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極上の恋物語


  愛おしいということ 

  

                賢木 裕


「本日は、宝生監督の六十歳の誕生パーティーにお集まりいただきありがとうございます」

 司会者の男性がマイク越しにパーティーの始まりを告げ、騒ついていた会場内が静まり返った。

 都内一等地にそびえ立つユーフォリアホテル内の一番大きなパーティ会場、その壇上に立つ男性に注目が集まった。

 総勢二百人ほどの招待客が一斉に手にしたシャンパンを高く上げ、たくさんの賛辞が飛び交った。

 宝生の挨拶が始まった時、扉の開く音と共にそっと会場に入る人影がすき間から見えた。

 スラリと伸びた手足に服の上からでも分かる完璧な筋肉、程よい厚みの胸板を持つ逆三角形の体はとても秀麗しゅんれいな姿をしていた。

 しなやかな手でぱらりと額におちる前髪を優雅に後ろへかき上げ、ウェイターからシャンパングラスを受け取った。

 乾いた喉を潤そうとした時、煌びやかなドレスを身にまとった女性が男性に声をかけてきた。

 無表情の男性は女性を軽くあしらい、会場の奥に進んで行った。

「相変わらず冷たい男だな、薫」

 二杯目のシャンパンを飲みかけたその男性に声をかけてきたのは、スキンヘッドにあご髭のワイルドな出で立ちの男性だった。

「蓮、飲みの席だと顔を出すのが早いな」

 タキシード姿の男性、浅見薫はシャンパンをクイっと飲み干し、大友蓮の横に座った。

「美女が話しかけて来てたのにスルーなんてホント無愛想な男だよ」

「美女でも何でも俺は興味ないよ。それに向こうも『俺』じゃなくて誰でもいいんだよ。芸能人ならな」

 浅見は深いため息と共に冷ややかな言葉を吐き出し蓮を呆れさせた。

「それより撮影は札幌か? 遅れたのは雪か?」

「まあな。一応遅れるかもとは監督に連絡してたから。それより蓮、佐々木さんが困ってたぞ。大友さんから次の脚本届かないって」

「ああ、今日送ろうと思ってたんだよ。俺ギリギリ追い込まれないと書けなくてさ、知ってるだろ」

 短く切りそろえたあご髭を撫でながらニヤリとした。 

「お前の仕事っぷりは小学生の夏休みにやる宿題だな」

 浅見は軽い微笑を頬に浮かべ、冷やかす様に蓮の額を軽く叩いた。

「痛ってーー」

「あんまりプロデューサー困らせんなよ」

 諦め顔でそう言い放ち新しいグラスを手にした。  

「ところで前に噂になってたモデルの子とはどうなったんだ?」

 蓮はくっきりとした二重の瞳をいやらしく光らせた。

「誰だっけ?」

 浅見は首を横に傾げた。

「薫ーー、お前は相変わらず薄情な男だな。結構きれいな子だったのに、その子もダメだったのか?」

 蓮は心底残念そうにボヤいた。

 浅見はそんな蓮の肩をポンポンと叩いた。

「だから興味ないんだよ……」

 目を細めて苦笑いした。

「何が興味ないだよ。簡単だろ? 美人で尚且つ惚れてくれてる子を相手にするのは」

「お前はいいよな、簡単で」

 なだめるように蓮のスキンヘッドを撫でながら言った。

「俺だって誰でもいいわけないんだからな。ただ……お前を心配してるだけだ」

 壁際に置いてあったソファーに荒々しく腰掛けながら、蓮は拗ねてみせた。

 浅見は皿からマカロンをひとつまみし、蓮の口にあてがった。

「甘! お前、何するんだよ」

 口を拭いながら蓮は絶叫した。

「わかってるよ……」

 浅見はため息にも似た返事をした。

「それに……もうこの先は期待出来そうにないしな」

 ポツリと呟いた時、舞台の方で歓声が沸き浅見の本心は掻き消されてしまった。

「何か言ったか?」

 蓮は口直しのビールを一口飲みチラリと浅見を見た。

 彼の人を寄せ付けない表情が、これ以上踏み込んで欲しくない空気を醸し出していた。

「いや、別に」

 眉根を寄せて心配げな蓮をよそに、浅見はフッと微笑みながら蓮のグラスに小さな音色を奏でた。

 

 パーティーも佳境に入った頃、喫煙ルームへ向かうため浅見は一旦会場の外に出た。

 フロアには、浅見がいた会場より小規模の部屋が二つあり、十二月という事もあって今日はそこも貸し切りになっていた。

 各会場内でも何かしらの催しがされているのか、扉はピッタリ閉まっておりフロアにはホテルの客はおらず、時折スタッフとすれ違う程度であった。

 浅見は胸ポケットから取り出した黒ぶちメガネをかけ、喫煙所に足を向けた。

 一番奥の会場前を通りすぎると目的地はあった。

 足早に進む黒い革靴が、柔らかい絨毯じゅうたんの上でピタリと止まった。

(なんだアレは……)

 浅見の目にホテルには似つかわしくないモノが飛び込んできた。

(中華街でよく見るやつだよな……)

「なんでこんなとこにお面で?」

 浅見は思わず心の声を漏らしてしまった。

 その『お面』の体は紺色のタイトスカートのスーツで、その姿から中身が女性だという事は理解できた。

『お面』は奥の会場扉横で奇妙な動きをしていた。

 両肘を曲げたまま顔の横につけ、それを上げたり下げたりしてまるで盆踊りでもしてるかのようだった。

 浅見は滑稽こっけいな動きをする『お面』の行動をしばらく見つめていた。

 視線に気づいたのか『お面』は盆踊り状態のまま動きを止め浅見の方をゆっくりと振り返った。

 目の前にいるオーラをまとった男性を直視した『お面』は、何が起こっているのか瞳から脳の司令塔に指示を出すまで数秒かかりフリーズしてしまった。

『お面』……中身の女性、成田柚月は目の前にいる人間が、大ファンの浅見薫だと認識したと同時に、とんでもない格好の自分を恥ずかしく思い後退りした。

 その途端、足がもつれ後ろにひっくり返ってしまった。

「きゃぁ!」

 心臓がバクバクし、お面を被ったままだということを忘れて柚月は両手で頭を抱えようとした、が通常サイズの頭ではない為芸人顔負けの格好を披露した。

「ぶっ! あっはっはっーー」

 浅見は堪えきれずに声を張り上げて爆笑し柚月に近寄った。

「君、大丈夫?」

 笑いすぎ、涙を拭いながら浅見は柚月に声をかけた。

 突然現れた本物の浅見薫に驚いたのと、恥ずかしさとで腰が抜けて柚月は立つことができなかった。

(どうしよう、立てない。声もでない……) 

 柚月の表情はお面をつけていても容易に想像できそうなうろたえっぷりだった。

「ほら」

 浅見が柚月に手を差し伸べた。

 目の前に差し出された骨張った長い指先の手をまじまじと見つめ、現実に起こっている事なのかすぐには理解不能だった。

(浅見薫が私に手を差し伸べてる? 夢……?)

 この状況を把握出来ずにいる柚月の手を掴み、浅見はぐいっと引き起こした。 

(手、手が……繋いでる? 信じられない⁈)

 頭の中をグルグル思考が駆け巡り柚月はお面のままだということ忘れていた。

 その時、後ろの扉が開く気配がし、賑やかな女子の声が聞こえてきた。

(あ、まずい!)

 咄嗟とっさに体が反応し、浅見の腕を掴んだかと思うと、会場横のパーテーションで目隠ししている通路に浅見の体を押し込めた。

「えっ? 何?」

 されるがまま浅見は通路の陰に身を隠す形になった。

「柚ーー、頑張ってる?」

 会場から出てきた女子が声をかけてきた。

「う、うん。まぁまぁ……かな」

 声をかけてきたのは柚月と同期の島崎未知だった。

 ショートカットの似合う美人で頼り甲斐のある親友が経理課の女子と一緒に出てきた。

(おしゃべり好きで有名な経理課さん達に浅見さん見つかったらどんだけの騒ぎになるか!)

「災難だったね、朝日がインフルになって。本当は彼がそのお面被らなきゃだったのにね」

 未知は腕を組みながら、半分は怒りにも取れるような仕草をしてみせた。

「そうだね。でも仕方ないよ、私彼の教育係だもん。代役しろって言われたら断れないよ」

 柚月はお面の頭をポリポリと掻いておどけて見せた。

 くすりと未知は笑い、

「柚らしいね。何か手伝うことあったら言って。頑張ってよね、忘年会盛り上がるかどうかはアシスタントさんに掛かってるんだから」

 ニヤニヤしながら未知は手をひらひらさせその場を後にした。

 浅見はパーテーションの陰で柚月達のやり取りをじっと聞いていた。

(この子は俺が浅見だとバレないようにここに押し込んだんだな。さっきまでオロオロしていたのに……)

 自分を匿うかのように前に立ちふさがっている柚月の小さな後ろ姿を見つめていた。

 未知達の姿が見えなくなったのを確認した柚月は、慌てて浅見を引っ張り出した。

「すいません、すいません。ごめんなさい。こんなとこに押し込んでしまって」

 お面の頭のまま何度も何度も下げて謝り続けた。

 そんな柚月を見つめていた浅見はおもむろに柚月の顔からお面をスポッと外した。

「きゃっ」

 思わず目をぎゅっと閉じてしまい、狭い視界から解放され同時に冷やっとした心地よい空気が顔に触れた。

 柚月は恐る恐る目を開けた。

 目の前には憧れの浅見がいた。

(すごい、本物……)

 体の中の細胞一つ一つが感動で震えているのが分かり立っているのがやっとだった。

 そっと床にお面を置いた浅見は、マジマジと柚月を見た。

 中から現れたのは丸い瞳が印象的なあどけない顔で、顎のラインまで切り揃えた黒髪が幼さを引き立てていた。

 色白な肌は憧れの人物を目の前にし高揚した頬を紅く染めていた。

(かわいいな……それに若い。学生か?)

