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極上の恋物語〜永遠〜

周りに飛び交う声が聴き馴染んだ言葉の街に、浅見は日本へ帰ってきたと心底ホッとしていた。

 飛行機を降り到着ロビーへ向かう浅見を八代が息急き切って追いかけきた。

「あ、浅見さんヤバいです。そっちから出ないでください。別の出口へ行きましょう!」 

「どうした? なんかあったのか?」 

「これ、これ見てください」 

 立ち止まった浅見に八代は握りしめていた一冊の雑誌を差し出した。

「何? 週刊誌?」

 薄いゴシップ雑誌を渡された浅見は付箋がつけてあるページをめくってみた。 

「こ……れ」 

『浅見薫熱愛! お相手はホテル王の令嬢! バリでお忍びデートか!』 

 

 仰々しい活字の下にはバリで文乃が浅見の側に寄り添っている瞬間の写真だった。

「何だこれは!」

 週刊誌を持つ手が震え紙が原型をとどめないくらい浅見は握りしめていた。

「まずいですね、噂自体は映画の宣伝にはなりますけどいきなりなんで会社の対応が間に合いません。コメントも用意してないし」 

 八代の話を聞いてる余裕が浅間にはなかった。頭にあるのは、柚月がこれを見て悲しんでしまうと言う未来だけを心配していた。

「とにかく別の出口に行きます。到着ロビーにはマスコミが群がってるらしいですから」

「わかった」 

 指示に従い後をついて歩きながら浅見は文乃の言い残した言葉に懸念を抱いていた。

(文乃がやった……? まさか?)

「浅見さん、こっちです」

「ああ」

 頭の中で文乃に対し攻撃的な思いが芽生えてきた。同時に柚月の事を思い浮かべ、居ても立っても居られない不安に襲われていた。

(こんなガセネタ信しんじるなよ) 

 浅見は祈りにも似た願いを心の中で何度も繰り返していた。

 

 いつもの改札を出て会社へ向かう柚月の足取りは重かった。

 日下部に迷惑をかけてしまった先週の金曜日。土日でがんばって回復を目指したものの柚月の胸の中に出来た大きな穴をふさぐ事は難しかった。

(今朝の芸能ニュース、追い討ちをかけられたな……) 

「会わないって意味はそう言う事だったんだな」 

 バリでの浅見のスクープ記事が朝のどの番組でも取り上げられ、柚月は再び何も喉を通らない生活に引き戻されていた。

(甘かった、すぐに忘れることなんて無理ってわかってたけど……)

 最後に浅見から届いたメッセージが胸に突き刺さったまま、傷は癒えることなくさらに今朝の報道で悪化していた。

 気づくと柚月は会社のビルにたどり着いていた。頭は別の事を考えていても体が覚えていてこうして運んでくれる。

(あ……会社か。仕事、頑張ろ。がんばって、がんばってたら忘れられる) 

 気をぬくと容赦なく涙腺が緩んでくるのは先週末から嫌と言うほど経験していた。

「よし!」 

 両手で自分の頬をパチンと叩き気合いを入れた。

「お、我が社のアスリートが気合い入れてるな」 

 ビルの前で仁王立ちしている柚月の背中に聞き慣れた声がし慌てて振り返った。

「日下部さん! おはようございます。先週はご迷惑をかけてすいませんでした」 

「おはよう成田。ほっぺた赤くなってるぞ。言ってくれたら俺が一発気合い入れてやんのに」 

 イタズラする子供のような笑顔をした日下部が、後ろで腕をグルグル回して見せた。

「腕なんて回してどんな一発なんですか? もう朝から元気ですね」 

 日下部のいつもの調子を見て柚月はホッと癒された。

「成田が仕事サボってたら本気で気合い入れてやるからな。今日も俺のためにジャンジャン働いてくれよ」 

 口ではいじめっ子のように話す日下部の手は、さりげなく柚月の背中に添えられ肩をポンと優しく叩いた。

「あんま無理すんな。たまには息抜きも必要だからな」 

 そう言って長いコンパスを先に進め自動ドアの中に吸い込まれた。

「日下部さん、ありがとうございます」

 柚月は日下部の背中に向けて呟いた。

 

「八代、外線!」

 浅見のスクープの対策で事務所内では会議中の八代に電話がなった。

「はい、どこからですか?」 

「なんかカメラ助手の星野って人。バリの撮影で一緒だったって言ってる」 

「あ、はい」

(誰だっけ?)

 バリでのスタッフの顔を浮かべてはみるも八代は名前も顔も出てこず、首を傾げながら電話にでた。

「お電話変わりました、八代です」 

「あ、もしもし。バリでご一緒させてもらったカメラ助手の星野です。お忙しいところすいません」 

 声を聞いてもやはり八代は心当たりはなかった。

「突然すいません。実はバリにいた時僕スマホを拾いまして」 

「え⁈」 

 八代は最初ピンとこなかったがすぐに思い出した。

「あ、スマホ! 本当ですか?」 

「はい。向こうで八代さんスマホ探してたでしょう? これがそうかわかりませんが一応お伝えしとこうと思いまして」 

 電話の相手の人物がいまだに思い出せてはないまま、八代は会話を続けた。

「ありがとうございます。一度見せていただきたいのですが、これから取りに行かせていただいてもよろしいでしょうか?」

 浅見のスマホかもしれないと思うと、居ても立っても居られない八代は顎に受話器を挟みながら会話し、片手で身支度をし出した。

「それは構いませんけど、スマホ多分使い物にならないと思いますよ。画面が割れてバキバキ状態です」 

「本当ですか。いや……でもとりあえず伺います。よろしいですか?」 

「こちらは大丈夫ですよ。事務所の場所分かります?」 

「多分大丈夫です。じゃ今から出ますね」 

 受話器を置き、ジャケットに腕を通しながら八代は会社をあとにした。

 

 星野のいる事務所を訪ねた八代は女性スタッフに案内され受付で待機していた。

「どうも、八代さん」 

 無精ひげに何日か髪を洗ってないようなルーズな出で立ちの青年が声をかけてきた。

「星野さん?」 

「はい、お久しぶりですって八代さんとはあんまり接触なかったですもんね。初めましてかな」 

 八代は差し出された右手を握り返し軽く会釈した。

「こちらこそ。お忙しいのにお邪魔してすいません。で、スマホは?」 

「ああ、これですよ。酷いでしょ? 保護シール貼ってますけど見事に割れちゃってます」

 星野はズボンのポケットからバリで拾ったスマホを八代に渡した。

「本当ですね、画面の真ん中に何か強い衝撃受けて四方にまでキズ走ってますね」 

 八代はスマホの割れた画面に触れため息をついた。

(浅見さんのだ)

「ありがとうございます星野さん。これ探していたスマホです」 

「あーそうですか。よかった、いやどうだろ? よかったのかな?」 

 持ち主が見つかったものの、かなりダメージを受けた状態のため、八代は複雑な心境だった。

「星野さん、これどこにありました?」 

 異国の地とは言え、かなり必死で探していた八代としては当然スマホをどこで見つけたか知りたかった。

「これね、バリ最終日に宿泊先のホテルの駐車場にあるゴミ箱で見つけたんですよ」

「ゴミ箱⁈」

 流石に八代はゴミ箱の中までは探さなかった。

「でもどうして?」

「実は、んーと、ほらよく撮影を見に来てたアジアンチックなきれいな女の人いたでしょ? あの人がホテルから出てきて、駐車場のゴミ箱に捨ててたんです、たぶん……」 

「たぶん?」 

「いや、その人ゴミ箱の前にじっと立ってて、様子がおかしかったから僕しばらく見てたんですよ。そしたらバックから何か取り出してゴミ箱に捨ててたんです。その時の捨てる音が重そうな音してて。彼女が去ったあとゴミ箱のぞいて見たらスマホあったから、多分あの人が捨てたのかなぁと」

(九条文乃さんが?) 

「ま、でも持ち主に返せてよかったよ。バリから帰ってきてバタバタだったもんだからスマホの事忘れてしまってて。連絡遅くなって申し訳ないです」 

 八代は頭の中で文乃の姿を思い出しながらゾッとすることを想像し星野の話に意識が向いていなかった。

「八代さん、じゃ僕戻りますね。次は日本での撮影の時に」 

「あ、ありがとうございました!」

 ぼぅとしている八代は星野へ慌ててお礼を投げかけた。

 軽快な足取りで星野は走りながら一度振り返り、軽く手を上げ職場に戻って行った。

 

 星野と別れた後テレビ局のスタジオ撮影があり、八代は浅見と一緒に控え室へ案内され待機していた。

「浅見さん、スマホ見つかったんですが……」

 衣装に着替えていた浅見に八代は言いにくそうに報告した。

「え⁈ あったのか!」 

 諦めていた浅見は声を荒げて言った。

「はい、カメラ助手の星野さんって人が見つけてくれてさっき受け取ってきました」

 浅見に報告しながら八代はスマホを差し出した。

「なんだこれ…」 

 変わり果てたスマホを見て浅見は二の句が継げなかった。

「結構なダメージですよね。電源ボタン押したんですけど付かなくて。充電切れか壊れてるのか…」

 浅見は八代の話を聞きながらカバンから充電器を出してスマホに接続してみた。

「あ、電源入りましたね。よかった」 

 浅見の肩越しに覗き見ていた八代は少し安堵した。

「八代君、ありがとう。壊れてるのは画面だけみたいだ。助かったよ」

「とんでもない、俺は何も」

 恐縮した八代は自然と後ずさりしなが頭を掻いて照れた。

「でもどこにあった?」

「あ、あの実はですね……」 

 八代はさっき星野に聞いた話を浅見に伝えた。

「いや、でもなんであの人が持ってたんですかねーー。まさか画面壊したのもあの人? いやいや考えすぎか」

 浅見の横で自問自答している八代は自分が予想してたことを払拭するように頭を左右にブンブン振っていた。

「……八代君の予想当たってると思うよ」 

 落ち着かない目の動きをしていた八代に浅見が言い切った。

「え⁈ どういう事ですか?」

 不思議そうに自分を見ている八代に浅見は文乃と昔付き合っていた事を話した。

「マジですか! だからあの人あんなに向こうでベッタリだったんだ。まだ浅見さんの事好きなんですね……あっ!」 

 文乃の事を聞いて頭の中でバリでの彼女の行動を辿っていた八代は突然何かに気づいた。

「あのバリでのスクープされた写真! もしかしてあの人の自作自演なんじゃ……」 

 そう言いながら八代はさっきから黙ったままの浅見をチラリと見た。

(浅見さん、めちゃくちゃ怒ってる?)

 八代が一人考えを巡らしている間、今まで見たこともない形相の浅見がメッセージアプリを開いたままスマホを握り締めていた。

「あの浅見さん……?」

 八代は人が怒りで震えているのを初めて目にした。

 恐る恐る声をかけたものの、ただ事とは思えない程の状況だと理解し、八代は口を閉ざした。

 

「どちら様ですか?」 

 玄関の呼び出し音が鳴り、未知はドアスコープから外を確認した。

「俺だよ、柚月」 

 夕食どきも過ぎた頃周りが静まり返っているのを気にし、浅見は小声で呼びかけた。

(あ、浅見薫⁈) 

 ドアの外にいたのは浅見だった。

 未知は迷った挙句、ドアを開けた。

「え⁈ あ、あの……」 

「な、何かご用ですか?」

 緊張しながら未知はなんとか平静を装って対応した。

「あの、成田柚月さんは……」  

 見知らぬ女性が部屋から出て来た為浅見は困惑した。

「……今はいません」 

 未知は浅見薫を目の当たりにし、一気に嫌悪感が芽生えてしまい怒りを露わにした態度で柚月にした仕打ちに反撃しようとした。

「そうですか。いつ戻りますか?」

「そんな事聞いてどうするんですか⁈」

 攻撃的な口調の未知に憶することもなく、浅見は柚月に連絡が取れない事を伝えた。

「どうしても話したい事があるから連絡して欲しいと伝えてくれませんか」 

 腕時計を気にしながら浅見は未知に伝えた。

「もう柚の事はほっといてあげて下さい。芸能人だからって何してもいいってわけないんですから。あの子を振り回さないでください」 

 強めの口調で浅見をにらめつけながら未知はドアを閉めようとした。

「柚月に……」 

 浅見は閉じられそうになったドアに手をかけ、未知を引き止めた。

「柚月に俺は何も変わってないと。嘘や偽りは君に対して今までもこの先も一切ないと伝えてくれないか」 

 真剣な面持ちで未知の肩を通り越し、部屋の奥にいるであろう人物に浅見は話しかけた。

「わかりました、伝えますからもう帰って下さい」

 そう言って未知はドアを早々に閉めた。

「柚、本当にこれでよかったの?」 

 部屋に戻った未知はベッドの上で膝を抱えている柚月に言った。

「……」 

「私初めて浅見薫見て思ったけど、ものすごく真剣な表情で嘘はないって思ったよ。あのスマホやスクープ写真の事も一切言い訳なんかしてなかったし」

 未知の話にピクリと柚月は反応した。

「普通だったら『あれは誤解だーー』とか言ってさ、何でもなかった事にしてしまいそうなのに」 

 柚月は黙ったまま未知の話を聞いていた。

「電話くらいでたげれば?」 

 未知はそっと柚月の背中を撫でながら提案してみた。

「……自信ない」 

「え?」 

「今……私は浅見さんの顔を見たり話す勇気がない。きっと泣きじゃくって冷静になれない……」

「柚……」 

 泣きすぎたせいで下まぶたは真っ赤に擦られ痛々しかった。そんな顔を見ると未知はこれ以上何も言えなかった。

 小さくうずくまっている柚月がこのまま泣き疲れて消えてしまわないように、未知は柚月の背中を撫でる手に祈りを込めた。

 

「松田、今日成田が風邪で休みだけど、赤坂と二人で新規の案件のクライアントとの打ち合わせ大丈夫だったか?」 

 定時を過ぎ、終日取引先に出向いていた日下部が帰社し朝日に報告を求めた。

「バッチリでしたよ。キチンと要望に添えるよう企画書あげますんで」 

 ハキハキと答え過ぎる朝日に少し不安がよぎった日下部は、クギを刺すように朝日の肩をパシッと叩き気合いを込めた。

「張り切り過ぎて周り見えなくなるなよ。成田も明日出社出来るかわからないからな」 

「大丈夫です! 俺がインフルの時先輩には散々迷惑かけたから今度は俺がフォローしますんで!」 

 朝日は腕を曲げて見せ胸を張って言った。

「そうか頼んだぞ。赤坂に迷惑かけんな」 

 今度は優しく朝日の肩を叩き、日下部は席に戻った。

 

 朝日は残業を終えた後、先に仕事が終わっていた未知に連絡し、待ち合わせ場所の街路樹に向かった。

 自動扉が開き、道路に目をやると未知が朝日の方を見て手を振っていた。

 小走りで朝日の元に駆け寄ろうとした未知の前を人影が行く手をふさいだ。

「あ、あなたは!」 

 浅見が未知の目の前に立ち塞がった。

「君、この間柚月の部屋にいた友達だよね。柚月はまだ仕事かな?」

 自分の彼女の前に立ち塞がる男の姿を見て朝日は慌てて飛んでき、ニ人の間に割って入った。

「ちょっとあんた、俺の彼女に何の用だ!」 

「ち、違うの、朝日!」

 今にも浅見の胸ぐらを掴みそうだった朝日を未知は慌てて静止した。

「この人、柚の彼氏……」 

「え?」

 まじまじと男の顔を見て朝日は口をあんぐりと開け、言葉を失った。

「あ! あの、この人あ、浅見か……むぐっ」 

 未知が浅見のフルネームを叫ぶ朝日の口を咄嗟に塞いだ。

「朝日、静かに!」

 口を塞がれたまま、朝日は状況を理解し小刻みにうなづいて見せた。

「浅見さん、こっちに来てください」

 未知は会社ビルの裏にある駐車場の方に来るよう手招きした。朝日もそれに従うように後をついて行った。

「何の用ですか?」

「すまない、柚月に直接会いたくて。電話かけてはいるんだが……」

 目を丸くしながら驚いている朝日をよそに、未知は浅見をにらみつけた。

「柚は今日休んでます、風邪で」

 怒った態度で未知は答えた。

「風邪⁈ひどいのか?」 

 間髪入れずに質問してくる浅見に未知はため息をついた。

「わかりません。直接聞いたらどうです?」

 そう言って自分のスマホを出しどこかへ電話をかけた。

 数秒スマホを耳に当てていた未知は何も話さないまま浅見にそれを差し出した。

「ありがとう」

 少し離れた場所へ移動し、話し始めた。

「未知さん、成田先輩の彼氏ってあの、あ、浅見薫ですか⁈」

 興奮している朝日が未知に聞いてきた。

「う、うんまぁね」 

 返事をするのに戸惑いながらぎこちなく答えた。

 短い電話が終わり未知の元へ浅見がやって来た。

「ありがとう。助かったよ」 

 穏やかに微笑んだ浅見を見て未知は内心ホッとした。

「柚と話しできたんですね」

「ああ。この後仕事の打ち合わせあるから終わった足で柚月のとこに行ってくるよ」

 時間を気にしながら浅見はその場を去ろうとした。

「君みたいな友達が柚月の側にいてくれて感謝してる、ありがとう」 

 そう言い終わると早足で愛車に向かって行った。

「未知さーん、どうなってるんですか? 説明してください」

 相変わらず子犬のようにじゃれてくる朝日の腕を未知はグイッと引き寄せた。

「ほら、行くよ朝日。お腹すいた!」

(俺の彼女……か。フフ)  

 未知はにやけながら、さっき朝日が言ったセリフを思い出しかわいい恋人の横顔を見つめていた。 

 

(熱……ちょっと下がったかな)

 ベッドの中で体温計を見ながらため息をついた。 

 ここ何年かはインフルエンザはもちろん風邪などからも縁遠かった柚月は、久しぶりの熱が体にへばりついて入社以来初めて体調不良で会社を休んだ。

(何か食べて薬飲まないと)

 体全体がだるく、ベッドから起き上がるのも億劫だった。

 

 ピンポーン


 玄関の呼び出し音が鳴って柚月の胸が痛いくらいドキンと響いた。

(浅見さん⁈)

 パーカーを羽織り、ベッドから飛び降りた柚月は急いでドアスコープから外を確認した。

(……え?)

