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極上の恋物語〜本当の恋は〜


 浅見がバリに旅立って一週間程経った。

 柚月は寂しさを紛らわすようにいつも以上に仕事に没頭していた。

「未知、今日予定ある? なかったらご飯行かない?」

 定時を迎え、仕事がひと段落した柚月が神妙な顔で未知の側にやって来た。

(柚……?)

「予定ないよ、ご飯行こう。ちょうど行きたい店あったんだ」

 柚月のもの言いたげな表情を察知し、未知は快く同意した。

「ありがと」

 柚月はホッとしたような笑顔で自席に戻り急いで帰り支度をした。

 会社を後にした二人は近くに出来たばかりの韓国料理店に足を運んだ。

「ここ全席個室になっていてね、気兼ねいらないし料理の写真見てもリーズブルで美味しそうだったんだよ」

 スタッフに案内され二人はテーブルに着いた。

「雰囲気のいいお店だね。私駅と逆方向だから出来たの全然知らなかったよ」

 おしぼりで手を拭きながら柚月は店内を目で散策した。

「朝日がね見つけて今度行こっかって話してたの」

「えっ、じゃ私と来たらダメじゃない」

 柚月は申し訳なさそうに慌てて言った。

「いいの、いいの朝日の事は。また別の日に行ったって、あいつそんな事気にしないよ」

 未知は運ばれてきたレモンサワーをスタッフから受け取りながらあっけらかんとして言った。

「またそんな風に言って。好きなんでしょ?」

 予想外の言葉が柚月から放たれ未知は不意打ちを食らい顔を真っ赤にした。

「やっぱりバレちゃってた?」

 今まで見たことない未知の可愛らしい表情を見て柚月は自分の事の様に嬉しかった。

「顔を見てれば分かるよ」

「そっか……柚にでもわかったか」

「『柚でも』ってどう意味?」

 頬を膨らませ柚月は拗ねてみせた。

「鈍感な柚月でもわかっちゃったかって事」

 ニカッと意地悪く未知は笑ってみせた。

「あーそうですか! せっかく今日ご馳走しようと思ったのに。やーめた!」

 柚月は腕組みをし顔を横にプイッと向けて怒ったふりをした。

「えー、マジで⁈ 柚ごめん。柚月様」

 両手のひらを合わせ、未知は柚月におもいっきり嘆願した。

「嘘だよ。今日は最初からご馳走するつもりだったから」

「やったね!」

「未知ずっと前から松田君の事思ってたでしょ?」

 柚月はニッコリと微笑んだ。

「柚……」

「お待たせいたしました、サムギョプサルとこちら韓国風豆腐サラダでございます」

 スタッフが器用に料理と取皿を持ち、威勢よく登場してきた。

「ありがとうございます」

 二人は声を揃えて料理を受け取った。

「美味しそう。ね」

 柚月が話しかけるといつになく未知の表情は神妙になっていた。

「未知……?」

 取皿にサラダを盛り付けようとしていた柚月の手が止まった。

「朝日はさ」

「松田君?」

 サラダが盛り付けられた取皿を受け取りながら未知はポツリと語りだした。

「朝日は前から好きな人がいたんだよね。でも年明けてしばらく経った頃振られちゃってね」

「え?」

「片思いしてた人に彼氏ができちゃって。二人でいるところも目撃してしまったから、諦めるしかないって思ったみたい」

「松田君……そうだったんだ」 

 柚月は箸を置き、未知の方をジッと見た。

 切ない顔をした彼女を始めて見た柚月は、その時の未知の心情を想像し胸が苦しくなった。

「柚月にはバレちゃってたけど前から私は朝日の事気になる存在だったから。だからご飯や飲みに誘ったりとかちょっとがんばってみたんだ」

「うん」

 いつになく物静かに語る未知の話を柚月は静かに聞いていた。

「朝日に好きだってバレないようにしてきたつもりだけど、何となく気づいてるっぽくて。それでも私が誘うと付き合ってくれる、それだけで嬉しかったから。でも現実はね……」

 サラダの豆腐をパクリと一口食べ大きく息を吐いた。

「好きだった人を忘れる手段でも、ただ寂しいからでもいいんだ、一緒に居られれば。側にいて朝日が笑顔になるなら私はそれで。割り切ってそう思う事にしたんだ」

 そう言った未知の顔は雨上がりの空のように清々しい笑顔だった。

「ちゃんと気持ち伝えないの?松田君に」

 柚月は心配でたまらなかった。

「うん、今はこのままでいいかな。この曖昧なままで……。それより柚話あったんでしょ? 私の話はこれで終わり」

「あ、うん……」

 すっかり自分の今日の課題を忘れてしまった柚月は改めて告白する事に緊張してきた。

 未知の行く末が気にはなるもののこれだけは今日報告しとかないといけない気がしていた。

「実は、今お付き合いしてる人の事なんだけど……」

 今日の二人は中々料理に手が伸びず、飲み物が入ったグラスは氷が溶け、グラスの周りの水滴で紙のコースターは濡れて膨らんでいた。

「うん」

 自然と声が小さくなる柚月の顔に近づき、告白を聞き逃さないよう未知は前のめりになった。

「前にスマホ拾ってくれた人なんだ」

「あー、やっぱり! そうだと思ったんだ」

 未知はテーブルにかぶりついていた体を離し、予想していた答えに安心して椅子の背にもたれた。

「で、でね。その相手は……」

 さっきよりさらに柚月の声のボリュームが小さくなってセリフの後半が未知の耳には届かなかった。

「ん? 何て?」

 すっかり氷の溶けたレモンサワーを口に含みながら未知は聞き逃した言葉を要求した。

「スマホ拾ってくれた人、浅見薫さんだったの」

 さっきまで店の中の雑音で賑わっていた未知の耳に思いもしなかった名前が飛び込んできた。

「えっ⁈ 柚、今何て言った?」

 自分の耳を疑い柚月に再度尋ねた。

「あの、俳優の浅見薫さんなんだ……付き合ってる人」

「えー⁈」

 驚いて椅子から立ち上がりかかけたもののテーブルの脚に自分の足をひっかけてしまい床に尻もちをついてしまった。

「未知! 大丈夫?」

 柚月は驚いて未知の側に駆け寄った。

「柚……」

「ん?」

「す、すごい柚!」

 未知は気持ちがようやく思考に追いついてきて柚月を抱きしめた。

「やっぱ私ミーハーなんだなぁ。めちゃ興奮してきた! 柚、すごいよ。マジでびっくりした」

 浅見薫と自分の親友が付き合ってる、そんなこと誰が想像出来ただろうと未知は目をキラキラさせて柚月を見ていた。

「あーもう、柚。今日家に泊まりにおいで。どうしてそんな人と付き合う事になったのか順を追って話してもらいたいもん」

「う、うん」

 未知は柚月の両肩を持って前後に揺さぶりながら家に来ることを承諾させた。

 浅見と親密になった柚月自身も会えない寂しさや不安でいっぱいだった。

(未知に話し聞いてもらったら少しは気持ち楽になるかな…)