 恥ずかしそうに顔を赤らめている柚月を浅見はまじまじと観察していた。

「やっ!わっ、私……」

 まだ震えが止まらない柚月はますます頬が熱くなるのを実感し、恥ずかしさで下を向いた。

「君」

 浅見がそっと声をかけた。

 柚月はゆっくり顔を上げ、声のする方へ視線を移した。

 顔を上げると浅見がゆっくり手を伸ばし、柚月の頬にかかる乱れた髪を整え、その指の行き先が頬へと移動した。

 予想もしていなかった出来事に柚月の唇は震えていた。

 吸い付くような頬の感触を堪能するように撫でた後、浅見はおもむろに親指と人差し指で頬を摘んだ。

「え……っと……」

 今起こっている状況に堪え兼ねた柚月が、喉の奥を振り絞って声を発した。

「あ、ああごめん。つい」

 名残惜しそうに頬から指を離し、パーテーションの向こうに人の気配が無いことを確認した。

「じゃあね、柚月ちゃん」

 一言声かけて、あっさりとその場を離れていった。

 残された柚月は力がぬけてしまい、その場にへたり込んでしまった。

「何、何だったの⁈」

 浅見にさわられた頬に触れ、さっきまでの出来事が夢じゃなかったのかと確かめるように、自分でも頬をつねってみた。

「いたい……」

(夢じゃない、浅見薫がさっきまでここにいたんだ)

 思い出し一人、喜色満面となっていた。

(しかも柚月ちゃん……って名前)

「あっ、これか!」

 首から下げたIDカードに気づいた。

(名前、浅見薫が私の名前言った……嬉しい、めちゃくちゃ嬉しい!)

 柚月はフワフワと雲の上にでも乗ってるような夢見心地の感触にしばらくの間酔いしれていた。

 

 喫煙所には蓮が眉間にシワを寄せ、煙草の吸い口を今にも食べてしまいそうな勢いで噛み締めていた。

「遅い、薫。何処ほっつき歩いてたんだ?」

 先に来ていた蓮が待ちくたびれた態度で浅見の煙草に火をつけた。

「誰も待っててくれなんて言ってない」

 冷たく蓮をあしらいゆっくり煙を燻らした。

「かわいくないな、薫」

「男にかわいいなんて思われたくもないよ」

「ああ、そうですか。こんなでかいオヤジ若い女の子からしたら『昭和のおじさん』ってバカにされて終わりなんだからな」

 ふてくされた顔して浅見に突っかかってきた。

「若い女の子か……」

(さっきのお面の子も若そうだったな……)

 柚月のお面姿が蘇り浅見は思い出し笑いをした。

 笑みを口角に浮かべながら、煙草を堪能している浅見を見た蓮は目を丸くして驚いた。

(薫、笑ってる……)

 滅多に笑わない、いや笑わなくなった浅見の顔を見て蓮は驚いた。

「なんかあったのか?」

 蓮は嬉しそうに口にした。

 指摘され、笑ってる自覚がなかったことに浅見自身が驚いていた。柚月の事を思い浮かべると、何故か体の奥からくすぐったいものが湧き上がってきた。

「柔らかいものって癒されるんだな……」

「はぁ? なんだって?」

 自分の指を見つめながら不釣り合いなセリフを言っている浅見を、怪訝けげんな顔しながらもその姿が蓮の心に染み込んだ。

 

「すいませんでした!」

 月曜の朝、出勤したばかりの柚月を待ってましたかと言わんばかりに飛び付き、声をかけてきたのは松田朝日だった。

 無邪気な笑顔が年上の女性陣から好評で、二年前まで大学生だった余韻が溢れてる爽やかな顔立ちの後輩だった。

「おはよ松田君。もう体調大丈夫?」

 朝日の全身からは申し訳なさそうな気持ちが読み取れ、柚月はニコリと微笑み返した。

「はい、もう大丈夫です。ご心配かけました」

 朝日は柚月に深々と一礼し、

「成田先輩、俺何でもしますから!」

「何、唐突に」

「忘年会……大変だったんでしょう?」

 悲壮感満載の表情で訴えてきた。

「え、そんな事ないない。それに私が新人だった時は他の同期がやってくれたから、今回初めて経験させて貰ってちょうどよかったよ」

 カラッとした口調で朝日の肩をポンっと軽く叩き、柚月は自席で仕事に取り掛かった。

「普段から俺先輩に頼りまくってますよ。先輩いないとミスしまくりだし」

 甘える子供のような顔をした朝日が柚月とパソコンの間に割って入ってきた。

「じゃ、成田先輩晩ごはんご馳走させて下さい」

 どうしてもお礼をしないと気持ちが治らない朝日は、柚月の眉をへの字に曲げさせた。

「それじゃあランチごちそうになろうかな。今日お弁当作る時間なくってお昼用意してなかったから」

「はい! 了解です。ランチ行きましょう。でも珍しいですね、先輩がお弁当ないなんて。寝坊ですか?」

「うん、ちょっと……ね」

(浅見薫に会って興奮して週末ずっと眠れなかったなんて絶対言えないな)

「何で眠れなかったんですか?」

 普段とは違う低い真面目な声で尋ねてきた、その声の音にちょっと驚き、柚月はパソコンから朝日の方へ瞳を移した。

「え……っと、夜遅くまで小説読んで興奮してたからかな。さぁ席に戻って」

 取りつくろうように朝日を自席に戻るよう促した。

 

 柚月が勤める会社は、東京汐留にある『アヴェックトワ株式会社』という大手広告代理店で、あらゆるジャンルの広告を請け負っている老舗の会社だ。

 柚月はそこでプランナースタッフとして勤務している。現在も数件のクライアントからの広告を担当しているチームの一員として、忙しさに日々追われていた。

「成田先輩、ホントにランチだけでいいんですか?」

 会社近くのレトロな定食屋に、柚月は朝日と向かい合って座っていた。

「もちろん、ランチで十分だよ。ここのサバ味噌定食美味しいんだよね」

 オーダーは決まっているものの、一応メニュー表に目を通すのは柚月のいつもの癖だった。

「なんか申し訳ないです。先輩が忘年会の日にやらされた事を考えると……」

 オーダーを取りに来たスタッフが去るのを見届け、朝日はテーブルに目を落としポツリと言った。

「まだ言ってる。病気だったんだから仕方ないよ、もう終わった事は気にしない」

「でも……」

「でもは言わない! それにイイこともあったし」

 あの日浅見薫との出会いを思い出し、柚月は自然と顔がほころんでいた。

「イイ事ってなんですか?」

 柚月のこぼした表情と言葉を朝日はすかさず拾った。

「ううん、大した事じゃないから。料理美味しかったなァって」

「……先輩と同じチームになって初めての忘年会だったから。行けなくてホント残念でした」

 インフルになってしまった自分の不甲斐なさに八つ当たりでもするかのよう、テーブルの上のおしぼりをぎゅっと握りしめ、包まれていたビニール袋が小さく悲鳴をあげた。

「忘年会じゃなくてもまたチーム内での飲み会とかあるし、そんなに拗ねないで」

 小さな子供をなだめるように、柚月はニコリと笑い顔を向けた。

(その笑顔、反則だよ、先輩……)

 ぎゅっと唇を噛み締め、朝日は目の前でスマホを触る柚月に見惚れていた。

「先輩のスマホ待ち受け、浅見薫でしょ?ファンなんですか?前から気になってて」

『浅見薫』というワードに一瞬ドキリとし、何故か頬が熱くなってきた。

「う、うん、そう! 大ファンなんだ」

 柚月の顔に恥じらいの色が溢れてきた。 

「結構年配の俳優ですよね? 四十二、三? くらいでしたっけ?」

「それくらいかなぁ、多分」

 柚月は体中にこみ上げてくるくすぐったい思いを必死に隠そうとした。

「先輩いま二十六歳でしょ? 十代の時からのファンだったんですか?」

 いつになく真剣な表情の朝日がいた。

「え、そうだな、十年くらい前からかな。昔は俳優さんじゃなくて歌を歌ってたんだよ。その時からのファンなんだ」

 昔の浅見を思い出し、柚月は両手で頬を包み込みうっとりとした。

「めちゃくちゃ年上じゃんか……」

 芸能人に嫉妬しても仕方ないとは思いつつ、朝日は口の中で自分にだけ言った。

「お待たせ致しましたぁ、サバ味噌のお客様は?」

 甲高い声のスタッフが料理を乗せたトレーを両手にやってきた。

「はい、私です」

 軽く手を上げ、トレーを受け取った。

「こちら、生姜焼き定食です。汁物熱いのでお気をつけください、ごゆっくり」

 軽快な決まりゼリフを言った後、エプロンをひるがえし足早に去って行った。

「美味しそう! 松田君、いただきますね」

 割り箸を割りながら待ちきれない様子でサバを口に運んだ。

「先輩、ホントに旨そうに食いますね」

 愛おしそうに朝日は柚月を見て言った。

「だって本当に美味しいんだよ、ここの。こんな味私にはマネできない!」

「先輩の弁当もいつも旨そうですよ」

 生姜焼きにも手を付けずに朝日は力説していた。

「ありがとう。これからもがんばって腕を磨きます。ねぇ、生姜焼き冷めちゃうよ、それに昼休みも無くなっちゃうし」

「はい」

 少しやけっぱちにも見える仕草で朝日はお茶わんを片手に生姜焼きをめいいっぱい頬張った。

 