 柚月はロックを外し、ゆっくりドアを開けた。

「こんばんは、体調どうだ?」 

「日下部さん」 

 スーツ姿の日下部が袋を下げてドアの前に立っていた。

 一瞬落胆した柚月の表情を見つけてしまった日下部は、微かな悲しみが心に湧き上がったのを肩で息を吐き、気づいてないふりを装った。

「成田の事だからきっと飯も食ってないんだろうと思ってな。差し入れ持って来た」

 手に持っていたスーパーの袋をかかげて見せた。

「すいません、ご心配かけて……もう大丈夫ですから」 

 まだ熱はあったが日下部に心配させてしまう事を申し訳なく思い、柚月は笑って平気なふりをした。

「何言ってんだ、そんな赤い顔をして」 

 大きな手を柚月の額に当てた、

「ほら、まだ熱いじゃないか。これ食ってさっさと寝ろよ」 

 日下部は袋を柚月の手に握らせた。

「すいません、ありがとうございます」 

 感謝を込めお礼を言った。

 下げた頭を起こした途端、目眩が襲いよろめきそうになった柚月を日下部は反射的に受け止めた。

「危ない!」 

 日下部の胸にバウンドする形で柚月は抱きとめられた。 

「す、すいません」

 初めて抱きしめた柚月の体は熱で弱ってるせいか想像以上に頼りなげだった。

 汗が一雫首から胸元に伝っていき、谷間に消えていく姿を見た。その瞬間、日下部の胸の奥の疼きが溢れ出し制御する心が折れそうだった。

「だ、大丈夫か?」

 日下部は自分の邪な気持ちと戦いながらゆっくりと柚月から離れた。

「はい、すいません。今日休めば明日にはきっと元気になりますから」

 意外と頑固なところがある柚月の性格を把握している日下部は、諦め顔をし優しい手で柚月の頭を撫でた。

「無理すんな。成田に倒れられたらみんな困るんだからな。ゆっくり休め」 

「はい、すいませんでした」

 熱で赤らんだ顔のまま、精一杯の笑顔を日下部に返した。

 その表情が愛おしく、日下部は今すぐ柚月を自分のものにしたい衝動に駆られ、感情を抑えきれなった日下部は力一杯抱き寄せた。

(え……?) 

 熱でもうろうとしている柚月は日下部の胸の中で気を失ってしまった。

(浅見さん、来てくれた…)

 浅見と勘違いし柚月は大好きな人の腕の中にいる錯覚をしながらそのまま眠りについてしまった。

 

 柚月の部屋の鍵をかけ、日下部はドアポストにゆっくり鍵を滑り落とした。

 振り返って階段の方に向かおうとした時、黒ぶちメガネの男性とすれ違った。

(今のはもしかして)

 階段を降りようとした足が空で止まり、柚月の部屋の方に戻ると男性はさっきまで自分がいた部屋の前で立ち止まっていた。

(やっぱり……)

「あの」

 呼びかけると、男性がインターホンを鳴らそうとした指を止め日下部の方を見た。

「浅見薫さんですよね。成田は今寝付いたばかりです。かなりの高熱で食事もまともにとってません」 

 驚いた顔の浅見は、まじまじと日下部のことを見た。

「君は?」 

 日下部の方へつま先を向け、浅見は聞き返した。

「俺は成田の上司で日下部と言います。今日欠勤した彼女の様子を見に来てました」 

 キッパリと言い切り浅見の目を見据えた。

「上司ってのは部下が体調悪いと自宅にまで来るのか」 

 日下部の挑むような目を見て浅見はただの上司ではない事を悟った。

「いえ、成田柚月だからですよ」 

 日下部は自分の意思をはっきりと浅見に宣言した。

「……そう、彼女だからか」

 予感した事が的中し浅見はため息をついた。

「今日はこのまま帰るよ、また出直す」 

 日下部の言葉を理解し、浅見は無理強いしてまで部屋を訪ねる事は断念した。

「浅見さん」

 横を通り過ぎようとした浅見の背中を静かに呼び止めた。

「今後は、芸能人の気まぐれで成田を惑わすのをやめてもらえますか。彼女があなたの言動で一喜一憂している姿が痛々しいんです」 

 日下部の話しを曇りもない真剣な眼差しで浅見は聞いていた。

「そうだな……」

 アパートの廊下から見える夜の街を見下ろしながら浅見は日下部の存在を知った事で、より一層柚月の事を諦めてあげられない自分を自覚した。

「けど悪いが柚月は俺にとって何に取っても変え難い存在なんだ。簡単には引き下がれない」

 日下部の視線に誓うように言い切るその目に、嘘や軽薄な思いがあるとは思えないと、悔しくも日下部は感じてしまった。

「だったら俺も遠慮はしません。今までは成田が幸せそうにしているのを見ているだけでよかった。けどそれはもうやめます。本気で成田を自分のものにしますから」 

 カバンを持つ手のひらにぐっしょりと汗を感じながら、日下部は『浅見薫』に挑んだ。

「……そうか。わかったよ、君の気持ち」

 フッと口元を緩め、あっさりと日下部の挑戦を受け止めた。 

 戸惑う日下部をその場に残し、浅見は階段を降りていった。

 闇に消えていく浅見の足音が遠ざかって行くと、日下部はその場にしゃがみ込んだ。

(はぁーー。半端ないな、芸能人のオーラは)

 ただの一般人な自分を強気に見せるように、必死に自身を奮い立たせ一気に力が抜けた。 

(いや、相手が誰であろうと関係ない。それにもう浅見薫に啖呵を切ってしまったんだ)

「俺はオレだしな」 

 しゃがんでいた体を起こし、ネクタイを緩めながら日下部はアパートを後にしようと歩き出した。

 ふと、柚月の部屋の方を振り返った。

 まるで目の前に愛しい人がいるかのように日下部は優しく微笑んだ。

(人の気も知らないで……)

 言葉に出来ないため息をつき、日下部はコンクリートの階段に靴音を響かせながら駐車場へと戻って行った。

 

「あれ、成田さんじゃないですか? お久しぶりです」

 聞き覚えのある声で名前を呼ばれ、柚月は声の方を振り返った。

「桜田さん、こんなところでお会いするなんて」

 風邪でダウンしてから数日後、ある出版会社の創立記念レセプションパーティーへ、赤坂の代理で出席していた柚月を見つけ声をかけてきたのは、アルタイルエンターテイメントの桜田だった。

「お元気ですか?」

「はい、元気ですよ。桜田さんはお仕事忙しくて大変なんじゃないですか?」

 幸村酒造の依頼以降の久しぶりな再会で、お互いの近況報告を和やかにしていた。

「赤坂さんは今日は出席されてないんですね」

 周りをキョロキョロと確認しながら桜田は尋ねた。

「ええ。本当は今日赤坂が出席する予定だったんですが、奥さんの出産が重なって」

「へぇ、それはおめでたいですね! いや、実はこちらも今日浅見も出席する予定だったんですが急に仕事入ってしまいましてね」

『浅見』と言うワードにドキリと敏感に反応してしまう自分を情けなく思った。

「そ、そうですか。お忙しそうですもんね」

 動揺を上手く隠せたか気にしながら桜田の話に耳を傾けた。

「そうそう、浅見と言えばちょっと前大変だったんですよ」

「どうかしたんですか⁈」

 自然と身を乗り出し柚月は食い入った。

「この間まで撮影でバリに行ってた時にね、浅見自分のスマホなくしちゃって。こっちも用事があって日本から連絡してるのに全然応答ないから慌ててしまいましてね」

「え⁈ スマホなくしたんですか⁈」

 思わず柚月は叫んでしまった。

 その声に意表を突かれながらも桜田は話を進めた。

「そ、そうなんです。もう困っちゃいましたよ。バリについてまだ一週間程しか経ってない頃で。事故とか事件を想像してしまいましたよ」 

「だ、大丈夫だったんですか? 浅見さんは」

 不安な顔を隠しきれない柚月を不思議そうに見ながら桜田は手にしていたビールで喉を潤した。

「まぁ、八代、マネージャーには連絡ついたんで無事は確認できたんですけどね。ああ、その八代が日本に戻って報告してくれたんですが、スマホは見つかったんですよ、日本に帰ってからなんですが」 

「日本に帰ってから?」

 桜田の話を聞きながら柚月は自分が送ったメッセージ、浅見からきたメッセージを頭の中で時系列に並べていた。

「ええ。一緒に同行していたスタッフが見つけてくれたんですが、スマホは画面が割れていた状態で。僕も見たんですがひどかったですよ。あれは故意かもしれないですね」

「故意……?」

(スマホ無くした上に壊れていたなんて……)

 柚月はその時の状況を想像しながら思いを巡らせた。

「いや、わかりませんがちょっと割れ方不自然でしたから。なんか綺麗に割れていたし、何か硬いもので画面を割ったみたい……な」

「そんな……」 

「なんとかデーターは無事だったんで安心しましたけどね。で、戻ったらあのスクープでしょ? 浅見も踏んだり蹴ったりだったんですよ」

 桜田は両腕を組み、肩でため息をついた。

「あのスクープ写真もバリにいた日本人観光客が盗み撮りしたみたいで。それも浅見に確認したら相手は幼少期に離れ離れになった妹さんだったって落ちでしてね」

「妹さん⁈」

「そう。ただ、正式に兄妹としては内密なんですよ。その妹って人が凄いとこのお嬢様で。成田さん知ってますか? 九条グループホテル王の九条京一郎。彼の娘なんですよ。まぁ実の親子じゃなく養子なんですけどね」

(そっか、浅見さんの言ってた妹さんだったんだ……)

 モヤモヤしていた不安要因がわかったものの、浅見からのメッセージが頭から離れてなく、心の霧はまだ晴れてはくれなかった。

 水を含んだ耳のように会話が聞こえづらく、上の空の柚月に桜田は電話がかかってきた事を告げ、その場から離れて行った。

 一人になった柚月は、声をかけられた顔見知りの招待客たちと順に挨拶を交わしていった。

 自然と浅見のことばかり思い浮かべてしまう気持ちを拭いながら、赤坂の代役をまっとうしようと奮闘していた。

 ひと段落ついた柚月は、新しい飲み物を取りにテーブルに向かった。

 オレンジジュースを選び、どこか座れる場所をキョロキョロと探しているその目に、恋い焦がれた愛しい姿が映った。

「やっと会えた」 

 いつもの黒ぶちメガネで変わらない優しい笑顔の浅見が柚月の目の前にいた。

「あさみ……さん」

「柚月が来てるって桜田に聞いたんだ。風邪はもうよくなったんだな」

 まるで柚月の今の心境を表すかのようにグラスの中のオレンジジュースが揺れ、足は勝手に後退りしていた。

「柚月、逃げるな」

 柚月が離れた歩数分、浅見は近寄った。

「浅見さん……」

 聞きたいこと、言いたいことがたくさんありすぎて言葉たちが柚月の喉で我先にと暴れていた。

 いつしか言葉の代わりに涙がポタポタと頬を伝っていた。

「柚月、全部話すから」

 浅見は真っ直ぐに柚月を見て言った。 

 

 タクシーの中を沈黙で過ごした二人は、浅見の仮住まいしているいつものホテルの部屋に到着した。

 変わらないミッドタウンのイルミネーションが柚月を優しく迎え入れた。

「何か飲むか」

 心が落ち着かない背中に浅見は寄り添うように話しかけた。

「いえ、大丈夫です」

 窓ガラスに映る浅見に柚月は返事を返した。

「じゃ水ここに置いとくよ。喉乾いたら飲んで」 

 部屋の冷蔵庫からペットボトルを出し、浅見はテーブルの上にため息と一緒に置いた。

「柚月」 

 名前を呼ばれ柚月の胸はドキリと痛みが走った。

「おいで」

 戸惑う瞳に構わず浅見は自分が座るソファの隣を指定した。

 浅見の甘く耳障りのいい声に誘われ、ゆっくりと横に身を置いた。

「あのメッセージを書いたのは俺じゃないからな」

 前かがみの姿勢で体重を両膝に預け、浅見は柚月へと視線を向けた。

 メッセージを受け取った時の不安になった気持ちを想像し、浅見は柚月をいたわった。

「ごめんな、柚月。あんなメッセージ……」

 見えない気持ちへ穏やかに語りかけ、浅見は愛おしいさを込め頭を撫でた。

「柚月にメッセージを返信する前にスマホ無くしてしまってね……あのメッセージを柚月に送ったのもスマホがなくなったのも理由はわかってるから」

「え⁈」

 床の大理石しか視界に入れてなかった柚月は、浅見の言葉に反応し顔を上げた。

「週刊誌見たんだろ?」

 柚月は黙ってうなづいた。

「……俺はあの子と昔付き合ってたんだ」

 予想もしない言葉を浅見が口にし、柚月はとどめを刺された気がした。

「い、妹さんじゃないんですか」 

 訳が分からなく頭では、聞きたくないと思いながらも浅見の言葉を待った。

「桜田から聞いたんだな」

「はい」 

 浅見は目を閉じ肩で息を吐いた。決心した事を揺るがないように目を開け柚月をもう一度見た。

(話したらもう二度……と会えなくなるかもしれないな……)

 愛おしさが募り、柚月の頬に触れた。

 その手は懺悔するかのように、柚月の肌をなぞった。

「これから話すことは柚月に軽蔑されるかもしれない。だから顔も見たくなくなったら構わず帰ってくれていいからな」 

 しおれそうな言葉を聞き、沈まないよう柚月はまぶたを一瞬閉じた。

「デビューして名前が世間に知られるようになった時、番組のスポンサーの偉いさんが俺のライブを見に来たんだ、娘を連れて」

 浅見は緊張で冷たくなっていた柚月の手に手を重ね、口元に引き寄せ温めた。

「……その娘さんが俺のファンで、何かにつけ会いに来て。そのうちなんとなく付き合うようになった。だけど彼女の父親に反対され別れたんだ」

 握りしめている手の力が強くなり、柚月の小さな手が苦しげに締め付けられていた。

「スポンサーの娘だし、会社から言われたから別れた。それだけの事だったんだ。けれど彼女は諦めず、家を飛び出し俺のとこに来てしまった。父親は当然俺を責め、真実を俺に突きつけて来た」

「真実?」

「ああ……彼女は小さい頃離れ離れになった俺の妹なんだと聞かされた」

(え⁈)

 想像もしてなかった答えが、セリフのように心悲うらがなしく聞こえてきた。

「あいつの父親が素性を調べたんだろう。妹と知らずに手を出した俺は罪悪感からアメリカへ逃げた。そしてほとぼりが冷めた頃日本に戻り、俳優の道に進んだんだ」

 愛おしい人の過去に胸が塞がり、柚月の心は憂いた。

「その時の俺はもう歌を歌う気になれなかった。俺なんかが何かを歌い伝える資格なんてないと思ったから」

 二人の姿が漆黒の世界に吸い込まれそうに、テレビのモニターに映った。

「バリに行って撮影が始まった頃彼女と再会したんだ。偶然ではなく、俺がバリにいるとわかってやって来たんだ」

 棘がある浅見の言葉を柚月は黙って聞いていた。

「あいつは俺とよりを戻したいと言ってきたんだ」 

「え!」

「でも、兄妹なんじゃ⁈」

「本当は……」

「本当は兄妹じゃなかったんだ」

 柚月は目を見開いた。

「あいつはそれを伝えにバリに来たんだ。信じられなかった。だけど、事実だった。俺の母親はあいつの母親が亡くなった後俺の妹として引き取って育ててたんだ。二人は親友だったんだ」

 自身にも語りかけるように、浅見は話した。文乃との関係をはっきりさせる為に。

「軽蔑したろ? 俺に対して嫌悪感あるだろ? 結果他人だったとはいえ妹と関係を持ってしまったんだ。最低だよ、だけど俺は君を手放すことが出来ない」

 浅見は握りしめていた柚月の手を名残惜しそうにそっと離した。

「浅見さん……」

 赤くなった柚月の手に、お守り代わりになるはずの小さな結晶を探す指先再び彷徨った。

「柚月、俺は今まで人に執着したことがない。文乃と付き合っていた時もどこか冷めていて、親友と呼べる奴もたった一人だけだ」

 涙にむす浅見の顔を、柚月はすぐにでも抱きしめたくなっていた。

「……だけど柚月に出会って、こんなにも……心の底から必要だと、側にいて欲しいと思った人は君が初めてなんだ」

 柚月は以前に聞いた浅見の子供の頃の話を思い出していた。

 いつも余裕があって大人な浅見が弱音を吐き、自分を求めてくれている事を知り胸の奥が切なく疼いた。

「浅見さんは私が側にいていいの……?」

 自信を失い、浅見からの安心できる言葉を望んだ。

「柚月……君といると心が穏やかで安らぐんだ。本当に、おかしくなりそうなくらい君が好きだ」

(浅見さん……)

「私も好きです、浅見さんの事が大好きです」

 柚月は両腕で浅見を包むようそっと抱きしめた。

「柚月」

 何度も抱きしめた愛おしいその体を、浅見は力強く抱きしめ返した。

 頼れる腕の中、息苦しいことに喜びを感じていた柚月は我慢できず細いうめき声を発してしまった。

「ごめん、つい……」

 浅見の手が力を緩め離れようとしたが、柚月はそれを引き止めた。

「大丈夫、苦しかったけど浅見さんを近くで感じられたから」

 そう言って柚月は浅見の胸に飛び込んだ。

「……嬉しい、大好きです」

 浅見の気持ちが嬉しく痛いほど胸を締め付けられ、呼吸が止まりそうだった。

「今夜はこのまま俺の側にいてくれるか?」

 下腹部の奥が切なく疼き、柚月は浅見の広い背中をもう一度抱きしめた。

「私も一緒にいたいです。でも明日朝一番に会議の準備があって……」

 苦渋の決断だと浅見に知って欲しくて、柚月は浅見の首に吐息と共に自分の頬をすり寄せた。

 浅見の骨ばった大きな掌は柚月の後頭部をとらえ、一つの体にならない二つの体を精一杯抱きしめた。

「わかったよ……送るよ」

 諦めに似た口調で浅見は呟いた。

 今まで生きてきてこれ程わがままな自分が存在するのかと浅見は改めて知った。

 浅見のそんな心が伝わり柚月は寂しげなその頬に柔らかな唇をそっと寄せた。


(ここの三十階ってあのマネージャーさんが言ってたわよね)

 華奢なヒールで文乃がたたずんでいるのはディヴァインホテルの駐車場だった。

 エレベーターの場所を見つけ、ヒールの音を響かせようとした時、文乃は思わず柱の影に身を潜めた。

(薫?)