 柚月は未知の提案に甘える事にした。

 

 バリの乾気シーズンにしては珍しく朝からスコールが降っていた。

「浅見さん、スコールが止むまで撮影休止ですって」

 宿泊先のホテルのロビーで待機していた浅見にマネージャーの八代が駆け寄って報告をした。

「そうか、でも朝日の中での撮影だから今日は無理なんじゃない?」

 衣装に着替えてソファーに座っていた浅見はネクタイを緩めながら窓の外に目を向けた。

「はい、今日は後日撮影予定だった寺院のシーンを先に撮るそうです。なんで、浅見さん申し訳ないないですが、衣装の着替えをお願いします」

 八代が汗を拭きながら恐縮して言った。

「わかった、着替えてくるよ」

「すいません、お願いします」

 ロビーを出た浅見はスタイリストの待つ部屋に向かった。

 エレベーターで五階のボタンを押したところに一人の日本人らしい女性が飛び乗ってきた。

「何階ですか?」

 浅見は日本語で尋ねた。

 黒色のパンツスーツに肩より長い艶やかな黒髪の女性はゆっくりサングラスを外しながら浅見の横顔を見つめていた。

「六階をお願い、薫」

 聞き覚えのある声に浅見は反応し、後ろを振り返って女性の方を見た。

文乃あやの!」

「久しぶり、薫」

 浅見の心臓が驚きのあまり身震いした。

「お前、どうしてここに……」

「会いたかった……」

 女性は美しく彩られた指先を浅見の頬にのせ、首、鎖骨、胸へとその手を滑らせながら囁いた。

 驚きのあまり身動きできない浅見を壁に追い詰めるかのように『あやの』と呼ばれた女性はジリジリと詰め寄ってきた。

「薫がバリで撮影するって聞いて先にこっちに来てたの。新しく建てたホテルの仕事もあったし」

「……そうか。元気だったのか?」

 冷静な浅見が文乃を前に動揺を隠すことが出来なくなっていた。 

「ええ、何とかね。それより薫、また歌を始めたのね」

 いつの間にかエレベーターは点灯していたライトの階数を過ぎ、誰かが上の階で呼んだと思われ二人はそのまま上昇していた。

「薫のこと忘れようとしたけど、やっぱり忘れられない。だからもう一度私と……」

 文乃は浅見の腕を掴み、胸に飛び込んで言った。

「それは……無理だ。それだけは出来ない」

 困惑している浅見をこの場から逃すようにエレベーターの扉が開いた。扉の向こうに英語で会話をしながらスーツ姿の二人組が中に入ってき、同時に浅見はすり抜けるように外へ出た。

「薫! 話したい事が……」

 文乃の呼ぶ声をかき消すように扉は静かに閉ざされた。

 シンとしたエレベーターホールに浅見は一人立たずんでいた。

 人気のないエレベーターの前で浅見は一瞬にして過去の自分に引き戻されていた。

(もう会うことなんてないと思っていたのに、今更なんで)

 浅見は前髪をグシャリと掴み、壁に寄りかかった。

(話ってなんだ? いや、放って置こう。文乃の事だ、きっと会いにくるだろう)

 浅見はポケットからスマホを取り出し、待ち受け画面を見つめながら柚月の顔を思い浮かべた。

 以前柚月の部屋に泊まった時に撮った二人の手が画面いっぱいに映し出されていた。

 柚月の左小指にはピンキーリングが光っていた。

 その輝きが自分を見守っている柚月の笑顔の様な気がし、浅見は画面にそっと触れた。

(柚月、会いたい……)

 

 次の日、晴天の朝を迎え予定通りのシーンの撮影を無事に終えた浅見は、日差しの強い現場を避けスタッフが待機しているパラソルの下に移動した。

(今、十時過ぎ…という事は日本は十一時くらいか。柚月は仕事中だな……)

 浅見はスマホの時計を見ながらさっきスタッフから受け取ったコーヒーを口にしていた。

(柚月、元気かな。寂しがってるだろう……いや、俺が寂しいのか)

 自問自答していると、浅見のスマホの着信音が鳴った。

(柚月⁈)

 メッセージが届いていた。

『浅見さん、元気ですか? バリは暑くてバテたりしてないですか? 毎日撮影で大変だと思うけど無理しないでください。帰ってくる日を楽しみに待ってます。お仕事がんばってね。 柚月』

 まるで浅見の心が通じたかのようなタイミングで柚月からメッセージが届いた。

(柚月……)

 読みながら浅見の口元は自然に笑みが溢れていた。

「浅見さん、次の現場に移動します。昼休憩した後撮影開始です」

 返事を返そうとした時、八代が汗を拭きながら声をかけてきた。

「あれ、なんかいい事有ったんですか? 今すごく嬉しそうでしたよ」

「ああ、ちょっとな」

 とびきり爽やかな笑顔を向け浅見はコーヒー飲み干し、移動車が停めてある場所に向かった。

「あっ、そう言えば有名なホテルをいくつも経営してるあの九条グループの社長令嬢が見学したいって来てますよ。浅見さんにも会いたいって。ほらあそこに」

 八代の指差す先に昨日とは打って変わって、鮮やかな翡翠色のワンピースを風になびかせながら文乃が日傘を差し浅見の方を見つめていた。

「めちゃくちゃ美人ですよね、バリにいるからかなんかエキゾチックに見えますしね。前に雑誌で見たんですけど年が三八歳らしいんですけど、ぜんぜん見えないですよね」

 興奮してじっとはしていられない顔つきの八代はソワソワしていた。

 浅見は八代の独り言と片付けてしまい沈黙を装い黙って歩き続けた。

「浅見さん、次の現場にあの令嬢、えーと文乃さん。九条文乃さんを案内してもいいですか?」

 意気揚々としながら八代は浅見に許可を求めた。

「えっ⁈」

 歩き進めていた足を止め浅見は声を上げた。

「あ、ダメですか?」

 予想に反した浅見のネガティブな声のトーンに八代はビクリとして歩みを止めた。

「あ、いや……」

 返答に詰まらせた浅見に八代は被せるように話し続けた。

「日本ではもちろん考えられない事ですが、ここはバリですし、うるさい報道陣もいません。それにいやらしい言い方ですが彼女を無下にしない方がいいかなと思いまして。会社としてですけどね」