 まだまだ多事多端な日々を送っている柚月はここ何日かずっと残業続きだったが、週末に来てやっと目処が立つところまで来た。

「んーーっ」 

 椅子の背もたれに身を預けて、柚月は思い切り伸びをした。

 一日中パソコンとにらめっこし、会議用の資料作りをしていたから肩や腕がガチガチになっていた。

「成田先輩、今日はもう終わりそうですか? こっちは完成しましたよ」

 同じく黙々と仕事をしていた朝日は、それらから解放された喜びを報告にきた。

「私も終わりそうだよ。今日は定時で帰れるかも」

 声を弾ませて、柚月もテンション高かく答えた。

「だったら、帰りに飯でも……」

「成田!」

 朝日の渾身の力を込めて言った誘いの言葉が一人の男の声に遮られた。

 朝日の声をかき消した張本人、独身、正統派男前の日下部律人だった。

 三十四才の日下部は柚月のいる部署のトップで、今まで数々の広告を手掛けてきたベテランマネージャーだった。

 そんな日下部が少し慌てた様子で柚月の元に駆け寄ってきた。

「日下部さん、どうかされたんですか?」

 丸い目を一段と見開き柚月は尋ねた。

「悪いけど、今からアイルジャパンに見積もりを取りに行ってくれないか」

「見積もりですか……?」

「ああ、駅ビルの広告塔に出す見積もりだよ」

「それだったら、来週月曜に打ち合わせ兼ねて受け取る予定ではなかったでしょうか」

「その予定だったが、先方の担当者が急な出張で月曜から不在になるそうなんだ」

「急ですね……分かりました、今から行ってきます。あれがないと予算組めないですもんね」

 瞬時に理解し、柚月はデスクの上を片付けながら出かける準備をした。

「悪いな、この時間からで。今日は直帰していいから」

 日下部は申し訳なさそうに言った。

「ありがとうございます。じゃ、行ってきます」

 コートを羽織り、足早に部屋を後にした。

「行ってらっしゃい、気をつけて」

 急ぐ背中に声をかけた朝日に、柚月は小さい掌を振り返しドアを閉めた。

 閉ざされた扉を名残惜しそうに見ていた朝日は「さあ、後ちょっとやったら帰るか!」と自分を無理矢理奮い立たせ席に戻った。

  

「成田さん、わざわざお越しいただきありがとうございました」

 アイルジャパンの担当者が、ロビーまで見送りに来て言った。

「いえ、とんでもない。こちらの都合に合わせて頂いてたんですから。ありがとうございました」

 柚月は深々と頭を下げ担当者に別れを告げた。

(さぁ、直帰だ。なんか嬉しいな。カフェでも寄ろうか…あ、でもやっぱ……)

 ふとカバンに入れた見積書に目をやった。

(コレを持ったまま週末を過ごすのは不安だな……)

「やっぱ心配だし会社に見積もり置きに帰るか」

 自問自答した末、お気に入りのカフェでまったりするのを諦め、踵を返しタクシー乗り場に向かった。

 週末であったが、まだ夕方六時を過ぎただけあってタクシーに早く乗り込む事が出来た。

「まだ、日下部さんいるかな。見積もり先に目を通して貰いたいし」

 本来ならタクシーを使ってまで急ぐものでもなかったが、金曜日という事もあり日下部が早目に帰宅するかもと予想しての判断だった。

 程なくタクシーが会社の前に着き、カバンから財布を出そうとした時、慌てて中身を足元にぶちまけてしまった。

「あー、やっちゃった。すいません、ちょっと待って下さい」

 運転手に一言告げ、手早く中身を拾い集めた後支払いをすませた。

 柚月を下ろした後、乗っていたタクシーは次の乗車客を求めて走り出した。一駅分程走った頃、一人の男性が手を上げタクシーに乗車した。

「ディヴァインホテルまで」

 行き先を聞いた運転手はアクセルを踏み車が加速した。

 ふと男性客は靴先に触れる何かに気づいた。

(スマホ……)

 拾い上げ、何気なく画面に触れた。

(俺⁈)

 待ち受け画面には『浅見薫』が映し出されていた。

「……懐かしいな」

 客……浅見が手にしたスマホの中には髪を茶色に染めスタンドマイクに体を預け歌っている姿だった。

「お客さん、どうされました?」

 運転手がルームミラー越しに訪ねてきた。

「いえ、なんでもないです」

 浅見は思わずスマホをジャケットのポケットに忍ばせていた。

 無理やり忘れる事にした過去の自分を再び目にしてしまった浅見の脳裏には、油断すると簡単に飛び出してくる『出来事』がまざまざと襲ってきた。

 外はいつの間にか陽が沈み、闇が立ち込めてきた窓ガラスには心情が滲みむ深淵な浅見を映し出していた。

 

「日下部さんよかった。まだいらしたんですね」

 事務所の扉を開けると、部屋には日下部だけが残っていた。

「どうしたんだ。何かトラブルか?」

 一番置くのデスクで書類を広げていた日下部は手をとめ、部屋に入ってきた柚月に驚いた。

「いえ、これを」

 見積書の入った封筒をカバンから取り出し、日下部のデスクに歩み寄った。

「見積もりか、何か不具合な事でもあったのか?」

「いえ、ただ日下部さんに見積もりを先にお見せした方がいいかと思いまして。こちらが提示したとおりに修正してもらった最終版ですので」

 いつもと同じ溢れるような笑顔を日下部に向けて言った。

「そうか」

 日下部は安らぎを感じるその笑顔に優しく微笑み返した。

「早く届けたかったのも本当なんですが、月曜日の会議に持ってくるのを忘れちゃわないか不安だったものですから」

 自称小心者の柚月は肩の荷を降した気分でいた。

「でもよかった、日下部さんまだ残ってて。金曜だからもういらっしゃらないかと思って」

「残念ながら、予定はゼロだな。月曜日の準備をしてたぐらいなんだから」 

 日下部は苦笑いした。

 柚月もつられて「私も予定ゼロ女子ですよ」クスリと笑い返した。

「会議は朝一、九時からだからな。遅刻するなよ」

「大丈夫ですよ、スマホにちゃんと表示出るようにスケジュール入れてるんですから」

 柚月は得意げにスマホを見せようとし片手をカバンに突っ込み手探りでスマホを求めた。

「あれ……?」

「どうかしたのか?」

「いえ……あれ、おかしいな」

 カバンの中身を一つ一つデスクに広げていった。

「無いのか?」

 入っているはずのスマホが見当たらない事にショックを受け、日下部の問いにコクリと頷くことしか出来ず肩を落とした。

「デスクの引き出しとかに置いてないか?」

 心配気に日下部が側に寄り添った。

「いえ、アイルジャパンに向かうとき電車の時刻を調べるのにスマホ使ったんで……」

 不安げにポツリと言った。

「そうか。一度スマホに電話してみたらどうだ。もしかして拾った人がいるかもしれない」

 日下部がデスクの上にある受話器を取って柚月に差し出した。

「そうですね……一度かけてみます」

 手早く番号をダイヤルし、受話器の向こうで鳴る呼び出し音に耳を覚ませた。

(やっぱだめかな……)

 諦めて受話器を置こうとした時

『もしもし』

 受話器の向こうから落ち着いた低い男性の声が聞こえてきた。

「も、もしもし! すいません、そのスマホ私が落としたものなんです」

 電話の相手に訴えながら、柚月は日下部に安堵の表情を見せた。

『これ、タクシーに落ちてましたよ』

 低音のゆっくりとした速度が柚月を安心させた。

「あっ!タクシーですか。そうだ私カバンを……。あの、拾って頂いて本当に助かりました。ありがとうございます」

 柚月はホッとため息をついた。

 日下部も電話の相手のセリフが想像でき、安心して席に戻った。

「あの、ご迷惑かと思いますが取りに行かせて頂いてもよろしいでしょうか」

『ええ、構わないですよ。ディヴァインホテル分かりますか?』

「ディヴァインホテル、わかります」 

 男性の言葉に柚月は胸をなで下ろし返事をした。

『では、そこのロビーにこの後八時で』

「分かりました、本当にありがとうございます」

 会話が終わりかけたとき、

「あの、目印か何か教えていただけないでしょうか……」

 相手の『声』しか情報がないまま顔も分からないのではと慌てて柚月は要望した。

『ああ、そうですね。俺、黒ぶちの眼鏡をかけてます』

(えっ?……だけ⁈ 眼鏡の人口密度は結構あるよ!)

 更に柚月は続けて、

「すいません、あと他に何かないでしょうか」

 受話器の向こうが暫くの間、無音の世界になってしまった。

 沈黙に耐えきれず柚月が口を開いた。

「あのーー」

『鶴……』

「えっ⁉︎」

『折り鶴を目印に』

「折り鶴? 折り鶴って折り紙の……」

『そう、それで目印になるでしょう』

「は、はぁ。わかりました」

 突拍子もない回答に少し戸惑いながらも、柚月はスマホが手元に帰ってくると安心し電話を切った。

 

 会社を後にした柚月は待ち合わせのディヴァインホテルに到着していた。

「着いた……。鉢時十分前か、間に合ってよかった」

(それにしても……すごいホテルだな)

 通勤電車の途中で遠目にしかみた事がない三十八階建てのゴージャスな外観を間近で見上げ、感嘆の吐息を漏らした。

(三つ星ホテルで有名なこの場所を待ち合わせに指定するなんてどんな人なんだろう)

 スマホを手元に取り戻したい一心でホテルまで来たが柚月は急に不安になってきた。

「どうか恐い人ではありませんように」

 拳をギュッと握り覚悟を決め、正面入り口に立った。

「こんなホテルに来る事なんて、私の日常からは考えられないよね」

 ポツリと本音を漏らし、気後れしている気持ちを奮い立たせて約束のロビーへ足を運んだ。

 上品なコンシェルジュに出迎えられ柚月は躊躇ちゅうちょしながら奥へ進んで行った。

(うわぁ、すごい、きれー)

 白とブラウンを基調とした清潔感あふれる内装。シンプルで品のある照明や装飾品。日常とかけ離れた世界が目の前に広がっていた。

 柚月はまるで不法侵入でもするかのようなオドオドした気持ちでロビーにたどり着いた。

 幸いロビーには数えれるくらいの人影しかなく、電話の主の姿を探し出す事は簡単そうに思えた。

(黒ぶち眼鏡、折り鶴、黒ぶち眼鏡、折り鶴……)

 呪文のように呟きながら、広々としたロビーを見渡した。

 そこには上品な老夫婦と、別のテーブルにはスーツ姿で何やら商談めいた会話をしている男性二人組み、外国人のグループ、それと一人でソファーに座ってる男性。

(あの人かな)

 柚月の方に丁度背を向けた形でソファーに座ってる一人の男性にそっと近づいて行った。

(眼鏡かけてるかな……) 

