爺さんの唯一の趣味がレコード収集だったんだ。特にジャズが好きでな。ジュリアも好きだっただろ? ジャズ」
茫然としているジュリアに話し掛けてみるものの、返事は無い。ただの屍と成り果ててる。
それどころか反応も無い。……えっ、もしかして死んでる?
「おーい、もしもーし。聞いてるかー? あっ、これとか好きじゃないか? ビル・エヴァンスの【ワルツ・フォー・デビィ】。後はベタかもだけどマイルス・デイヴィスの【カインド・オブ・ブルー】とか……あっ、これとかどうよ。ソニー・ロリンズ【サキソフォン・コロッサス】。ベタっちゃあベタだけどジョン・コルトレーンの【マイ・フェイヴァリット・シングス】とかもありだな。後はそうだな……バド・パウエルの【クレオパトラの夢】とかも……」
天井まで聳え立っている巨大な収納棚の中から、普段よく聞くレコードをチョイスしてみるものの、反応は薄い。
いや、違った。なんかすっごいプルプルしている。心配しそうになるレベルで、表情は全く変えずにプルプルと震えていた。こっちが心配してしまうレベルで。
「……おい。どうした? もしかして……俺の勘違いだったか? お前、一人でいるときずっとジャズばっか聞いてたから、てっきり好きなもんだと思ってたんだけど」
「……な……なっ……」
「えっ? なんだって? 聞こえ辛かったんだけど……お、おーい? 聞いてる?」
声を震え上がらせながら、何か喋ろうとしている。だけど、何を喋ろうとしているのか今一聞き取れなかった。恐る恐る近づいて、顔の前で手を振ってみる。
すると、不意に何かを思い出したかのように、思いっきり手を掴んで引き寄せられた。
目をすさまじくぎらつかせたジュリアの顔が、わずか数センチ前まで急接近してきたからか、思わず言葉を失ってしまう。
そしてすぐさま理解した。こいつ怒ってる。確実に怒ってる。怖いって。超怖いって。逃げようにも掴む力強すぎて逃げれないから余計に怖いって!
「……い、いやいやいやいや! 近い近い近い近い! とりあえずごめん! 何かよくわかんないけどごめんなさい! だからその、あの、あれだ! 離そうか! 一旦離そう! 落ち着こう! 話せば分かるからさ! なっ!?」
どうにか落ち着かせようとするものの、全く聞く耳を持ってくれない。むしろ迫力が増しているようにしか見えなかった。あぁ、これはもうダメだ。俺死ぬわ。ぶち殺されて死ぬわ。
せめてあの絵を完成させたかった……。
「……ねぇ」
「ふぇ!? なっ、何だよ! もう謝ったぞ! 掃除とか炊事とか手伝うしアトリエ散らかしたりとかなるべくしねぇから機嫌直せって!」
「ギャーギャーうるさい。黙って」
「あ、はいごめんなさい黙ります」
不意にしゃべったと思いきや、普通に注意された。反論の余地もなく、大人しく黙りこむ。
「……なんで私をここに連れてきたの」
「そりゃ、その……お前が喜ぶと思って……ほら、その……お前、ずっとなんか寂しそうにしてたから……たまには息抜きも必要だろ? 趣味を満喫できる時間も大事だと思って……」
「……あっそ」
若干どもりつつ弁解したはいいものの、返ってきたのは素気ない一言だけだった。
その後、何か尋ねてくるわけでもなく、真剣な表情で何枚ものレコードをセレクトしていく。
「……ねぇ」
「は、はい! なんでしょうか!」
「持ち運びできるケース。無いの。嵩張っちゃうんだけど」
「あ、あぁ! えーっと……これ!」
そう言われて、傍に遭ったトートバッグを急いで手渡すと、黙ってそれを受け取り、レコードを何枚も収納してゆく。
二十枚以上はチョイスしただろうか。ある程度満足したらしく、表情を一つも変えずにジュリアはこっちに戻ってくる。
「……えーっと、もう満足した感じ、か?」
「……プレーヤー」
「……えっ? プレーヤー?」
「レコードプレーヤー。貸してくんない。私の部屋に無かったから」
「あ、あぁ、そっか……そこに視聴用のプレーヤーあるから、持っていてもいいけど……」
「……そう」
素気ないをして、陳列してあったプレーヤーの一つを選び、バッグを背負ったと思うと、茫然としている俺をスルーしてその場を去ろうとする。
と、思いきや。何かを思い出したらしい。回れ右してこっちに近付く。そして、何故か右手を差し出してきた。
「……なっ、何だよ」
「……カギ。ここの。あるんでしょ」
「……このカードキー使ってそこのパスに翳したら開くけど……」
説明するや否や、一瞬で取られた。呆気に取られている俺を放置して、今度こそ立ち去る。
「……また来る」
最後、そんな一言だけを俺にぶん投げて、扉の向こう側に消えていった。
無駄に広い保管庫に、一人ポツンと取り残される。
「……どゆこと?」
※ ※
「わいに聞かれても知らんがな。そもそもわいに相談するのが間違いやって何度言えば……」
二日後の夜。迎撃という名の虐殺を終えたヴェネ公は、心底うんざりした表情で俺に答えた。
それだけ言うとそっぽを向いて、今日の晩御飯であるビーフストロガノフを食べ進める。
ヴェネ公の返事はごもっとも過ぎた。ただ、俺だってそれどころじゃなかった。
真面目に考えてもあいつの行動がどういうことか本当に分からなかったのだから。
「仕方ねぇだろ! 相談できるのかお前しかいないんだって! 種族とかそういうのは抜きにしてヴェネ公はそういう経験は俺よりあるだろ? 指南してくれって! ほら、これやるから」
キッチンで料理を作っている張本人にバレないように、こっそりと近付いて例の物を出す。
「……なんやこれは」
「ボンタンアメだ」
「わいのこと馬鹿にしとるやろ」
「してねぇって! ほら、甘いお菓子好きだろ? これでどうにか頼む! このとおり!」
「いや、だからってこんなちっこい固形物一個で買収出来ると思っとるんか? まさか坊主がここまで度し難いチャランポランやったとぐふぉ!?」
「まぁまぁ、とりあえず食えって! 美味しいから! なっ? 美味しいから!」
「んぐっ、いや、せやから、そういう物で釣ろうとしとる考え自体が馬鹿……意外と美味しい」
「だ、だろ? ほら、もっと食っていいんだぜ? 食糧庫に大量に残ってたんだよ」
相手にするのも鬱陶しそうにしているヴェネ公に対し、大量に持ってきたボンタンアメを幾つも放り込んだ。そして、無事に懐柔に成功するのだった。
……良かった。こいつが単純で。心の中で静かにガッツポーズをする。
「……けふっ。とりあえず、坊主に対する態度は置いといて、そのレコード? とかいう媒体を大量に持って帰ったんやろ? 少なくも喜んどったんとちゃうか?」
「んー、そうだといいんだけどよ。あの後あからさまに避けらてるんだよ。近づこうとしたら銃突きつけてくる位だし。だけど、とりあえず見てくれよこれ……」
ボンタンアメを気にいって食べ続けているヴェネ公に、俺に与えられた晩飯を見せる。
大皿に盛られたビーフストロガノフに、大盛りのサラダ、オムライス、ステーキ、デザートに特製チョコレートパフェまで付いていた。……何だこの高度な嫌がらせ。
「あからさまなくらいに無茶苦茶豪勢やな……」
「な? 反応に困るだろこれ。あいつが音楽好きだってことは確かなんだよ。しばらく様子見してたんだけど、あれ以降俺のアトリエもいつも以上に綺麗に掃除されてたし、持っている服も全部ピシッとアイロンされてたし、ごはんは思いっきりグレードアップされてたし……だけどあからさまに避けられてるんだぜ? どういう意図なのかマジで分からん……」
「ぬー……これはちょっとなぁ……」
流石のヴェネ公も、少し困惑していた。ボンタンアメをもごもごと食べつつ首を傾げている。
「まぁ、何を考えてるんは置いといて、喜んどるんは確かなんちゃうか? 種は捲いたんやから、少し様子見した方がええとは思うけどな。……んで、ボスの猶予っていつまでなんや?」
「明後日まで」
「……詰んどるやん」
「詰んでるんだよなぁ……」
詰んでいた。アクションは起こした。起こしたのはいいけれど、正直ここからどうすればいいのか何も思い浮かばなかった。
「……まぁ、もうちょいあの嬢ちゃんの行動は見とった方がええと思うで。しゃーないからわいも協力したるわ。感謝せぇよ?」
「あぁ、助かるよ。……オムライス、食うか?」
「いや、流石にお腹一杯やからええわ」
とりあえず手伝ってくれるらしい。それだけでも充分大助かりだった。
だけど、このままだとヤバいのは確かだった。どうすることも出来ない焦りだけが、俺をジワジワと浸蝕している。静観するだけっていうのもなぁ……。
「どーしたデス? 辛気臭い顔してるデスよー。ほら、スマイルスマイル」
考え込んでいると、不意に後ろから声がかかる。俺に発破を掛けた張本人だ。
「ボスも一段落ついた感じなんか?」
「えぇ、そんな感じデね。あー疲れた。全く、しぶと過ぎデスよ……どっこらしょっと」
ヴェネ公と他愛ない会話をしつつ、アウルは隣に座ってくる。それを確認するとすぐにキッチンからジュリアが近付いてきた。
「……対象X。今日は何にずるの」
「アーウールードールーネー。何度も言うデスけど、対象Xとかいう堅苦しくってかわいくない名前の子は存在しないデス。……ハンバーグ食べたいデス。デミグラスソースをデロデロで」
「……あっそう」
会話は少なめに、注文を承ったジュリアはそそくさとその場を離れる。
二人の間に隔たりを感じるなと思ってると、後ろを通った彼女がボソッと声を掛けてきた。
「……十時半。アトリエで待ってなさい。用があるわ」
※ ※
夜十時半前。下書き途中のキャンパスを前にして、ソワソワとしていた。
壁時計の秒針が動く音だけがアトリエ内に響き渡っている。
全くもって落ち着かない。貧乏ゆすりが止まらないし、作品に集中も出来ないでいた。
最初はBGMをかけていたんだけれど、逆に鬱陶しく思えてしまったから止めた。
原因は分かりきっている。飯時に喰らった死刑宣告のせいだ。
距離を取っていたのに、急に詰めてきたのだ。そりゃ焦る。どういう意図でこっちに話し掛けてきたのか真面目に分からない。
「……ったく、だから人とあまり関わりたくなかったんだよなぁ……」
人との関わりをなるべく避けていたのは、こうやって作品制作に支障をきたしてしまうのが本当に嫌だったからだ。
それは爺さんも同じだった。人と関わったところでいいことなんて全く無い。そりゃこんな核シェルターレベルの古城で引き篭もりたくもなる。
邪魔をされて煩わしい思いをしてイライラしちゃうのであれば、一生孤独でありたい。
だからこそ、分からなかった。こういう時の経験値が圧倒的に足りない。
気を紛らわそうと、席を立って大窓を開けて、テラスへと出てみた。
雲一つない良い天気だ。風も気持ちいいし空気も澄んでいるし、綺麗な星空が広がっている。