 さっきまでの浮き足立った口調とは変わってビジネスモードで八代はさとすように浅見に言った。

「わかったよ」

 止まっていた歩みを進め、浅見は無理矢理に自身を納得させた。

「ありがとうございます、早速彼女に話してきますね」

 八代は踵を返して文乃の元に駆け寄って行った。

 浅見は八代の後ろ姿を横目で見送りながら、車のドアを開け後部座席のシートに体を沈めた。

(今更なんなんだ……)

 浅見は日本ではないこの場所で身動きが取れず、周りをがんじがらめにされた心境に戸惑っていた。

 胸の奥から得体のしれないどす黒い物に押しつぶされそうな予感がしてたまらなかった。

(早く日本に帰りたい……)

 祈るように用意されていたペットボトルを握りしめる手に力を込めた。

 パキパキと音がしボトルが断末魔の叫びのように聞こえ、今にも中の水が押し出されそうに圧迫されていた。

 いつの間にか車に戻っていた八代は浅見の異変に気付かず運転手と雑談をしていた。

「浅見さん、もう現場に着きますよ」

 八代の声で我に返った浅見は何かを振り払うように頭を横に数回振った。

 仕事を放棄し今すぐ空港に向かいたい気持ちを押し殺ろし、浅見は砂けむり舞う見えない向こうの世界に本能だけで進んだ。

 

 撮影は順調に進み、バリでの生活も後半に差し掛かっていた。

 意味不明な不安感を抱きながらも毎日を何とか浅見はやり過ごしていた。 

 文乃の事がよぎり近況報告を柚月にする事を躊躇していた浅見は、スマホを眺めてはため息を着く日々を送っていた。

(なんて送ればいいかわからない。何を書いても嘘のような気がする……)

 相変わらず仕事の合間に文乃は撮影を見に度々やってきていた。

 文乃に監視されているかのような中、浅見は仕事をこなす事で精一杯だった。

「浅見さん、出番です」

 スタッフの声に反応し、俳優『浅見薫』の顔を取り戻し撮影場所へ向かおうとした。

「あ、浅見さんスマホ! スマホ預かりますよ」

 手にしたままだったスマホに気づいた八代が、浅見から受け取ると自分の上着のポケットの中にストンと落とし入れた。

 柚月にメールを出来なかったまま、後ろ髪を引かれ浅見は重い足でカメラの前に立った。

 新しいホテルの経営会議が終わった文乃は、スーツ姿のまま浅見の撮影現場に来ていた。

 目の前で大人になった浅見の姿を文乃は愛おしそうに見つめていた。

(薫、私たちまた一緒にいれるの……それを伝えにきたのよ)

 文乃は八代が用意したイスに座り、熱のこもった瞳を浅見に向けていた。

(?)

 文乃の側で羽音のような微かな音がした。

 聞き覚えのあるその音が気になり文乃は自分のカバンから発していない事を確認してからあたりをキョロキョロと探してみた。

 いくつか並べてあるイスのあたりから聴こえていたらしいその音は、イスの背もたれに掛けてある上着の中で囁いていた。

(これ、薫のマネージャーのものよね)

 無意識に上着を持ち上げるとポケットからスマホが滑り落ちた。

「あ、大変!」

 落ちたスマホが壊れてないか慌てて文乃は拾い上げ画面に触れ確認をした。

「これ……」

 画面には女性らしき白い手と少し日に焼けている骨ばった手が現れた。

 その白い手の小指にはキラリと光る指輪が幸せを主張するかの様に輝き、もう一方の手の人差し指をしっかりと握りしめていた。

(この手、もしかして……)

 画面にはメッセージが届いた表示がされていた。

 文乃はスマホを握りしめ、そっと画面をタッチした。

(ロックかかってる)

 文乃はパスコード入力画面に迷う事なく六桁の数字を選び打ち込んだ。

(開いた、やっぱり薫のだ)

 思わず文乃は周りを確認した。

 少し離れた海岸に撮影隊と浅見がいた。まだまだ撮影続行の雰囲気だった。

 文乃はためらう事なく届いたばかりのメッセージを開いた。

『元気ですか? 体調崩したりしてないですか? 浅見さんがバリでがんばってるのを思い浮かべて私もがんばってます。体には気をつけてください』

 柚月からの浅見に対する思いが溢れたメッセージが文乃の目に飛び込んできた。

「何これ……」

 胸の奥底から沸々と激しい怒りが湧き出てきた。

 いきどおりに似た感情が築き上げてき、文乃の体はブルブルと震えた。

 浅見と柚月の二人だけの甘いやり取りを文乃は一心不乱に指でスクロールし読み続けていった。

 文乃のスマホを持つ手が小刻みに震え憤懣ふんまんの沸点がピークに達していた。

 今までに味わった事のない怒りが心の一角に燃え上がってくるのを自覚した。

 その瞬間文乃の顔が無表情に変わり、それは感情を持たない桐の箱に入っている能面の様な冷たい目をしていた。

「薫……」

 ポツリ呟いたかと思うと、文乃はおもむろに文字をタイピングし、ためらう事なく送信ボタンを押すと、スマホ持つ力を緩め下へ落とした。

 そして繊細な画面に目がけてヒールでジワリと波紋を刻みつけた。

 誰の視線も自分には向いてない事を確認し、息絶えたスマホをバッグの中にそっと忍ばせた。

 

「今日は一段と暑いな」

 撮影が終わり、宿泊先のホテルに向かう車の中でシャツを着替えながら浅見は大きな独り言を言った。

「お疲れ様です、浅見さん。水冷えてますよ」

 八代が助手席から振り返り水滴をまとったペットボトルを差し出した。

「さんきゅ」

 日本を出発する前より日に焼け小麦色になった筋張った腕を伸ばしペットボトルを受けった。

(柚月にメールしよう、今の状況を素直に書けばいいんだから)