 顔を見ようと移動している時、男性の側にあるテーブルの上に赤い紙で折られた折り鶴が見えた。

(あった! 本当に折り鶴)

 見つけた途端、柚月の胸は高鳴った。

 ドキドキが邪魔しながらも背中を向けている男性の側まで近寄った。

(眼鏡かけてる)

 全ての条件を満たしていることが分かり柚月は安心した。

 男性はコーヒーを片手に本を読んでいた。

 その後ろ姿に柚月は声をかけるのをためらっていた。

(……緊張する。声掛けづらいな)

 ふと、人の気配に気づいた男性は読んでいた本から目を離し柚月の方を振り返った。

「⁈」

 目の前の男性が柚月を見上げていた。

「え⁈」

 柚月は後退りした。

(うそ、うそ⁈)

 目の前にいるのはあの浅見薫だった。 

「あれ……もしかしてこの間の?」

 柚月の姿を見て以前パーティー会場で会った女の子だと気づき浅見も驚いていた。

「あ、浅見薫……さん」

 足はガクガク震え、頭の中が痺れて目の前の現実を直ぐには受け入れる事が出来なかった。

「えっと……スマホの人?」

 浅見が声をかけた。

「あ! あ、はい!」

 予想もしてなかった状況に驚いて足下がぐらついた。「危ない!」

 浅見の叫ぶ声、ガラスの割れる音がロビーに響き渡った。

 他の客が一斉に音のする方を注目した。

 注目の的になっている柚月の右肩から体半分に水が滴たり、床には割れたグラスが転がっていた。

「申し訳ございません!」

 状況がまだ飲み込めてない柚月にホテルのウェイターが頭を下げていた。近くにいた別のスタッフも駆けつけ何度も頭を下げた。

「だ、大丈夫です。こちらがよろけてぶつかってしまったんですから」

 やっと状況を把握した柚月は、浅見を目の前に動揺しウェイターにぶつかった惨事に焦っていた。

「本当に申し訳ございません」

 再度、スタッフ達から頭を下げられた柚月は自分が原因で今の状況になっている事に困窮した。

「へ、平気ですよ、大した事ないですから。ぶつかった私が悪いんです。私こそごめんなさい」

 グラス四杯分の水を浴び、びしょ濡れの状態で頭を下げた。

「それよりそちらはお怪我とかなかったですか?」

 髪から雫が落ちているのもお構いなしに柚月はウェイターを心配した。

「は、はい私は大丈夫です、お気遣いありがとうございます」

「よかった」

 柚月は顔いっぱいに笑顔を広げた。その笑い顔には優しさが滲み出て、その場の雰囲気が暖かい空気に包まれた。 

「君、大丈夫?」

 柚月達のやり取りをずっと見ていた浅見が心配し声をかけた。

「だ、大丈夫です!」

 右半身ずぶ濡れになった事より浅見が電話の主と分かった事で柚月は頭がいっぱいだった。

「乾かさないと。真冬にその姿では帰れないな」

 浅見は柚月の髪から雫が肩に落ちていく様子を見つめて呟いた。

「とりあえず、俺の部屋に行こう」

 浅見はスタッフを手招きで呼び、後で自分の部屋に来るように伝えた。

 ポカンとし役を演じてるかのようなスマートな仕草の浅見に柚月は見惚れていた。

「おいで」

 柚月の肩をグイッと引き寄せ、浅見はエレベーターへと向かった。

「あ、あの……」

 戸惑う柚月に、

「とりあえず、シャワー浴びて着替えなさい」 

「え⁈」

(シャワー? 着替え?)

 状況に混乱する柚月を浅見は構わず腕を取って歩いて行こうとした。

 エレベーターの前に到着した時、何かを思い出し柚月は歩みを止めた。

(あれ取ってこないと……)

「ちょ、ちょっと待って下さい」

 柚月は足早にさっき浅見がいた席へと向かった。

「よかった、濡れてなくて」

 テーブルの上に忘れられていた折り鶴を柚月は手に取り、ハンカチにそっと包んで浅見が待つエレベーターへ反射的に戻って行った。

「すいません、お待たせしました」

「わざわざ取りに戻ったのか……あんなの」

 不思議そうに柚月を見て言った。

「せっかく折ってくださったのに、あのままなんて出来ませんから」

(ただの折り紙なのに。それにさっきのスタッフへの気配りとか……若い子には珍しい)

 自分の事など御構い無しの柚月に浅見は少し関心を寄せた。

 エレベーターは既に一階で待機しており、二人は直ぐに乗り込む事が出来た。

 浅見はオロオロしている柚月を中へ誘導し、慣れた手つきで三十七階のボタンを押した。

「あの、私本当にこのままで大丈夫です。浅見さんにご迷惑かけちゃいます。なのでやっぱり帰ります」

 精一杯の勇気を出して柚月は再度訴えた。

「だめだ、風邪ひいてしまうよ。それにスマホまだ返してないしな」

 浅見は最上階へと向かって進んで行く、階数表示を見つめながらピシャリと言った。

「でも……」

 スマホ拾ってくれたのが浅見で、その目の前でグラスの水をかぶり濡れてしまう大失態。それに今二人っきりでエレベーターに乗ってる、こんな予測不可能な出来事に柚月の心臓は破れそうだった。

 高速エレベーターはあっという間に二人を三十七階まで運んだ。

 エレベーターを降りると静寂な空気と等間隔に灯る間接照明が待っていた。

 フンワリと灯る光の間を浅見に導かれ緊張してしながら歩いて行った。

【三七一三】と書かれたドアの前に到着し、カードキーで浅見が扉を開けた。

 廊下を進むとモダンなスタイルのリビングとベッドルームのセパレートになったスィートルームが主人を待っていた。

「すご……い」 

 見たことのない美しい空間に柚月は息を飲んだ。

「きれい……」

 窓際へ吸い込まれるように歩み寄り、目の前に広がるダイナミックな高層ビル群の夜景にうっとりしていた。

「きみ、えっと柚月ちゃん。浴室こっち」

 急に名前を呼ばれ、柚月の心臓は跳ね上がった。

「は、はい!」

(声裏返っちゃった! しかも名前覚えてた⁈)

 胸の高鳴りが止まらない柚月を浅見は、パウダールームの奥にある浴室に案内した。

「はい、これ着て」

「えっ⁈」

 手渡されたバスローブを受け取ったもののまだ柚月は躊躇していた。

「シャワー終わったら服持ってきて。ホテルの人に乾かしてもらうから」

「え⁈ いえ、あの、自分でドライヤーで乾かしますから」

 観念しない柚月に、

「いいから。シャワーして温まっておいで」

 浅見は微笑みで、柚月を静止させ一人浴室に残し扉を閉めた。

 

 パウダールームのドアが開き、バスローブ姿で毛先が濡れたままの柚月が出てきた。

「あの、終わりました……ありがとうございます」

 柚月がシャワーから戻ると誰かと電話で話していたのか、浅見はちょうど受話器を切るとこだった。

「ああ、終わった? もうすぐホテルの人が来るから」

 申し訳なさそうにしている柚月に目をやると、髪がまだ濡れているのに気づいた。

「髪、乾かさないとダメだよ」

 柚月に近づき濡れた髪に触れて言った。

「あ……」

 乾かす余裕などなかった柚月の手を取り、

「おいで」

 再びパウダールームに戻り浅見はドライヤーで柚月の髪を乾かし始めた。

「浅見さん!」

 驚いている柚月を鏡ごしに見ながら浅見は黙々と手を動かした。

「……ありがとうございます」

 観念した柚月は大人しく浅見に従った。そして鏡に映る二人を見つめ、夢のような状況に浸っていた。

 浅見の手が指が自分の頭をなでている……。

(なんて贅沢なんだろう……)

 柚月は心の中で至福のため息をついた。

「はい、乾いたよ」

 夢のような時間はドライヤーのスイッチを切る音で現実に戻った。

「こんな事までしていただいて、ありがとうございました」

「そんな恐縮しなくていいよ」

 そう言って浅見は伸びをしながら先にリビングに戻った。

 下着の上にバスローブ一枚羽織っただけの心細い姿で柚月は浅見の後を追った。

 パタパタとついてきた柚月を見て浅見はドキリと目を惹いた。

 ドライヤーの熱と浅見に触れられた温もりで恥を含んだ頬と、小柄な体に比べるとドキッとする胸の大きさがバスローブの上からでも容易にわかり、浅見は体の奥の方が太陽を飲み込んだかのように熱くなった。

 

 ピンポーン

 

 部屋のインターホンが鳴りドアの外からノックする音で浅見は我に帰った。

「服、持って行くよ」

 平静を装い柚月の服を手にした。

「浅見様、ルームサービスお持ち致しました」

 扉の向こうにはワゴンを押す客室係が待機していた。

「ありがとう、中へお願いします」

 彼は静かにワゴンを押し、リビングのテーブルにワインやチーズなどを手際よく並べた。

「では、洋服をお預かり致します」

 呆然としている柚月の方を見て客室係は頭を下げ部屋を出ていった。

 静まり帰った部屋の中、また二人の空間に戻り柚月は落ち着かない様子で居場所を探していた。

「腹減ってない? 夕食まだだろ?」

 目のやり場に困る柚月の姿を意識しないようにセッティングされたワインをグラスに注いだ。

「そんな、とんでもないです! 服が戻れば早々に失礼しますから」

 慌てて両手を大きく横に振り浅見の申し出を精一杯断ってはみたものの、チーズの匂いに反応したお腹が意思に逆らって鳴った。

(私ったら!)