眼下に広がる景色が街灯りが煌めくイルミネーションだったら、さぞかし最高な夜景になっていただろうと思う。
残念ながら街灯りは全く見当たらないし、そこら中でっかい華やら植物やら大木やらに支配されているけれど。
ここだけじゃない。世界中で、現在進行形で、樹海化が進行している。
樹海化も進んでいるし、華の胞子に感染したゾンビやらクリーチャーやらが人間の総人口を逆転してしまうのも時間の問題だろう。
あいつらがここに来て約一ヶ月で、世界情勢がこんなに著しく変化してしまうとは。
……人生、何があるのか本当に分からないものだなと実感する。末期がん宣告された日に未確認生命体が家の庭に落ちてくるとかどんなコントだよ。
「……はぁ……コーヒーでも飲むか」
こうやって樹海と化しつつある街を眺めた所で、何もインスピレーションは浮かばなかった。
現実は残酷だった。仕方なくテラスから離れて、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れることにした。少しは頭冴えるだろう。
「はい。淹れといたわよ。砂糖多めミルク少なめでいいわよね」
「あぁ、ありがと……ん? んあっつ!?」
振り返ったと同時に、淹れ立てのコーヒーを持ったジュリアが普通に居た。
あまりにも自然に居て、思わずスルーしそうになってしまった。
ビックリし過ぎて、受け取ったコーヒーを少し零して、手の甲に掛かってしまう。
「……いや、そこまでビックリすること無いでしょ。何してんだか……はい。大丈夫?」
「あ、あぁ……すまん……」
呆れ返りつつ、いつの間にか持っていたタオルをこっちに渡してくる。気配り上手過ぎ。
「で、いつからそこに居たんだよ」
「人とあまり関わりたくなかったんだよなぁって自分に陶酔しつつ呟いてた辺りから居たけど。凄まじくかっこ悪かったわよ」
「結構前から居たのかよ! 余計なお世話だ! てか鍵かけてた筈なんだけど」
「壊した」
「壊すなよ! 普通に壊すなよ! 何度も言ってるだろ! 話聞いてた!?」
「ノックしたら返事無かったから、もしかしたら室内で倒れている可能性もあるでしょ。あんたの病状もあるし。だから壊した」
「い、いや、確かにその可能性はあるけど鍵壊すの論外だろ! てかこれで何回目だよ! どんだけ鍵壊せば気が済むんだよ!」
「いいじゃない。どうせ私が直すし。また壊すだろうけど」
「鍵の必要性ぃいいいいい!」
無茶苦茶だった。何だよこいつ常識が通用しないのかよ。
突っ込み過ぎて無駄に疲れた。不意に時計を確認すると、既に約束の十時半を回っていた。
あぁ、もう約束の時間だったのね。
「……はぁ、もういいや。何言ってもなんか言い返されそうだし……中に戻ろうぜ。お前の分のコーヒーでも淹れてやるよ」
「自分の分はもう淹れてあるからいらないわ。そもそも紅茶派だし」
「抜かりなさ過ぎだろ。完璧メイドか。本当に何なんだよ……別にいいけどよ……」
もう何言ってもあれだった。こいつは規格外だ。常識が通用し無さ過ぎる。
諦めて、テラスから室内へと戻って、マッサージチェアに座って淹れたてのコーヒーを啜る。
突如襲来してきた彼女も俺に続いて室内に戻ってきて、向かいのソファに座った。
……うん。美味い。酷使気味だった頭がスーッと晴れていく。
「……で、何の用だ。わざわざ呼び出してよ」
「うん。……でも、その……」
気になっていたことを訊ねると、ジュリアは何故か急に少し頬を赤らめて目を反らした。
何かを言おうとしつつ、躊躇って口を閉じるを繰り返している。
……えっ、何この反応意味が分かんないんだけど。どゆこと?
「な、なんだよ。用があったんだろ? ただ俺の邪魔するためだけにここに来たってのか? 申し訳ねぇけど、お前の相手する余裕はねぇんだって。ただでさえ生い先短けぇんだから……邪魔するんだったら帰ってくれ」
正直に今の気持ちを伝えると、躊躇していた彼女は急に立ち上がって、座っていたソファの後ろから何かを取り出して、慌てて俺に差し出してくるのだった。
それは、大き目の紙袋だった。恐る恐る開けてみると、その中には幾つものレコード盤が入っていた。どのレコード盤もあまり聞いたことないアーティストばかりだった。
きっと、保管庫の中から色々と引っ張り出してきたのだろう。だけど、これがどういう意図なのかさっぱり読めない。
「……なんだよこれ?」
「……お礼」
「えっ? お礼? 何のだよ」
「……保管庫。レコードの。教えてくれたお礼。その……ありがとう」
「あ、あぁ、そういうこと……」
顔を赤らめつつ頭を下げてくるジュリアに、少し動揺しつつ納得した。とはいえ。こいつの口からまさか感謝の言葉が出て来るとは思わなかった。
しかも、常にムスッとしてて仏頂面なこいつがこんな表情するとは。
よっぽど、嬉しかったんだろう。俺が想像していた以上に、こいつは感謝しているのだろう。
それくらいに、レコードが好きなのだろう。そんなことが鈍感の俺でさえ分かるほどに、とても嬉しそうだった。
そして、嬉しい気持ちは俺も同じだった。目的はどうであれ、こいつに教えてよかった。
不思議なものだ。心が温かい。不意に笑みが零れそうになったけれど、何か突っ込まれたらたまったものじゃないから精一杯我慢した。……俺にも、こんな感情が残っていたのか。
「……別に、そこまで感謝される覚えはねぇよ。その様子だと、お前の好きなレコードとか色々見つかったみたいだな。あの場所気に入ってくれたんだったらよかったけど。……で、これはお前のチョイスってことか?」
「……何よ。あんたの趣味嗜好に合わなかった? そうなら別に聴かなくても……」
「どうしてそうなる。ちげぇよ。単純に俺の知らないレコードばっかだったからちょっとビックリしただけだ。……お前、色々と詳しいんだな」
「え、その、えっ、そ、そんなこと、その……近づくな死ね!」
「なんでだよぐふぇ!?」
褒めたのに、殴られた。思いっきり殴られてすさまじい勢いでブッ飛ばされて、棚に思いっきり激突してしまう。凄まじく痛い。……理不尽にもほどがあるだろ。
「……あ、あのな……一応俺……病人なんだからな……」
「……ごめん。つい虫唾が走って……」
「照れ隠しで虫唾が走るものなのかよ……」
「もう一発いっとく?」
「すいませんでした」
よろよろと立ち上がりつつ、持っていたバッグを確認する。……よかった。中身のレコードは無事だった。破損したらマジでどうしようって思った……。
「……で。どっちなの。それ。聴くの聴かないの。聴かないんだったら別に……」
「聴くっての。どうしてそうなる……」
「……じゃあ、いい」
今にもぶん殴ってきそうだったけれど、俺の答えに納得してくれたらしい。握っていた拳を解いたのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。
……てか、年下の女性に対してどんだけ振り回されているんだよ俺。
「……で、用事はそれだけでよかったんだな。これは後でキチンと聴いとくから。んじゃ、俺アトリエに戻るから」
形はどうであれ、こいつの感謝の気持ちは受け取ったのだ。
これで、こいつの強固な心が少しでも開いてくれたらいいんだけど……。
「……ねぇ。ちょっと待って」
その場を去ろうとしたら、何故か呼び止められた。……えっ、何。もう面倒臭いことは勘弁したいんだけど……。
「……なんだよ。まだなんかあんのか?」
「……どうして、あんたは私に優しくするのよ。このまま私をここに置いてどうするつもりなの。殺す訳でもないし、奴隷のような扱いをする訳でもない。どうして、私を生かし続けるのよ。私は、あんた達を殺そうとしていたのよ? そんな相手を殺すこともしない上に、衣食住も提供してくれるだけじゃなくて、こんなものまで用意して……」
「……前にも言わなかったか。ただの俺のワガママだ。お前が気にすることじゃない」
「違う! そうじゃない! そうじゃなくって……私をどうしたいのよ。何が目的なの。必要以上に干渉しないで。放っておいて。……私は……生きる意志なんて……とっくに失くしているというのに……」
その言葉を聞いて、俺は思わず黙りこんでしまった。
返す言葉が無かったわけじゃない。その言葉を叫んだジュリアの表情が、今まで見たことないほどに、悲痛な表情をしていたのだから。冗談じゃなくて、本気で困惑していた。
何を考えているのか分からなかったこいつの心の奥底が、やっと垣間見れたような気がした。
そして、俺の中で納得できる答えがふっと出てきた。こいつがここに現れた時、殺さずに生かすことを選んだ理由が。
「……お前を生かしている目的か? そんなの単純だ。まだ生きることで出来るのに、意志を失くしたとかいう下らねぇ理由で自ら死を選ぶてめえが気に喰わなかっただけだ」
「……はっ? い、いや、どういう……」
「だから、気に喰わなかったんだって言っただろ。てめぇが何考えてようがどう行動しようがどうでもいい。だけど、そんなくっだらねぇ理由で死ぬのが心底ムカつく。だから俺はてめぇを生かすことを選んだ。それだけの話だ」
今にも泣き出しそうにしているジュリアに対して、きっぱりと言い放つ。
その言葉が飲み込めなかったらしい。見事に絶句していた。
納得はしてくれないだろう。癇癪起こして殴り掛かってくるかもしれない。
だけど、俺は決めた。俺は、こいつと向き合わなければいけない。
こいつがそんな考え方をしているのであれば、俺は全力で否定しなければいけない。
「……な、何よそれ! そんなのただの個人的なエゴじゃない! あんたの個人的な主義主張に私を巻き込まないでよ! 何も無かった私には、ボスが全てだったのよ! そんなボスが私の前から消えてしまった! その時点で私の生きる意味なんてもう無いのよ! 私はもう空っぽなの! もう何も無いのよ! あんたにその気持ちが分かるの!?」
「いや、分かる訳ないだろ。しったこっちゃねぇし。俺も自分の事で精一杯だし」
「はぁ!? 意味わかんないわよ! 言ってること無茶苦茶じゃない! じゃあどうして……」
「生きたいのにもうすぐ死んでしまう人間がここに居るからに決まってんだろうがよ! まだ先が長いてめぇが勝手にてめぇの人生に区切りつけて死ぬんじゃねぇよ! 勝手に投げ捨てるんじゃねえよ! 空っぽだぁ!? そんなん知るかボケ! じゃあ俺に寄越せよ! その命俺に寄越せ! 俺はまだ生きてぇんだよ! 生きていてぇんだよ!」
「確かにあんたが不治の病に犯されてるのは分かるけど、あんたが生きたいなんて知らないし私が死のうが生きようが私の勝手でしょ! 放っといてよ!」