 撮影の合間にも文乃との再会で柚月に連絡する事を戸惑っていた浅見は、あれこれと考えた挙句自分の今の気持ちを素直に伝えようと決意した。

「八代君、俺のスマホ預けたままだよね? 出してくれる?」

 車が進んでる先を見ている八代の背中に声をかけた。

「あ、はい預かったままでしたね。今……」

 八代は慌ててジャケットのポケットを探った。

「あれ?」

 八代は少し焦りながら右のポケット、左とごそごそと手探りした。

 入れたはずの物が無い事に焦りが膨れ上がり持っていたカバンの中身を膝の上に並べ隅々まで探した。 

「無いの?」

 青ざめた顔をしながら浅見の方を振り返り八代は無言で首を縦に振った。

「マジかー。参ったな」

「す、すいません、すいません浅見さん! 本当に申し訳ないです」

 全身で謝る八代に悪気はないと理解しているものの浅見は柚月と連絡が取れない、ただその事だけがよぎりショックを受け言葉が出てこなかった。

「本当に……大事なものをーー。すいません。俺さっきの場所に戻って探してきます」

 現地の人が運転していた為、八代は片言の英語と身振り手振りで焦りながら車を止めるよう指示をした。

 上手く伝わらなかった八代は頭をかきむしりながら極限に焦っていた。

「八代君、もういいよ。きっと見つからないよ」

 異国の地でスマホなんて無事で手元に戻るはずなんてないと浅見は諦め、八代の肩にポンと手を置いた。

「申し訳けありませんでした……浅見さん」

 泣きそうな表情の八代を責める事など出来ず、浅見は無言で窓の外を流れるバリの街の向うに柚月の笑顔を想い描いた。

 

 会社帰り、近くの居酒屋に柚月はいた。

 未知が予約していた個室を案内され一人席に着いた。

 柚月にどうしても話したい事があるからと朝一に夜ご飯を誘われていた。

 店の中はザワザワと賑わっていた……はずなのに辺りの音を全て持ち去られたような静寂の中に柚月はいた。

 遠くに店のスタッフが客を迎える声や、追加のオーダーをする客の声が聞こえてきた。

『成田柚月』と言う人格が体の中から抜け出たように柚月の意識は遠いところにいた。

 眼の焦点もどこを見ても合わない。この店までどうやってきたかも柚月には実感がなかった。

 未知や朝日の誘いで店に来たものの、今日は自分の部屋に帰りたかった。帰って一人になりたかった。

「柚、ごめんお待たせーー」

「成田先輩、遅くなりすいません」

 夢の中にいる不思議な感覚から、ステレオの音量を少しづつあげていくように柚月の耳に現実が戻ってきた。

「あ、未知。松田君も。お疲れ様……」

「柚、どうしたの⁈」

 入社以来の付き合いで、こんなに血の気のない人形のような表情の柚月を見だことがない未知は声を荒げた。

「成田先輩、体調悪いんですか?」

 朝日も心配し柚月の顔を覗き込んだ。

 二人の顔を交互に見た柚月は一旦声を発しかけたが、まだ音にならないその言葉を喉の奥に引き戻してしまった。

「何かあったの?」

「う、ううん。何でもないよ」

 やっとの思いで吐き出した声はかすれて、周りの雑音にすぐ掻き消されてしまいそうだった。

 未知達に気づかれないよう顔中の筋肉を意識し柚月は精一杯の笑顔を作り上げた。

「本当に……?」

(しっかりしないと未知や松田君に心配かけてしまう)

「本当に大丈夫。お腹空きすぎちゃったよ。二人とも早く座って、注文しよ」

 自分が今どんな顔しているのか考える余裕もなく、二人を自分の向かえに座らせた。

 オーダーした料理が次々と運ばれて三人はグラスを片手に乾杯をした。

「で、未知何か話しあったんでしょ?」

 最初に注文したレモンサワーを飲み干してしまった柚月は、メニュー表を見ながら未知の方をちらりと見た。

「柚、今日ピッチ早くない?」

「そう? それより何、何?」

 空きっ腹に勢いよくアルコールが浸透して柚月の顔はいっきに赤く染まってきた。

「顔赤いよ、大丈夫?」

 心配する未知をよそにさっきより度数の高いハイボールをオーダーした。

 未知と朝日はいつもと様子が違う柚月の事が気になりながらも、お互いの顔を見合わせ緊張しながら告白を始めた。

「柚、私達付き合う事になったの」

 照れ臭そうに、でも最高に幸せそうに未知は顔をほころばせた。

「本当⁈ やった。よかったね。二人共」

 心底喜ぶ柚月を見て朝日が、

「仕方なしですよ、未知先輩が泣きつくから」

 朝日は顔を赤らめながらわざと投げやりに言った。

「あーさーひー! もう一回言ってみ!」

 日課になりつつある二人のジャレ合いを柚月は微笑ましく見て自分のことのように嬉しく思った。

「ほんとよかった。お似合いだよ、二人とも末永く仲良くね」

 テーブルに頭をくっつけて柚月は朝日に願った。

(ほんとに、末永く……)

 どこか祈りにも似た気持ちで願った。

 二人の楽しそうなやり取りを眺めながら柚月はハイボールの残りを飲み干し席を立った。

「柚、どしたの? トイレ?」

 立ち上がった柚月を見上げて未知は声をかけた。

「ううん、私先に帰るね。今日実家から荷物届く予定なの忘れてて。いつも一番遅い時間に配達指定して送ってくれるから」

「えー、不在にしてて明日じゃダメなの?」

 寂しそうに未知は尋ねた。

「うん、野菜とかだと思うから余り時間おきたくないんだ。ごめんね、せっかくの誘いに」

 自分の支払い分をテーブルに置こうとした手を朝日に静止された。

「成田先輩、ここは俺にかっこよく奢らせて下さい」

 ニカッと白い歯を見せ得意気に笑う朝日に柚月も少し気持ちが和らぎ甘える事にした。

「ありがとう、松田さま」

「おーいい響きですねーー。もっと言って下さい」

「朝日調子に乗りすぎ! 柚、帰り気をつけなね。まだそんな遅い時間じゃないけどいつもより今日は飲んでるから」

 未知は眉間にシワを寄せ心配げな顔をした。

「ありがとう、大丈夫だよ。後は二人でごゆっくり」

 意識して笑顔を作り柚月は二人に手を振った。

 心配してくれている未知、明るく振る舞う朝日に救われ、柚月はそれを自宅まで帰る源として店を後にした。

 