 確実に浅見の耳にも聞こえたであろうと自覚し、既に顔は真っ赤だった。

「お腹は正直だな、遠慮しないで食べて」

 浅見はククッと笑いをこらえながらワイングラスを柚月に渡した。

 柚月の喉は緊張の連続でカラカラだった。

「すいません……いただきます」

 バツが悪そうにグラスを受け取り、ワインをゆっくり口に含んだ。

「美味しい!」

 乾いた喉をワインでゆっくり湿らせていき柚月は肩の力が抜けた。

「そうか」 

 そう言いながら浅見はソファーに腰掛け、柚月にも座るように隣のスペースをポンポンと叩いた。

 緊張がキャパオーバーしていた柚月は何も考える事が出来ず言われるがまま浅見の隣に座った。

 アルコールのおかげで緊張も若干和らぎ辿々しくも会話する事ができた。

「そういえば何であの時あんなお面つけてたの?」

 インパクトあり過ぎる柚月の姿を思い出し浅見は問いかけた。

「あ、あれはあの会社の忘年会で司会の方のアシスタントをしてたんです」

(浅見さん覚えてたんだ)

 顔を真っ赤にし柚月はしどろもどろに答えた。

「へぇ、面白い事するな。それで変な動きしてたんだ」

 柚月の妙な動きを思い出し、浅見はククッと肩を揺らして笑った。

「笑わないでください。私あの日急遽の代役で練習もないイキナリの本番だったんですから」

 ワインで少し気が大きくなったのか柚月は浅見に拗ねてみせた。

「そ、そうか。悪い」

 まだ笑いが止まらない浅見は柚月をなだめるように頭を撫でた。

(ま、また撫でられた。もう心臓もたない)

 浅見に触れられる度に心拍数が上がり顔の火照りも治るどころではなかった。

「顔、真っ赤だな」

 意地悪く浅見が顔を覗き込み言った。

「だって……」 

「ん?」

「だって、中学の時からずっと浅見さんのファンだったんです。ドキドキするの当たり前じゃないですか」

 うつむいていた顔を上げ、柚月は訴えた。

 紅く染まった頬に目を潤ませて自分の方をまっすぐ見ている柚月の視線が、浅見の心臓をゾクゾクとさせた。

「中学から応援してくれてたのか」

 浅見はさっき感じた『感情』がなんだったのか分からず紛らわすように話題をふった。

 柚月はバスローブの紐の端を指先でいじりながらポツリと話しだした。

「私、中学の時体操部だったんですけど、練習中に腰をケガして部活続ける事が出来なくなってすごく落ち込んでたんです」

 浅見のグラスが空になってるのに気づき、ワインを注ぎながら柚月は話しを続けた。

「その時兄が浅見さんのライブに連れて行ってくれたんです。兄は浅見さんの大ファンだったんで。私初めて浅見さんの歌を生で聴いてものすごく興奮しちゃって、すごく元気になったんです」

 浅見はゆっくりワインを飲みながら柚月の話を聞いていた。

「それからもライブには必ず兄と一緒に行ってました。でも私が高校一年の時、兄がバイト帰りにバイクで事故起こして……。それからはライブに行けてなくて……」

 柚月の話を聞いていた浅見の視線に気づき、しんみりした空気を作ってしまったと焦った柚月は、咄嗟にガラスの器に盛り付けられた果物の中から、あらかじめ食べやすくカットされているオレンジに手を伸ばした。

「あ、あの浅見さん果物食べますか? えっとオレンジとか好きですか?」

 オレンジの皮を左右に下へ折り曲げると中の果実が顔を出し、果汁がキラキラ溢れていた。

 震える手を見て、緊張の抜け切れてない柚月を浅見はついからかいたくなった。

「どうかしましたか?」

 柚月の問いかけを無視し、その手首を掴んで自分の方へ引き寄せ、手にしていたオレンジを指ごと口に頬張った。

「浅見さん!」

 驚いてる柚月をよそに浅見は満足そうに味わった。

「甘いな」

 果汁で濡れた指をペロリと舐めながら柚月を見つめて言った。

(うわぁ、浅見さんすごい色っぽい……)

 柚月は浅見の口の感触が残る指を大切なものを隠すように手でそっと覆い、胸の奥がムズムズしてくる感情を意識し熱くなっていった。

 少し茶色がかった浅見の瞳に自分の顔が映るのを確認できるくらいの距離にいた。

 次の瞬間、浅見の手が柚月の頬に触れ、指でそっと肌をつまんだ。

(え?)

「やっぱり、柔らかいな……」

 確かめるように柚月に触れ呟いた。

(浅見……さん)

 浅見の指を感じ、身体中に電流が流れてくるように柚月の体は痺れていた。

 浅見はワイングラスをテーブルの上に置き、そのままその手で柚月の頬を包んだ。

 驚き固まる柚月を余所に、頬に触れていた手が後頭部へと移り、自分の体へ引き寄せた。

 厚みのあるたくましい胸に小さな柚月の肩がすっぽり収まった。

 顔を上げると、お互いの鼻が触れ合う距離にいた。

 骨ばった長い指が柚月の顎をとらえ、血色のいい柔らかな唇へ優しく自分の唇を落とした。

 二人の体から発した熱が絡み合うのを感じ、わずかな時間触れ合っていた二人の唇は一度離れ、磁石のように再び引き寄せられ深く重なりあった。

 過ぎて行く時を留めるように、重ねられた唇は離れる事が出来なくなっていた。

 

 ピンポーン

 

 突然耳に飛び込んできた聞き慣れた機械音に柚月の体はピクリと反応し、浅見の体から飛び跳ねた。

 顔を真っ赤にした柚月の頭をまたポンポンと撫で、浅見はドアへ向かった。

 扉の外には客室係が待機していた。

「お待たせして申し訳ありません、お預かり致しました服をお持ちしました」

 服を受け取り、浅見は礼を言った。

「浅見様、乾かす前に確認しましたらポケットの中にこれが入っておりました」

 そう言って彼が差し出したのはネイビーの名刺入れだった。

「わかった、ありがとう。助かったよ」

 扉を閉めリビングに戻ると、顔を赤らめていた柚月が待っていた。

「柚月ちゃん、服戻ってきたよ」

「は、はい」 

 慌てて浅見に駆け寄り、頭をぺこりと下げた。

「ありがとうございます、直ぐに着替えてきます」

 服を受け取りパウダールームへ直行した。

 柚月の後ろ姿を見つめ、浅見はもどかしい気持ちを振り払うように髪をクシャクシャと搔きむしるとその手で両目を覆いため息をついた。

 パウダールームでは、柚月が扉を閉めたままドアの内側にもたれ、その場にへたり込んでしまった。

(ど、どうしよう。あ、浅見さんとキ、キス……しちゃった…?)

 乾いた自分の服を両手で抱えその場にうずくまった。

 上手く息をする事が出来ず、心臓が壊れそうなくらい鼓動が激しく暴れていた。

(落ち着かなきゃ。条件のいいムードに浅見さんも私もどうかしちゃっただけ)

 ギュッと目を瞑り勘違いしないように自分に言い聞かせていた。 

 着替え終わった柚月がリビングに戻りソファーに座っている浅見に声をかけた。

「あの、今日はいろいろご迷惑をかけてすいませんでした。スマホ本当にありがとうございました」

 深々と頭を下げ改めてお礼を言った。

 必死に平静を装っている柚月を見て浅見は胸の奥に込み上げてくる疼きを自覚した。  

「いや、それより柚月ちゃん、これ……」

「浅見さん!」

 名刺入れを返そうと声をかけたが、すぐに柚月の声が放たれ浅見の声は掻き消されてしまった。

「スマホ、拾ってくださって本当にありがとうございました……」

 ブラウスの胸のリボンをぎゅっと握りしめながら柚月は続きの言葉を飲み込んだ。

「これで、失礼させていただきます。長居してしまってごめんなさい。これからも浅見さんの事ずっと応援してますから」

 一気に告げた柚月はコートとカバンを手にし部屋のドアまで早足で向かった。

「柚月ちゃん」

 浅見が声をかけたのと同じタイミングでくるりと柚月は振り返った。

「浅見さん、今夜の事夢のようで……私、忘れません。でも浅見さんにご迷惑をかけるような事は絶対しませんから安心して下さい」

 まっすぐ浅見の目を見て柚月は言った。

 感情が高まり涙声になっている柚月を浅見は黙って見ていた。

「ドラマ、がんばってください」

 胸を突き上げてくる切ない感情を押し殺し深々と頭を下げた。

「それじゃ、帰ります……さようなら」

 一方的に一人で喋り続け、柚月は浅見に一礼した後、逃げるように部屋を出ていった。

 ドアがゆっくり閉まり、シンとした部屋にカチャリと自動ロックの音だけが響いた。

 声を掛けそびれた浅見は経験した事のない切ない気持ちが胸を支配していた。

 リビングに目をやるとさっきまで二人で座っていたソファと、テーブルには飲みかけのワインだけが寂しげに取り残されていた。

 まだ少し柚月の温もりが残る跡にそっと触れた。

(あったかいな、まだ……)

 渡し損ねた名刺入れを指でなぞり今わかれたばかりの顔を思い浮かべていた。

 ソファに横になり目を閉じると、もの悲しい気持ちに襲われた。

『さようなら……』と言った柚月の声が耳から離れなかった。

 自然と名刺入れを開けてみた。

 中には多数の企業の名刺と柚月の名前が書いてあるものが数枚入っていた。

「アヴェックトワ株式会社。プランナー室、成田柚月か……」

 手の甲をアイマスク代わりにし、暗闇の中ずっと封印していた過去の『ある出来事』を思い出していた。

(今さらなぜ思い出してしまうんだ……)

 ゆっくり体を起こしてタバコに火を着け、ため息と共に煙を吐き出した。

 いつも一人でにいた部屋の中で孤独なのは慣れているはずなのに、会って間もない柚月に温もりを求めている自分がいた。

「こんな気持ちは久しぶりだな、だけど……」

 静まり返った部屋で哀しげな音の言葉が闇に溶け込んで行った。

 

