1-22 現実なんて見たくない
人間をカード化して、手に入ったカードを苦い顔で見つめてしまう。
こういうのは、人間を特別視しすぎているとか、神聖視しているとか、そんな驕った感情なのだろうか。
モンスターは召喚していいが、人間はダメ。ゲームみたいな、そんなルールが存在しない。
残酷なまでに公平な世界で、人とモンスターが平等に扱われているだけだというのに。
この女性を助けることは、ある種の禊だ。
俺の情報が漏れるかもしれない、この世界で生き残ると決めた俺を不利にする、追い込むかもしれない選択。
それでも、合理性ではなく感情論で助ける。
これは屁理屈をこねくり回した、理性による感情論。矛盾やら間違いを多分に含む、馬鹿な行動だ。
ただ、そんな馬鹿な行動にでも縋らなきゃ、“人間らしい”心が保てないんだよ。きっと。
草原大狼に女性を括り付け、前回、戦利品だった少女を誘導した場所よりもさらに先まで連れて行く。
空が白み始めるころ、目的の場所に着いた。
木の柵で囲われた人間の領域だ。櫓の上で森を見張る、弓兵の姿が見える。
疲れた体に鞭を撃ち、森の、弓兵に目視されない場所で生き残った女性を解放した。
そして俺だけ先に撤収だ。
5分ほど歩いて離れたところで、狼の遠吠えが聞こえた。
俺は草原大狼の召喚を解除し、推定・人間の村からそのまま離れていく。
これなら、俺の存在がすぐに気が付かれることはないと思う。
狼が吠えたので、誰かがきっと確認に行くだろう。
そして、女性を保護してくれるに違いない。
その後のことは、考えない。
俺は顔も知らない誰かの優しさに期待し、女性を託した。最後まで面倒を見るつもりもなく、無責任に。
勝手に期待し、理想を押し付け、善であることを強要した。
善であるか中庸であるかは知らないが、これで女性を助けたと、勝手に自分の中で完結する。
冷静に考えてしまえば、きっと女性は助からない。
働けない女性を助ける理由は「人道的に考えたら」という、余裕のある人間の思い上がり。
日々の糧を得ることに必死な誰かであれば、助ける余力が無い。助けようとすれば一緒に沈むカルネアデスの板だ。
そういう意味では、一緒に沈む、助けようとすることは善でも何でもない、自己満足だろうな。沈むのが嫌で投げ捨てた俺が言っていい事じゃないけど。
だけど、家族とかそんな誰かがいるのであれば、沈みきることもなく、助かるかもしれないし。
そんな奇跡を夢見るのもいいだろう。
もしも一緒に村の中に入っていけば、現実を見ることになる。
村の中でそれを確かめる勇気もなく、あの場所に置いて行ったのは、現実を突きつけられ、助けられなかったという結末を見たくないから。
自分の弱さが嫌になる。
これで、ゴブリンの集落の顛末は終わりだ。
後の現実など、俺は見ないよ。