 エレベーターの扉が開き降りてきたのは浅見だった。

(誰、あれ!)

 お互いの手を絡ませながら一台の車を目指して歩いているのは浅見と柚月だった。

 二人が車に乗り込む姿を影から見つめる目は人間の機能を最大限に使い開眼していた。

 無意識に握りしめた掌には爪の痕あとがにじんでいた。

(あの子がスマホに映っていた手の女……?)

 確信したと同時に燻っていた怒りの炎が再燃し握りしめた拳を柱にぶつけていた。

(許さない……) 

 スマホを取り出し文乃は柚月の姿を無音で連写した。

 その姿、顔を脳裏に刻みつけ、文乃は二人を乗せた車が走り去って行くまで見つめていた。

 

「本当に助かりました。あんな素晴らしい屋外リゾートでの撮影許可を時間がないスケジュールにも関わらず押さえていただいて」

 アルタイルエンターテイメントの応接室で、桜田は目の前のタイトスカートから覗かせている魅惑的な足に視線を奪われていた。

「プロモーション撮影で押さえていたキャンプ場がまさかの火事で閉鎖されてしまうとは。いやでも、かえってよかったですよ。九条さんにお声かけ頂いて本当に助かりました」

 エアコンが効いているはずの部屋で、桜田は額の汗を拭いながら愛想笑いをしていた。

「こちらこそ、去年オープンしたばかりのキャンプ場ですのでいい宣伝になります。それに薫の新曲は私も待ち望んでいましたし。お話聞いた時は是非協力させて頂こうと思いました」

 足を組み替えながら文乃は口角をあげた。

「浅見がまた歌いはじめてくれたおかげで仕事の幅も広がりましたし、今回のPVではアイデアから構成まで初めて自身で取り組んでいて、以前の浅見とは人が変わったように前向きなんですよ」 

 意気揚々と桜田は文乃に語ってみせた。

「そうですか、でも長い間歌から離れていたのに何か再開するきっかけとかあったんですか?」 

 出されたコーヒーを飲みながら文乃は聞いた。

「ええ、ありましたよ! 九条さんご存知ですかね、浅見が出ている幸村酒造のCM。あれがきっかけです」

「CMですか? すいません、海外を行ったり来たりしておりますから存じあげなくて」

「そうですか、そうですよね。日本以外にも名を轟かせている九条グループですからゆっくりテレビなんて見る間ないですよね」

 苦笑いしながら桜田はハンカチで首の汗を拭いた。

「で、何故それがきっかけになったんですか?」 

「それが幸村酒造さんが依頼した広告会社の担当の女の子の案でしてね。どうしても浅見にCMで歌わせたいと言われまして」 

「広告会社……」

 肩から出た細い両腕を胸元で組み文乃はさっきまでのビジネススマイルから一変し真剣な表情をした。

「僕は浅見は絶対に歌わないからと諦めてもらおうとしたんですが、直接本人に依頼したいと言われて。浅見も最初は断ってたんですけど、ある日急に歌うと言いだして。いや、びっくりしましたよ」

「それは、その広告会社の担当者に説得されてってこと?」

 文乃は身を乗り出し質問した。

「ええ、そうですね。浅見に後日聞いてみたら『彼女のために歌ってみる』とだけ言ってました」

「彼女……」

 文乃の表情が一瞬陰りを見せた。

「どんなマジックを使ったのかわかりませんが、うちとしては万々歳ですよ。本当に成田様々って感じです」

「成田?」

「あ、はいその担当者の名前が成田さんで。確か成田柚月……だったかな」

「成田柚月……」

 桜田に聞こえるかどうかわからないほどのトーンで文乃は呟いた。

「桜田さん、その広告会社の名前教えてもらえます? そんな優秀なスタッフがいる会社、我が社でもまた何かあればお願いしたいし」

 文乃は組んでいた足をほどき、桜田に身を近づけた。

「もちろん、いいですよ。彼女の名刺ありますから」 

 文乃の顔を至近距離で見ることで動揺しながら、桜田は名刺をテーブルに置いた。

 スマホを取り出し、文乃は名刺を取り込んだ。

「桜田さん、今日はお邪魔しました。来週からの撮影頑張ってください」

 ソファからスクッと立ち上がり文乃は帰り支度をした。

「九条さん、不躾な質問ですがもしよかったら教えて頂けますか?」

「何をです?」

 扉を開けようとした手を止め文乃は振り返った。

「浅見とのことです。あなた達は兄妹なんですよね……」 

 桜田が今日文乃と会ったのは撮影場所を提供してもらったお礼と、この質問をする為だった。

「……どうして?」

「今後のマスコミ対策のためです。兄妹というのは内密なんですよね?」

「ええ」

「今回スクープされてしまってあなたの方にもマスコミ来たんじゃないですか? どう対応したんですか?」

 桜田の真剣な目を見て文乃はクスッと笑った。

「九条さん?」 

 怪訝な顔をした桜田に文乃は赤い爪が怪しく光る人差し指を桜田の胸に当てた。

「桜田さん、九条家はあんな記事何でもないんですよ」 

 文乃は人差し指に力を込め、軽く桜田を押した。

「は、はぁ…」

 文乃の威圧に恐縮してしまった桜田は、それ以上何も言えず口を閉ざしてしまった。

「それに、兄妹じゃない方がいいもの……」

 文乃は扉を開けながら小さく呟いた。 

「え、何か?」

「いいえ、何でも。ではまた」

 そう言って不敵な笑顔を残し、文乃は扉を閉めた。


「指輪を眺めてニヤニヤして、イヤラシイな柚月さんは」

 自席でマウスを持つ手を止め、左手の小指を撫でては笑みをこぼしている柚月に未知が声をかけた。

「み、未知! 脅かさないでよ」

 顔を真っ赤にしながら柚月は慌てて左手を隠した。

「いや、隠したって今更だし」 

 冷やかすように未知に突かれ、柚月の顔は益々紅葉していった。

「もう。自分の席に戻りなよ」

 口を尖らせ未知の背中をグイッと押した。

「いや、もう定時過ぎたし。誰かさんが夢見心地になってる間に」

「えっ⁈ あ、ホントだ!」 

 腕時計を見て柚月は焦った。

(ヤバい、日下部さんに怒られる)

 叱責を恐れ日下部の方をチラリと見た。

(うわ、こっち見てた!)

 日下部と目が合った柚月の心拍数が一気に上昇した。

「柚、日下部さんジッと見てたよ、だから声かけたんだから」 

 腰に手を当て自慢げにのけ反ってみせた。

「ありがと」 

 囁くように言って二人はクスッと笑いあった。

「ね、今日帰りご飯行けるでしょ?」

「うん、もちろん! 今日は残業ないし」

 トーンを落としながら会話している二人の様子を日下部はジッと見ていたかと思うと、ため息をつきパソコンに目を向けた。

(あれ、日下部さん怒らない? いつもなら絶対一言あるのに) 

 普段と様子が違う日下部の事を気にしながら、柚月はパソコンの電源をおとした。

 

 柚月は未知と肩を並べて会社を出た。

 自動ドアが開き、たわいも無い会話をしながらお目当の店に向かおうとした時、誰かが柚月を呼ぶ声がした。

 振り返ると見知らぬ女性が柚月を見てにっこり笑いかけてきた。

(うわぁ、綺麗な人……でも誰?) 

 長い黒髪が夏の風になびき、異国を想像させる香りが柚月の鼻をくすぐった。

「成田柚月さん?」

 暑いはずなのに涼味を漂わせているその女性は柚月の名前を口にした。

「は、はい。あの、どちら様でしょうか?」 

 恐る恐る柚月は女性に聞いてみた。

(どうしよう、どっかのクライアントさんだったら)

 柚月は過去に仕事をした、あらゆる人物の顔を頭の引き出しから引っ張り出していった。

「初めまして、私九条文乃と言います」

(は、初めましてか。焦った)

 ホッとし胸をなでおろしたのも束の間、その女性の名前に柚月は聞き覚えがあり、あの週刊誌の写真が脳裏に蘇ってきた。

「く、九条文乃さん?」 

「その顔だと私の存在を薫から聞いてるのね」

 優しく微笑んでいた顔が一変し、射抜くように柚月を睨みつけてきた。

 柚月は蛇に睨まれた小動物のようにその場を動けずにいた。

「私がここにきた意味わかる?」

 ずいっと文乃は滲みより柚月はつい後ずさりをしてしまった。

「柚、誰なのこの人」

 異様な雰囲気の文乃を見て未知は自然と柚月の腕にしがみついていた。

「こ、この方は……」

 口ごもる柚月を尻目に、文乃はゆっくり口を開いた。

「浅見薫の婚約者よ」

「えっ⁈」

 未知が驚き、周りの行き交う人の視線が集まるくらいの声を漏らした。

「そう言うことだから、もう薫の周りをウロチョロしないでね」

 文乃の表情は柚月を何も言えなくさせる冷酷な目つきだった。 

「あ、あの」 

 自分の中にある勇気を総動員して柚月は文乃を真っ直ぐ見た。

「ごめんなさい、私は浅見さんの事を信じるって決めてますから」

 うわずる声で柚月はきっぱりと言い切った。

 そんな柚月の心根をへし折るかのように文乃は笑みを浮かべた。

「薫は私を切り離す事は出来ない。私を選ぶしかないのよ」

「どう言う事ですか?」

 胸に不安が広がり文乃に問いただす声も震えていた。

「いずれ耳にすると思うから先に教えたげる。薫は私の父親の跡継ぎになるからよ。私と一緒になると言うこと。わかった?」

(跡継ぎ? 一緒になる? どう言うこと)

 考えても住む世界が違い、柚月には想像もできなかった。

「柚、どうなってるの? この人の言ってること本当なの?」

 腕を掴む手越しに柚月の動揺は未知に伝わってきた。

「わかんない、わかんないけど私は浅見さんを信じることしか出来ないから」

 柚月は自分に言い聞かせるように言った。

 追い討ちをかけるよう文乃は攻撃を緩めなかった。

「薫は私の言うことに従うしかないの。逆らえない運命だから」 

「だ、だからって人の気持ちを自由にしていいはずはないよ!」

 耐えかねた未知は文乃に突っかかった。

「自由にできるの、私には」 

 文乃に迫力負けし、次の一手が出ず柚月は唇を噛み締めていた。

「薫は私に逆らえない、それを身をもって知ることになるから」 

「ひ、卑怯よ!」 

 理不尽な文乃が許せず未知は食って掛かった。

「未知」

 今にも文乃に飛びつきそうな未知の腕を反射的に柚月は掴んだ。

「九条さん……」

 柚月は未知の腕を掴んだまま文乃に問いかけた。

「何?」

「あなたのいる世界は私と違っていてどうしてそんな事をするかわからない。だけど人を好きになるって事は、自分の自由でどうにかできるもんじゃないと思います」

「だから?」 

 退屈そうに文乃は柚月の話を聞いていた。

「もし、そんな事で動くような想いならそれは……それは私の望んでいる愛じゃなかったと諦めます」 

「へぇーー」

「でも浅見さんはたくさんの想いを私にくれました。彼が信じて欲しいと言ってくれたから私は最後までずっと浅見さんを信じて想い続けます」

 純粋な思いが手に取るようにわかり、文乃の胸の中にどす黒い憎しみが増大した。

「あなたと私たちは住むところが違う、よくわかってるじゃない。だけどそれをもっとわからせてあげるから」

 勝者とも思える言葉を吐き、文乃は柚月たちの前から去って行った。

 文乃の背中が見えなくなると柚月はその場にへたり込んでしまった。

「柚、大丈夫⁈」

 抱えるように未知は柚月の腕を掴んだ。

「だ、大丈夫。力が抜けただけ」 

 スカートの埃を払いながら未知の肩を借りて立ち上がった。

「しっかしなんなのあの人。迫力半端ないし。あれがセレブパワーってやつ?」

 文乃が消えた方向を見ながら未知はため息をついた。

「そうだね。私まだ心臓バクバクしてる」 

「でも大丈夫? あの人なんか仕掛けてくるんじゃない?」

 柚月も未知と同じ事を考えていた。

「私に出来ることは浅見さんを思い続け信じる事、ただそれだけだよ」

「柚……」

「恐いけど、私浅見さんと出会えてよかったって思ってる。こんなに苦しくて恋焦がれる人にもうこの先出会えることなんてないと思うし……」

 未知に心から笑って見せた。

「うん」

 それに答えるように未知も笑い、柚月の肩をそっと撫でた。

「未知もそうでしょう? 松田君のこと」 

「ま、まぁね。あいつには私しか無理だと思うし」 

 いつもの明るい表情で未知は照れた。

「柚月もだよ。浅見薫には柚月しか無理だって。だから大丈夫だよ」 

「うん」 

「それよりお腹すいた! ご飯行こう!」

 未知は自身のお腹を撫で大袈裟に空腹をアピールする仕草をして見せた。

「そうだね、行こ」

 不安を消し去るように二人は顔を見合わせて笑いあった。


(なんだか外が騒がしいな)

 テレビ局の控え室でリハーサルを終えた浅見は扉の外から騒ついた気配に気づき、ドアを開けようとした、と同時に目の前でその扉が開いた。

「わっ、薫!」

 蓮がノックもせずに部屋に飛び込んできた。

「びっくりしたーー。いきなりなんだよ、お前!」

「お、お前結婚すんの⁈」

 大友が息急き切って浅見の肩を掴んできた。

「はぁ? お前何言ってんの?」

「こっちのセリフだよ、俺の情報網舐めんなよ」

 額に薄っすら汗した蓮は椅子に荒々しく座った。

「まぁ、水飲めよ」

 浅見はテーブルの上に置いていたペットボトルを差し出した。

「例の九条グループの娘だろ、相手は」

 ペットボトルの水を一気に半分ほど飲み干した蓮は口をぬぐいながら浅見を問い詰めた。

「九条……」

 浅見の顔が見る見る曇っていった。

「お前ら兄妹だったんだろ? どうなってんだ?」 

 真剣な目で蓮は静かに聞いた。

 こんな表情の親友を見たのは過去に一度だけだった。

「いや、誤報だよ。お前の情報元に言っとけよ」

「誤報⁈ 本当だろうな?」

「ああ、絶対にありえない!」

 きっぱりと浅見は言い切った。

「わかったよ。嘘なんだな。じゃあお前事務所に言っとけよ。近々またすっぱ抜かれるぞ」

 すっかりペットボトルの水を飲み干した蓮は浅見に煙草をねだった。

「悪い、やめたんだ」

「やめた⁈ 薫……お前なんかあっただろ」

 相変わらずの鋭さを見せつける蓮に浅見は兄妹ではなっかた事を話した。

「マジか……。血ぃ繋がってなかったのか。それで向こうはまた寄りを戻したいと言ってきたのか」

「ああ。だけど俺はまったくそんな気はない。文乃には悪いがもう一人の女性としては見れない」

 あと少ししたらADが呼びにくる時間だと気づき、浅見は着替えながら会話を続けた。

「にしても薫、なんか変わったよな。女でもできた?」

 冗談めかしに蓮は冷やかしてきた。

「ああ」 

 あまりにも浅見がサラッと答えたのに蓮は拍子抜けし、ポカンとしていた。

「えー⁈ え、マジ?」

「マジってなんだよ」

「いや、冗談で言ったのにな……マジか?」

 蓮はブツブツ呟いていた。

「何ごちゃごちゃ言ってんだよ」 

 浅見は蓮の肩を軽く叩いた。

「いやぁ……薫がかぁって思ってね。で、どんな子? 業界の子?」 

 蓮の顔は驚いた表情から一変して冷やかし度MAXの顔に豹変していた。

「お前、好奇心満載だな。まぁ、いずれ蓮には紹介しようと思ってるから」

「お!そうなのか? へへ」 

 鼻の下を指で擦りながら蓮はまんざらでもない顔をした。

「気持ち悪いなーー」

 浅見は大袈裟に蓮から離れる素振りをしてみせた。

「で、どんな子?」 

「一般の女性だよ」

 観念して浅見は答えた。

「へー、いくつ? かわいい系? キレイ系?」

 蓮の質問責めに、はぁ〜っと大きなため息をつきながらも浅見は柚月の顔を思い浮かべながらふと、空をみた。

「何思い出してニヤついてるんだ! 薫のが気持ち悪い」

「悪かったな。彼女かわいいんだから仕方ない」

「……」

「な、なんだよ。なんか言えよ」

 開いた口がふさがらず再び蓮はポカンとしていた。

「いやぁ、お前やっぱ変わったわ。前までの薫はクールで澄ました顔が売りだったのに。なんだその表情は? ふにゃふにゃだぞ? 煙草までやめて」 

 ふっと顔をほころばせ、緩んだ顔を蓮に向けた。

「大袈裟だな、何にも変わってないよ。煙草は俺が吸ってると彼女が気を使って席外したりするからな。離れてると寂しいし。変わったとしたら歌再開したことくらいか」 

「寂しい⁈ お前が⁈ いやぁ、変わったわ。でも歌な、きっかけになったのその彼女のせいだろ。そうだろ?」

 鬼の首でも取ったかのように蓮は鼻を膨らませて自慢した。

「……そうだよ、彼女のくれたきっかけだよ」

「あ!」

 突然何かを閃いた蓮は鼓膜が破れるかと思うくらいの大声で叫んだ。

「うるさ、何だよ蓮」 

 耳に指を差し込みながら浅見は蓮の尻に軽く蹴りを入れた。

「あれだ。あれだろ? あのお前の部屋で見たDVDだ! あのDVDくれた子だろ? 顔わかんないけど。たぶん、いやきっとそうだ! だろ?」

(こいつ本当に勘がいい……)