 アルコールに弱い柚月にしては今日はいつもより本当に飲んだ。ましてや空きっ腹という事もあって前に進もうとする足は少しフラフラしていた。

(うーー、今日は久しぶりに酔ってしまった。ちゃんと食事しなかったからかな)

 昼食の時も食欲なくヨーグルトしか食べてないのを思い出していた。

 最寄駅までがいつもより長く感じた。

 途中、未知とよく行くカフェの前に差しかかり近くの植え込みを見つけ柚月は、吸い寄せられるようにそこに座り込んでしまった。

 まだ時間は夕食どきという事もあって行き交う人が多くたくさんある店もまだ賑わっていた。

 柚月はカバンを膝に抱え流れていく人並みの景色を眺めていた。

(末永く、か……いい言葉だな)

 ふとさっきの未知が幸せそうな顔をしていたのを思い出し柚月はカバンからスマホを取り出した。

 大好きな人との繰り返し交わした言葉のやり取りを読み返していた。

 指でスクロールし今日の午前中にきた最後の言葉が現れ、そこで柚月の指が止まった。

 

『もう会わない、ごめん』

 

 短い別れの文章が現れ、読み返していた。

 浅見がバリへ旅立ってから初めて届いた待ちに待ったメッセージが終わりを告げる言葉だった。

 スマホの画面に水滴が次から次へと落ち、あっという間に柚月の視界はボヤけてきた。

(浅見さん……バリで何かあったの? それとも私との事なんて最初から気の迷い?)

 柚月の目から壊れた蛇口のように涙が溢れて止まらなくなった。

(未知の前で我ながらよく耐えたよ、自分を褒めたい。泣いちゃうと今みたいにきっと止まらなくなって未知に心配させてしまってた。せっかく松田君と想いが通じ合ったのに)

 一人抜け出して帰ってきてしまった事だけは許して欲しいと心の底から願っていた。

「今日が金曜日でよかった。この休みでがんばって回復してまた月曜から仕事しないと……」

 独り言をポツリと言い、抱えていたカバンをぎゅっと抱きしめ小さくうずくまった。

 ふと、左手に光る指輪が目に留まった。

(お守りにならなかったな……)

 キラキラと光る宝石も何故だか悲しそうに見えた。

 柚月は指輪を見つめ、ため息をついた。

「迷惑かけないって約束したものね……」

 柚月は浅見と出会った時のことを思い出していた。思い出して、また涙が溢れ止まらなくなった。

 賑やかな街の中、一人海底に沈んだような孤独な気持ちに支配されていた。

 指輪が光るその手をキュッと握りしめ額に当てた。

 目を閉じ指輪を受け取った日の事を思い出した。

 そのまま動けずにいた柚月は、泣きはらした目で夜空を見上げ手は自然と指輪に触れていた。そしてそっと外し財布の中にしまった。

 小指には大切な人からの温もりを思い出させるように薄っすらと後がついていた。

「この跡が消える頃には忘れられるよ……」

 そう言ってまた涙が溢れてきた。

 辛く、苦しい声がかすかに漏れた。

 その救いを求めるわずかな声も週末のはしゃぐ街の音に埋もれてしまった。

 

 日下部はふと足を止めた。

 会社近くのカフェの前の植え込みに埋もれるように座っている柚月を見つけた。

「成田?」

 様子がおかしい事に気付き柚月の方へ近寄って行った。

 空を見上げていたその顔は次にはうなだれいた。

(泣いてるのか?)

 髪が顔を覆い表情は見えない、だがいつもと雰囲気が違い別人のように見えた日下部は、心配になり自然と足の速度を速めていた。

「なり……」

 名前を呼ぼうとした日下部の目に飛び込んできたのは、小さな肩を震わせながら誰にも気づかれないように静かに涙を頬につたわせていた。

 初めて見るそんな柚月を見て日下部はカバンを持つ手を握り直した。

 日下部の胸に今まで押し殺していた感情の蓋が開き、締め付けらるように熱くなった。

 咄嗟に体が動き柚月のとなりにそっと座った。

 コツンと肩と肩が触れ合い、柚月はうつむいていた顔を上げ隣に目線を向けた。

「く、日下部さん……」

「よお」

 優しく微笑む日下部に驚き、慌てて涙を拭った。

「さっきまで重役会議だったんだけど俺らの事、上の人達褒めてたよ。ここ最近の手がけた広告のクライアントから高評価ばかりだったらしい」

 柚月の涙にまるで気づいてないように振る舞い、会議の報告をしてくる日下部に泣き顔がバレてないと柚月はホッとしていた。

「これは夏のボーナス期待出来るな! まぁ、全て俺の手腕のおかげだけどな。お前たちの頑張りは俺のもの、だもんな」

 明るく話し続ける日下部を見て柚月はくすりと笑った。

「日下部さんずるい、ジ○イアンじゃないですか、独り占め禁止です」

 まだ潤んでる瞳で柚月は思わず笑っていた。

「お、笑ったな」

 日下部は柚月の頭をくしゃりと撫でイケメン全開の笑顔を向けた。

「もう、日下部さん髪が……」

 手ぐしで乱された髪を整えながら柚月は笑いながら怒って見せた。

「ははは。成田はいじりがいがあるよ、ほんと」

「これはもうセクハラですよ」

 フフッと笑いが自然と生まれ柚月は少し心が軽くなった。

「訴えられたら困るから成田を買収でもするか。今から飲みに行こう、いい店連れてってやるよ」

 日下部は強引に柚月の腕を掴みその場に立たせた。

「え⁈」

 戸惑う柚月をよそに日下部は腕を掴んだままタイミングよくやってきたタクシーに手を上げ、柚月を押し込め二人乗り込んだ。

 

「成田、そろそろ帰るぞ。ほら送るから」

 二人は日下部の行きつけのバーに来ていた。

 薄暗く落ち着いた照明の中、ジャズと控えめな会話の音の中二人は仕事の話や未知、朝日の話をして時を過ごしていた。

「やですよ、日下部さん。私まだ飲みたいです。ここ凄く雰囲気良くて居心地いいんですもん」

 酔った柚月は日下部の腕を摘み左右に振り続けた。

「だろ? 俺のお気に入りの場所だ。今日は特別に成田を連れてきてやったけどな。他の奴にはバラすなよ」

「はい、ボス!」

 柚月は真っ赤に酔った顔をして日下部に敬礼した。

「酔っ払ってるな」 

「酔ってませんよ、ぜーんぜん。ほらーー」

 座るのに苦戦していた背の高い椅子から弾みをつけて体操選手のように着地して見せた……がパンプスの所為なのか、アルコールが原因なのか不完全な体勢になり柚月はよろめいた。