「放っておくことが出来ねぇからこうなってんだよ! 確かに自分勝手かもしれねぇけど、そんな理由で俺はてめぇに死んでほしくねぇんだよ! もっと生きて欲しいんだよ! そうじゃねぇと俺が納得出来ねぇんだよ!」
「じゃあどうすればいいのよ! どう生きればいいのよ! 確かに自殺は愚かな方法かもしれない。だけど、そうするしか今の私にはないのよ! 生きる理由が見い出せないんだから!」
「そんなんこれから見つければいいだろ! どうしてそれをしねぇんだよ!」
その言葉を告げた瞬間、癇癪を起した彼女が俺の胸を掴み、思いっきり地面に叩きつけられた。背中から叩きつけられたからか、激痛で呼吸が一瞬止まってしまう。
そして俺に馬乗りになりながら、いきなりメイド服を脱ぎ始めた。
「え……えっ!? いや、ちょっ、まっ、待て待て待て待て! 何してんだよ! おい!」
流石に動揺してしまう。どうしたこいつ。気でも狂ったか。
「こんな状況で、生きる意味なんて見出せる訳ないでしょ。じゃああんたはボスの代わりが出来るの。私はボスに全てを捧げてきた。ボスはこんな私の全てを受け止めてくれた。……あんたは、私の全てを受け入れることは出来るの」
「い、いやだからそれと服脱ぐのはどういう意味が……」
錯乱して逃げようとする俺を尻目に、ジュリアは服を器用に脱ぎ続ける。そして、あっという間に下着だけの姿になった。そして、思考が停止した。
露わになった彼女の肌が、痣だらけだったり火傷の跡で爛れていたり、全身にタトゥーが彫られている上に、右手と左足の部分が義手と義足だったのだから。
「……なんだよ。それ」
「私は、親は居ない。小さい頃にスラム街に捨てられて、奴隷商に捕まって、悪趣味な主人に売られて、人以下の生活を続けてた。これは全部、その時に負った傷。……酷いでしょ。醜いでしょ。こんな私を、ボスは綺麗だって言ってくれたの。捨てられた時点で生きる意味を失ってしまった私を、全部受け入れてくれた。……もう、疲れたのよ。生きるのに。心も体も、全部ボロボロ。生きる意味をこれから見つけることも面倒臭い。……そんな私に、これ以上生きること強いるのは止めて。ただの迷惑でしかないから」
「……それでも、嫌だっつったらどうする」
「じゃあ、無理矢理にでも納得させるだけよ。……あんただって、男でしょ。こんな状況なら興奮くらいするんじゃない?」
その言葉が出てきた瞬間。気付いたら俺は、ジュリアを平手でビンタしていた。
まさかビンタされるとは思っていなかったのだろう。もろに食らってしまい、覆いかぶさって今にも襲いかかろうとしていた彼女は驚いた表情で倒れ込む。
そして、倒れ込んだ彼女の首元を掴み、今度はこっちが馬乗りになる。
「……ははっ、まさかあんたみたいなヒョロガリに押し倒されるなんて思わなかったわ。やっぱり、あんたも男なのね。油断した」
皮肉そうに嘲笑しつつ、煽ってくる。
「……何よ。押し倒しといて何もしないの? 襲いたければ襲えばいいんじゃない? あんたが私に近づこうとした理由もそうなんでしょ? もう勝手にすれば? 別にあんたがどう扱おうがどうでもいいし」
襲いたければ襲えばいい。普通の男ならば躊躇せずに手を出してしまうこと確実だろう。
だけど、出来なかった。襲う襲わない以前の問題じゃない。出来なかった。
何故か涙が出てきて、ポタポタと雫がジュリアの顔に落ちて、小さな水溜りを作る。
「……どうして泣いてるのよ。理解出来ないんだけど」
理解が出来ないのは俺自身も同じだった。何故か、涙が止まらない。服で拭おうとしても、ダムが決壊しているように、止まらない。
少し強めにゴシゴシと目を擦って、鼻を啜りつつ押し倒していた彼女から体をどかした。
そこでやっと、涙が止まらない理由に察しがついた。
きっと、悲しかったんだ。彼女が、俺と似ていたから。
生きる意味を見い出せず、生きた屍と化した自分の感情をどうすることも出来ず、剥き出しのナイフのように何もかもを傷付けてしまう自暴自棄な精神状態が、ガンに侵されるまでの俺そのものだった。
彼女は、不器用なのだ。生き方が分からないのだ。今までこういうやり方でしか生きてこなかったのだから。そう思うと、涙が何故か止まらなかった。そして自然と、俺は彼女を抱きしめていた。
「……何よ。同情でもしたつもり?」
「……すまん」
「……いや、謝られても困るんだけど。止めてくんない」
「……すまん」
「いや、だから……もういいわ、勝手にすれば」
相変わらずの毒づいた口振りではあったけれど、自然と嫌がっている素振りはなかった。
しばらく、何も言わないまま、時間だけが過ぎてゆく。
別に、何かをするつもりはなかった。だけど、しばらくこうしていたかった。
五分程して、何かがきっかけになった訳でもなく、おもむろに手を離して、立ち上がる。
さっきまで言い争いをしていたとは思えないほどに、穏やかな空気が蔓延していた。
「……ジュリア。一個だけいいか」
「……何よ」
「勝手に色々押し付けてすまなかった。だけど、これだけは言っておく。……俺はお前のボスにはなれない。だけど、俺はお前のよき理解者になることは出来ると思う。お前と俺は似ていると思うから。だから、お前は俺を信じてくれ。俺もお前を信じる」
答えはなかった。別に期待してはないから、構わないけれど。
「……レコード、選んでくれてありがとよ。後でアトリエで作業しながら聴くことにするよ。あ、服、きちんと着直しとけよ。アウルとかヴェネ公にとやかく言われたらめんどくせぇし」
返事はやっぱり無い。それだけを告げて、振り返ることはせずに、ガレージを後にした。
すると、入口の直ぐ横に頭から花が生えた侵略者が当たり前のように待機していた。
上下ジャージにビーサンというすさまじくラフな格好だ。フードが付いているジャージの下に着ているTシャツのロゴが凄まじくダサい。何だよ明朝体で【相対性理論】って。
「……びっくりさせんじゃねぇよ。心臓が止まると思った」
「……その様子を見る限り、少しはジュリアとの距離を縮めることが出来たみたいデスね」
「さぁな。余計に溝が出来たのかもしれん」
「そーデスかー? なーんか良さ気な雰囲気になってたデスよー? そこら辺どうなんデスかー? んー?」
「どうもねぇよしつけぇ。脇腹ツンツンしてくんじゃねぇ」
どうやら、結構前の段階からこっちのやり取りを見ていたらしい。……あれを見られていたのかよ。超恥ずかしい。
「むっふっふ、だけど、真正面からぶつかったデスねー。清々しいくらいデスよ。……どうデス? ちょっと後悔とかしちゃってないデス?」
「後悔なんざしてたらあんな醜態晒さねぇよ。……で、何しに来たんだよ。冷やかしか?」
「いいえ。お腹すいたからジュリアに何か作って貰おうと思っただけデス。……ヴァルハラは何かいります?」
「いらねぇよ。一旦アトリエに戻る。このレコード、聴きたいし」
「ふふっ、そうデスかー」
あいつがチョイスしたレコードがどんなものなのか気になっているのは素直な感想だった。
面白そうにニヤニヤと微笑んでいる侵略者にそう告げて、今度こそ、そそくさと退散する。
少しでも、俺の言葉が届いていますようにという淡い願いは、あえて口に出さないでおいた。
※ ※
「……んで、結局あの後二日間くらいなーんにも変化無かったんやな。仲がよーなった訳でもないし、不自然に避けられとる訳でもない。態度も特に変化無し。……なんやそのくっそつまらん結末。しょーもな。酒の肴にもならんがな」
昼十四時、アトリエ。おやつである柿ピーをモサモサと食べつつ、ヴェネ公は呆れ顔で俺に言い放つのだった。
そう言われても仕方無い。俺自身、もうちょい何かあるだろうと思っていた。あんなことがあったというのに、まさか何も無いとは。
「つまんねぇとか言うなって。俺だって想定外だったんだよ」
「いや、そんなこと言っとるけど、坊主も坊主やで? あいつから仕掛けてきたんやろ? どうして襲わんかったんや? 男なら覚悟決めて抱いたらんかいな」
「仕方ねぇだろ。襲えねぇよ。てかあの時点で襲ってしまったら人間的に終わりだ」
「……顔、赤らめとるけど?」
「……うるせぇ」
台無しだった。絵に集中していたというのに、あの状況を鮮明に思い出してしまうと、もうダメだった。ヴェネ公も、俺をからかうようにニヤニヤと笑みを浮かべている。
こいつ……他人事だと思って絶対に面白がってやがる。大変だったというのに。
「まぁでも、こうやってアトリエを使用許可が出てるってことは、ボスのお許しは貰ったってことでええんよな? よかったんちゃう?」
「良かったっちゃあ良かったけどな……結局何がしたかったんだよお前のとこのボスは」
「さぁ? ただからかいたかっただけちゃう? わいも知らんし」
確かに、あの後アウルから直々に許可が出て、このアトリエを奪われるという最悪の事態は避けることは出来た。出来たはいいのだけれど、なんかモヤモヤしていた。アウルがどうしてこのようなことを強要してきたことも謎ではある。
あの時、あの場所で、ジュリアと向き合って話した一瞬一瞬は、脳裏に鮮明に焼き付いて離れそうにない。
それは、ジュリアも同じなのだろうか。何か、心に変化が起こっているのだろうか。
分からないけれど、そうであって欲しい。そんなことを思いつつ、筆を一旦置いて溜息を吐いた。BGMにかけているジャズの音色が、やけに心に染みる気がした。
「……今更なんやが、坊主にしちゃ珍しい曲流しとるな。なんやこれ。なんかうねうねした変な音混じっとるやん」
「ん、あぁ。ジュリアのチョイスしたレコードだな。フュージョンとかスムースジャズとかに分類されると思う。ソウル系のジャズはちょくちょく聴いたりすることは多かったけど、こういう電気楽器を取り入れまくったタイプの曲はあんまし好んで聴いたことは無かったかもしれねぇな。俺が大体聴いてたのはスタンダードなジャズバラードばかりだったし」
「ふーん、ジャンルはよく分からんけど、あの嬢ちゃんがこんな洒落た曲好んで聴くのは意外だったかもしれんわ。もっとゴリゴリで激しめの音楽を親しみそうなイメージあるわ」
「あー、それは俺もちょっと思ったな。デスメタルとかゴシック系の曲聴いてた方がまだ想像付きやすいし。……ヴェネ公は、こういう音楽の趣味は無い感じか?」
「いや? 趣味云々っちゅーより、音楽という概念がザウロネスには無かったんや。それだけやない。娯楽の文化自体が乏しかった。坊主が命削って描き続けとる芸術の文化も同様や」
「あ、どうだったのか……なんかすまん」
「いやなんで謝んねん。無かったもんは無かったからしゃーないやろ。……元々無かった文化に触れとるんやから、どれもこれも新鮮で興味深くはあるで。こういった娯楽の文化も悪くはないと思っとるし。多分それはボスも同じや。むしろボスの方が興味津々かもしれんし」