 浅見は改めて心の中で呟いた。

「正解」 

「やっぱり! 俺ってすげぇ」

「お前、職変えたら?」

 感心しながら浅見は息巻いている蓮を横目で見た。

「でもな……」

 急に声を低くして蓮が神妙な顔つきになった。

「でも尚更、九条には気をつけろよ。多分ヤラセのネタを記事に載せる気かもな」 

 すっかり衣装に着替えた浅見は、水を一口飲み渇いた喉を潤した。

「だろうな。この前のは観光客が持ち込んだネタらしいけど多分それをヒントにしたんだろう。マスコミの力使って、その上父親の権力までも出してくるはずだ」 

「お前、今の彼女の事が大事ならちゃんと九条を跳ね除けろよ。情にほだされるなよな」

 浅見の性格を把握している蓮ならではのセリフだった。

「ああ、分かってる。一度泣かしてるしな。もう絶対に悲しませたくない。それに……」

「それに?」

「いや、何でもない」

(あいつもいるしな)

 日下部の挑む目を思い出し、浅見はポツリと呟いた。

「まぁ、気をつけろよ。少なくとも俺の周りでは浅見薫の結婚話が出回ってるからな」

 

 コンコン

 

 ドアをノックしながらADが浅見の出番を告げに来た。

「失礼します、浅見さん出番です」

「はい、すぐ行きます」

「薫」

 最後に衣装のチェックをし控え室を出ようとした浅見の肩をポンと叩き、蓮が耳元で忠告した。

「昔みたいに一人で解決する前に頼れよ」

 そう言って蓮はニッと笑った。

「ああ、わかってる」

 浅見はそう返し、蓮を残したままスタジオに向かった。

「一人で抱え込むな……」 

 蓮は祈るように浅見の背中に語りかけた。

 

『俳優、浅見薫熱愛! 相手はホテル王、九条グループ令嬢!』

 似たような見出しの記事でスポーツ新聞や週刊誌は賑わっていた。

 出勤前、柚月がいつも見ている朝の番組でもたっぷり時間をかけて浅見薫の事が報道されていた。

「気にしない、気にしない!」

 柚月は自分にそう言い聞かし、食パンに勢いよくかぶりついた。

(浅見さんを信じるって決めたんだから)

 テレビに映し出された二人の写真は寄り添い、仲睦まじい姿だった。

 背けては画面を見るの繰り返しをしながら柚月は無理やり朝食を平らげ、洗面所へ向かった。

「あれは、嘘」

 呪文を唱えるように鏡の自分に言った。

 歯を磨き、身支度を整えて柚月はいつものように自宅を出発した。

「行ってきます!」

 空になった部屋に向かって柚月は大きな声をかけドアを閉めた。

 

 浅見と文乃の事が騒がれ始めてから一週間ほどたった頃、いつものように未知と昼食を済ませ自席に戻ると机の上に柚月宛の郵便物が何通か届いていた。

 仕事に取り掛かる前に一つ一つ開封していった。

 最後の封筒を手にした柚月はペーパーナイフを持つ手が止まった。

(これ……)

 真っ白で綺麗な四角い封筒。薄っすらシルバーの百合の花の字模様が入った明らかにビジネスとはかけ離れた装いの手紙だった。

 封筒を裏返し、送り主の名前を見て柚月は指から封筒を溢れ落とした。

『浅見 薫・九条 文乃』

 二人の連名を見て柚月は震える手で封を切った。

『浅見薫・九条文乃新社長就任披露パーティー招待状』

 目に飛び込んできたのは信じられない文字だった。

 文乃が会社に来てから不安の中、浅見を信じて過ごしてきた。

 仕事が忙しくお互いすれ違いの中、何回か連絡は取り合ってはいたものの、浅見に会いたくて会いたくて仕方なかった柚月にこの招待状は留めを刺すものになった。

(社長って……本当? 九条さんの会社に行くってこと?)

 一気に襲ってくる不安と寂しさの中なんとか気丈に振る舞い柚月は仕事に取り掛かるため椅子に座り直した。

(し、仕事しなくっちゃ。こんな事信じない! 信じちゃはダメだ)

 柚月のデスクから少し奥に日下部の席はあった。

 日下部は柚月の異変に気付き、ジッと見守っていた。

 仕草から何かあったんだと悟っていた。

 午後からの仕事をなんとか乗り切った柚月は定時になると早々に帰り支度を始めた。もう心が限界まできていて、早く一人になりたかった。

「成田! ちょっと」

 日下部がキツめの声で柚月を呼んだ。

 ドキリとし、柚月は日下部の席に小走りで向かった。

「はい、何でしょうか」

 日下部はファイリングされた書類をパサリと机の上に置いた。 

「これ、さっきまとめて貰った資料誤字脱字だらけだ。それにここ」

 何ページかめくり日下部はグラフを指差しながら、

「お前このデータ去年のだぞ? 何やってんだ。今からやり直してくれ」

 突き放すように日下部は言い伝え、クルリと椅子をパソコンの方へ向きを変えた。

「今からですか……?」

 即返事をし取り掛かることをモットーとしている柚月がネガティブな言葉をこぼした。

「そう、今から。出来たら持ってきて」

 パソコンの画面を見ながら日下部は黙々と仕事を再開した。

「……はい、わかりました。申し訳ございません」

(日下部さん、めちゃ怒ってる、早く修正しなきゃ)

 ペコリと頭を下げ柚月は足早に自席へ戻った。

 

 定時で帰りたかった柚月は結局二時間ばかり残業する羽目になり、他の社員は既に帰ってしまっていた。

「日下部さん、出来ました」

「ああ、ご苦労さん」

 日下部は柚月から書類を受け取るとチラリと中身を見ただけで机の上に放置した。

「中身見ないんですか?」

「ん? ああ」

 キーボードを操作しながら柚月の方を見ず日下部は仕事をしていた。

(急ぎじゃなかったの……?)

 拍子抜けした柚月は肩を落とし帰り支度をしに戻りかけた。

「成田、飲みに行くか!」

 さっきまでの突き放した口調とは別人のように優しく日下部は微笑みかけて言った。

「え? 飲みにですか?」

 既に日下部は手にカバンを持ち柚月の支度を待っている状態だった。

「ほら、早くしろ。成田お気に入りのバーに行くぞ! あそこのマスターが作るオムライス絶品なんだ」

 正直、柚月は食欲はあまりなかったが飲みたい気分ではあった。

 もう事務所の部屋のドアを開け待機している日下部に条件反射に着いて行きバーへ向かった。

 

「おいしい、何これ!」

 以前、日下部と一緒に行ったバーに着き出されたオムライスに心奪われていた。

「日下部さん、これめちゃくちゃおいしいです!」

「だろ?」

「はい! ペロって平らげれます!」

 オムライスを頬張りながら柚月は自然と笑みをこぼした。

「やっと笑ったな。今日の午後からのお前は死んでたも同然の顔してたもんな。だから喝を入れてやった」

 笑いながら日下部もオムライスを口にした。

(日下部さん、だからさっきわざとキツく言ったんだ。私、拗ねたりなんかして……)

「ありがとうございます。日下部さんの飴とムチのおかげで元気になりました」

 日下部は横目でニッと笑いながら柚月の頭をくしゃくしゃっと撫でた。

「ならオムライス全部食えよ」

「はい、こんなおいしいもの残しません!」

 二人は顔を見合わせながらクスッと笑顔を交わした。

 

 オムライスのお皿を空にし、柚月は日下部お勧めのカクテルに見惚れていた。

「キレイですねーー、この赤い色。真っ赤でもないしピンクって言うわけでもないし。飲むの勿体ないですね」

「フローズンストロベリーマンハッタンって言うんだ。成田好きそうだろ?」

 カクテルグラスをかざした後、柚月はグラスに口をつけた。

「よくわかりますね、日下部さんさすがです。これ、冷たくてめちゃくちゃおいしいです」

「前に来た時は成田酔っ払ってシャンパンばかり飲んでたし」

 柚月の隣でジンフィズを飲みながら日下部がニヤニヤしていた。

「あの時はすいませんでした。私あんまり覚えてなくて……」

「けっこう酔ってたよな。あんな成田は初めて見たな。今日も何かあったんだろ?」

「えっ⁈ い、いえ別に……」

 強がって言ったものの柚月の顔は正直だった。

「スッキリしたら?」

 いつもの安心できる日下部の顔が柚月にとっては何よりの薬だった。

 柚月は唇をキュッと噛み締めた。

 そんな不安定な彼女を日下部はに杯目のジンフィズを飲みながら待つことにした。

「日下部さん、今日……一通の手紙が届いたんです」

 まるで独り言のように小さな声で柚月は話し出した。

「それは招待状でした。私がお付き合いしてる人とある女性からの社長就任披露パーティーが開かれるそうです」

(浅見薫からか)

 日下部は黙ったまま柚月の話を聞いていた。

「それで、その……その人って言うのは……」

 浅見のことや、文乃のことをどう話していいか分からず柚月は言葉を濁した。

「成田、知っているから無理して言葉にしなくてもいい」

「えっ⁈ 知ってるって、それって……?」

 日下部は柚月の目を真っ直ぐ見て熱で倒れていた日のことを話した。もちろん全てを告白した訳ではなかった。

「浅見薫がお前の部屋を訪ねるなんて、付き合ってない限りあり得ないだろ?」

 柚月はあの日、浅見が自分を訪ねに来てくれたことを知り心で喜びを感じた。

「日下部さん知ってたんですね、浅見さんとのこと」

「ああ。黙ってて悪かったな」

「そんな。とんでもないです! むしろ……」

「ん?」

「いえ、誰かに知ってもらえてることがあの人と私の関係が現実のものなんだなって実感できます。それくらい私には夢のような日々だったんで」

 半分泣きそうな表情で柚月は笑って見せた。

「成田、無理するな。聞いて欲しいことがあるならいつでも頼れよ」 

 日下部は柚月の頭を軽く撫でた。

 その時、柚月のカバンから着信音が鳴っているのに気づいた日下部が指先で知らせた。

「すいません、出ていいですか?」

「もちろん」

 日下部に了承をもらい柚月は電話に出た。

(誰だろ)

 画面には登録されていない番号が表示されていた。

「も、もしもし?」

『成田さん? 私九条文乃です。こんばんは』

 電話の相手は文乃だった。

「く、九条さん! ど、どうして?」

(くじょう?)

 横で聞いていた日下部が文乃の名前に反応した。

『突然ごめんなさい。桜田さんに番号聞いたの。招待状無事に届いたか確認したくて』 

「届いてます……」

 柚月の顔はみるみる青ざめていった。

『そう、よかった。ぜひ成田さんにも出席していただきたくて。日曜ならお仕事もお休みでしょ? 是非いらしてね。私達のパーティー』

「九条さんが就任されるんですよね? その社長は。でもどうして浅見さんの名前が……?」

 柚月は恐る恐る尋ねた。

『新会社の社長に私がとりあえず就任して。その後は追い追い薫が引き継ぐのよ。当日は芸能関係者や、私たち企業関係者のトップクラスの方、政治家やもちろんマスコミも出席するの。そこで薫が将来父の仕事を手伝う事も発表するから。それに、彼には来ないといけない理由が他にもあるしね』

 柚月は黙ったままだった。何か反論したくてもその材料が柚月にはなかった。

『おめでとうって言ってくれないの?』

 柚月は口をつぐんだまま、無言の抵抗をするしか術はなかった。

『まあいいわ。ちゃんと出席してね。それじゃあ』

 電話は一方的な会話で切れ、柚月はスマホをカバンへ沈めた。もう着信音を聞くことにさえ怯えていた。

「大丈夫か、成田。電話誰だったんだ?」

 柚月の交わす電話のやり取りを聞いてるだけじゃ内容が掴めなかった。ただ彼女にとって良くない話だと言うことだけは理解出来た。

「……浅見さんが以前付き合っていた女性からでした。日曜の社長就任披露パーティの件で、ちゃんと来るようにと……」 

「なんだそれ!」

 怒りは込み上げてくるものの日下部自身、柚月の為に何かできることが思いつかず、ただ励まし側にいることしか出来ず歯がゆかった。

 日曜行けば悲しい結果になる事は目に見えていた。

「泣きたい時は泣いた方がいい。俺が側にいるから」 

 その言葉が今の柚月には心強くありがたかった。

「ありがとうございます、日下部さん……」

 日下部に目をやると柚月の知ってるいつもの上司の顔とは違い、誘い込むような色気のある一人の男性が目の前にいた。

「く、日下部さん。酔ってます?」

 柚月はなんだか恥ずかしくなりその場を取り繕うかのように言った。

 会社で見る上司としての姿しか知らない、いや気づいてなかった柚月は、初めて見る男性の日下部を前に心拍数が不規則なリズムを刻んでいた。

「これくらいの量で酔うわけないよ。それに成田が酔っ払いに豹変しないように見張っとかないといけないしな」 

「き、今日は大丈夫です! ちゃんとセーブしますから」

 いつもの日下部とどこか違っていて、動揺を隠すように柚月は口を尖らせ、そっぽを向いた。

「なんだ拗ねたのか? お子様だな、成田は」

 そう言いながら日下部は柚月の尖った唇を指で挟み、更に突き出させた。

「いひゃいです、くしゃかべしゃん」

 日下部にイタズラされ変顔になった柚月はされるがままだった。

「プッ!成田、お前やっぱ可愛いな」

 日下部は笑いながら不意に柚月の頭をくしゃくしゃっと撫でた。

「ひど、日下部さん髪ぐしゃぐしゃになっちゃったじゃないですか!」

「悪い悪い」

 謝りながら日下部の大きな手は柚月の髪を整えていた。

 こんな甘いやり取りを日下部としている自分を客観的に見知った柚月は、くすぐったくなり頬を赤らめた。

「……そんな顔するな。帰したくなくなるだろ」

「え?」

 背の高い華奢な椅子と椅子との一定の距離を体を寄せることで縮め、日下部は柚月の耳に顔を近づけて言った。

「く、日下部さんどうしたんですか?今日なんだか変ですよ」

(み、耳が熱い……。それに心臓のドキドキがうるさい……)

「変か? そうか確かに変かもな」

 ボソッと言い放つと、日下部は柚月の肩をポンと叩き、

「帰るか、送るよ」

 どこか寂しげな日下部の目が柚月の心に突き刺さり目が離せなくなった。

 支払いを済ませた日下部は、店のドアを腕で支え下から柚月をくぐらせ外へと誘った。

 そのままその腕は自然と柚月の肩に着地し抱くように側に引き寄せた。

「日下部さん?」

 柚月が不思議そうに日下部を見上げた。

 無言で柚月の肩を抱いたまま日下部はタクシーが拾える大通りまで歩いた。

「大丈夫ですか?」

 日下部が酔っているのかと体を心配し、柚月は腰に手を回した。

「……大丈夫だ。ほらタクシー来たから、成田先に乗って」

 言われるがまま柚月はタクシーに乗り込み、肩が触れ合う距離に日下部も座った。

 黙ったままの日下部はずっと窓の外に目をやり、柚月もまた声を発する機会を持てないまま、沈黙の空間でタクシーは柚月のアパートに到着した。

「すいません、ここで一人降りますから」

 運転手に告げ開かれたドアに手をかけた。

 日下部が外に出ると、後から柚月も地面に足を下ろした。

 アルコールのせいでおぼつかない柚月の足を心配し日下部は手を差し伸べた。

 自然とその手を取り、日下部に身を委ねた。

 心地よい夜風が柚月の体全体を包んだ。

 そんな柚月のことが、たまらなくなり日下部は握った手に力を込め、そのまま柚月を自分の胸へと引き寄せた。 

「日下部さん?」 

 酔っていると思い柚月はたくましい体を支えようとした。

「日下部さん、大丈夫ですか?」

 体調を悪くしたのかと心配した柚月は慌てて日下部の顔を見上げた。

「日下部さ……」

 名前を呼ぼうとした柚月の唇は、もう一つの唇で遮られた。

 カクテルの香りがほんのり香る吐息と、優しくまとう柔らかい閉塞感。

 わずか数秒の沈黙で息が詰まりそうになり、柚月の身体は力を入れる事が出来なくなっていた。

 やっと呼吸することを取り戻した柚月のこめかみにその柔らかい唇は移動し、ため息に近い声で名前を囁かれた。

「成田、お前が好きだ……」

 日下部は柚月への愛おしさが胸元を突き上げてくるのを押さえきれず、独りでに口をついてでていた。

「くさかべ……さん」

 困惑する表情の柚月を引寄せた。

 無言で日下部を問いただす柚月を抱きしめながら、溢れ出した気持ちを告白した。

「もう一度言う、成田が好きだ。ずっと前から」

(⁈)