「危ない!」

 間一髪のとこで日下部に抱きとめられた柚月は他のお客から注目される事なくその場を回避する事が出来た。

「す、すいません」

「ほら、やっぱり酔ってるだろ。いや違うな、成田が運動音痴なんだな」

 柚月を抱きしめたまま日下部はからかった。

「ひど! 私これでも学生の時は体操部だったんですよ!」

 日下部に支えられながら椅子に座り、残っていたシャンパンを口にした。

「はいはい。まぁそう拗ねるな」

 柚月の頭をくしゃりと撫で手からグラスを取り上げた。

「さぁお開きだ、送るよ」

 日下部はカウンターにしがみついてる柚月の体を引き剥がし強制連行した。

「日下部さん意地悪です」

 スポンジの上を歩いてるようにフワフワした足取りで柚月は観念し日下部に従った。

 店の前の通りからタクシーを拾い、柚月一人を乗せ自宅の場所を運転手に伝えさせようとした。

 だが酔って虚ろになった柚月から情報を得る事が出来ず、けげんな顔の運転手とルームミラー越しに目が合い日下部は焦ってしまった。

「お客さん、どうします?」

 痺れを切らした運転手に急かされ、日下部は一緒にタクシーに乗った。

(仕方ないな……) 

「運転手さん、このまままっすぐ行ってもらえますか。で、二つ目の信号左折してください。その先はまた言いますんで」

 日下部に聞こえるか聞こえないかくらいの小さなため息をつき運転手は車を走らせた。

 そんなやり取りを気づきもせず柚月は日下部に寄りかかりスヤスヤと寝息をたてていた。

(ひとの気も知らないで……)

 肩を柚月に貸したまま、日下部はさっきの運転手より大きなため息をつき外の景色を眺めていた。

「……」

「ん? 起きたのか?」

 眠っていた柚月がモゾモゾと動いた。

「…さみさん…」

「成田?」

「あさ…みさん……」

 柚月がかすれる声でそう呼んだかと思うと閉じていた目から涙がポロポロとこぼれ出し、それ以上何の言葉を発する事もせず、静かに頬を濡らしていた。

(あさみ?…)

 日下部は柚月の頬を伝う涙を指でぬぐい、何か語りげな柚月の唇に自分の唇を重ねようとした、がすぐに罪悪感が襲い顔を離した。

 目線を落とすと自分の腕が柚月の腕で固定されているのに気づいた。

 自分の肩に体を預けている柚月を眺めながら、日下部は唇を噛み締めていた。

(くそ、諦めていたのに俺を煽るなよ)

 二人の体はパズルのようにピッタリと体に沿うようにくっついて離れず、日下部の心と体は限界に来ていた。

 体全体が熱くなってくるのを自覚し、抑えていた感情が爆発しそうになっていた。

(あさみって言ったよな。まさかな……)

「着きましたよ」

 指示通り黙々と車を走らせていた運転手の声で我に返った日下部は、支払いを済ませ柚月を抱えるようにタクシーから降りた。 

 

(あれ?)

 見慣れない天井にボンヤリとしながら柚月は目を覚ました。

 伸びをし、目をグリグリとこすりながら体を起こし周りを見渡した。

(ここ……どこ?)

 ベッドから起き上がり、かけられた布団やセンスのいい家具が目に入った。

 そして自分の部屋じゃない事だけはすぐ理解できた。

(確か夕べ日下部さんと飲んでて……ダメだその先が覚えてない)

 柚月が頭を抱えていると何かが足の上に乗り生暖かい感触が布団越しに伝わってきた。

「えっ⁈」

 驚いて布団から飛び出し、柚月はベッドの上に立ち上がった。

 

「ニャー」

 