ザウロネスには娯楽という文化が無かった。その事実を知って、思わず謝罪の言葉出てしまった。ヴェネ公も分かっている前提で話をしていたのだから。
後、素直にびっくりした。ザウロネスがどういう文明を築いてきたのか詳しい話は聞いたことは無かったけれど、やっぱりこことは全然違うのだなと素直に納得してしまった。
「……娯楽の文化があまり発展してないとかって、中々厳しくないか? なんていうかその、何かしらの娯楽が無ければ生き辛いというか……」
「うーん、元々無かったんやから、厳しい云々はそんなに感じんかったけどな。事実、ボスもわいも今まで普通に生き抜いてきたわけやし」
「あー、それもそうなのか……。娯楽の文化を重要視しなかったのか? ザウロネスって」
「まあ、ザウロネス自体色んな資源な豊富な星でな、それを狙った他の星からのちょっかいが鬱陶しくて、娯楽云々とかそういう余裕無かったんや」
「へぇ、スケールでか過ぎて想像出来ないな……。星が違うだけで明確に違いが出るもんだな」
「違いが出るのはしゃーないんちゃう? むしろどれも同じやったりとかしたらおもろないし気持ち悪いやろ」
「あー……確かに……」
確かにごもっともだった。どれも同じだと考えただけでちょっとゾッとしてしまう。
そんな雑談を二人でしていると、ブツブツというノイズと共にレコードの再生が終わった。
……あ、そういえば、あいつがチョイスしたレコード、全部聴いてしまったな。
「……ん、どないしたんや。坊主。別のレコードにせんのか?」
「あぁ、いや。別に何でもない。レコード聴いた感想、あいつに伝えないとなって思って」
「へー、意外と律儀なんやな。坊主。もっと無頓着なんかと思たわ」
「……まぁ、多分あいつもそれを望んでるだろうしな」
「ふむふむ。ええんちゃう? このまま何もせんよりかは、そうした方が変化はあるやろしな。……それに、その方がおもろそうやしな」
「お前なぁ、絶対に俺のこと馬鹿にしてるだろ」
「なんのことやらさっぱりー」
「おい。やっぱし馬鹿にしてんだろ。おい」
「あ、丁度そこに嬢ちゃんが居るで。行ったらええんちゃう?」
促されるがまま外を見てみると、確かに例の人物が中庭で手入をしているのが見えた。
色々言いたいことはあるけれど、丁度良かったのは確かだった。聞きたいことも色々ある。
「……ったく。そうするかね」
「いってらっしゃーい。きーつけてなー」
そう思い、席を立ってその場を後にする。
とりあえずニヤニヤしてるヴェネ公は後で飯抜きにしよう。
※ ※
「……さっきから何。用があるんならさっさと言いなさいよ」
中庭で花木の手入れをしていたジュリアの元に恐る恐る近づいて話しかけようとしたけれど、遮るように向こうから話し掛けられた。
油断してしまって、思わず手に持っていたレコードバックを後ろの隠してしまう。
「い、いや、その……偶然近くを通りかかっただけだ。……家事とか炊事だけじゃなくって庭の手入れとかも出来るんだな」
「……別に。生きるために色々仕込まれただけの話よ。そうでもしないと、生きていくことが出来なかったんだし」
「そ、そうか……大変だったんだな。本当に」
「まぁね。……結局何。冷やかしなら後にしてくれない? 正直言って迷惑よ。仕事の邪魔」
「あ、あぁ……すまん……いや、そうじゃなくってだな」
「じゃなかったら何。この前のお詫び? それだったら尚更どうでもいいわ。……あんたが嫌な思いしたっていうのなら謝る。だからもう放っておいて。私に必要以上に関わらないで。関わった所で、あんたに良い事なんて一つも無い」
「相変わらず俺へのあたり辛辣過ぎるだろ……」
冷たく言い放つと、こっちを一度も見ることはなく、熊手を手にとり木の手入れを再開する。
これでもかという程に、避けられていた。嫌がらせかと勘違いしてしまう程だ。
……だけど、何故かその様子に違和感を覚えた。
きっと、その言葉が本音じゃないからだろう。こいつは、嘘を吐いている。嘘で身を固めて、本当の言葉を隠している。
気を使っているのだろう。なにせ、こいつが人一倍人を思いやり、心優しいということは既に分かっているのだから。
残り僅かな余命しか無い俺に、余計なことを考えて欲しくないのだろう。
……全く。その考え自体が、余計なのだというのに。
「あのなぁ、そんな自分を苦しめることばかり言ったところでひとつも良いことないと思うぞ」
「はぁ? いきなり何よ……」
困惑する彼女に、問答無用で隠していたバッグを取り出して渡す。
「それ。全部聴いたぜ。どれも聴いたことないアーティストだったから新鮮だった。たまにはベーシックから外れるのも良いな。新しい発見出来たよ」
「……あっそ。それはその……良かった……けど」
戸惑ってしどろもどろになりつつも、ジュリアはボソッと呟く。
顔を赤らめてそっぽ向いてる時点で、こいつ嬉しいんだなということが丸わかりだった。
さっきの冷たい言動はどこ行った。
「……どれが良かったの」
「ん? あぁ、そうだな……それ。【チック・コリア】のスペイン。こういうラテン系はあまり聴かないから新鮮だったな。あとは【ウェザーリポート】とかも良かったな」
「……だったら、【クルセイダーズ】もいいと思う。【フォープレイ】も聴きごたえあると思う。系統はちょっと違うけど、【スパイロ・ジャイラ】も好きになるかも。……倉庫にも幾つかあったから、後でまた持ってくるわ」
「あ? いや自分で行くからそこまでしなくても大丈夫だぞ? お前も忙しいだろうし」
「いい。まだおすすめのアーティスト色々教えたいし……」
「あ、あぁそうか。だったらまぁ、任せるか。もっと聴いてみたいってのは事実だし」
流石に申し訳ないと思ったのだけれど、当の本人がとても嬉しそうな上に楽しそうだったからそっとしておいた。
「……あんたが話し掛けてきた目的って、これのこと? わざわざ私の御機嫌取りをしたところで何も……」
そしてしばらくして、自分自身が嬉しそうにしていることに気が付いたのだろう。顔をブンブンと降って、キッとした表情でこっちを睨みつけてくる。……まだ若干顔が赤いままだけど。
「機嫌取りじゃねぇ。おすすめされた円盤聴いて、素直に良いなって思ったから、感想は直接言いたかっただけだ。……お前こそ、引き摺ってんじゃねぇよ」
「はぁ? ……どういうことよ」
「そのままの意味だよ。正直言ってダサい。凄まじくダサい。……お前が俺に関してどう思おうがどんな態度取ろうがどうでもいいんだよ。お前がどんな過去を持ってようが、トラウマ持ってようが、枷を引きずってろうが凄まじくどうでもいい。てか、考えるだけめんどくさい」
「……何。説教したいの」
「違う。考え過ぎなんだよ。てか気負い過ぎだ。……過去に色々とあったのは分かる。だけど、そんな私情をここに持ち込んだところで意味なんて無いし解決も出来ないんだよ。……ここに居ていいのかとか、これからどうすればいいのか先が見えないとか、目標が無くなってしまって何も考えれないとか色々仕方がない部分もあるだろうけど、そんなこと考えた所で答えなんざすぐ出ねぇんだよ」
「……じゃあ、何。どうしろっていうのよ」
「簡単な話だ。……流れに身を任せればいい。答えが出るまで、ここで自由気ままに生活しとけばいい。ここにずっと居てもいいし、それに対して負い目を感じることも無い。自分が思うまま、自由にすればいい。ここは、お前がずっと存在していた戦場じゃないんだからよ」
「そんなこと……言われても……」
正直に思ったことを吐露したから、正直言ってブチ切れられるんじゃないかと思った。
だけど、返ってきたのはそんな弱々しい答えだった。
……こいつも、少しだけ心境に変化があったということだろう。色んな感情がせめぎ合って、どんな答えを出せばいいのかまだ迷っているようにも見える。まぁ、悩むのも仕方ないか。
「まぁ、こんな状況でそんなこと言われても困るよぬうぇあ!?」
そんな彼女の決断を待っていると、不意に頭上から何かが降ってきて、頭に思いっきり固い物がぶつかった。
涙がちょちょぎれるレベルですさまじい痛みが走り、頭を抱えて疼くまってしまう。
「……えっ、大丈夫?」
「あ、あぁ……大丈夫大丈夫……」
全然大丈夫じゃなかった。記憶が飛んでしまうかと思ったほどに痛い。頭を抑えつつ振り返ると、三階のアトリエのテラスから、ヴェネ公がニヤニヤしながら見下ろしていたのが見えた。
もしかしてと思って落としてきた物を確認すると、こっそり描いていた例の絵だった。
……こいつ、後で覚えてろよ。
「……あぁ、後、これもやる」
見せるつもりはなかったけど、もういい。こうなったらヤケクソだ。
吹っ切れて、急な展開過ぎて困惑している彼女にその絵を渡した。
恐る恐る渡した絵を確認する。そして、目を見開いて絶句するのだった。
当たり前だった。その絵は、音楽を聴いてリラックスしている自然体のジュリアの肖像画だったのだから。
「……これは……どういう……」
「気晴らしに描いていたんだ。その、音楽を聴いていたお前が、良い表情してたから……すまん。要らないよな。捨てても構わないから。ヴェネ公のやつ覚えてやがれよ……」
誤魔化すことも出来ない。諦めて自白すると、少し驚いた表情を見せて、しばらく押し黙る。
そして、フフッと笑みを浮かべて頬を緩ませるのだった。
「……えっ、何だよ。そんな面白かったか?」
「……いや。違うわよ。素直に、ビックリしただけ。あんたって、こんな優しいタッチの絵も描くんだなって思って」
顔を少し赤らめながらそう呟いて、心底嬉しそうに絵を眺める。
そんな様子を見て、こっちも素直に嬉しくなったのは言うまでもなかった。
……何だよ。そんな表情出来るんじゃねぇかよ。
「……さて、と。俺はそろそろアトリエに戻るわ。いらねぇことしたヴェネ公をしめねぇと。庭の手入れの邪魔して悪かったな。また、おすすめのレコード教えてくれよ」
嬉しそうにしている彼女を一瞥して、にやける口元を隠しつつその場を去ろうとした。
すると、何故か服の袖を引かれて立ち止まる。
「……何だよ」
「……ありがとう」
引き留められて言われた一言は、素気ないながらも暖かい言葉だった。
伏し目がちで、頬を少し赤らめながら呟いたその言葉に、こっちも顔が赤くなってしまう。
「……おう」
何故かこっちも照れてしまって、そんな言葉しか出てこなかった。
赤くなってしまった顔を隠しつつ、慌ててその場を離れる。
恥ずかしい。凄まじく恥ずかしい。だけど、その言葉が聞けただけで、全部報われたような気がした。きっと、ジュリア自身も何か吹っ切れたのかもしれない。
そんなことを願いつつ、重たい身体を引きずってアトリエへと戻る。