「ばっかじゃないの!」

 出勤して早々柚月は島崎未知に呆れられていた。

「スマホ無くして、たまたま拾ってくれた人がいい人だったから手元に戻ってきたけど、今度は名刺入れ無くしたって⁈」

 コーヒーを入れている柚月に未知は容赦なく噛み付いてきた。

「いや、ほら名刺入れもきっとまたどっかから出てくるかも?」

 説教してヒートアップしている未知をなだめるように柚月は笑顔を振りまいて見せた。

「なにが『かも?』なのよ! 何だその笑顔わぁぁ」

 柚月の頬を指で掴み愛情感じるお仕置きを未知から受けていた。

「い、痛いよ未知」

「お仕置きだからね、痛くしないと意味ないでしょ」

 カップに入ったコーヒーをこぼしそうになりながら未知の手から逃げた。

「スマホや、名刺なんてこの世の中あの手この手で悪用されるんだからね、気をつけなよ」

 心配してくれている未知に、煎れたてのコーヒーを差し出しながら、

「心配してくれてありがと」

 ひねられ少し赤くなった頬で礼を言った。

「柚の頬っぺた柔らかいからつい摘みすぎちゃった、ごめん」

 やりすぎを反省し柚月の頬をいたわった。

「おっはようございます。俺にもコーヒー下さい」

 いつもと変わらない高めのテンションで朝日が側にきた。

「朝日、年下なんだから自分で煎れなさいよ」

 未知は容赦なく厳しい語調を浴びせた。

「未知先輩、今日も絶好調ですね!」

 ニヤニヤしながら冷やかし半分に朝日は言った。

「なによ、生意気な奴!」

 朝日の背中に飛びつく形で未知は羽交い締めした。

「く、苦しい、未知先輩ギブです」

 二人のやり取りをくすくすと笑いながら柚月は癒されていた。

「朝日がかわいそうだからかまってあげてるだけだからね、わかってる?」

「それは俺も同じですよ」

 ネクタイを整えながら朝日も反論した。

 それを聞いた未知はさらにヒートアップし、二人賑やかなやり取りが続行された。

「まぁまぁ二人とも、静かにしないと日下部さんが……」

「朝からうるさいぞ、お前たち!」

 柚月の心配が的中し、フロアに日下部が入ってきた。

「すいません!」

 三人口を揃えて慌てて自席についた。

「今朝営業から新しい案件の依頼がきたから。みんな忙しいだろうけどちょっと集まってくれ」

 日下部はフロア内にあるミーティングルームに柚月達チームと他のスタッフを集めた。

「雪村酒造から新しい商品の広告依頼だ」

 資料を配りながら日下部は説明を始めた。

「ーーと、以上がクライアントからの要望だ。今回の案件は赤坂、成田、松田のチームで任せたいと思う。この間ミキサイクルの案件終わったばかりだから大丈夫だろ」

 日下部が三人の方を見て確認した。

「はい、大丈夫です」

 三人は口を揃えて答えた。

 ミーティングルームを出ると柚月と朝日は赤坂に呼ばれた。

 赤坂康平は柚月と同じ大学出身の四つ上の先輩で、口数は少ないがいつも的確なアドバイスをしてくれる頼り甲斐のある先輩だった。

「クライアントからのいくつかの要望を各自分担して作業してもらうから。ま、いつものように丁寧にかつ迅速に進めるように」

 指示に二人はうなずき席に着こうとした時、赤坂が柚月を呼び止めた。

「成田、今回起用するキャスティングの担当お前に任せるからな」

「え? いいんですか? 今まで赤坂さんが担当だったのに」

 赤坂はメガネをクイっと上げ、

「これから成田には幅広い業務に携わってもらわないとな。これは日下部さんの意見でもあるから」

「はい」

 柚月は真剣な表情で赤坂の言葉を聞きながら自然に握りこぶしを作っていた。

「もちろん、キャスティング業務以外の仕事もあるから俺もフォローするよ。松田も独り立ちできてるしな」

 赤坂は結んだままの唇にかすかな微笑みを浮かべた。

 あまり笑うことがない貴重な笑顔に柚月は二人の期待に応えられるようにと一段と気合いが入った。

「ああ、そうだ。クライアントからの要望の中にタレント名が空白になっていたけど、起用する芸能人の候補が確定したら連絡くることになってるから」

「わかりました。クライアントで希望があるんですね」

 資料をパラパラとめくりながら柚月も確認していた。

「雪村酒造側が商品のイメージで候補が二人いるそうなんだ。連絡来たらすぐに交渉に入ってくれ」

「了解です」

 柚月はいつも以上にやる気がみなぎっている目で返事をした。

 

「成田先輩、起用タレント決まったんですか?」

 定時を過ぎ、一時間ほど残業していた柚月に朝日が声をかけてきた。

「ううん、まだだよ」

 パソコンの電源を切りながら朝日に返事をした。

「もうそろそろですかね。今日金曜日で一週間たつし」

「そうだね、雪村酒造さんも悩んでるんじゃない? イメージ大事だし」

 机の上をすっかり片して柚月は退社準備万端だった。

「それに、大抵はタレント起用する時私達でイメージに合う人探してオファーするって流れだけど、今回は雪村酒造さんからのリクエストだから誰を起用するか楽しみだね」

「……そうですね。日本酒のイメージ大事だし」

 今日の朝日の頭の中にある『たくらみ』をいつ柚月に切り出そうかとタイミングを図ってた今は、当たり障りのない返事をするのが精一杯だった。

 柚月がコートを羽織り、カバンを持ったまま赤坂と仕事の話が始まり、朝日は二人の会話が途切れるのを待っていた。

「お、いたいた朝日!」

 朝日の同期で営業部数人が扉を開けガヤガヤと側にやってきた。

「朝日、今日暇だろ? ちょっと人数足りないから付き合ってくれよ」

 朝日の肩に手をかけて強引に連れ出そうとしているのは、入社当時から気が合っていつも一緒に行動していた折原圭吾だった。

「ちょ、ちょっと何だよ」

 肩に置かれた手を振りほどき、『タイミング』を見逃してしまわないよう柚月の方をチラリと見た。

 柚月は赤坂との会話が終わり、「お疲れ様でした」と挨拶を交わし帰ろうとしていた。

「今日合コンなんだけど人数足りないから出てくれよ、頼む!」

「合コン⁈ 興味ないよ」

 迷いもなく朝日は誘いを断った。

「絶対そう言うと思って朝日だけ間際に声かけたんだ。お前がこないと成立しないんだよな、今日は」

 他の同期仲間に目配せしながら折原は諦めずに食い下がった。

「何で俺がいないとダメなんだよ」

 朝日は目の端で柚月が部屋を出て行くのを見届けてしまいすっかり落胆してしまった。

「この間、朝日の元カノのまゆちゃんと偶然会って朝日がフリーならお前に会いたいって」

「はぁ? だから合コンか?」

「そう言う事。来るよな?」

 今日の朝日は柚月を食事に誘って先輩後輩と言う垣根を取っ払う決意で朝から気合いを入れていたのだ。

「今日はそう言う日じゃないって事か……」

 潔く諦めた朝日は折原の肩に手を置いた。

「予定は……ないけどやめとくよ、合コンは」

 いつもと違い深妙な趣きの朝日を見て、折原も執拗しつように誘っても無駄だとすぐに理解した。お互いの性格は入社してから今までの付き合いで分かっていたからだ。

「わかったよ、ただまゆちゃんからどうしてもって話だったからな。ま、朝日抜きでも俺がいるだけで充分だろ」

 白い歯をニカッと見せ朝日の肩をバンっと叩いた。

 明るくお調子者の折原に、研修期間中はそのポジティブな性格によく救われていた。だから折原の誘いには付き合ってやりたい気持ちではあったが、今日はそんな気になれなかった。

「じゃあな、行ってくるわ」

「おお、また飲みに誘うよ」

「朝日の奢りな」

 再びニカッと笑い折原は部屋を出て行った。

「ふぅーん、合コン断ったんだ」

「わぁ!」

 朝日の背後から気配なく急に声がした。

「未知先輩! びっくりさせないで下さいよ」

 朝日達のやり取りを見ていた未知が背後にそっと忍び寄っていたのだ。

「行かないの?」

 確認するように未知が聞いた。

「行きませんよ、合コンなんて」

 ネクタイを緩めながらため息混じりに答えた。

「じゃ、私と飲みに行こう! なんだか飲みたい気分なんだよね」

「えー、未知先輩また酔っ払う気でしょう」

 帰り支度をしながら朝日はおどけた表情で言った。

「酔わない、酔わない。今まで酔ったことなんてないない」

 両手を腰につけワザと自慢げな顔をした。

「またまたぁ、前も成田先輩と三人で行った時酔っ払ってたじゃないですか。帰り大変だったんですよ?」

「知らないなぁ、朝日の記憶違いじゃない?」

 クスクスと笑いながら未知は「で、行くの? 行かないの?」と詰め寄った。

 松田は少し滅入っていた事もあり未知の誘いに乗ることにした。

「行きます、行きましょう! 未知先輩の奢りで」

「ふーん、女子に払わす気なんだ」

「え? 女子だったんですか?」

 朝日の返球に、未知はわざと大げさに、

「女子ですが、これでも!」

 と返し二人で笑い合った。

「待ってて、カバン取ってくるから」

 そう言って未知はくるりと背を向けデスクに戻って行った。

 誰にも見えないよう満面の笑顔を隠しながら。

 

 そのころ赤坂と挨拶を終えた柚月はエレベーターに乗って正面玄関に到着していた。

「寒っ!」 

 自動扉が開き、溜まっていたビル風が剃刀の刃のように柚月の頬を突き刺してきた。

「風キツイなぁ、早く帰ってあったまりたいーー」

 独り言が出てしまうくらい風が鋭く、柚月は身を守るように肩をすぼめストールをぐるぐると巻き直した。

 柚月の会社があるビルの通りには片側二車線の車道が東西に長く走っており、夕方になると街路樹がライトアップされ、帰宅ラッシュのひしめき合う車たちに癒しを与えていた。

 玄関を出ていつもの慣れた足取りで駅に向かおうとした柚月は、雑踏の中誰かに名前を呼ばれた気がし寒さでうつむいていた顔を上げた。

 声の先は会社前の道路の方から聞こえてきた。

 何台か路駐している街路樹の側に見慣れない四駆の外車が停まっていた。社員の中には家族や彼氏などが時々迎えのため車を停めてる事はあるが、外車はあまり見かけない。

 十二月も半ば過ぎだと、冬のせっかちな夕暮れに染まって、行き交う人たちの顔などはっきりと見分けることが難しい時間帯。藍染めしたような夜の色が辺りに広がっている中、柚月は自分を呼んだ人影のシルエットに見覚えがあった。