「ね、猫?」

 柚月の方を見上げていたのは1匹の猫だった。

「かわいい。何、この子」

 丸いインディゴブルーの瞳に胸元の毛は白くふわふわし、体全体は薄いベージュグレーの毛で覆われていた。

 柚月は愛でるだけじゃ我慢出来ず猫に飛びついた。

 猫が無防備なのをいいことに、柚月はスキンシップを堪能していた。

「起きたのか?」

 柚月はドキッとし声の方を振り返った。

「日下部さん! は、裸!」

 シャワーでもしていたのか、日下部は上半身裸で、濡れた髪をタオルで拭きながら部屋に入ってきた。

「かわいいだろ、そいつ」

 目のやり場に困り、うろたえている柚月をよそに、日下部は目尻を下げながら愛猫を自慢した。

「はい! めちゃかわいいです! って日下部さん、そんな事より服、服着てください!」

 はずかしくて両手で顔を覆った柚月は日下部から視線をそらした。

「成田揺すってもおぶってもぜんぜん起きなかったし。住所きいても爆睡しちゃってるし。仕方ないから俺の家に連れてきた」

 いつも柚月に対し悪ふざけをする『柚月いじり』をしてる時の顔で日下部はからかってきた。

「す、すいません! ご迷惑をかけて!」

 ベッドから降り、柚月は深々と頭を下げた。

「気にするな。それより俺のことセクハラで訴えるなよ。手出してないからな」

「も、もちろんです! すいません、本当にありがとうございました」

 もう一度柚月は頭を下げた。

「朝飯食うか、作ったから」

「え⁈ 日下部さんが?」

 服のまま寝ていたため柚月はシワを気にしながら日下部の後ろをついて行った。

「一人暮らしの男の腕舐めるなよ」

 リビングのテーブルに用意されていたのは品揃え豊富な和朝食だった。

「凄い、おいしそう!」

「腹減ってるだろ。お前昨日食欲ないってあんまり食ってなかったもんな」

「え?何で知ってるんですか?」

 目を丸くし不思議そうに柚月は日下部を見た。

「夕べ飲みながら言ってたからな。それに会社でも昼休みヨーグルト食っただけだったろ」

 よそった味噌汁を柚月の前に置き、会社では見せた事ない笑顔で日下部は言った。

「よく見てますね日下部さん、流石です」

「だろ?」

 何も聞かずこんなたわいのない会話をしてくれる日下部に柚月は感謝した。

 ご飯を口に入れゆっくり噛み締めながら夕べの涙を忘れるように普段着の日下部とたわいもない時間を過ごしていた。


「おはようございます。日下部さん、週末はご迷惑をかけてすいませんでした」

 月曜朝一番に日下部のデスクに直行し、柚月は改めて謝罪した。

「おはよう、ちゃんと飯食ったか?」

 毎日朝早く出勤する日下部を見習い、柚月もいつもより一本早い電車での出勤だった。

「はい。朝しっかり食べました。日下部さんのお味噌汁にはかないませんけど」 

 柚月は努めて明るく振るまって見せた。

「今日も忙しくなるから気も紛れるだろう。期待してるからな、成田」

「はい! がんばります」

「張り切り過ぎると何かやらかすからな、成田は。程々にな」

 ニカッといつもの安心感を与えてくれる笑顔を見せ、日下部は呼び出しの電話に出た。

(いい上司だな。日下部さんをがっかりさせないようにしっかりしなきゃ!)

 油断するとまだ泣きそうになる弱い気持ちを奮い立たせ、柚月は自席についた。

 

 撮影が終わり、明日には帰国出来ることに浅見はホッと胸をなでおろしていた。

(スマホがない事がこんなに不安になるなんて思いもよらなかったな) 

 八代もあれから必死に探してはくれたものの、浅見のスマホは姿を現さなかった。

(連絡出来なくて柚月寂しがってるだろうな。名刺はあるけど勤め先に連絡するわけいかないし、桜田さんに聞けば柚月の携帯番号教えてもらえるだろうけど、それはできないしな……)

「明日帰国したその足で行くか」

 浅見は一人ホテルのロビーでつぶやいていた。

「どこに行くの?」

 背後から聞き覚えのある声がし、浅見は振り返った。

 文乃が仕事モードスタイルで腕を組み、仁王立ちしていた。

「文乃!」 

 ここ最近、自分の仕事が忙しかったのか現場に姿を見せなかった文乃が浅見の座るテーブルの前に座った。

「話があるの。撮影終わって明日帰るんでしょう? 今日ぐらいちゃんと話聞いて」 

 穏やかに話す口調とは裏腹に、ピンと張りつめた空気は紛れもなく文乃がかもし出しているものだった。

「……わかった、聞くよ」 

 ソファーに座りなおし、浅見は文乃の目を見た。

 中庭に背を向ける形で文乃は浅見の正面に座った。

「……初めて薫と会ったのは父の仕事の関係でテレビ局に行った時、あなたに一目惚れしたの昔話したでしょ?」

「……ああ」

 文乃が何を言いたいのか今の段階では全く予想がつかず、浅見は注意深く返事をした。

「強引に連絡先聞いて、私必死であなたに思いを伝えて。薫はそんな私に答えてくれたよね」

「……」

 浅見は黙って文乃の話を聞いていた。

「薫は人気絶好調のアーティストだったから二人こっそり会って……本当に幸せだった。薫も私の事大切に思ってくれて。だけど私の父が反対して薫のこといろいろ調べたんだよね」

 重圧な空気を紛らわしたく浅見はポケットから煙草をだした。

「いいか?」

 返事の代わりに灰皿を浅見の前にスッとさしだした。

「調べたら……」

 文乃は少し間を置き肩でため息をついた。

「調べたら思いもよらない結果だった。私も父に聞かされた時は信じられなかったもの。薫が私の兄だったなんて」 

 浅見は文乃の姿を通り越して目を外の中庭に向け、煙草の煙を思いっきり吐き出した。

「元々惹かれた理由の一つは兄と名前が一緒だって思ったからだしね」

 浅見は黙ったまま文乃の話を聞くことでしかこの場をやり過ごす手段はなかった。

「私が仕事だけでバリまで来たんじゃないのよ。薫に会いに来たのが一番の理由。なぜか分かる?」

「いや」

「薫」

 甘えた声で名前を呼び、その場に立ち上がると文乃は、浅見の左側のソファーに移動し座った。

「もう一度、私の元に帰ってきて」 

「な、何言ってんだお前!」

 淡々と話す文乃とは反対に、感情をあらわにした浅見は昔の甘くも忌まわしい出来事が脳裏に蘇ってきた。

(絶対にしてはいけない禁忌を犯してしまったんだ俺は。思い出すだけで自分がおぞましい……)

 過去の自分が一気に浅見を襲い身震いした。

「大丈夫。もう私たちに何も問題はないの」

 文乃は浅見に顔を近づけ囁いた。

 絶対に文乃に触れたくない決意が現われた浅見の拳に、それをこじ開けようと真紅に染めた指先が絡まってくる。

「やめてくれ、俺たちは兄妹で……」

 浅見は妖艶な動きをする文乃の指を払いのけ、低い声で拒絶した。 

「違ったのよ」 

 言いかけた浅見の言葉をかき消す声で制圧した。

「はぁ? 何言ってんだ?」

「違ったのよ」

 再び浅見の手の上に文乃は自分の両手を重ね力を込めた。

「私たち、兄妹じゃなかったの」

 一変して文乃は少女のような無邪気な表情を見せた。

「冗談はやめてくれ!」 

 文乃に対して疑念しか抱けない浅見は半ば呆れてしまい、席を立とうとした。

 だが、文乃の次に発した言葉が浅見の行く手を阻んだ。

「私のお母さんは別にいるのよ」

「⁈」

 浅見は腕を掴まれ、元いたソファーに無理やり座らされた。

「私と薫の親は別なのよ」

「は? 何だって⁈」

 バリに来て初めて浅見は文乃を直視した。

「私の母親は薫のお母さんの親友で、私を産んだ後しばらくして病気で亡くなったの。そして死ぬ間際に残された私の事を薫のお母さんに託したのよ」

 長い髪をすくい、かきあげられた髪がぱらりと顔にかかった。そしてその隙からまばたかない目で浅見を見据えた。

「そんな話信じられない。誰から聞いたんだ?」

 文乃はすぅっと息を吐き、話を続けた。

「薫と別れた後仕事に没頭する毎日だった。そんな時仕事で役所に行って、ある養護施設が取り壊されてしまう話を耳にしたの。それでふと私たちがいた施設の事が気になってその足で訪ねた」 