 日下部の胸の中で戸惑う柚月の額に自分の額を寄せ、

「言わないつもりでいたんけどな。俺もまだまだガキだな。もう部屋へ入れ。おやすみ……」

 そう言って柚月を解放し、待たせてあるタクシーへ戻った。

 日下部がシートに体を沈めドアが閉まり、走り出そうとしたタクシーに柚月は走り寄り、窓をノックした。

 気を利かした運転手がそっとアクセルを緩め、タイヤが回転をやめた。

「成田?」

 窓を下げ、柚月の言葉を待った。

「日下部さん、謝らないでください」

「悪かったな困らせて」

 優しく微笑む日下部に、柚月は黙ったまま首を横に何度も振った。

 クリッとした目にはまぶたを閉じると溢れ出す雫が待ち構えていた。

「日下部さん、私ちゃんと考えますから。だから……」

「わかってる。ごめんな」 

 日下部は謝りながら柚月の頭をくしゃりと撫で、極上の笑みをみせた。

「じゃ、また会社でな。おやすみ」

 返す言葉を見つけることが出来なかった柚月は、耐えきれずこぼれ落ちる涙で頬を濡らし滲むテールランプを見つめていた。

 

(バチが当たるのはきっとこう言うことを言うんだろうか……)

 車の窓を半分まで開け煙草の煙を逃した。

 車内の灰皿は浅見の心情を表すかのように折れ曲がった吸い殻で溢れていた。

 仕事が早く終わり、柚月のアパートへサプライズしに尋ねてみたものの、部屋の明かりは灯ってなく浅見は駐車場で来年行うライブの演出を思案しながら柚月の帰りを待っていた。

 遠くからヘッドライトの明かりが浅見の車に差し込み、アイパッドを操作する手が止まった。

(タクシーか)

 柚月が乗って帰ったのかと思い浅見は目を凝らしてタクシーの中の人影を見つめた。

 男性らしい人影が先に降り、続いて女性が降りた。

 二人のシルエットは重なり、浅見の位置からも口づけを交わしているのが眼に入った。

(はぁ……)

 煙草をくわえたまま、サンルーフ越しに見える夜空を見上げた。

 空には一欠片の星も見えず、墨で塗りつぶしたような闇が四角く切り取られていた。

(柚月はもっと苦しかったんだろうな……)

 文乃が柚月にしたことを思い出し浅見は当たりどころのない怒りを抱えていた。

(あいつも本気になったってことか)

 柚月が部屋に入るのを見届けた日下部は運転手に合図しタクシーは発進した。

 日下部が乗るタクシーを横目で見送った浅見はついさっき目の前で繰り広げられていた光景が頭から離れなかった。

 少し距離があったせいか、窓を開けていても会話までは聞き取る事は無理だった。柚月は去ろうとした日下部を引き止めてまで何を話していたのか、自分で自分を追い込む想像しか浅見は出来ないほど参っていた。

(柚月があいつを選んだら、俺は耐えれるんだろうか……。また以前のように人を好きになることが怖くて逃げ出すような人間になってしまうのか)

「柚月……」

 柚月を失ってしまう事を考えると不安で押しつぶされそうになった。

 浅見は幼い頃、母親が突然自分の前からいなくなった恐怖や悲しみを思い出した。

(これほどまで柚月のことを愛おしく思ってる自分がいたとはな)

(決着をつけよう。文乃やあいつ、他の誰の手からも柚月を守るために)

 煙草を灰皿に押し込んだ浅見はアクセルを力強く踏み、アパートから静かに去って行った。助手席に置かれたスマホが震えているのに気付かず……。

 

 アパートの部屋に戻った柚月は着替えることもせずリビングに座り込んでいた。

 日下部の気持ちを知り、今までの行動を振り返り自分を責めていた。

(優しく頼り甲斐のある日下部さんに私は今までどれほど助けてもらっていたか…そんな私を日下部さんはどんな思いで接してくれてたの?) 

 日下部の笑顔や励ましてくれた言葉、優しい手を思い出し柚月の目からはとめどなく涙が溢れた。

「日下部さん…ごめんなさい。私何にもわかってなくて」 

 口にした言葉が他人の声のように柚月の頭へ責めるように響いた。

 優しく触れた日下部との口づけを思い出し、柚月は自分の唇を指でそっと撫でた。

「浅見さん……」

 浅見の顔が浮かび柚月は初めて浅見と出会った日の事を思い出した。

 ずっとファンで大好きな浅見に会えた衝撃や、浅見と交わした言葉、初めて名前を呼んでくれたことが次々と蘇ってきた。

 浅見にとって自分が特別な存在になれることが奇跡としか思えない。何度も自分なんかでいいのかとずっと自問自答していた。

(もう十分なのかもしれない……浅見さんの側で、わずかな間でも過ごせたんだから)

「一生分の幸せをもらったようなものかも。もう十分……」

 口に出してしまうと一度は止まった涙が思い出したかのように溢れてきた。

 柚月は浅見の声が無性に聞きたくなり電話しようかスマホを手に迷っていた……が、その手を自身の左手で阻め、スマホをカバンへ戻した。

 ふと例の白い招待状がはみ出しているのが見えた。

 柚月は封筒を取り出し、二人の連名を指でなぞった。

 印刷された文字が雫で滲んだ。

(日曜なんて来なければいいのに)

 

 翌日の金曜日、油断すると文乃の言葉で頭の中を支配されてしまい兼ねない柚月は、朝からテキパキと仕事を片付けていた。

 そんな姿を心配気に日下部はいつもと変わらない表情で努めて平常心を保っていた。

「柚、仕事終わった? 帰れそう?」

「うん今終わった」

 未知は柚月の背中を撫でながら、

「そっか、じゃ早く帰んなきゃだね」

 文乃に招待されている事を報告していた柚月のことを心配し未知が声をかけてきた。

「ありがとう」

「やっぱり行くの?無視しとけばいいんじゃない?」

 心の底から心配してくれている事がひしひしと伝わってきた。

「うん……行かないと何も分からないままだからね」

 これ以上自分の事で心配かけたくなく、柚月は強がって見せた。

「いつでも何時でもいいから何かあったら連絡しておいでよ」

 優しく撫でててくれていた手に力を込めて未知はパチンと気合いを入れた。

「いったぁ〜」

 未知は親指を立ててウィンクしながら自席に戻った。 

(ありがと……)

 柚月は未知の優しさに感謝しながら部屋のドアを開け、廊下へと進んだ。

 自販機がある休憩室にさしかかると、日下部がコーヒーを片手に出てきた。

「あっ……」

「今帰りか」

 日下部はいつもと変わらない表情で優しく声をかけてきた。

「はい」

「そうか……気をつけて帰れよ」

「はい……あの日下部さん、私」

「成田」 

「は、はい」

 日下部は優しく笑いかけ、

「もし成田にとって望まない結果になったら、余計なこと考えずに俺に連絡してこい。わかったな」

「でも……」

「でももヘッタクレもない。遠慮せず頼れって言っただろ?」

 そう言って日下部はまた柚月の頭をくしゃりと撫でた。

「く、日下部さんまた髪がーー」

 拗ねた口調で髪を整えながらも今の柚月にはこのスキンシップがありがたかった。

 会釈をしてその場を後にした柚月の心許ない背中に、日下部はずっと言いたかった言葉を祈るように呟いた。

「柚月、俺を選べよ……」

 

 大企業らしい大きな看板が沢山の胡蝶蘭の鉢に囲まれて会場入り口に待ち構えていた。

 会場装花やお祝いのスタンド花が立ち並ぶ受付を前に柚月は気後れしていた。

(すごい、来賓の方の名前なんてテレビで見たことある人ばっかり)

 次々と柚月を追い越し正装した招待客が会場に吸い込まれていく中、一人右往左往していた。

(私こんな格好で来てよかったのかな……)

 ネイビーの膝丈ワンピースに母親から譲り受けた小さな一粒パールのネックレス姿は地味で、煌びやかなドレスの海に埋もれてしまいそうだった。

(やっぱ地味だよね……)

 スカートを摘んでため息をついた。

(あんなドレス持ってないしな……)

「こちらへどうぞ」

 受付の女性が柚月に気づき声をかけてきた。

 戸惑いが伝わる歩調で柚月は受付に立ち、カバンから招待状を出して見せた。

「え? これは……」

 柚月から受け取った封筒を見て女性は横にいた別の女性と何やら小さな声で慌てた様子でいた。

「あ、あのこの招待状ですがどなたからか教えて頂けますか? 裏には九条文乃さんと浅見薫って書いてますが?」

 さっきまで笑顔で対応してくれた女性の眉間にシワができ、けげんな顔で柚月を見た。

「え⁈ 誰からって……あの」

 受付に置かれていた他の招待状と封筒の形や色も違っており、女性が戸惑っていた。

「私よ」

「あ、文乃さん!」

 全身真っ赤なワンショルダーのロングワンピース姿で文乃が会場入り口に立っていた。

「九条さん……」

「私からの特別な招待状をこの方に送ったの」

 長い髪をタイトにまとめた姿は自信と気品に溢れていて、柚月はその迫力に圧倒されていた。

「さぁ、どうぞ入って」

 文乃に案内され会場の中に足を運んだ。

 普通に生きてきたら到底出会わないであろう別世界の人の波に、飲み込まれそうになりながら柚月は文乃の後をついて入った。

「でもよかったわ、成田さん来てくれて。ドタキャンされるんじゃないかって私心配してたのよ」

 ドレスに合わせた真っ赤な唇で、にっこり笑いかけたその目はゾッとするほど冷ややかだった。

 背筋が凍る感覚を覚え、柚月は胸騒ぎを感じ何も返事をすることができなくなった。

「もうすぐ始まるから適当にしてて。耐えれなくても最後までいてね」

 そう言って文乃は招待客に紛れていった。

(恐い。帰りたい。このままだと苦しいだけだ……)

 立食パーティー形式でも広い会場内、椅子やソファーは至る所にあり、柚月は身を隠す場所を探した。

 バルコニーの側に置いてあった椅子を見つけ、柚月は人目から隠れるようにそっと座った。

 しばらくすると会場内の照明が薄暗くなり、壇上にスポットライトが照らされ司会の男性がマイクを片手にパーティーの始まりを告げた。

「では、本日の主役に登場していただきましょう。九条文乃さん、どうぞ!」

 割れるような拍手を浴びながら文乃はさっそうと壇上に上がって深々とお辞儀をした。

「本日はお忙しい中お集まりいただき誠にありがとうございます。今日は九条グループに新しく設立致しました、ブライダルイベントに特化した新事業、『パーイナマレ』の誕生を皆さまと一緒に祝っていただきたくお集まりいただき大変感謝いたしております」

「ブライダル……」 

 柚月は『ブライダル』と言う言葉に不安を抱いた。

「『パーイナマレ』と言う言葉はハワイ語で結婚披露宴と言う意味です。昨今、披露宴の簡素化が目立つこの業界に新しい風を送り込みたくこの度の誕生に至りました。披露宴は家族や友人達、職場の方にも結婚する二人の事を知ってもらい、またその方達に恩返しをする場でもあると考えます」

 自信に満ち溢れた文乃を柚月は目の当たりにし、今日ここに来たことを後悔していた。

(きれい、九条さん。堂々としていて。それに比べて私は……)

 文乃が新事業の代表取締役として挨拶をした後、壇上には九条グループのトップである文乃の父親、九条京一郎も登場し会場内は異様な盛り上がりを見せていた。

(私なんでここにいるのかな……もう帰ろう)

 虚しくなった柚月は居場所がないことを実感し席を外そうと立ち上がった。

「皆さま、ここでスペシャルゲストの紹介です」

 司会の男性が盛り上がりを意識した声量で叫んだためマイクにハウリングが起こり、招待客が騒ついた。

「申し訳ございません、ちょっとテンションが上がってしまいました。では登場していただきましょう、浅見薫さんです!」

 騒めきたった雲集の中、壇上に浅見の姿があった。

(浅見さん⁈)

 柚月の位置からも浅見がはっきり見えた。

 出口へ向こうとしていた足が止まり、柚月は金縛りのように固まってしまった。

「今日浅見薫さんに来ていただいたのには理由があります」 

 文乃は自然に浅見の横に立ち、満面の笑みを浮かべた。

「わたくし、九条文乃と浅見薫はこの度婚約することになりました」 

(婚約⁈)

 柚月の胸騒ぎの元はこの文乃の言葉を予期していたものだった。

 文乃が意気揚々と話している間、浅見は無言のままだった。

(浅見さん……なんで何も言わないの?)

 浅見と腕を組み、会場内にいる大勢の人から賛辞の拍手を浴び文乃はさっきより一層輝いて見えた。

「これはとんだサプライズですね!会長でお父上の九条さんはご存知だったのでしょうか?」 

 文乃と兄妹だと言い、交際を反対した九条からすれば複雑なサプライズではあった。

「いや」

「反対する理由ありませんよね?」

 父親にさえ平気で圧力をかけて話す事ができる文乃はきっぱりと言いきった。

 九条の顔つきが、温和な表情から周りにピリリと緊張感をもたらす顔に変化しそれは浅見に向けられた。

 父親も知らされてなかった文乃の爆弾発言に会場内のあちらこちらで様々な会話が飛び交っていた。

 カメラのシャッターを切る音や質問の嵐に周りは一層騒ついてきた。

 柚月は壇上の二人から目をそらし、重い足取りで出口へと向かった。

(帰ろう)

 柚月は涙が溢れ出そうになるのを抑えることに全神経を集中させた。

「今回の新事業である『パーイナマレ』の第一号となるカップルがこの浅見薫とわたくし九条文乃で近いうちに皆様方にご披露させていただきたいと思います」 

 文乃は壇上から出口へ向かう柚月の後ろ姿を見届けながら真っ赤な唇の口角を勝ち誇ったように上げた。

 二人の方へ振り返った柚月は文乃の横で何も語ることのない浅見と目があった。

(浅見さん……なんで?) 