……よし、今日は良い絵が描けそうな気がする。
♭ ♭
夜九時半。一日の家事や雑務がやっと終わって、やっと自分の部屋に帰ってきた。
給仕服を脱いで部屋着に着替えて、給湯器のスイッチを入れて、備え付けのバスルームの蛇口を捻って湯を溜める。
それを確認してから寝室に戻って、レコードプレーヤーの電源を入れて、レコードをセットして針を落とす。
ブツブツという心地よいノイズが入って、少ししてジャズピアノの音色が流れ出した。
その音色をBGMにして、貯蔵庫から拝借したお気に入りの紅茶を淹れて飲む一時が、私にとって唯一の楽しみだった。
やっぱり、データ音源より実録の円盤の方が音質や響き方からして全然違う。
レコード保管庫を教えてくれた彼には、感謝してもしきれない。
感謝しきれないのだけれど、感謝とは別の感情が、私の中で渦巻いていた。
それは、モヤモヤとした変な気持ちだった。
最近、暇さえあれば、彼のことを思い浮かべては考えてしまっている。別に好きとか嫌いとかそういう感情ではない。ただ、四六時中何故か彼のことが脳裏から離れないのだ。
こんな気持ちは、生まれて初めてだった。
私にはボスしか居なかった。産まれてから十九年。私を物ではなく、人間として扱ってくれたのがボスだけだったのだから。
ボスが全てだった。ボスのためならなんでも捧げる。自害しろと命じられたらすぐに心臓抉りだして笑顔で捧げることが出来る。
人以下だった私に、生きる価値を見い出してくれた神のような存在なのだから、当たり前だ。
だからこそ、こんな気持ちは初めてだった。素直に、嬉しかった。
ボス以外の人間に、こんなに心を揺れ動かされるとは思わなかった。
私の全てをさらけ出しても、馬鹿にしたり引いてしまったりすることもせず、真摯に向き合って受け入れてくれた。
大事に思っていた存在を奪われて、自暴自棄になっていた私の心を掬ってくれたのだから。
私にこの居場所を与えてくれた彼に、素直に感謝していた。
「……何笑ってんだろ。恥ずかし……」
さっき貰った自分の自画像を眺めつつ、ポツンと呟く。
ふいに鏡をのぞくと、楽し気の微笑んでいる自分の顔が目に移って思わず目を逸らした。
この異常とも言える生活を素直に楽しんでいる自分が居て、素直に驚いた。
大切な存在を奪われた喪失感や、奪った張本人に対する恨みやつらみ、殺意さえも湧いていたというのに、今となっては薄れてしまっている。
慣れっていうのは恐ろしいものだなと素直に思った。
だけど、ふとした瞬間に脳裏に過ることがあった。
現在進行形で、地球外生命体との全面戦争の真っ最中だというのに、私は呑気にここで家事手伝いをする生活を送っていいのだろうか。
対象X……いや、アウルドルネの一方的な攻撃を受けて、現在進行形で、何千何万という数の人類が犠牲になっているのだ。
現に今も、遠くで銃撃や爆撃音が聞こえている。その音が鳴りやむことは無い。
人類が一方的に蹂躙されている危機的状況だというのに、私は人類の敵の元で、こんな生活を続けてもいいのだろうか。
そんなことをふと考えることが、たまにあった。……考えた所で、杞憂にしかならないのは分かっているけど。
「……ばっかみたい」
考えるだけ、なんか馬鹿々々しくなった。何を考えてるんだか。
アキラが、ここに居てもいいと言ってくれたのだ。
アウルドルネ達に対しては複雑な部分はあるものの、話が通じない相手ではないことは分かったし。考えるだけ時間の無駄だろう。悩んだところで、答えが出る訳でもないし。
……寝よう。疲れたし。結果的に、答えは後回しになった。
気持ちの整理は、自ずと出来る筈だ。今はただ、この生活を続けていく方がいい。不思議と、楽しいと思っている自分も居るし。
そんなことを思っていると、不意に近くから機械的な通知音が聞こえてきた。
急に聞こえてきたからビックリするものの、発信源はすぐに特定出来た。
……ここに連れてこられる前に使っていた、連絡用の携帯端末だ。使わなくなって、机の引き出しの奥に入れっぱなしだった。
今までうんともすんとも作動しなかった端末が急に作動した。その事実に思わず驚いて、すぐに引き出しを開けて確認する。
一通のメールが、届いていた。液晶に映し出されていた相手に、私は目を見開く。
……ボスからの、メールだった。
※ ※
珍しく、今日は調子が良かった。
筆の進みが良い。というより、アイデアやモチーフが次々と湧き出てくる。実は俺って天才なんじゃねって勘違いするレベルで調子がいい。
いつもは体も重いし吐き気も動悸も酷いのに、今日に限っては体調も安定している。
一番嬉しいのは、描いていてとても楽しいということだった。最近というか、しばらくこういったポジティブな感情が出て来るのは中々無かったから、普通に嬉しい。
いや、もうすぐ死ぬ上に、外はドンパチ真っ最中というカオスな状況でポジティブとかネガティブどころじゃないと思うけれど。
「……ふん。いいんじゃねこれ。これは中々いい作品が出来そう……」
調子がいいからか、そんな言葉が零れてしまう。
ちょっと一息つこうとして筆を置いて、手をクロスしてグーッと伸ばす。
ふいに時計を見ると、時間は既に夜の二十二時を指していた。
集中していて、気付かなかった。二時間以上キャンパスと向き合っていたのか。
そりゃ肩と首が凝ってるわけだ。
「ほー、ええやんこれ。なんかよーわからんけど」
「うおぅ!? ビックリした……驚かすんじゃねぇよヴェネ公」
一息吐いていると、急に右肩に何かがのしかかってくる。
ビクッとして振り返ると、ヴェネ公が興味あり気にキャンパスを眺めていた。
気配も無かったから心臓止まるかと思った……。
「存在感消して近づいてくるのは勘弁してくれよ。マジでビックリした。いつから居たんだよ」
「一時間前くらいから居ったで。暇やったから、ちょっかい出したろって思ってたんやけど、気付かずにずーっと絵描いとっておもろそうやったから眺めとった。てかそんな顔も出来るんやな。目ギンギンに輝かせてニッコニコしながら描いとったし。むっちゃ気持ち悪かった」
「気持ち悪いは余計だ。てか、俺も楽しいって思いながら描いたのは久々だからな。大体ウンウンって悩みながら腕組んで考えてることが多いし。……ん? そういやヴェネ公、今日一日中暇そうだったよな。いっつも造譲獣従えて忙しそうに蹂躙してるってのに。珍しい」
「あー、そういやそーやったな。暇っちゅーか、敵さんの攻撃がえらい消極的だったんや。わいが出っ張る程度のレベルやなかった。お陰様で今日は開店休業状態やったがな。がっはっは」
「そういうことか。そういやいつもだったら集中出来ないレベルでうるさかったんだけど、今日はそんなに騒がしくなかったな。……偶然か?」
「さぁ? 奴さんの戦力分布の規模が小さくなったんちゃう? 毎度毎度大群で押し寄せて死んでいったらそりゃそうなるやろ。こっちとしちゃああしらうのも楽になるから好都合ではあるんやけどなー。てか坊主がそんな余計なこと考えてもしゃーないやろ。んなこと考える暇あったら大人しく絵描いとけっちゅーねん。ただでさえ時間ないんやから」
「んー、それもそうなんだけどよ……」
確かに、杞憂かもしれない。考え過ぎかもしれない。
だけど、何か違和感があった。何とも言えない焦燥感というか、考えれば考えるほどになんか気になってしまう。……何か見落としてるような、気のせいのような。
「ふむふむ、ヴァルハラにしては良い絵を描いたんじゃないデスか? 相変わらずなんかよく分かんないデスけど」
「うぉう!? ……いつから居たんだよお前も」
「ついさっきデスよー。ヴァルハラはもうちょっと油断しない様にした方がいいと思うデス」
「そんなこと言われてもだな……」
なんか気になっていると、左横から別の声が聞こえてきて、思わず飛びのいた。
いつのまにか、アウルが興味深そうに絵を覗き込んでいた。
何故か、戦闘時に着用する植物で出来た戦闘服姿だった。
……こいつ相手に油断もクソも無いと思うんだけど。
「……で、どうしたよ。わざわざここに尋ねてきて。なんか急用か?」
「あ、そうデスそうデス。忘れてた。……ジュリアが、逃げ出したみたいデス」
「……えっ?」
♭ ♭
気が付いたら、古城から抜け出して無心で走っていた。
ザウロネス特有の花や植物に浸蝕されて、樹海と化している森を駆け抜けてゆく。
不気味なほどの分厚い雲が周辺を覆っていて、ポツポツと小雨が降っている。
その影響もあってか、所々地面がぬかるんでいる。途中何度も躓いて転んでしまったりはしたけれど、そんなことなんて全く構いもせずに走り続ける。
部屋着がドロドロな上に、枝に引っ掛かって服が破れてしまったり、切り傷が腕に出来て流血してしまっている。
こういう時、片脚が義足じゃなかったらもっと早く動けたのにと思うともどかしい。
だけど、そんな些細なことはどうでもよかった。いつもなら、どんな状況であれなるべく顔に出さずに冷静に対処するように心掛けているものの、今はそれどころじゃなかった。
必死の形相で、息を荒げつつ、這い蹲るが如く道なき道を進んでいる。
そうなってしまうのも仕方がない。死んだと思っていたボスからメールが届いたのだから。
その内容は、いたってシンプルだった。
【親愛なる星美・ランドルフ・ジュリア准尉殿。もしまだ生きていたら、本日午後二十二時半。下記のランデブーポイントに来られたし。重要な話がある】
アウルドルネに捕まってからというものの、最近まで毎日ボスへメールを送っていた。
返事も無く、本当に届いているのかも分からなかったから諦めていた部分もあったのだけれど、約二週間経った今日のついさっき。まさかこのタイミングでこのメールが届いた。
最早、考える余地は無かった。嘘なのかもしれないとか、何者かの罠かもしれないとか、アウルドルネの策略とかそんなのどうでもいい。
ボスが生きているかもしれないのだ。その可能性が出てきたとなると、居てもたってもいられなかった。
当然ながら、頭の中は混乱していた。勿論嬉しい。嬉しいけど、なぜか心が締め付けられている。むしゃくしゃしていて、頭を掻きむしりたくなる程だ。
全部あいつのせいだ。私という人間を受け入れようとした変り者のあいつのせいだ。どうして私が、こんな訳の分からない気持ちに苛まれるんだ。
「……どうして……どうして……! ボス……!」
色んなモヤモヤを振り切りつつ、がむしゃらに掻き分けること約三十分は経っただろうか。
息も絶え絶えになりつつ、指定されたランデブーポイントに辿り着く。
鬱蒼とした樹海を抜けた先にあったのは、真っ赤な彼岸花が咲き誇る見晴らしのいい丘だった。幻想的というより、少し不気味な光景を目の当たりにして、私は言葉を失う。
違う。失ったのは、別の理由があった。