(浅見さん⁈)

「うそ!」

 黒ぶち眼鏡にグレーのレザーダウン姿で浅見が柚月に手招きしていた。

 その姿を見てさっきまでの寒さが嘘のように消え、全身の血を騒がせ体が熱気を帯びてきた。

 柚月はキョロキョロと周りを気にしながら浅見の待つところまで駆け寄った。

「あ、浅見さん。どうして……」

 自分の職場をなぜ知っているのか、どうしてここにいるのか聞きたい事はあるのに、気が動転して次の言葉が出てこなかった。

「おつかれさん」

 もうテレビの中でしか見ることのない浅見が目の前にいて柚月は驚きを隠せなかった。

「あ、あの……浅見さんこんなとこにいたら……」

 人の行き交う通りでは浅見の存在がいつ気付かれるかと柚月は気が気じゃなかった。

「柚月ちゃんこの前これ忘れていったろ?」

 柚月の心配をよそに、見覚えのあるネイビーの名刺入れを手にして浅見は微笑んだ。

「あ! 私の名刺入れ」

 無くしたと思っていた名刺入れが出てきた。それも浅見が持っていたと知り嬉しくて逸る心臓を押さえるのに精一杯だった。

「この前これを渡そうとしたのに柚月ちゃん急いで帰ってしまったからな」

「す、すいません。ありがとうございます」

 寒さでなのか緊張からなのか柚月は震える手をそっと差し出した。

 浅見は柚月の手を取り名刺入れを握らせた。

「冷たい手だな……」

「あっ、ごめんなさい、冷たかったですよね?」

 慌てた柚月は手をすぐに引っ込めようとした、が浅見の大きな温かい手で動きをはばめられた。

「ほんと、冷たい」

 浅見の手に包まれた柚月の小さな手に温かい血が通ってきた。

 胸の高鳴りが次第に大きくなり、忘れようとしていた浅見の温もりをいとも簡単に呼び起こしてしまった。

 浅見に会える事を想像もしてなかった柚月は自然と涙がこみ上げてきそうになった。

「柚月ちゃんこの後予定は?」

 浅見に問われ黙ったまま首を横に振った。口を開くと涙がこぼれそうだった。

「ないんだな、じゃ今から飯行こう」

「は、はい……」

 顔を真っ赤にしながらなんとか返事した。

 浅見はそんな柚月の頭をポンポンと撫で四駆の助手席に誘導した。

 

「ねぇ、あれ柚じゃない?」

 未知と朝日は二人で食事に行くため並んで正面玄関の自動扉から出てきた。

「え⁈」

 ちょうど浅見の車に乗り込む柚月を未知は指差して言った。

「柚だよ、あの格好は。何、柚ったら彼氏できたの⁈」

 思ってもない現場を目撃して未知は驚きを隠せず、朝日のコートの袖をぐいっと引っ張った。

 未知より驚いてたのは朝日だった。柚月に付き合ってる人がいるとは思っていなかったからだ。

「マジかぁ……」

 明らかに動揺を隠せない朝日は心が騒いでいてもたってもいられなくなった。

 今までに見た事のない顔をしている朝日に気づいた未知は、以前から心に巣食っていた小さな『闇』が濃密になっていくのを感じた。

 二人は無言で柚月を乗せた車が走り去って行くのを見届けていた。

 動けずにいる朝日の顔を見上げ、未知は手に取るように彼の気持ちが伝わってしまった。

 それと同時に何も出来ない自分のもどかしさに苛立ちだけが募ってきた。

「朝日、行こう」

 未知は自身の弱る心を奮い立たせ、何事もなかったような言い方をした。そして朝日の背中を軽く叩き優しく歩みを促した。

 

 昼休みも終わりに差し掛かる頃、未知は車で帰った柚月の事が気になり話を切り出した。

「ねぇ、柚。先週末仕事終わった後、車で誰かと帰らなかった?」

「え⁈」

 丸い目を見開き予想していなかった質問に戸惑った。

「え……っと」

 困った顔のまま愛想笑いを浮かべる柚月に、

「何誤魔化してんの? さぁ、吐け、吐きなさぁーーい」

 恒例になってる未知の頬をつねる拷問に、逃げ場がなくなった柚月はつっかえながら口を開いた。

「ス、スマホ拾ってくれた人なんだけど……食事誘われて行ったんだ。そ、それだけだよ」

「え⁈ その人大丈夫なの? 変な人じゃない?」

 予想していなかった柚月の発言に未知は驚きと心配が胸をよぎった。

「変な人じゃないよ、ふ、普通の人だよ。大丈夫」 

 慌てて未知に話したが疑いの目はまだ向けられていた。

「その人が無くしたと思っていた名刺入れも持っててくれたから。ほら」

 まさか浅見薫と出会って食事に行ったとは言えず、柚月は必死に弁明した。

「本当のほんとーに変な人じゃない? 怪しくない?」

 柚月を心配してのことだけど、これ以上の追求に柚月は誤魔化すのが限界にきていた。

「大丈夫だよ、心配してくれてありがと。ね、未知もう昼休み終わりだよ。部屋に戻ろう」

 腕時計をみるとちょうど昼休み終了時間だった。

「あ、本当だ。やばい私午後からクライアントのとこに行くんだった」

 未知も腕時計を見て慌てて席を立ち二人は社員食堂を後にした。

 難を逃れられた柚月は、ホッと胸をなでおろし、小走りに走る未知の後を追った。

 

「成田、戻ってきたか」

 部屋に戻ると赤坂が柚月を待っていた。

「すいません、赤坂さん。メールさっき見たばっかりで」

 スマホに赤坂から午後一でミーティングするとの内容が届いていたのを、未知への弁明に手間取り確認が遅れてしまった。 

「いや、構わないよ。じゃ始めようか」

 朝日は先にミーティングルームに入ってホワイトボードを用意していた。

「松田君、ごめんね。遅れちゃった」

「全然大丈夫ですよ、遅れたっても五分じゃないですか」

 爽やかな笑顔で迎えられ柚月は胸を撫で下ろした。

「さっき雪村酒造さんから連絡あって起用したいタレントが決まったんだ」

 赤坂はカラーコピーした用紙を二人に配った。

「浅見薫でお願いしたいそうだ」

「え⁈」

 柚月は思わず声をあげた。

「どうした、成田」

 柚月の反応に逆に驚いた赤坂が聞いた。

「い、いえ。何でもないです」

 柚月は取り乱した気持ちを必死で隠した。

「赤坂さん、成田先輩浅見薫の大ファンなんですよ」

 朝日は少し拗ねた口調で伝えた。

「へーーそうだったのか、でもファンなだけだろ? 仕事するのに差し支えあるか?」

 厳しめの口調で赤坂は柚月を見た。

 その視線で赤坂が言いたいことは柚月にしっかりと伝わってきた。

「大丈夫です。さっきは少し驚いただけです」

 赤坂に視線に応えるよう、柚月はきっぱりと返事した。

「じゃこれからの流れを確認するから」

 赤坂はホワイトボードに向かい、いつもの様にミーティングを進めた。

 柚月も気を取り直し、手帳を開いた。チラリと浅見の写真を横目にしながら。

 

(いよいよ今日だ)

 自宅の鏡の前で出勤前の身だしなみチェックに柚月はいつもより時間をかけていた。

(今日のキャスティング依頼成功させないと)

 鏡の前で握りこぶしを作り、気合いを入れ玄関へ向かった。

 昨夜磨いたパンプスにつま先をねじ込み柚月は深く深呼吸をした。

(これは仕事、仕事だよ。浮かれちゃだめだからね)

 浅見と関われる、何にも増して得がたい喜びを押し殺し柚月は玄関を出た。

 

 浅見の所属する事務所、『アルタイルエンターテイメント株式会社』が入っているビルに柚月は赤坂と訪れていた。

 受付でアポを取っている事を告げ二人はロビーで担当者を待っていた。

 しばらくすると規則正しい靴音と共にスーツ姿の男性が近づいてきた。

「お待たせ致しました、広報部の桜田です」

 四十代前半くらいの男性が柚月達に声をかけてきた。

「初めまして、アヴェックトワ株式会社の赤坂です。本日はお忙しい中お時間いただき、ありがとうございます」

「成田です。よろしくお願いします」

 赤坂に続き、柚月も名刺を桜田に渡した。

「では、事務所の方へご案内いたします、こちらへ」

 桜田に連れられ二人はエレベーターへ乗り込んだ。

 八階に到着し、桜田はカードリーダーのロック解除をしオフィスのドアを開けた。

「失礼します」

 一礼した赤坂と柚月は応接室へ案内された。

 革張りの茶色いソファーに腰掛けた二人はしばらくお待ちくださいと言うセリフを残したまま部屋を出た桜田を待っていた。

 柚月は緊張を隠そうと両足の膝をくっつけ力をいれた。

「成田、そんなに緊張するな。自然にしてろ」

 柚月の心情が伝わってきた赤坂はピシャリと叱責した。

「は、はい。すいません」

「お前はいつもの様に振舞っていればいいんだ。成田が笑顔だと癒されるしな」

 あまり笑わない貴重な赤坂の笑顔を見た柚月は安心し肩の力を抜いた。

「今の赤坂さんの笑顔で私が癒されました。ありがとうござます」

 いつもの柔らかい表情を見せた柚月に赤坂も内心ホッとしていた。

 

 コンコン

 

 ドアをノックすると同時に桜田が姿を現した。

「お待たせ致しました」

「いえ、とんでもない」

 二人はソファーから立ち上がり一礼した。

 ゆっくり顔を上げた柚月は息を飲んだ。

 桜田の後ろから浅見が部屋に入ってきた。

 柚月は目を丸くし、全ての言葉を失ったかのように頭の中が真っ白になった。

「ちょうど本人が事務所にいまして同席させていただきますね、こちら浅見です」

 桜田の紹介で浅見は軽く会釈した。

「浅見薫です。よろしくお願いします」

「初めまして、赤坂と申します。いつもテレビでご活躍を拝見しております。ご本人にお会いできて光栄です」

 名刺を取り出し、浅見の前に差し出しながら赤坂は挨拶をした。

 極限の緊張が再び柚月を襲い、名刺入れから一枚の紙を出す事さえままならなかった。

「は、初めまして。な、成田と申します」

 やっとの思いで名刺を取り出し、浅見の前に差し出し震える声で挨拶をした。

 指先が震えているのに気付いた浅見は優しく微笑みながら名刺を受け取り、「よろしく」と挨拶をした。その声には柔らかい口調の中にかすかないたわりが感じられたような気がした。