 浅見は柚月の存在に気付いたが、その目は柚月を移すことを拒否した。

 二人のやり取りを文乃は横目で見ながら浅見の腕をグイッと引き寄せた。

(これが答えなの? 浅見さん)

 我慢していた雫たちが溢れ落ち、柚月の頬を伝っては落涙した。

 これ以上この場にいても無意味だと自覚し、柚月は扉を開け外へと姿を消した。

 

「もういいだろう。宣伝には十分だ」

 パーティーが終わり、ホテルの一室で九条親子と一緒にいた浅見は投げやりな言葉を向け、ジャケットを椅子に投げつけた。

「何言ってるの薫、まさかこの話ひっくり返す気じゃないでしょうね?」

 怒りが込み上げてくる文乃を抑えるかのように浅見は間髪入れずに続けた。

「こんなふざけた余興、これっきりにしてくれ。会長も困惑してるだろう」

 浅見は九条に目を向けた。

「……それより薬を飲む時間だ。車に置いてきた薬をとってきてくれないか、文乃」 

 浅見の態度に不満のある文乃は渋々九条の言いつけを守るため、部屋を後にした。

「しかし薫君、なぜあの子の言いなりになってるんだ? 文乃が君に何か仕掛けてるんだろ。じゃなきゃこんな事許すはずがない」

 九条はソファーに座り少し疲れた様子だった。

「さすが会長ですね。よくわかってらっしゃる。しかし今回ばかりはちょっと手強いです」

「君のことは昔から知っているからな。何があったんだ?」

 文乃のとる行動は全てお見通しの九条だったが、浅見がそれに従っているのが腑に落ちなかった。

「文乃は指示に従わなければ俺の所属事務所を買収すると言ってきました。もちろんそんなことさせれないし、文乃と結婚する気もありませんけどね」

 浅見はため息混じりに溢し、九条の席の前に座った。 

「そうか……。そんな事を言い出してたのか。確かに芸能界に進出も考えてはいたんだ。あいつの兄や文乃にもそれは話したこともある。だが私は引退した身だ。買収してまでは視野に入れてはなかった」

 九条はコップの水を一口含み肩を落とした。

(会長、随分歳いったな。こんなに頼りなげだったか)

「会長も変わりましたね。昔の会長なら文乃と同じように買収してたんじゃないですか? 何せ俺たちが兄妹だとまで嘘をついて別れさせたくらいだし」

 九条は浅見の言葉を聞き苦笑いした。

「知っていたのか……。そうだな、君と文乃を引き離す手段としては買収もありだったかもな。君があっさり文乃から身を引いたからそこまでする必要はなかったが。君はあの子のことをそれほど好いてはなかったんだろう? それがわかったから別れさせた。文乃には幸せになってもらわないといけないからな」

 意地悪く九条は言った。

「ハハ……、会長はすごいな。全てお見通しですか」

 浅見は九条の洞察力に感服し、笑うしかなかった。

「で、どうするんだ。君には他に大切な人いるんだろう。かわいそうに泣いていたな」

 九条は柚月の存在にも気づいていた。

「……そのことで会長にお願いがあります」

 浅見は深妙な顔を九条に近づけ、耳打ちをした。

 

 衝撃を受けたまま柚月は足取り重く帰路についた。

 涙も枯れ果て、水も喉を通らない状態でアパートの部屋の前に戻るとドアの前の人影に気づいた。

「おかえり、成田」

「日下部さん!どうして?」

 柚月の部屋の前には日下部が待っていた。

「成田、大丈夫か?」 

 会社で見るスーツ姿と違い、Tシャツにデニム姿の日下部はいつもと変わらない笑顔で柚月を出迎えていた。

「日下部さん……」 

 誰かにすがらないと限界だった柚月は日下部を前に泣き崩れてしまった。

 今ここに日下部がいる事が、普段の浅見を思う柚月は他の人に手を差し伸べる事など思わない。けれども今夜はそんなこと考える余裕もなく誰かにすがりたかった。

「大丈夫だから。俺が側にいる」

 座り込んで立てなくなった柚月の側に日下部は寄り添い肩を抱いた。


「浅見さん、あなた本気で言ってるんですか?」

 文乃の会社が催す新事業の披露パーティーの前日、浅見は日下部を訪ねていた。

「ああ」

 日下部は感情を露わにしていた。

 柚月の会社近くにある公園に浅見は日下部を呼び出していた。

「仕事中にこんな所に呼び出して何事かと思えば、そんなことを言うためだったんですか⁈」

 今にも浅見に掴みかかりそうな勢いで日下部は激怒していた。

「君にしかこんな事は頼めないからな」

「だからって成田の気持ちはどうでもいいんですか? いくら会社を守るためでも!」

 感情的に怒りを誰かにぶつける事など経験したことない日下部は、怒りで体が震えることをたった今初めて経験した。

「君が怒る気持ちはよく分かるよ。俺も君の立場なら同じように怒りまくるだろう。だけどこれしか方法が思いつかない。会社と柚月を守るには」

「……こんな事成田はきっとぼろぼろになる」

「だから君が側にいてやって欲しい。柚月が壊れないように。全て柚月には伏せたままで……」

 浅見の切ない表情を見て、そうせざるを得ない事を日下部は理解はできていた、ただ感情が追いついていなかった。

「孤児でまともな大人になる自信なんてなかった俺に今の社長は居場所を与えてくれたんだ。それをたった一人の人間のエゴで台無しにされるなんて許せないからな」

 公園には幼稚園児たちが母親に付き添われ寄り道がてら仲間たちと遊ぶ姿で賑わっていた。

 浅見は隅に置いてあるベンチに腰掛け、日下部にもう一度嘆願した。

「こんな頼み君にすること自体が非常識なことは百も承知だよ。その事で結果柚月が君を選んでも仕方がない。だけど、柚月の事を任せれるのは君しかいない」

 クールで余裕がある大人の浅見の姿は微塵もなく、大切なものを必死に守ろうとしている一人のただの男がそこにいた。

「……わかりました。だけど前にも言った通り俺が成田を思う気持ちは変わらない。本当にあいつを奪ってもいいんですね」

「……」

 日下部の真剣な表情を前に浅見は無言だった。

「浅見さん、いいんですね」

 念を押すように強い口調で日下部は言った。

「……柚月が君を選ぶなら、そうなれば俺は身を引く」

 力を込めた拳が浅見の覚悟を物語っていた。


「大丈夫か? 何か飲むか?」

 柚月を部屋に入れ、ベッドへ腰掛けさせた日下部は労わるように話しかけた。

「すいません、大丈夫です」

 真っ青な顔をしながらも柚月は気丈に振る舞っていた。

「もう眠れ。側に付いていてやるから」

 部屋着に着替えた柚月の肩を抱き日下部はベッドへ無理やり寝かそうとした。

「いえ、一人で大丈夫です。明日も仕事ですし日下部さんも帰って休んでください」

「ハハ、明日は祝日だぞ。俺もお前も休みだ。なんなら成田一人で出勤するか?」

 いつもの冗談めかしに話す日下部を見て柚月も少し笑顔を取り戻した。

「でも本当に私は一人でも大丈夫ですから」

 泣きはらした目で強がりを言う柚月が愛おしすぎてたまらなくなり、日下部は押さえていた感情が爆発しそうになった。

「成田……」

「はい?」

 唇をキュッと噛み締め日下部は弱っている柚月に漬け込みそうになる心を押さえた。

「いや……何でもない。今夜は側にいるよ。一人にしてるとお前はろくに食事もしないだろうしな」

「日下部さん……」

 あまりの優しさが身にしみ柚月は思わず日下部の腕を掴んでいた。

 自分の腕にしがみ付き頭をうなだれ、声を殺して泣く柚月を見て日下部の理性はとんでしまった。

「成田……」

 柚月の体を抱きしめ、日下部はそのままベッドへ押し倒し柚月に口づけをした。

 涙の味がしたその唇を日下部は貪るように押し付けた。

「成田……なり……柚月。柚月、俺にしておけ。俺を選べ」

 狂おしいくらいに名前を呼びながら日下部は柚月の体の上に覆いかぶさった。

 柚月の心は日下部に申し訳ない気持ちだけでこの状況を受け入れていた。

 シャツの胸元から窮屈そうに二つの膨らみが溢れかけ、日下部は長い指で器用にボタンを外していった。

 唇を柚月の首筋に這わしながら反対の手では柚月の頬を辿った。

 その指先が濡れているのに気づき、日下部は我に返った。

 天井を見つめる柚月の目から涙が溢れていた。

「成田……」

 心がここにない人間がこんな表情になってしまうのだと日下部は思い知らされ、同時に虚しさが襲ってきた。

「すまない……」

 柚月の上着のボタンを締め直し、日下部はそっと抱きしめた。

 自分の腕の中にいる柚月の肩が小さく震えている事を知り罪悪感にさいなまれていた。

「日下部さん……」

 胸の中で泣きながら柚月は懺悔していた。 

「お前は悪くない、俺が……」

 言葉を飲み込み、ベッドにもたれ日下部は柚月の肩を抱き寄せた。

 何を話すわけでもなく切なくて長く苦しい夜に二人は沈んでいった。


 世間が浅見とホテル王の令嬢との噂話を口にしなくなった頃、柚月は平静を装っていつもと変わらない日常を送っていた。

「浅見薫の結婚報道出てから二ヶ月くらい経った? やっと前の柚に戻りつつあるね」

「うん……でもまだ俺見てられないわ、だって痩せたでしょ?成田先輩!」

 未知と朝日は仕事帰りに、会社近くのバルで食事をしながら柚月の事を心配していた。

「そうだね……痩せたって言うかやつれたよ。今日なんて食欲ないってサラダだけしか食べなかったもんな」

「前まではほぼ毎日弁当作ってきてたじゃないですか? あれも今は全然だし。俺、浅見薫のこと大っ嫌いになりましたよ!結局は成田先輩のこと捨てたんですよね! 自分は金持ちの女捕まえて。いい気なもんですよ!」

 ストレートに怒りを表す朝日を見て未知はなだめるように手を握り締めた。

「私達に出来るのはいつもと変わらず柚の側にいることだよ。じゃないと私らに気を使ってさ。今日もご飯誘ったけど来なかったし」

「……そうだな。うん、いつもと変わらずにだな」

「うん、そうそう。でもなんか気晴らしになることでもあればいいんだけどな」

「あっ!」

 朝日が急に何かを思いつき椅子から立ち上がった。

「な、何? びっくりするじゃない!」

「未知、田舎でも行こう!畑仕事したり温泉入ったり。土にまみれてリフレッシュしよう!」

「田舎? 土? 何それ」

 グラスのワインをグイッと飲み干し、朝日はスマホでどこかへ電話かけた。

「朝日?」

 訳がわからない顔をした未知に朝日は人差し指で静止し、繋がった電話の相手と会話しだした。

「あ、もしもし母さん? 俺。うん、元気だよ。そっちは? うん、そうよかったよ。親父や兄きも?」

 朝日が久しぶりの実家に電話しているのを理解し、未知は微笑ましく見つめていた。

「あ、ほんと? これからすんの?よかった! いやちょっと職場の人連れて行っちゃダメかな?田舎体験ってのを味わって欲しくて。あ、はいわかった、また時間決めて電話するよ」

 電話を切った朝日は得意げな顔を未知に向けた。

「な、何? 朝日気持ち悪い」

 怪訝な顔した未知に、

「週末、俺の実家行くから」

「はぁ? 何言ってるの?実家って……」

「そう、青森県! 田舎体験しに行くよ。もちろん成田先輩も誘って」

「えーー本気? 朝日!」

「本気、本気! ほら行くよ、成田先輩の家」

「今から?」

 そそくさと会計を済ました朝日は未知の腕を強引に掴み、足早に店を出た。


「うーん、いい空気! お天気でよかったね」

 朝早く出発した柚月と未知は朝日に連れら農家を営む青森県の朝日の実家に到着していた。

「ほんと、空気が美味しい」

 青白い顔だった柚月の肌が少し生気が戻ったように見え、未知は内心ホッとしていた。

「俺、親んとこ行ってくるわ。この時間田んぼにいるから」

 自宅の駐車場に車を止め、久しぶりの実家をしみじみと見上げた後、朝日は田んぼに向かって走って行った。

「ごめんね、柚」

「何が?」

「だって朝日の実家に行こうだなんて急に誘ったりしてさ」

 いつもと違いしおらしい未知を見て柚月はくすくすと笑った。

「何よ?」

 口を尖らせながら未知は横目で柚月に拗ねてみせた。

「だって、急に家にきて週末青森行くよなんて言うから。松田君なんて凄い形相で農家に行くぞなんて言って……迫力負けしちゃったよ。思わずうなずいちゃったし」

 ころころと笑う柚月を見て未知は涙腺が緩みそうになった。

「うなずいたものの、やっぱり断ろうかとも思ったんだけど……でも来てよかった。なんかモヤモヤが消えそう。誘ってくれてありがとう」

「うん、私も来てよかった、遠かったけどねーー。あ、朝日が手を振ってるよ。あっち行こ」

 未知に手を繋がれ、柚月は遠くにいる朝日の元へ走った。

「こっち、こっち」

「ひ、久しぶりに走ったから、はぁはぁ」

 柚月と未知は日頃の運動不足がバレバレの体力で肩で息をしていた。

「親父と母さん。こっちは会社の先輩の島崎未知さんと成田柚月さん」

 朝日の紹介で柚月達は両親に会釈し挨拶を交わした。

「あ、兄き」

 柚月達が稲刈りのやり方を聞いていると朝日の兄と共にもう一人男性が近づいてくるのが目に入った。

「よぉ、朝日。久しぶり」

 朝日よりひとまわりほど年上だと聞いていたその男性は日に焼け、朝日と違い頼もしい印象を受ける出で立ちだった。

「兄き、元気そうだな」

「お前もな。女子二人も連れて帰ってきて出世したな」

 日に焼けた肌に白い歯でニヤニヤと冷やかしてきた朝日の兄、亮太が弟との久しぶりな再会を楽しんでいた。

「で、どっちが嫁なんだ?」

「ば、ばか違うよ。そんなんじゃないし今日は。き、気晴らしに来たんだよ」

 豪快な笑いをみせた亮太の後ろに爽やかに微笑む男性に気づいた朝日は、

「兄き、その人は?」

「ああ、お前覚えてないか?四谷さんとこの次男坊、圭介君だよ」

「あー、圭ちゃん! 覚えてるよ。昔よく一緒に遊んだよな。久しぶりだなぁ」 

「でかくなったな、朝日。すっかり都会っ子だな」

 朝日達が和気あいあいしてるところへ、未知と柚月が輪に入ってきた。

「おー、都会の女子はべっぴんさんだな」

 亮太がじろじろと柚月達を観察した。

「あんま、見んなよな兄き。それより圭ちゃんいつ帰ってきたんだよ。ずっと東京に住んでるって聞いてたけど」

「うーーん、五年くらい前かなこっちにもどったのは。東京は俺にはやっぱり合ってなかったのかな……」

 亮太と違って東京暮らしを経験しているせいか、作業服を着ていてもどこかあか抜けた爽やかな圭介は苦笑いしながら答えた。

「イケメンですね、四谷さんって。ね、柚」

 柚月に同意を求めながらも未知は隙間で反応を確かめていた。

「だってこいつ東京にいた時バンドやってたんだぞ。それが突然解散したから辞めて農家継ぐって戻ってきたんだからさ。まぁ、おっちゃん達は喜んだだろうな。長男が海外行っちゃってるから」

「バンドですか! カッコいい! そのツナギ姿も素敵です」

 何とか柚月が関心を持つように少し大袈裟に未知は言ってみたが柚月の反応の振り幅は期待外れだった。

「おい、圭介電話鳴ってるぞ」

 亮太が気づき圭介のポケットを指差した。

「あ、悪い」

 ポケットからスマホを取り出し電話に出ながら圭介はその場を離れた。

「俺、トイレ行ってくるわ」

 朝日は長靴をがっぽがっぽと音立ててながら、自宅に向かおうとした。

「だからもうかけて来ないでくださいって言ったじゃないですか薫さん!」 

 母屋のトイレに行こうとした朝日の耳に荒々しく怒鳴る圭介の声が聞こえた。

(圭ちゃん? 今カオルって…?)

 その『カオル』と言う名前に反応し朝日は足を止め思わず聞き耳を立てた。 

「もうあいつのことは忘れたんです。だから俺のことはほっといて下さ……え? 今日? こっちにですか?」 

 少しトーンダウンしたとはいえ、突き放したような口調の圭介は大きくため息をつきながら電話を切った。

「なんだって言うんだよ、今更……」 

 日に焼けて茶色くなった髪をくしゃりとしながら圭介は頭を抱え呟いた。

「『あやの』のことなんて……。せっかく忘れようとしているのに」

(あやの? 聞いたことある名前だな。しかもさっきの電話で『かおる』って。もしかして……いやでもまさか?)

 圭介は暫く納屋の壁にもたれながら何か考え事をしていた。

 スマホを見つめ再びため息をつき、ポケットにしまいながら亮太達がいる方へ戻った。

 朝日は一瞬よぎった人物を考えすぎと切り替えるよう頭を横に振りながら母屋へ足を運んだ。


「おつかれ」

 朝日の自宅から少し離れた場所にある居酒屋で、柚月達は初めての農業体験を終え食事をとるためにやってきた。

「先輩方、どうでした? 疲れたでしょう?」

 柚月を気遣いながらも、普段通りを心掛けていた未知も柚月の返答を気にしながらビールを飲んでいた。

「楽しかったよ、松田君ありがとう。久しぶりに体動かしてスッキリした。本当にありがと」

 二人が自分のことを気遣って計画してくれたことを柚月は心から感謝していた。

「よかったです、そう言ってもらえて。いきなり青森なんて遠いし断られるかなとも思ったんだけど。ホントよかった!」

 大役を果たした朝日は肩の力を抜き心底ホッとした表情をみせた。

「朝日、ありがとうね。私も楽しかった。ご両親もすごく良くしてくれたし」

 頼り甲斐のある朝日を知り、未知は好きの気持ちがより一層高まったのを自覚した。

「今度は未知と二人で来ないとだね。別の理由で」

 くすくすと笑いながら柚月が二人を茶化した。

 そんな姿を見て未知は以前の明るい柚月が戻ったと安心していた。

「な、何言ってるんですか成田先輩!それより兄き達まだかな」

 照れくさい事を誤魔化すように朝日は席を立ち、入口の方へ目をやった。

「あー、来た来た。兄き、圭ちゃんこっち」

 圭介は作業服のツナギ姿とは打って変わって、VネックのTシャツにクロスのペンダントを首に光らせ、スリムな迷彩柄のデニムを着こなすといった田舎の風景では目立つスタイルで現われた。

「圭ちゃん、カッコいいね。それに比べて兄きは……おっさんだな」

 ブカブカのカーペンターパンツを履きタバコをふかしている亮太の姿に朝日はげんなりしていた。

「お、なんだなんだ朝日。なんか文句あるのか? 俺はこれが楽なんだよ」

 朝日のこめかみに握りこぶしを作った両手で亮太はグリグリっと押し付けた。

「痛、痛い。ごめん、俺が悪かった」

 二人の楽しげなやり取りを見て柚月は本当にここに来てよかったと実感した。

 料理を食べながらお酒も進んだ頃、店のスタッフが元気よくお客さんを迎える声がし、朝日はふと入口に目をやった。

 一人の男性が店内にいるべきはずと思う人物を探す素振りをしていた。

(あれ、あの人どっかで……て)