目の前に、ボスが本当に待ち受けていた。
「……おっ、久しぶりだな。ジュリア。元気そうでなによりだ。良かった良かった」
私の姿を視認すると、ボスがいつもの口調で、優しく微笑んでくる。
いつものスキンヘッドに、いつものサングラスに、いつもの強面が、そこにあった。
「……本物?」
「はははっ。当たり前だろ? 少しの間会ってなかっただけで顔も忘れてしまったのか? 流石にちょっと悲しくなるぞ」
恐る恐る訊ねてみると、少し自嘲気味に微笑みつつ答える。
間違いない。間違える筈はない。……紛れもない、ボスだ。私の知っているボスそのものだ。
その事実が分かり、心の中から疑念が一気に晴れ渡る。ボスが生きていた。それが本当に嬉しくて、自然と笑みが溢れてゆく。
小雨が止んで、どす黒い雲の切れ目から大きな月が覗き込む。月明りに照らされたボスに、私は泣きそうになりながら抱き付いた。ヤニくさい懐かしい香りがした。
「おいおい、止めないか。そんな顔することは無いだろう。折角の綺麗な顔が台無しだ」
「だって……ボス……あの時死んだって思って……」
「あぁ、あの時か。奇跡的に生きてたんだ。我ながら、悪運は強いようだ」
絶対に死んだと思った。あの惨状を目の当たりにして、生きている筈が無いと思って諦めた。
だからこそ、嬉しかった。青天の霹靂とも言える。急すぎて色々追いついていないのだけれど、私の心の中は嬉しいという感情で満ち溢れていた。
「……それはそうとジュリア、そろそろ離れてくれないかな。流石に、苦しい……」
「えっ、あっ、すいません! 失礼しました!」
幸せを噛みしめていると、ボスから苦しそうな言葉が届いた。
自分がずっと強く抱きしめたままだったことに気付いて、急いで離れる。
嬉し過ぎて我を失いそうになった。落ち着こう。手を胸に当てて、呼吸を整える。
「……申し訳ありませんでした。ボス。でも、生きてくれて本当に嬉しいです。嬉しいんですけど、教えてくれませんか。このメールの内容と、私が居なかった間、何があったんですか」
「……それは失礼した。では簡潔に……一か月前、例の突貫作戦時に重傷を負った私は一週間近く軍の施設で寝たきりだった。その後こうやって動けるまで回復したのだけれど、状況の把握に、より効率的な作戦の立案、対象Xに対する情報収集に手を取られてたんだけど、その最中軍の電力供給施設と、電波基地局に被害を受けてしまった。だからこそ、復旧して確認した時はビックリしたさ。准尉が持っていた端末からメールが送られてきていた上に、ランディングポイントど真ん中でGPS反応があったんだから。死んでたと思っていた大切な部下が生きているかもしれない。そりゃあ、すぐに合流しなければいけないと思って、そのメールを送って接触を試みたという訳だ。流れとしてはざっとこんな感じなんだけど、分かってくれたかな」
「今の今まで連絡が返ってこなかったのはそういう理由があったんですね」
「あぁ、基地局を破壊された時は本当に参ったよ。連絡手段が断たれてしまったんだからね」
アウルドルネと、防衛軍との攻防が苛烈を極めているのは充分知っていた。だけど、まさか情報設備が破壊されていたこと自体は全く知らなかった。
「そういえば、今日はボスだけなんですか?」
「ここには僕だけだよ。部下達は後方基地に待機させてある。そもそも、こんな危険区域に大人数で侵入なんて不可能だろう。跋扈しているクリーチャー達に直ぐに勘付かれて全滅してしまうのがオチだ。……まぁ、それとは別に君と個別で話したかったっていうのもあるがね。だから准尉も安心して構わないさ。ここでの会話は、誰にも露呈しない」
ふと疑問に思ったことを訊ねてみると、そんな答えが返ってきた。
周りを注意深く見回してみたけど、確かに気配は無い。古城からの追手も今の所見当たらない。念のために聞いてはみた所、どうやらボスの言っていることは本当らしい。
だからこそ、気になった。ボスは、何を話したいのか。
「そんなに気にせずとも、ボスを疑うつもりはありません。だけど、そこまで念を入れてまで個別で話したかったのは、どんな内容なんですか?」
「なに、単純な話だ。……准尉。軍に戻ってこないか。この一か月で調査と研究が進んで、対象Xを殲滅する算段が大分整った。後は准尉が持っている情報さえ手に入ればすべての準備が整うんだ。君は一か月の間、対象Xの本拠地に駐在していた。准尉のことだ。対象Xに対して、既に情報を得ているのだろう? ……准尉。戻って来い。私には、君が必要だ」
ボスはそう言って近づいて、私の目を見て、手を握ってきた。
いつも怖くて凛々しいボスの顔が、三割増しで凛々しく見える。
私には分かる。この顔は、本当だ。本気で、ボスは私を必要としていた。
正直言って、悩む余地も無かった。元より、私が信頼しているのはボスしか居ない。
だからこそ。嬉しかった。頼りにしてくれるのが嬉しかった。嬉しかった……のだけれど、何故かそれを躊躇している自分がそこに居た。
勿論。喜んで戦線復帰させて頂きます。そう言えばいいだけなのに喉から言葉が出てこない。
その代わりに脳裏に浮かんだのは、例の対象X……アウルドルネと、その従獣であるヴェネティ、そして、死にかけの頬コケやさぐれ男……春原晶だった。
戦線復帰する。それは彼らとの袂を分かつことを意味している。だからこそ、躊躇していた。
ボスのためなら何もかもを排除出来た。冷徹な人間や、心を持たないアンドロイドと言われたって何も思わなかった。
思わなかった筈なのに、思わなかった筈……なのに。いや、違う。だからこそ。
「……ボス。その言葉、誇りに思います。私のような若輩者でよろしければ、ぜひボスのために全力を尽くしたいと思います」
「……その言葉を待っていたぞ。星美准尉。では早速……」
「しかし。お言葉を返すようですが……ボスが望む情報を、私は持ち合せていません」
「……どういうことだね。准尉」
私から出た言葉に、ボスは顔を顰める。
「そのままの意味です。私は確かに、対象Xの本拠地であるこのポイントにて、一か月間駐在していました。……しかし、ここにあったのは、ただ無尽蔵に広がる樹海のみ。本拠地の中心地と目されていた巨大樹の根本にあった古城にも辿り着いたのですが、ただの廃墟でした。周辺をもっと探索したかったのですが、周辺には狂暴なクリーチャーが跋扈していて、身を隠して生きるのがやっとでした。恐らく、本拠地はここではないと思われます。ボスがもし、地球を脅かす対象Xの根城がここだと予想しているのであれば、それは大きな間違いかと。……私が持っているのは、それだけです。お役に立てずに申し訳ありません」
「……成程。ここに対象Xは存在しない。そう言いたいんだな准尉」
「はい。その通りです。なので、ここから直ぐに移動し、調査範囲を広めて調査を進めることを提言します。ここは汚染が進んでおり、滞在すること自体も危険かと」
気付いたら、私は嘘を吐いていた。
私にはボスしか居ない。ボスが戻って来いというのであれば、従うのみ。
だから、嘘を吐いた。嘘を吐くことしか出来なかった。嘘を吐いて、この場所を隠ぺいすることしか、私には出来なかった。
私という存在を認めてくれた彼らに対する恩返しは、これくらいしか出来なかった。
ごめんなさい。さよならさえも言えなかった。私はただのエゴの塊だ。
私は決別を決意して、ボスの手を……。
「……そうか。残念だ。君はもっと優秀な下僕だと思っていたんだが。仕方ない。……君は、もう用済みだ。ここで殺すとしよう」
「……えっ?」
柔和だったボスの表情が、一瞬で険しくなる。いや違う。仕事の顔に戻った。
同時に、右胸に衝撃と痛感が走る。目をやると、小さな穴が開いていて、そこから血が滲みでていた。間髪入れずに、更に乾いた銃声が響いて、私の身体を貫いてゆく。
撃たれた。……ボスに撃たれた。何度も。何度も。
不思議と痛みは少なかった。ボスに撃たれた。その事実に対するショックが強すぎて、茫然としてしまう。身を隠していたのだろうか。私の周りは屈強な武装兵に囲まれていた。
「……ボス……?」
「一応弁解しておくけど、出来ればこういう手荒な真似はしたくないんだ。でも、残念ながら君はもう手遅れみたいだ。既に腐植人間に成り果ててしまったとは……」
ジワジワと痛みが増してゆく中、表情を崩さないまま、淡々と告げる。
何を言っているんだと思った。正しく混乱している。だけど、一つ分かることはある。
……ボスは、私を本気で殺す気だ。
「ボス……私は、人間です……ウイルスに、感染しては……」
「成程。自分が既に腐植人間になってしまったことを気づいていないとは……嘆かわしいぞ。准尉。拐かしたところで君が死ぬという運命は変わらないというのに」
痛みで歯を食いしばって、どうにか話を聞いて貰おうとしたのに、返事の代わりに銃弾がまた私の身体を貫く。身体から真っ赤な液体がドロドロと失ってゆく。
痛い。とにかく痛い。だけど、それ以上にショックが大きい。どうしてと問い質したいのに、それさえも受け付けてくれない。
ボスは、私を一人の人間として見てくれなかった。それが、どんな痛み以上に辛かった。
だけど、だからこそ死にたくなかった。聞かなければ。納得が出来ない。
「……最初から……私を殺すつもりだったんですか……」
「当たり前だろう? 君から生存している可能性があった時点で、君の処分は確定事項だったんだよ。本拠地周辺で一か月居た時点で、どんな状況であれウイルスに感染しているのは間違いない。その証拠にほら。ウイルスで塗れているこの区域で、君は防護マスクも無しで行動出来ていただろう。そんな君を信用出来る訳もないだろ。……だけど、おびき寄せて有無言わさずに殺すのは味気ない。何か重要な情報を持っている可能性もある。だから、情報だけでも頂いて用済みにしてから殺処分が妥当だろうと本部で話し合われたんだ。すぐに殺さない辺り、むしろ感謝して欲しいほどだよ。……あぁ、そうだった。一つ御幣があった」
「……御幣?」
「あぁ、君をあの戦場跡から拾った時点で、最終的には君は殺処分される運命だったんだ。言っただろう? 僕は君を、優秀な下僕としか見ていない。元々野垂死ぬ運命だったのを、延命治療したに過ぎないんだ。……君には失望したよ。もう少しマシな情報を掴んでくれると思っていたんだけどね」
絶句だった。ボスの口から出てきた言葉の一つ一つが信用出来なかった。
……私が生きている理由が、存在証明が、全て否定されてしまった。
その残酷過ぎる事実だけが、私に突き付けられていた。……そうか。私は……私は。
「もういいかな。懺悔の時間はもう十分与えただろう? ……さようなら。君はもう用済みだ」
いつも以上に冷たくて鋭い一言が、突き刺さる。