「あそこに行ったのか。施設はどうだったんだ? まだちゃんとあったのか?」

 世話になった施設に対し過去に何回か寄付はしたものの、浅見は一度も訪ねた事はなく後ろめたさを感じていた。

「大丈夫よ、ちゃんと施設はあった。だから私は真実を知ることができたの」

 無事に健在してると知り浅見は胸をなでおろした。

「施設長が私に教えてくれたの。実の母親がいて亡くなった後、薫と兄妹として育てられてたって。私の母親は自分が死んだら、薫のお母さんに育てて欲しいって施設長に相談してたみたい」

「なんだそれ……」

 浅見は不安を表すかのように髪を搔きむしった。

「信じられないならDNA鑑定したっていいわ」 

 浅見の腕にしがみつき、文乃は全身で『他人』である喜びを伝えた。

「嘘だ……」

 うろたえている浅見に抱きついた文乃は、そのまま自分の唇を煙草の匂いが濃く残る唇に重ねた。

 呆然とした浅見を力一杯抱きしめ、文乃は矢継ぎ早に口づけを続けた。 

 我に返った浅見は、文乃を跳ね除け唇を自分の手の甲で拭った。

「何よそれ」 

 込み上げてくる怒りをかろうじてこらえながら、怒りに震える目が浅見を捕らえていた。

「薫は嬉しくないの? 私と兄妹じゃない事が。あんなに私の事を求めてくれたじゃない」

 文乃の目が怒りから悲しみへと変化していった。

「……確かに以前の俺ならもしかしたら喜んだのかも知れない。だけど今は違うんだ。文乃はやっぱり俺にとって妹のふみの、ふうちゃんなんだ。今はっきりわかったよ」

「違うわ、私は『あやの』よ」

 か細く自分の名前をつぶやくと文乃は我慢していた涙を解放した。

 いつの間にかロビーには二人だけだった。

 夕食の時間になり、今日はホテルのプライベートビーチでイベントが催され、利用客のほとんどは会場へ出向いていた。

「名前……」

 気の強い口調から別人のように文乃は弱々しく語り出した。

「名前を……お母さんは『あやの』じゃなく『ふみの』って呼んでたわ」

「ああ、俺は母親が『ふみの』って呼んでたから何も疑うことなく自分の妹は『ふみの』と言う名前の女の子だと思っていた」

 浅見は深いため息を吐きながら言った。

「小さい頃の事だから記憶なんてあまりなくて。ただ小さくてかわいい妹の事を『ふうちゃん』とずっと呼んでいた。離れ離れになるまではな」

 浅見の言葉を理解しようと文乃は聞き入っていた。

「大人になって君と『あやの』として出会った……。妹だなんて夢にも思わなかった。何も気づけず本当にすまない」 

「……父がね」

 閉ざしていた文乃の唇がゆっくり動いた。

「あ、実の父親ね、顔も知らない。その人私の母親にずっと暴力……DVをしていてね。母はそいつから逃げていたの。逃げている時に施設長に助けてもらってそのまま施設で働かせてもらったの。私を産むまで」 

「だから、父、あいつから守る意味で私の名前を呼びかた変えてた」

 もうきっと顔も声も覚えてないわずかな母親の温もりを思い出しながら文乃は遠い目をしていた。

「そう……か」

 すっかり外の景色が闇に包まれ、遠くにポツポツと灯る明かりに昔の思い出を描きながらぼんやりと眺めていた。

「俺は……」

 視線の行き先を変えないまま浅見は口を開いた。

「昔の俺は本当に君が好きだったよ。でもずっとその『好き』に違和感があった」

「違和感? 今更なに?」

「君の事はかわいいと思っていたよ、兄妹だと知らなかったらきっと今も一緒にいたと思う」

「だったら!」

「違ったんだよ、俺はある人に出会って気づいたんだ。誰にも取られたくない独占欲で本当に胸の奥が熱くて苦しくなるくらいに人を好きになる気持ちを」

 浅見の頭には柚月のことでいっぱいになっていた。思い出すのは彼女の笑顔ばかりだった。

「薫は私のよ……」 

 呪文のように文乃は繰り返して言った。

「何度言われても俺の気持ちは君には向かない。本当に申し訳ない」 

 浅見は誠意を込めて文乃に頭を下げた。

 自分に頭を下げ続ける浅見の姿を見て文乃はソファから勢いよく立ち上がり、

「嫌よ! 私は諦めない。薫ともう一度一緒にいたいもの」

 そう強く言い捨て文乃はその場から去って行った。 

(どんな手を使っても薫を取り戻すわ)

 何かを決意した文乃は、別の人格が生まれたように豹変し、大理石のフロアにヒールの音を激しく響かせながら浅見を残しホテルの外へ出た。 

 駐車場に止めた自分の車へと向かおうとした文乃は何かを思い足を止めた。

 そして踵を返し柱の陰に置いてあるダストボックスへ近づいて行った。


(あれ、あの女の人よく撮影見に来てた人だよな。あんなところで何してんだ?)

 車に忘れ物を取りに駐車場に来たカメラマンの助手星野が、じっとダストボックスを見つめている文乃に気づき足を止めた。

 様子がおかしいことが気になり星野はしばらく遠巻きに眺めていた。

(ゴミ箱なんかジッと見て、変な人だな)

 星野は車から必要なものを取り出しながら目の端で文乃の行動に意識を向けていた。

 文乃は持っていたバッグの中から何かを取り出し、ダストボックスへと投げ捨てた。

 ガコン! と硬い物が落ちる音がし、それは星野の耳にまで届いた。

 その後文乃は自分の車へと乗り込みアクセルをふかし勢いよく駐車場を後にした。

 すぐさま星野はダストボックスに近づき中を覗いた。

(スマホ?)

 紙くずや、破れたビニール袋の中に紛れて、スマホが半分ほど姿を見せ沈んでいた。 

 手を突っ込みスマホを拾い上げた。

「うわぁ、何だこれ。バッキバキじゃん」  

 ダストボックスに入っていたスマホの画面は、見るも無残に割れていた。

「ひどいな、踏んづけたみたいだな」

 星野はふと八代がスマホを必死で探していたのを思い出した。

「八代さんスマホ探してたよな。これかどうかわかんないけど一応見せてみるか」

 星野はスマホをボディバッグに入れ車のロックし小走りでホテルに戻って行った。

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