「あっ!」

「ちょっと朝日、急に大声出して。びっくりするじゃない。どうしたの?」

 何かを見て驚き、立ち上がっている朝日の視線の先へ柚月達も目をやった。

 男性の姿を見た柚月はまるで亡霊でも見たかのように驚き、目を見開いていた。

「え! どうして⁈ な、なんでここに⁈」 

 未知も柚月と同様に腰を抜かしそうなくらい驚き固まってしまった。

「お、おいお前らどうしたんだ?」

 不思議に思った亮太が、柚月達の視線の先にいる人物をまじまじと見た。

「あっ! おい、あれ浅見薫じゃないのか? なぁ、朝日、圭介……」

 明らかに柚月や朝日達とは違った反応をしている圭介を見て亮太は口を噤んでしまった。

「ど、どうして……」

 会いたくて仕方なかった浅見を目の前にしてもその現実を受け入れ難く、柚月は呆然としていた。

 浅見は圭介に気づき、店内奥の座敷に陣取っていた部屋に入ってきた。

「薫さん……」

 圭介は浅見を見るなりため息をついた。

「電話じゃらちが明かないから直接会いに来た」

 浅見はチラリと柚月の方を見た後、圭介に視線を送った。

(浅見さん、こんなところで会うなんて……)

「ちょっと、浅見薫! あんた柚月に対して何にもないの⁈」

 柚月に声すらかけようとしなかった浅見に腹を立てた未知が、浅見に怒りをぶつけた。

「未知!」

 周りのお客の視線を気にしながら、朝日は未知の腕を引き寄せ宥めるように肩を叩いて制止させた。

「実家に行ったらおふくろさんがこの場所を教えてくれたよ。お前、電話くらいでろよ」

「すいません……気づきませんでした」

 伏せ目がちに圭介がポツリと言った。

「まぁ、いいよ。こうして会えたから。ちょっと席外せるか?」

 柚月の事を見ようとしなかった浅見に一度は大人しくしていた未知が荒々しい口調で問いかけた。

「浅見さん、柚の事何とも思わないんですか? どれほど柚が苦しんだか! あなたは知らないでしょう!」

 今度は柚月が未知の腕にしがみ付き、無言で首を横に振った。

「もういいから。何も言わなくて……」

「だって、柚この人と文乃って女にあんたどれほど酷い目にあわされたか忘れたの⁈」

『文乃』と言う単語に反応した圭介は、未知の尋常じゃない顔と泣きそうな柚月の顔を交互に見た。

「薫さん、一体何が……?」

 自分自身が抱えている問題以外に何かあると悟り、圭介はその場を立ち上がった。

「皆さん、すいません。ちょっと圭介借ります」

 浅見はそう言うと柚月達に背を向け店を出ようとした。

「ちょっと!」

 納得できない未知は再度浅見を引き止めた。

「柚月」 

 未知の言葉を遮るように浅見は柚月の名を呼んだ。

 ドキンと心臓が激しく反応し、柚月は恐る恐る浅見の方を見た。

「圭介と話しついたら必ず会いにくる。待っててくれ」

 予想外の言葉が浅見の口から飛び出し、柚月はうなずく事もできず懐かしい背中を見つめていた。

「何あの人。どう言うつもり?」

 怒りが収まらない未知を見た亮太は余計な詮索をするのは控え黙って見ていた。

「どうしますか、成田先輩。あの人待ってろって言ってましたけど……」

 久しぶりの再会、しかも青森に来て浅見と会うことなど夢にも思わなかった柚月は、朝日の声に反応できずにいた。

(久しぶりに聞いたな浅見さんの声)

 浅見の事を忘れられなかった柚月は自分の気持ちを再確認した。

「柚どうすんの? 待ってろって」

 何を言われるかわからない、また傷つけられるかもしれない。

 ただ不安な気持ちでいっぱいだった。

「わからない。会うのが怖い……」

 両手で顔を覆い不安な気持ちを隠しきれない柚月の肩を未知はそっと抱きしめた。

「でもこれで決着つけれるんじゃないですか? 青森まで来て会ったのは何かそう言う運命なのかもしれない」

「でも……」

 柚月の気持ちが手に取るようにわかる未知もこれ以上悪化する事を恐れた。

「成田先輩、前に進みましょう。大丈夫、俺たちがいますから。じゃないともう見てられませんよ。いつもの明るい先輩に戻って欲しいです」

「松田君……」

「そうだね、ずっと待ってるからあいつから連絡来たら行っといで」

 明るい笑顔の未知に励まされ、柚月自身もこのままじゃいけないと決意した。

「うん……わかった。会うよ」 

 騒ついた店内のはずが柚月達のテーブルだけが孤立し別世界になっていた空気を亮太が一変した。

「なんかわかんないけど、待つなら家で待ってたらいいよ。圭介らもそんな遠くには行ってないだろ?」

 市内にホテルを取っている柚月達は部屋に戻らず亮太の好意に甘えた。


「元気そうにやってるみたいだな、圭介。一緒にバンドやってた時に比べて日に焼けてたくましくなった」

 柚月達と別れ、浅見の車で近くにあった公園の駐車場に来ていた。

「薫さんこそ。また歌、始めたんですね。新曲聴きましたよ」

 缶コーヒーを一口飲み、圭介はため息をついた。

「ああ、歌を歌うきっかけをくれたのは柚月だよ。さっき店にいただろ? 彼女のおかげだよ」

「そう……っすか」

 車内がしんと静まり返って、しばらくの音の無い世界が広がった。

「……文乃、まだお前の事を想っているぞ。それを今日は伝えにきた」

 沈黙を破る言葉が『文乃』だったことに圭介はピクリと反応した。

「いや、そんなはず無いでしょう。薫さんと婚約したくらいだし」

 苦笑いをしながら圭介はコーヒーをゴクリと勢いよく飲んだ。

「あの発表は二つの事を守るためについた嘘だよ。俺は文乃を騙してる」

「騙してる⁈ 薫さん、いくら薫さんでも文乃騙すなんて許しませんよ!」

 穏やかに話していた圭介が怒りをむき出し、浅見の胸ぐらを掴んだ。

「やっぱり……まだ好きなんだろ? 文乃のこと」

 浅見は冷静に圭介を観察し、文乃への想いがあると確信した。

「……だったらどうなんですか?そんな事知ったからってどうにかなるんです?」

 圭介はうつむき、握りこぶしを両膝の上で震わせていた。

「あいつ、手帳にお前と一緒に写した写真を挟んであって、それを一人になるといつも見てるよ」

 煙草を燻らせながら浅見は静かな声で伝えた。

「写真?」

 圭介は写真と聞いて顔を上げた。

「昔、圭介よく言ってたよな写真嫌いだって。その圭介が唯一一緒に撮ってくれたってあの時、文乃凄く喜んでいたよ。その時の写真だ」

「あいつ、そんな前のまだ持ってたのか……」

 圭介の表情から怒りは消え優しい目を公園の仄かな街灯が照らした。

「文乃は圭介以外なら誰でもいいんだよ。俺に対しての想いなんて、そうだな……身内? やっぱり兄きとしての情があるだけなんだと思うよ。わがまま言い放題だからな。言えば何でも通ると思ってる」

 そう言った浅見の表情は優しく穏やかだった。

 圭介は浅見と文乃が付き合っていた事実に対抗して、意地を張り素直に気持ちを伝えれなかった過去の自分をずっと後悔していた。

「ずっと俺、薫さんには敵わないと思ってた。文乃は兄妹だと知ってもあんたの事をまだ好きだと思ってたし。あいつの父親も俺を毛嫌いしていたし」

「だから手も出さずにあいつの前から去ったのか」

 圭介は言葉を返さず無言で答えた。

「やっぱお前を探して正解だったわ。文乃の父親に協力してもらっても二ヶ月掛かったけどな」 

 煙草を灰皿に押し当てながら浅見は安心したように笑みを浮かべた。

「あの父親が? 信じられない協力するなんて」

 圭介の顔から戸惑いが伝わってきた。 

「文乃が誰を好きか、幸せになるには誰と一緒にいればいいかあの人はわかったんだよ。それに嫌ってたのは俺の事だ。俺から文乃を引き離そうとずっとしていたからな」

「薫さん、でもなんで今更俺を……?」 

「圭介に頼みがある。一緒に東京へ来て文乃に会ってくれ」

「いきなり何言ってるんです⁈無理ですよ。そんな話なら帰ります」

 東京へ、しかも文乃に会うことなど二度と無いと思っていた圭介は助手席のドアを開け外に出ようとした。

「助けてくれないか」 

 今まで聞いたことのない浅見の必死な声を聞き、ノブにかけた手を止めた。

「……薫さん、さっき守るものがあるから文乃を騙してるって言ってましたね。あれはどう言うことですか?」 

 さっきの浅見の言葉を思い出し、圭介は尋ねた。

「あれは……」 

「柚月さんと関係あるんですよね?」

 居酒屋での柚月や未知の反応で何かあると感じていた圭介は、シートに深く座り直し浅見を直視した。

「ああ。彼女は……柚月は俺の大切な人だ。文乃から彼女を守るために今は離れたけどな」 

「どう言うことですか?」

 さっきまではどうでもよかった話も文乃が絡んでいるとわかり、圭介は態度を変えた。

 浅見は柚月への思いと文乃が会社を使って仕掛けている今の状況を圭介に話した。

「じゃあ今薫さんは、自分の会社を買収されないために動いてるって事ですか?」 

「そうだ。文乃の気が俺の会社や柚月に向かないようにするために一旦は婚約した振りをしているだけだ。その方がお前を探しやすかったし、何より……」

 浅見は深いため息をついた。

「何より、文乃が柚月に手を出さないようにだ。あいつは思う通りにする為に何をしてくるかわからないから。今までも散々柚月を傷つけてきた」

 呆気に取られた圭介はポカンと口を開け呆然としていた。

「呆れた……。薫さんそんなやり方会社はともかく、柚月さんが苦しんでいるとは思わなったんですか? 離れてしまうかもとか考えなかったんですか?」

 浅見の考えは到底賛同出来ないと呆れて圭介は言葉を失った。

「そうだな……。一番柚月を傷つけているのは俺だ。だけど会社も大事だった。どっちを選ぶかなんて苦渋の選択だった。文乃にこれ以上先へ話を持って行かれないためにこの二ヶ月必死でお前を探したんだ」 

「なんで俺? 薫さんには悪いけど俺には何も出来ないよ」

 自分が出来ることなど想像もつかず、圭介は薄暗い外の景色に目をやった。

「圭介がまだ文乃を好きなのか確かめに来た。これは俺の賭だった。でも今日はっきりわかったよ。文乃の側に戻って来て欲しい」

「冗談でしょ⁈ 今更俺が会いに行ったところで……」 

「お前がいれば、圭介が側にいれば文乃は変われるんだよ。俺はあいつに幸せになってもらいたい。今回のことも文乃を無視して柚月の側にいることもできた。だけど俺にとっては『妹』だからな。自分だけ幸せになる事は出来ない」 

 切ない表情の浅見を垣間見、圭介は口を閉ざした。

(よっぽどの決意が必要だったんだ……。こんな表情になるなんて薫さんも苦しいんだ)

「東京に行って俺はどうすればいいんですか?」

 圭介は真っ直ぐ浅見の目を見て言った。

「文乃に会ってくれ。それだけでいい」

 深々と頭を下げる浅見を圭介は黙ったまま見つめていた。

 

 テーブルの上に置いていたスマホの着信音が、柚月の鼓動を速めた。

「……浅見さんからだ」

 朝日の実家で滞在していた柚月達は縁側に腰を据え、浅見からの連絡を、たわいも無い話をしながら待っていた。

 居酒屋で別れてから一時間程たってようやく待ち望んでいた相手からのメッセージが届いた。

「柚、あいつなんて?」

 もはや未知は浅見の名前を口にもしたく無いと言った表情をした。

「もうすぐこっちに着くって。私外に出て待ってるよ」

「柚が外で待つことないよ。来るまで待ってたら」

「うん、でも松田君のお家の人に迷惑かかるから。もう遅いしね。未知はこのまま松田君家で泊まるでしょ?」

「うん……でも柚も帰ってきなよ、こっちに。起きて待ってるから」 

 未知は柚月の手を握り、引き止める仕草をした。

「ありがとう。でも気にしないで休んで。じゃ行ってくるね」 

 どこか寂しげな、でも少し強さを感じる雰囲気の柚月を心配気に未知は見送った。

 柚月の足音が闇に消えてしまった頃、朝日が風呂から丁度出てきた。

「あれ? 成田先輩は?」

「挑みに行ったよ、大好きな人のとこに……」

 

 母屋を抜け、門までの間にある庭を通り抜け柚月は浅見を待っていた。

 街灯もなく真っ暗な中、月明かりだけがふんわりと光っていた。

 秋の虫が遠くで鳴いているのが今の柚月の心を和ませていた。

 闇の奥に人工的な明かりが見え、タイヤの砂利道を踏む音が近づいてきた。

 柚月の前に見慣れた車が止まり、窓から眼鏡をかけた愛しい顔が現れた。

「悪い、待たせた」

「大丈夫です。あの、圭介さんは?」

「手前で降ろしてきた。柚月、車に乗って」

 何度も乗った懐かしい助手席に座り、柚月は浅見から発する言葉を待った。

「久しぶりだな。髪も……伸びたな」

 差し出された手が肩まで伸びた髪に触れようとした瞬間、柚月は無意識に払いのけていた。

「あ、ごめんなさい……」

「いや……。今から話す事を聞いて柚月がどうしたいか教えて欲しい」

 払いのけられた手の戻る先を見失った浅見は静かに話し出した。

「文乃、妹とは婚約しないよ。会社を守るためにあいつを騙した」

「え⁈ そんな、騙すなんて……。それに会社を守るためってどう言うことですか?」

 今の段階では全く話が見えなかった。

 浅見は会社が買収される事を阻止するために圭介が必要だったことを話した。

「……そうだったんですね。浅見さんの会社にまでなんてよっぽど文乃さん、浅見さんの事を思ってるんですね」

 口にしたくはない言葉を切ない気持ち押し隠しながら柚月は視線を落とした。

「いや、文乃はずっと圭介を忘れてなかった。あいつの代わりなら俺じゃなくても誰でもよかったんだ」

「でも、あの人の態度は浅見さんを好きなんだと思います。私を見る目も……」 

 柚月は今までの文乃の行動や言葉を思い出し浅見を否定した。

「それは兄きを取られたくない妹としての心理からだよ」 

 浅見はフッと優しく笑った。

「信じられません。だってあの人……」 

 我慢していた涙が一度流れ出すと次から次へと溢れ止まらなくなった。

「ごめんな、柚月。こんなこと俺が謝ったところでなかったことになんて出来ないけど」

 大きな手で浅見は柚月の頭を撫でた。

 懐かしい温もりに、柚月はすがりたい気持ちで胸が締め付けられるほど苦しくなった。 

「明日、圭介を東京へ連れて帰るよ、文乃に会わすために」

「会社は、浅見さんの会社は大丈夫なんですか?」

「大丈夫だよ。文乃の兄は芸能の世界には興味ない人で鼻から買収は反対していたからね。文乃さえ納得させれば済む話だったから」 

「そう……よかった」 

 ホッとした柚月は車内の時計に目をやり、零時になったのを気にした。

「柚月、俺は君のスマホを拾った日から気持ちは変わらない。今まで辛い思いばかりさせたけど、これだけは信じて欲しい。柚月が好きだ」

 変わらない、優しい眼差しを向けられ柚月は浅見の腕に飛びこみ、抱きしめて欲しかった。

「私、怖いんです……。また浅見さんがどこかへ行ってしまうんじゃないかって……」 

 肩を震わせて柚月は泣きじゃくった。

「ごめんな、柚月。もう一人にはしない。側にいるから」 

 心細気な肩に大きな手がそっと触れ、そこから暖かさが柚月の全身に駆け巡った。

(信じたい……浅見さんの手を握りしめてずっと側にいたい。でも怖い。もうあんな思いはしたくない……) 

「柚月……」

(俺は泣かせてばかりだな……)

 抱きしめたくても、差し出した手が戸惑っていた。

 なかったことにはできない、消すことのできない過去は、自分だけではなく柚月も苦しめる事になるとは想像もしていなかった。

(けど柚月を離してやる事は出来ない。手離したくない。こんな譲れない気持ちがまだ自分の中にあったんだから) 

「明日、柚月達も東京帰るんだろ?」 

「はい」 

「圭介を文乃のとこへ連れて行ったら連絡するよ……いや、連絡していいか?」

 前までの強引で余裕ある浅見とは違い、一歩引いて接する態度が余計に柚月を不安にさせた。

(浅見さんに気を遣わせてる……)

「わかりました、連絡待ってますから」 

 迷いのある口調で答える柚月を寂し気な微笑みで浅見が見つめていた。

(もう、柚月と会えるのは最後かもしれないな……あいつ、日下部との事を聞く勇気も俺にはない)

『自業自得』と言う言葉が頭の中に浮かび、浅見は隣にいる柚月を遠くに感じていた。

 