何かを言おうとしたけれど、痛みは増してきて、頭も痛い上に意識が朦朧としていた。
顔を上げると、幾つもの銃口が私に向いていた。
あぁ、そうか。これが、死ぬということか。そうか……これが……。
全てに裏切られた。信じていたのに、信じていたのに。
……せめて、誰かに愛されたかった。
「うーん。三十点ってところデスかね。なんか物足りないデス。もう少し面白いやり取りが見れるかなって期待してたんデスけどね」
止めの一発の代わりに聞こえてきたのは、聞き覚えのある掠れた独特の声だった。
気が付くと、周りを囲っていた戦闘員達が全員残さず吹き飛ばされて倒れていた。
そして目の前には、私を軟禁していた張本人が守るように立ち塞がっていた。
普段のラフな格好じゃなく、茨で覆われた甲冑型の戦闘服姿だ。
「……どうして……あんたがここに……」
「どうしても何も、助けに来たに決まってるだろ」
「せやでー。てか嬢ちゃん死にかけとるやないかい! 坊主! はよその特効薬飲ませ!」
「うっさいな分かってるっての! ……おい、ジュリア。直ぐにこれ飲め」
「……なによ……それ……」
「いいから! あぁもうじれってぇなぁ! 口開けるぞ!」
「ちょ、ちょっま、ぐふっ!?」
後ろから現れたもう一人ともう一匹が近付いてきて、無理矢理口をこじ開けられて謎の液体を飲まされる。瞬間、喉が焼け爛れるかのような痛みが走ったものの、体内に液体が駆け巡るや否や、つけられた傷が自然に回復する。激しい痛みも引いて、意識もハッキリとしてきた。
「……おい、どういうことだ。どういうことだこれは! 誰だ貴様達は!」
急に現れた得体の知れない存在に、冷静沈着なボスが目を血走って喚いていた。銃をこっちに向けて構えているものの、凄まじい勢いで震えている。
「私デス? アウルドルネ・クドォウグロイド・バルトロメヌスと申しますデス。皆さんご存知対象Xって言った方がいいデスかね。んでもってそこのおっきなトゲトゲのペットはヴェネティで、顔色悪いヒョロガリ人間はアキラ・オブ・ヴァルハラ。三千光年先のジャスネッティ銀河にあるザウロネス星から遥々侵略しに降臨したデス。以後お見知りおきをー」
「おい。俺の紹介が色々と雑過ぎるだろ。ふざけんな。おい。聞けよ」
「……た、対象X……貴様が対象Xかあああああああああああああ!!」
対象Xという名前を聞いた途端、ボスは豹変して銃を何発も連続で発射した。
しかし、そうくることを既に見切っていたらしい。アウルドルネは透明なシールドを私達を包む様に周りに展開させて、銃弾を見事に全部防いでしまう。
「あーあー、見事に頭プッツンなっとるやん。なぁ嬢ちゃん。お前の上司って普段からあんな感じなんかいな」
「普段からあんな錯乱状態な訳ないだろ。あんな上司誰もついて行きたくねぇよ……あ、身体大丈夫か? アウルドルネ特製の特効薬が効いてるとは思うけど」
「え、えぇ……大丈夫だけど……どうしてここが」
「誰にも見られていないと思っていたデス? そこらに自生している造譲花や巡回している造譲獣達が逃げているジュリアを発見して、バレないようにスニーキングしていたんデスよ。感覚共有していたから、徹頭徹尾丸見えでした。珍しく取り乱していたみたいデスから気付いてなかったみたいデスね」
「ははは……最初からバレバレだったのね……」
「えぇ。バレバレだったデスね。もう少し技巧派だと思っていたんデスけど、意外とブキッチョなんデスねジュリアは」
「アウル。それ以上弄るのは止めとけ。ジュリアの顔がみるみるうちに赤くなってるから」
「そのフォローで余計に嬢ちゃんの顔赤くなっとるからな。気にすんな嬢ちゃん。わいは全部わかっとるから」
「やめて……もういいから……」
どうやら最初からバレバレだったらしい。特効薬で撃たれた傷は全快したものの、惨めかつ恥ずかし過ぎて今すぐその場から逃げたくなった。
我ながら馬鹿みたいだった。自業自得過ぎる。
「……どうして、助けてくれるのよ。形はどうであれ、私は全部放り出して逃げたのよ。しかもボスと接触しようと試みていたのに。どうしてこんな裏切者を助けてくれるの」
「……あのなぁ、自分を卑下するのは止めろ。自分で言ってて惨めになるだけだろ。そもそも、誰も裏切者だって思っちゃいねぇよ。大切な人が生きてたって知ったら誰しも会いにいきたくなるだろうさ。多分、俺だってそうなるだろうし。……色々と気にすんな。ただ、放っておけなかっただけの話だ」
「何かっこつけとるんや坊主。坊主が一番心配して慌てふためいとった癖に」
「そうデスそうデス。自分の身体の具合なんてお構いなしにソワソワしまくってたヴァルハラがよく言うデスよ」
「うっせぇ! からかうなっての! 仕方ないだろ! 心配だったんだよ! 文句あっか!」
アウルドルネとヴェネティに総突っ込みをされて、見事にかっこ悪さが露呈してしまったアキラを見て、思わずフフフッと笑みが零れてしまう。
こんな状況だというのに、古城内のリビングのような温かい空間がそこにあった。
……そうか。私は、一人じゃなかったのか。
「……はぁ……はぁ……おい、無視をするな化物共! 俺を無視するな! 無視するなあああああああああああああああああ!!」
和やかな空気を打ち消すかのように、ボスの怒号が耳に届いてハッとする。
振り向くと、銃を投げ捨てて、持ってあったナイフやら転がっていた小石や隠し持っていた手りゅう弾をこっちに向けてがむしゃらに投げつけていた。
他の部下達は倒れたままで、ボス一人で半狂乱状態でこっちに歯向かっている。
形振り叶わず全てをかなぐり捨てて立ち向かうその姿は、悍ましささえも感じた。
「全くるさいやっちゃなぁ……ボス、もう殺してええか? 嬢ちゃんも無事確保出来たんやし」
「うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさい! そもそも何なんだその喋る奇っ怪な生物は! その後ろに居る顔色の悪い男も何なんだ! 手下か! 敵なのか! 敵なんだな! 敵は全部殺す! ジュリアはさっきから何をしているんだ! 道具なら道具らしく言うことを聞かないか! 殺せ! そこに居る全員を殺せ! さもなくば貴様諸々殺す!」
「無茶苦茶じゃねぇかよ……アウル。どうする」
「さぁ? どうするデスかね。……ジュリア。あなたに一任するデスよ。どうするデス? 悪に手を染めるか、反逆の道を踏み込むか。生かすも殺すもあなた次第デス」
半狂乱状態なボスを目の当たりにして、アウルドルネは私の目をみつつ何かを渡してくる。
普段から持ち歩いている自前の銃だった。当の本人は両手を広げて、いつでも撃っていいとばかりにハンズアップしている。
後ろで控えていたヴェネティとアキラも、静観している。……答えは、決まっていた。
「……もういいわ。諦めた。私の大切な人は、もう心の中には居ない。……ボスを殺して」
「……分かりました。従おうじゃないデスか」
そう答えるとアウルドルネはパチンと指を一つ鳴らす。
すると、茂みから多数のクリーチャー達が出てきて、ボスの周りを取り囲む。
「な、なんだ。止めろ。近づくな! 近づくんじゃない! おい! 止めろ! 止めるんだ!」
「……創造主が命じるデス。……やりなさい」
アウルドルネの号令と共に、クリーチャーは一斉にボスに襲いかかった。
がむしゃらに抵抗しようとするものの、あっという間に姿は見えなくなる。
「止めろ! いっ、痛い! 痛い痛い痛い! 止めるんだ! 食うんじゃない! やめろ! やめるんだ! 痛い痛い痛い痛い痛い! おい! ジュリアは何をしているんだ! 助けるんだ! お前は俺の道具だろ! 道具なら道具らしく犠牲にしてでも助けろよ! 俺を助けろよ! 何のために今まで面倒見てきたと思ってるんだ! おい! おい! や、止めろ……そこは……いっ、や、やめぷぎゅだjsdんrふぇいじdじゅs」
悲痛な叫び声や罵倒する声だけが、私の耳に届く。
だけど、私は何も言わなかった。ボス……いや。ボスだった存在の残りかすが消えてしまうまで、唇を噛みしめてジッと耐え続けた。
少しして、アウルドルネの合図とともに、襲い掛かっていたクリーチャー達が一歩下がる。
そこにあったのは、血だまりの中でズタボロになっているボスの変わり果てた姿があった。
右手と左足は引きちぎられていて、肩や腰、首の三分の一も噛みちぎられて欠損している。
夥しい量の血が流れていた。
だけど、まだしぶといながらも生きていた。死にかけてるものの、ゼーゼーと息が切れる音が微かに聞こえていた。
「……ジュリア」
「分かってるわ。……止めを刺せってことでしょ」
分かっていた。アウルドルネならそうするだろうと思った。
愛用していた銃を手に、シールドから外に出て、死に掛けのボスの前に立つ。
「……ジュ……ジュリア……やっと……助けに……遅い……じゃ、な、いか……」
さっきまでの気迫は何処へやら。血を吐きつつ、私の顔を見つめて、いつもの強面だけど優しい表情で話しかけてくる。
だけど、目は両目とも潰されていて、どす黒い血がドロドロとその穴から滲み出ていた。
「……どう、した……けふっ、たす、けてくれよ……お前は私の優秀な……下僕……だろ……」
どんな状況であれ、ボスはボスだった。醜い。ただ醜い。私は、こんな人間を、ずっと尊敬していたのか。だけど、そんなボスに良いように使われていた私自身も情けなかった。
もう未練はない。黙ったまま覚悟を決めて、銃の引き金を引く。
「……そう、か……俺を、殺す、か……残念……だ……が、これで済むと、思う、な……よ」
引き金の音に気が付いたらしい。ボスは震えた手で胸ポケットから何かを取り出した。
……手のひらサイズの、ガラスで覆われたスイッチ装置だった。
それを見て、何故か悪寒がした。一瞬で全身の毛が逆立ったような気がするほどに。
少しして、ハッとする。……まさか。
「……ボス、それは……もしかして」
「……お前、なら……分かるだ、ろ……ケホッ……核ミサイルの、発射スイッチ……だ……死なば、諸共……だ……俺様に背いた、罰、だ……」
それに気付いてすぐさま引き金を引いて脳天を撃ち抜いたけれど、ボスの方が早かった。
最後の力を振り絞ってガラス部分を壊して、スイッチを作動させる。
頭から血を流して絶命したボスを前に、ただ茫然と立ち尽くす。
不思議と、実感はない。人を殺すという行為に慣れてしまっていたとかではないと思う。
ただあっけない。そんな私の心を嘲笑うかのように、周辺ではけたたましい音量でサイレンが鳴り響いていた。
「お、おい、これってどういう……」
「あー、やりおったなあのボケカス。とんでもない爆弾落としおった」