「こんなところに呼び出して何の用なの?」 

 青森からほとんど眠らずに戻った浅見は、文乃を昔育った児童施設に呼び出していた。

 庭にある遊具の側のベンチに座り、文乃は少し苛立っていた。

「懐かしい場所だろ? 文乃はあんまり覚えてないかもだけどな」 

 浅見は煙草に火を付けながら建物を見上げた。

「もう誰もここにはいないじゃない」 

「そうだな、老朽化してるから立て直すみたいだな」 

 二人無言の時間が数分たち、浅見の意図が分からない文乃はベンチから立ち上がった。

「何なの? 用がないなら帰るわ。忙しいんだから。婚約発表の準備あるんだし」

 浅見に背中を向け帰ろうとする文乃に、

「お前、本当に俺と一緒になりたいのか? 本当は別のやつの事忘れられないでいるんじゃないのか?」

 浅見の言葉に文乃はドキリとした。

「そ、そんな人いないわ! 私は薫がいいんだから。会社守りたいんなら私と結婚するしかないのよ、薫は」 

 浅見を睨めつけるように見つめる文乃の顔は愛情とはかけ離れた冷たい感情が滲み出ていた。

「圭介」 

 浅見が呟いた名前に文乃の顔は明らかに動揺していた。

「そ、その人がどうしたのよ! そんな名前忘れたわ」

「いや、忘れてない。忘れられないんだろ? まだ好きなんだから」 

 圭介の名前を聞き、文乃は急に落ち着きをなくした。

「あいつはまだお前が好きなんだよ」

 浅見の言った言葉を聞いたとたん、文乃は怒りが沸点に達し、目の色が変わった。

「そんなことない! そんなはずないわ!だったらなぜ私の前から姿を消したの? 私に指一本触れずに……私が汚いからでしょ?」

「それは違う!」

 建物の陰から声がし、文乃は振り返った。

「圭介⁈」

 二人のやり取りをずっと聞いていた圭介は思わず文乃の前に飛び出してきた。

「文乃……それは違う」

 圭介はゆっくりと文乃に歩み寄り、真っ直ぐ向き合った。

「圭介、どうしてここに……」

 何年かぶりの再会に文乃は言葉を失った。

「久しぶりだね、文乃」

 変わらない優しい笑顔の圭介を見て、文乃の心の奥に眠っていた小さな火が再び燃えあがろうとしていた。

「今更何?」

 悲しみを表に出さず突き放したように文乃が言った。

「会いたかった」

 予想しなかった圭介のセリフが文乃の耳をくすぐった。

「……やめて」 

「文乃、俺は……」

「やめて聞きたくない!」

 両耳を塞ぎ、まるで小さな子供のように文乃はその場にうずくまってしまった。

 草を踏む足音がゆっくりとうずくまる文乃に近づいてきた。

「好きだよ、文乃。ずっと好きだった」

「嘘よ!薫に頼まれたんでしょう? 昔みたいに!」

「違う!」

 圭介は声を荒げて全身で否定した。

「な、何が違うの? 薫がアメリカへ行った後、悲観した毎日を過ごしていた私を支えてくれたのは圭介だった。心配してずっとそばにいてくれた。私はそんな圭介を大好きになった。けど圭介は私に一切手を出してこなかったじゃない。……兄妹でセックスしてた女なんて汚らわしかったんでしょう? そんな女を好きだなんて……」

 文乃は今までに見せたことのない悲しげな表情をし瞬きもせず圭介をみつめていた。

「それは違う。文乃の勘違いだ」

 圭介は叫んだと同時に文乃を力強く抱きしめていた。

 腕の中にはいつものクールで堂々としている文乃とは別人の泣きじゃくる一人の女性が肩を震わせていた。

「何が勘違いなの? 私は薫だけじゃなく圭介にも捨てられたのよ」

 文乃は圭介の腕を振り払い、今までのうっぷんを晴らすかのように必死な姿で訴えた。

 圭介は黙ったまま文乃の罵声を浴びた。

「俺が日本に帰る少し前に圭介から連絡あったんだよ、実家に帰って稼業継ぐって。親父さんが倒れてしまったから……。実家が農家だった圭介は、文乃に全て捨てて自分に付いて来いとは言えなかったんだ」

 黙ったまま二人のやり取りを聞いていた浅見は、たまらず間に割って言った。

「薫さん、もういいですよ。俺に勇気がなかっただけですから。もっと自分に自信があったら構わず文乃を連れ出していましたから」

 文乃の涙が頬をつたう姿を見た圭介は、近寄り自分の指で雫をすくった。

「だけど文乃、俺はずっと変わらず君が好きだよ」

 優しく微笑んでる圭介の顔は昔と変わらず、文乃を包み込むように温かかった。

「だったら」 

「だったら何故圭介は一度も私を抱かなかったの? あの時兄妹だって思ってた私と薫が深い関係だったからでしょ⁈」

 止めどなく漏れる嗚咽が文乃の切実さを伝えていた。

「圭介は待ってたんだよ、文乃が自分だけを見てくれる日を」 

 静かに言い聞かせるように浅見は文乃に伝えた。

「どう言うこと? 私はちゃんと、ずっと圭介を想ってた!」

「ごめん、俺が悪いんだ。俺が自信なかったから。いつもどこかで薫さんと比べてしまってた。意気地がなかったんだ。だから手を繋ぐことすらできなかった」

 圭介の声が上擦り、目も潤んでいた。 

 文乃の表情が少し変わってき、張りつめていた体がわずかにほどけてきた。

「なぜ? 私は圭介の優しさに救われたの。私の方こそ……圭介に触れる事が出来なかった。そんな資格私にはないと思っていたから」

 お互いに相手を思い合っていたと知り、圭介はゆっくりと文乃の肩を引き寄せそっと抱きしめた。

「やっと文乃に触れる事ができた。好きだ、文乃」

「いいの……? 私で。だって薫と……」

「好きなんだよ!」 

 文乃の言葉を遮るように圭介は叫んだ。

「例え本当に薫さんと兄妹だったとしてもそんなの俺には関係ない! ずっと好きだった。汚いなんて思ったことない」 

 抱きしめる腕の力が強まり、文乃はその苦しさの中に心の底からの喜びを感じていた。

 今まで強がっていた鎧をやっと脱ぎ捨でることができ、文乃は恋い焦がれていた圭介の腕の中で小さな子供のように泣きじゃくった。

 

(今頃、浅見さんはあの人と一緒なんだろうな……)

 青森から帰ってきた日曜日、夕日に染まる空を見上げながら柚月はベランダに干していた洗濯物を取り込む手を休め、よくない妄想に支配されかけた。

「ダメだ! 頭の中真っ白にしないと! 何も考えない」

 頭を激しく横に数回振ったため、よろめきそうになりながら部屋に戻った。

(連絡、まだかな……)

 スマホを手にし、画面を明るくしてみると一件の着信が入っていた。

(浅見さん⁈)

「あ……」

 着信の相手は日下部からだった。

「私、自分の事ばっかり考えてた……」 

 日下部からの気持ちを中途半端なままにしていたことに柚月は胸が痛んだ。

 気持ちがまとまらないまま、折り返しの電話をかけようとした時、再びスマホが震えた。

 液晶には『浅見さん』と表示されていた。

 文字を見ただけで柚月の胸の鼓動が忙しくなった。

 戸惑う人差し指で画面に触れ電話に出た。

「柚月?」 

 感覚を麻痺させてしまうくらい破壊力のある甘い浅見の声が、柚月の耳を攻撃した。

「はい」 

「今、柚月のアパートの前にいる。そっちに行っていいか?」 

 中毒性のある浅見からの誘いを断ることなどできない柚月は頷きながら小さな声で返事をした。

(浅見さんが来る。私はどうしたいの……)

 落ち着かない心をなんとか気丈に保たせるように、胸の手を当て深呼吸を繰り返した。

 やがてタイムリミットを知らせるチャイムが鳴り、心臓が潰れそうなほどの緊張感で浅見を向かい入れた。

「入っていいか?」

 答える代わりにコクリと頷き、スリッパを揃えた。 

 リビングにたどり着くと背中から浅見の力強い腕で抱きしめられた。

「浅見さん⁈」 

「俺の気持ちは昨日言った通りだ。お前はどうなんだ?」

 首すじに息がかかり、身体が覚えている愛しい重みが蘇ってきた。

「あ、浅見さん、あの人とは……その、どうなったんですか?」 

 大好きな顔を見ようとせず、体を突っぱねて浅見から離れた。

「あいつは圭介と一緒になるよ。俺の事務所からも手を引いた」 

「ほ、本当に? 文乃さん浅見さんの事好きじゃなかったの⁈」

「あの二人は昔からお互い思い合っていたんだ。ちょっとした事が原因でずっとこじれたままだった。それが昨日やっと気持ちを確認することができたんだ」

 嬉しそうに浅見は柚月の目を見た。

「本当に悪かった。今まで苦しい思いばかりさせて。でももう一人にしない、柚月を離したくない」

 土下座する勢いの浅見を柚月は慌てて止めた。

「柚月……君が愛おしい。ずっと会えない間、たまらなかった」 

 床に目を伏せたままの浅見の頬に光るものが見えた。

「浅見さん……」 

(やっぱり私はこの人が好きだ……どうしても) 

 吐き出す予定だった言葉を飲み込んだ柚月は、自然と浅見を力一杯抱きしめていた。

「浅見さん、好き。大好きです」

 悲しい出来事を忘れる事は出来ない。でもそれ以上に浅見と離れる未来は考えられなかった。

「柚月……、柚月」 

 浅見は柚月の体を抱きしめながら切なくなるほど名前を呼び続けた。

 その時、二人の間を裂くように柚月のスマホが鳴り響いた。

「あ……」

 自分の体から離れようとした柚月を浅見は引き止めるように腕の力を緩めなかった。

「あの、浅見さん電話が…」

 そう言って離れた柚月を拗ねたように浅見は送り出した。

「あっ」 

「どうした?」 

「いえ……。も、もしもし」

 柚月は何か言いたげな表情を見せながら電話にでた。

「こんばんは。すいませんお電話もらっていたのに折り返し出来なくて……」

 相手が気になり浅見は耳を澄ました。

「火曜日の会議の資料は日下部さんが金曜まで出張行ってらしたのでメールで送っておきました」 

(日下部か)

 電話の相手に心が波だった。

「はい、大丈夫です。用意出来てます」 

 業務連絡が終わり、一瞬会話が途切れた時柚月は伝えないといけない言葉を切り出した。

「あの……日下部さん、私」

『彼が忘れられなかったか?』 

「……はい」

『好きなんだな、やっぱりあいつのことが』

 柚月の声だけで全て理解してしまう自分を日下部は悲しく思った。

「はい」

『そうか……。成田が弱ってたらつけ込もうと思ってたんだけどな』

 笑いながら話す日下部に柚月の目から自然に涙が溢れた。

「ごめんなさい、日下部さん。私いろいろ助けてもらったのに……本当にごめんなさい」 

『謝るなよ。謝られると本当に成田の事を諦めないといけないだろ? 浅見に言っといてくれ、また成田を泣かすような事をしたら奪いに行くからって』

 明るく話す日下部に救われた気持ちになり柚月は電話を切った。

「あいつ、何て?」 

 二人のやり取りが気になってしょうがない浅見はぶっきらぼうに聞いた。

「私が泣くと奪いに来るそうです」 

 フフっと泣き笑いながら柚月は日下部に心から感謝していた。

「それはきっと永遠に無理だろうな」

 浅見は柚月の握った手の甲に口づけをした、まるで誓いの証のように。 

「柚月……頼みがある」

「はい…?」

「指輪、また嵌めてくれないか」

 柚月の小指に触れながら浅見はねだった。

「はい」 

 満面の笑顔で答えた柚月は、カバンに入っていた小さなポーチから指輪を取り出した。

「かして」 

 浅見は指輪を受け取ると優しく柚月の小指に戻した。

「嬉しい」  

 指輪に頬ずりするように柚月は愛おしそうに眺めた。

 浅見は今この瞬間をずっと忘れず大切にしようと心の中で誓った。

「それとな柚月、今俺が住んでるホテルをひきはらう事にしたよ。マンションを新しく見つけたから」  

「そうなんですか?」 

「だから一緒に住んでくれないか?」 

「え、えー⁈」 

 想像もしてなかった浅見の発言に驚き、自分でもびっくりするくらいの声がでた。

「柚月と離れたくないんだ。ダメか?」  

「で、でもまた週刊誌とかに撮られたりしたら? そんなので浅見さんに迷惑かけたくない」

 浅見の申し出は叫びたくなるくらい柚月は嬉しかったが、自分の存在が迷惑かける事は確実だった。

「俺の仕事不規則だろ? 柚月との時間を作ることさえままならないってのは今までで散々味わった。だから一緒に暮らしたいんだ」  

「浅見さん……」

「それで、いつか『浅見 柚月』になって欲しい」

 突然の告白に柚月は衝撃すぎて言葉を失った。

「ずっと一緒にいたい、この先ずっと。柚月以外いらないから」 

 柚月の顔はみるみる赤くなり涙が溢れ、蒸気した頬から首筋に伝ってTシャツの胸元を雫が模様を描くように広がって行った。   

「……ダメか?」  

 浅見薫の最大限の武器である甘い声で問われると到底敵うわけなかった。 

 それより、何より柚月が願い望んでいた浅見の側にいる事にNOという答えは百パーセントあり得なかった。

「ダメなんかじゃないです。浅見さんの側に居たい」 

 柚月は浅見の首に両手を回し、胸に飛び込んだ。 

「柚月」     

「一緒にいたい、浅見さんとずっと」    

 自分の腕の中で泣きじゃくる柚月を優しく抱きしめ、浅見は『柚月』に出会えた事に感謝していた。  

 今まで自分を取り巻いていたモノトーンの景色が、柚月がいるそれだけで鮮やかに映り変わるように思えた。

「俺のとなりは永遠に柚月だけだ」 

 不器用に笑いながら浅見は柚月をもう一度抱きしめた。 

 お互いがいるそれだけで世界が変わる気がした。

 柚月はそっと顔を上げた。

 見下ろした浅見の鼻先がくっ付き、ベランダから差し込む夕陽が触れ合おうとしている互いの唇の隙間に差し込んでいた。 

 ずっと続く愛しさを願いながら柚月は浅見をそっと抱きしめた。

 

「皆さま、本日は誠におめでとうございます。お二人のお支度が整われたようでございます。盛大な祝福の拍手でお出迎えください」

 司会者が手をあげるのを合図に会場のドアが開き、真っ白なウェディングドレス姿の女性とタキシード姿の男性が照れ臭そうに招待客の前に姿を見せた。

「おめでとー!」

 賛辞の嵐の中、二人は高砂席に到着し深々と頭を下げた。

「本日は新郎新婦様、並びにご両家、ご列席の皆様、誠におめでとうございます。今日この良き日に新しいご夫婦をお迎え致しました。ただ今より新郎、四谷圭介様、新婦、九条文乃様のご結婚披露の開演です」

 鳴り止まない拍手の中、再び新郎新婦は頭を下げ感謝を示した。

 九条家の披露宴だけあって何百人もの招待客が来るのではと、そんな式に招待されていた柚月は身構えて当日を迎えていた。

「大丈夫だろ? 柚月」

 隣の席に座る浅見がそっと柚月に耳打ちした。

「はい、ホッとしました」

 予想とは反し、式には両家の家族と友人達だけのささやかな結婚式だった。

 式が進行していく中、柚月は文乃の晴れ姿にウットリしていた。

(文乃さん、きれい……)

 今まで文乃といろいろあった事を思い出しながら柚月は友人達と写真を撮る楽しそうな二人を見つめていた。

 幸せそうな文乃を見て柚月は涙腺が緩みそうになった。

「柚月?」

 優しく問いかける浅見に笑顔を向け、

「大丈夫です。ただ嬉しくて。悲しい事もたくさんあったけど、文乃さんの幸せそうな顔を見ると私、浅見さんの側にいていいんだなって思えて……」

 安心したように見えた柚月の笑顔を見て浅見はテーブルの下でそっと手を握りしめた。

「当たり前だ。柚月はずっと俺の側にいてもらわないとな」 

「はい、浅見さん」

 握り閉められた手に力がこもり、その痛みを柚月は嬉しく思った。

 とびきりの笑顔を返した柚月を不服そうな顔で浅見は見ていた。

「浅見さん、どうかしたんですか?」

「柚月はさ、いつになったら俺のこと下の名前で呼ぶの?」

「え?」 

 突然の問いに戸惑う柚月に、

「ほら、言ってみて」

 いつものクールな浅見とは打って変わり、甘えた声で柚月を恨めしそうに見ていた。

「今……ですか?」

「そう、今」

「本当に……?」

 ダメ元で食い下がる柚月に、浅見は、

「言わないとここでキスするぞ」

 ニヤリと笑う浅見に柚月は小声で全力に拒否した。

「ダメですよ、芸能人がそんなことしちゃ!そ、それより文乃さん仕事どうするんですか?」

 近寄っていた浅見の胸をグイッと押しのけ柚月は赤面しながら話をそらした。

「……文乃はホテルの仕事しながら圭介の仕事も手伝うんだと」

 そう言うと顔をそっぽ向け、拗ねながら浅見はワインを勢いよく飲んだ。

「すごい! 文乃さん素敵ですね。圭介さん支えながら自身のやるべき事を貫くなんて」

 柚月は目をキラキラさせながらドレス姿の文乃に視線を向けた。

「そうだな。圭介の実家に住むらしいから大変だろうけど、今はネットや便利なもんあるから大丈夫だろ」

 文乃を心配する横顔は妹の未来を案じている『兄』としての表情だった。

「私も薫さんを支えれる存在になれるように頑張りますね」

「え⁈」

 顔を赤らめながらにっこり笑う柚月を浅見は驚いて見返した。

「今、名前……」 

 テーブルの下でずっと繋がれていた手を引き上げ、浅見はもう片方の手で小さな手を包み込むと柚月は今までで一番の笑顔を見せた。 

 高砂席の二人に負けないくらいの幸せを未来に願いながら、柚月は浅見の大きな手をキュッと握り返していた。

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