「爆弾? ……おいそれってまさか核爆弾とかか!? いやいやそれはヤバいだろ! どうすんだよおい! 聞いてねぇって!」
「落ち着くんや坊主! お前が騒いでどないするんや。頭に血が昇ってぶっ倒れてまうぞ。ただでさえ調子悪い中ここまで来たんやろ。落ち着くんや」
「いや、落ち着けって言われてもだなけふっ、ケホッ、ケホゲフォ!」
気が動転してたアキラだったのだけれど、急にしゃがみ込んで咳込み出す。広げた手には、血がベットリとこびり付いているのが見えた。
「ほら、言わんこっちゃあらへん……ボス。どないする。敵さん、ついに禁断の果実に手を出しおったらしいで。まぁ、聞いた所で意味もないか」
「そんな下らないことを、聞いてどうするんデス? 向こうが何をしようが、こっちのするべき行動は決まっているデスよ。……少し、離れててください」
指示を仰がれたアウルドルネはそう告げるとおもむろにしゃがみ込み、地面に手をつける。
それに呼応するように周辺の地面が神々しい光で輝き出した。
「創造主たるアウルドルネが命じる。エネルギーの三十%を解放。反強固防壁の範囲を山全体に展開。第二から第十五まで防壁を展開。……超防御結界形成。我らを災悪から守り給え!」
アウルドルネが言葉を紡ぐと同時に周辺の土地が唸りをあげて隆起し、あっという間に山全体にドーム状のオーロラのような防壁が発生した。
発生するや否や、空に一つの点が発生して、ゴゴゴゴとうねりをあげて点が近づいてくる。
それが爆弾だと視認出来た矢先、爆弾の先が防御壁にぶつかった。
一瞬の静寂と共に、この世とは思えない程の閃光と轟音がかき乱れる。
核ミサイルが、落とされた。そんな現実的とは思えない事実が目の前で繰り広げられていた。
全てが収まり、周辺の全容が目の当たりになる。
古城が聳え立つ山の周辺何百キロにわたって、荒れはてた焼野原が広がっていた。
潮風が心地いい穏やかな港町だった筈だ。そんな景観が欠片も無く奪い去られていた。
ボスが落としたミサイル一つで、周辺は地獄絵図と化していた。
絶句してしまう。それは、ヴェネティとアキラも同様だった。
防御壁を展開した張本人でさえ、その様子を静観している。
素直に恐ろしいと思った。ゆくゆくこうなることは、分かっていた筈だ。
だけど、いざ目の当たりにすると、開いた口が塞がらなかった。ただ、恐ろしいのは元凶であるアウルドルネじゃない。
アウルドルネという未確認生命体を滅ぼす為ならば、どんな犠牲も厭わない人間という生物そのものに恐怖を抱いた。
「……どうにか、基地を守ることは出来たみたいデスね。少しずつ溜めていた貴重なエネルギーを消費してしまったのはちょっと痛手でしたけど」
茫然としている私達を尻目に、ポツンとアウルドルネは発言する。
「……これでしばらくは、鬱陶しい攻撃が止んでくれたらええんやけどな」
「止むと思うデス。ただでさえこのような奥の手を引っ張り出したんデスから。そもそもここ周辺がこんな状況なんデスよ。近づくことも出来ないかと。むしろ止んでほしいくらいですケドね。ずっとこうやって相手している場合じゃないデスからね」
「まぁそれもそうかもやけどやな……てか大丈夫なんか坊主。むっちゃ気分悪そうやけど」
「……ごめん。ちょっと疲れただけだ……」
「ヴェネティ。ヴァルハラを連れて先に城へ戻ってください。ただでさえ具合が悪い中、ここまで付いてきたんデスから」
「……了解。んじゃ失礼して……」
具合が悪そうなアキラを、ヴェネティは軽々と持ち上げて、颯爽とその場を後にする。
そして、その場には私とアウルドルネだけが。少しだけ気まずい空気が流れる。
「……ねぇ」
「どうして、ヴァルハラがここまで付いてきたのか。知りたそうな顔してるデスね。どうしてかと思うデス? ……自分の身体の心配を無視する程に、あなたという存在を大切に思っているからデス。むしろ率先してあなたを助けようと動いていましたし。それは、私もヴェネティも同じデスよ。あなたは、私達の大切な同士デスからな。……あなた自身がどう思っているかは別として、デスけどね。あなたは私を恨んでいるでしょうし」
その言葉に、思わず押し黙ってしまう。……ボスは、自分の身を削ってまで私を心配することは無かった。自分自身という人間より、私という人間を優先した。
その事実だけで、私はただただ嬉しいと思った。
「……ジュリア。一応聞きます。これからどうするデス?」
「……決いてどうするの。ここまで来たら、とことん最後まで付き合うわよ。恨み妬みなんてもうとっくに吹っ切れてるし。……それに、大切な同士なんでしょ」
「ふふふっ、聞いたところで、無駄だったデスね」
微笑みつつ、アウルドルネは振り返ることなく城へと戻る。
もう、迷いはなかった。ここまで私の存在を大切に思っているのだ。もうこうなったらとことんついて行こうじゃないか。不思議と、不安はなかった。
私は空っぽだった。だけど、もう空っぽじゃない。大切と思える存在が居るのだから。
※ ※
目を覚ますと、馴染みのあるアトリエの天井が目に入った。
紅茶の香ばしい香りが鼻を擽る。お気に入りのジャズの和やかな音色が静かに流れている。
どうやら、いつの間にか気を失ってしましたらしい。身体全体が気怠く、頭痛も酷ければ耳鳴りも吐き気も盛り沢山だ。何となく察する。無理をしてしまったらしい。
不整脈気味の鼓動を整えてボーっとしつつ、どうして気を失ったのかを思い出す。
……そうだ。ジュリアが逃げ出して、アウルドルネとヴェネ公と一緒に後を追って、見つけたはいいけど裏切られて死にそうになっていたジュリアを助けて……。
「久々に身体を動かしたから体調一気に崩しちゃったのか……」
そりゃぶっ倒れる筈だろう。ただでさえ死にかけだっていうのに。……ん、ちょっと待て。
「ジュ、ジュリアは……!」
「ん、あぁ。起きたのね。どう? 調子は」
ジュリアの安否を確認しなければ。そう思って無理やり起き上がると同時に、後方から声がした。振り向くと、当の本人がソファで寛ぎながら読書タイムを愉しんでいた。
いつものメイド姿ではなく、Tシャツに薄手のパーカー、ショートパンツという珍しくラフな格好をしている。とても様になっていて、思わず少し見惚れてしまった。
「……無事だったんだな」
「えぇ。心優しい地球外生命体さんのお蔭でピンピンしてるわ。……私のことはどうでもいいでしょ。てか人の事心配してる場合じゃないでしょ」
「そっか、無事なら良かった……」
ジュリアは、無事だった。それが分かった途端、全身の力が一気に抜けた感覚に陥った。
糸が切れたかのように倒れてしまう。
「ちょっ、大丈夫!? 薬、薬……」
「あ、あぁ……大丈夫……ちょっとフラッてなっただけだからよ。薬もいらねぇ」
「そう、それならいいけど……ったく、心配させんじゃないわよ」
「ははっ、それはこっちのセリフだろ……」
「それは、その、そうだけど……」
確信を突かれたらしい。何も言い返す、気まずそうにその場を一旦後にする。
少しして、また戻ってくると、何かをこっちに差し出してきた。
マグカップだった。ほんのりと湯気が出ていて、中に何かが注がれている。それが紅茶だということは直ぐに分かった。
「……ハーブティーよ。カモミール。その、少しは落ち着くと思う」
「あ、あぁ。ありがとう……」
渡されたマグカップを受け取って、言われるがまま一口含む。
リンゴに近いマイルドかつ独特な甘みが口一杯に広がって、自然とホッと息が漏れた。
「……美味しいなこれ」
「そう。それなら良かった」
ボソッと呟くと、紅茶が入っているもう一つマグカップを持って、ベッドの隅にチョコンと座ってくる。何故か分からないけれど、何とも言えない妙な緊張感が辺りを覆う。
緊張感というより、どう会話を進めればいいのか互いに出方を伺っているような感じだった。
気を紛らわそうと思い、席を立ってカーテンを開けて窓の外を眺める。同時に、言葉を失う。
眼下に広がっていたのは、どこまでも続いていそうな一面の焼野原だった。
何も無い。当たり前のようにあった光景が、跡形も無くなくなっていた。
日常茶飯事だった鬱陶しいドンパチも、最初から無かったとばかりに静まり返っている。
人の気配が皆無だった。一瞬混乱したけど、直ぐに状況を察した。……あぁ、そうだった。
「……本当に、核ミサイルが落とされたんだな」
「……あまり驚かないのね」
「あぁ、落とした所でアウルは普通に防いじゃうんだろうなって思ってたからな。現に、周りは地獄絵図になってるけど俺達は普通に生きてるし。……その当の本人はどうしてるんだ?」
「ラボに籠ってるわよ。ヴェネティは疲れて昼寝中。こんな有様だから、しばらく攻撃を仕掛けては来ないだろうって言ってた」
「いつも通りだな」
「いつも通りね。何が起ころうと、何も変わらない。神経が図太いというか、先を見据えているというか……」
「先を見据えている……な……」
その言葉に何となく納得してしまう。
確かに、アウルドルネは何も動じなかった。こうなることを予見していたというか、全く意に介していないというか。……あいつのことだ。俺が色々考えているその先を見据えているんだと思う。それは置いといて。
「……お前は大丈夫なのかよ。慕っていた大切な存在に裏切られた上に死んじまったしよ」
「ここに居る時点でもう吹っ切れてるわよ。もし未練たらたらだったら、馬鹿みたいに泣きじゃくりながらとっくに自害してるし」
「……それもそうだったな。すまん」
「あんたが謝ってどうすんのよ……」
余計な質問だった。それもそうだ。こいつもこいつなりに、決断したということだろう。
人事ならが、何故か少しだけ嬉しかった。自然と上がる口角を隠すように、紅茶を口に含む。「……人のこと気にする前に自分の身体の事気にかけなさいよね。……私は、あんたを信用しているんだから」
「えっ、最後なんか言ったか」
「うっさい黙れぶん殴るわよ」
「えぇ……」
無茶苦茶だった。非情過ぎる。思いっきり質問を遮られたと思いきや、無理矢理遮って、残りの紅茶を飲み干して立ちあがる。
「……あんたは、最後まで自分の意思を貫きなさい。ぶれたりしたら、許さないんだから」
こっちを振り向かずに、乱雑に呟きつつ肩を叩いてくる。ジュリアなりの、叱咤激励だろう。
「言われなくとも、そうするつもりだ」
分かっている。どんな状況であれ、俺がするべきことは決まっている。
絵を描くんだ。それしか、出来ないのだから。世界が終ろうが、関係ない。
そしてようやく分かった気がした。アウルが、ジュリアに接触するように脅した理由が。
……あいつ、本当に素直じゃねぇんだから。
頬をぺチンと叩いて、パレットを手に取ってキャンパスに向かう。
俺には時間が無い。だけど、不思議と心は晴れやかだった。