(めずらしいな、浅見さんのこんな優しい口調……)

 桜田は横に座っている浅見にチラリと目をやり、いつもと少し違う雰囲気をまとう彼を不思議そうに眺めた。

「お電話でもお伝えした通り、今回浅見さんにお願いしたいのは雪村酒造さんの新商品CMの件で、先方はイメージにぴったりの浅見さんに是非お願いしたいとの強いご要望なんですが。いかがでしょうか」

 赤坂は資料をテーブルの上に並べながら依頼の話を進めた。

「そうですね、日本酒は浅見のイメージに合うのはよく理解できます。ただ今別の企業からもオファーが来てまして。それもお酒のCMなんですよ」

 桜田は申し訳なさそうに赤坂を見た。

 そんな二人のやりとりを柚月は必死に平静を装って聞いていた。

(集中しなきゃ。でも目の前に浅見さんがいるなんて…顔を向けられない)

 赤面している自覚が柚月にははっきりわかっていたが、それを自分でどうにかする手立てはなかった。

「もう、その企業さんとの話は具体的に進んでいるのでしょうか?」

 赤坂は落ち着いた口調を桜田に向けた。

「いえ、まだこれから返事をするという段階です」

 桜田も応えるように赤坂を直視した。

「成田さん」

 突然浅見は柚月の名前を呼んだ。

 当然の事でビックリしたのは柚月本人だった。

「は、はい」

 名前を呼ばれた柚月はバネの様にその場に立ち上がり、上ずった声で返事をした。

 赤坂達は急に立ち上がった柚月に一瞬唖然としていたが、その空気は浅見の笑い声で吹き飛ばされた。

「プッ! あっははは」

 声を荒げて大笑いしている浅見を一番驚いて見ていたのは桜田だった。

(浅見さん? こんなに声を出して笑ってる姿始めて見た)

 立ち上がってしまった事で、柚月の顔は収拾ががつかないくらい真っ赤になった。

 浅見は笑いすぎた事に反省し赤坂達に申し訳なさそうに一礼した。

「成田さんは雪村酒造さんがどうして僕に依頼をしてきたんだと思う?」

 柚月の行動がツボにはまって肩が震えている浅見は、たえながら話を切り出した。

 茶色ががった浅見の瞳で見つめられ、柚月の胸にピリリと電流が走った。

 すっと息を吸うと自分を落ち着かせる様に静かにゆっくりと吐いた。

「雪村酒造さんの蔵元の娘さんが今後を継いで杜氏をされてるんですが、この方の手掛けた日本酒の第一号が今回のお酒なんです」

 両手を下腹部の上で重ね柚月は静かに語り出した。

「雪村酒造さんは少し前までは今の杜氏さんの弟さんが会社を引き継いでいたんですが、病気で他界されました。亡くなる前に若い人にも親しんでもらえる新しい日本酒を開発していたんです。でも成し遂げる事が出来ませんでした。その弟さんの意思を継いでお姉さんが、一から酒造りを学び、何年もかけてやっと出来上がったのがこの日本酒なんです」

 ひたむきに話している柚月を浅見たちはじっと聞いていた。

「以前……雑誌のインタビューで浅見さんが、歌を歌わなくなった理由を尋ねられた時『完全な絶望を味わった後に残るのは目の前の大きな壁だけ。それを乗り越えて向こう側に行ける人間になるために、今は自分から歌を取り上げた』って話を思い出しました。杜氏さんも同じ様に未知の世界へ挑む為、想像以上のご苦労されて弟さんの死を乗り越え、夢を完成させたのかなと思ったんです」

 柚月は大きく深呼吸をし、話を続けた。

「浅見さんが乗り越えなければいけないと思ったように、杜氏さんにも同じような思いがあり、もがいているのかもしれない。それが『浅見薫』から感じ共鳴したのかと……これは私の勝手な想像なんですが」

 赤坂はいつもと違う柚月の様子を心配気に見守っていた。

 柚月は唇をキュッと結び、とびきりの笑顔を浅見たちに向けた。

「この日本酒は深くてほのかに甘く優しい味は、若い方や年配の方からも支持されている浅見さんのあったかくてそっと包んでくれる、イメージそのものだと思いました」

 無我夢中で話しきった柚月は、我に返りペコリとお辞儀をして恥ずかしそうにソファーに座った。

 僅かな沈黙に包まれた後、浅見は立ち上がり応接室の扉を開け部屋を出て行こうとした。

「す、すいません浅見さん。私生意気な事を……」

 出て行こうとした浅見を見てた柚月は焦って浅見の背中に声をかけた。

「思った通り……以上かな」

 浅見は小さく呟いてくるりと振り返った。

「桜田さん、雪村酒造の仕事引き受けるから。もう一つの依頼は断っといて」

 そう言った浅見は柔和な笑顔で部屋を出て行った。

 

「いやぁ、でも浅見のあんな顔見たのは私も入社以来初めてでした」

 浅見の事務所で再会してから数日後、柚月は赤坂と再び桜田を訪ねていた。

 桜田は前回の一件での浅見の態度が余程珍しかったのか、興奮して感情が抑えれない状態だった。

「そうなんですか? 我々はテレビの中の浅見さんしか知らないので……。でも依頼を引き受けて頂いて本当にありがとうございました」

 赤坂はテンションの高まった桜田に気押されながらいつも通りの平常心で答えた。

「成田さんの力説が効いたんでしょうね、きっと」

 桜田は柚月の方を見てニカッと笑った。

「いえ! この間は私なんかが生意気な事を言ってすいませんでした」

 心苦しそうに柚月は頭を下げた。

「熱かったよね、成田さん。でもそれが浅見に響いたんでしょうね」

「本当にすいません。でもそうおっしゃって下さって嬉しいです。ありがとうございます」

 柚月は反射的に微笑んだ。

「では桜田さん、これが今後のフローになります。成田、説明して」

 柚月はうなづく事で返事を返し、資料をテーブルの上に並べた。

「撮影は静岡県の温泉旅館で、そこの離れを借りて撮影します」

「温泉?」

 桜田が不意を突かれた表情で柚月を見返した。

「はい。客室の露天風呂に入って頂いて、雄大な海と空の景色が広がる中、浅見さんにアカペラで歌って頂くというコンセプトになっております」

「アカペラ? 浅見が歌を歌うんですか?」

 柚月の発言に、桜田は困った顔のまま愛想笑いを浮かべた。

「はい、歌を歌っていただきます」

 桜田は柚月の意気軒昂いきけんこうした態度に困惑した表情を浮かべた。

「浅見は歌わないですよ。私たちも今まで何回か歌う事を打診したんですよ。だけど首を縦には振らなかった。だから今回の件も無理だと思いますよ」

 大きく溜め息をつき、桜田はソファーに荒々しくもたれた。

「浅見さんが今歌わないって事は承知の上です。それを踏まえての依頼をさせて下さい」

 熱のこもった柚月は、身を乗り出して桜田に詰め寄って言った。

「成田!」

 赤坂の頭の芯に突き刺さるような声で柚月は我に返り、静かにソファに座り直した。

「桜田さん、一度我々に浅見さんを説得するチャンスを頂けませんか? もし浅見さんに断られましたら、その時は諦めて曲を流すだけにしますので」

 冷静な赤坂にほだされて桜田は口を一文字にし、腕を組んで暫く考えていた。

「お願いします、もし浅見さんが歌って下さったら視聴者はCMでもザッピングなんてせず食い入って見ると思うんです。最高の演出になると思います」

 柚月はゆっくりと思いを込め桜田に訴えた。

 文章に余白を設けるように桜田は少し間を空けてから口を開いた。

「浅見の強固な思いは覆ることは無いと思いますよ。それでもと仰るのなら一度説得してみて下さい」

 決意が揺るがない目をした柚月に、桜田は大きく息を吐き自分の気持ちに弾みをつけるように両膝を叩きニカッと笑って答えた。

「あ、ありがとうございます!」

 柚月は立ち上がり、体を畳むように深々と頭を下げた。

 

「桜田さんに許可は貰ったもののどうする?成田」

 アルタイルエンターテイメントの帰りのタクシーで赤坂が切り出した。

「浅見さんが歌わなくなった頃の事私なりに調べてみたんです、雑誌やネットで。だけど所詮眉唾。鵜呑みにしないように頭の片隅に置いて置くレベルにしました」

「そうだな、芸能人と言う立場上詮索されるのは仕方ないだろう。それで成田は別の切り口から交渉するんだな」

 タクシーが会社に着き、赤坂が支払いを済ませながら柚月に言った。

「はい。私には本当の事なんて分からない、でもずっと彼の歌を聴いて応援してきたファンの一人として、また浅見さんの歌をたくさんの人に聴いて貰いたいって気持ちを伝えようと思います」

 赤坂はエレベーターに乗り込みながらフッと笑みを浮かべた。

「手強いだろうけど成田の思うようにやってみろ。ただ引き際は大事しろよ」

「はい」

 心の中に芽生えた固い意志を、自分自身再確認するかの様に柚月は返事をした。

 

「お電話変わりました、成田です。お世話になっております桜田さん」

 浅見の事務所に行ってから二日たち、週末の金曜日、柚月が待ちに待った電話がかかってきた。

「成田さん、お時間頂きすいません。で、急なんですが本日の十九時いかがでしょうか? 撮影があったんですが悪天候で延期になったんです」

「はい、こちらは大丈夫です」

「では十九時事務所で。浅見にも来るように伝えておきます」

「かしこまりました。十九時にお伺い致します、よろしくお願いします」

 柚月の体中にしみるような緊張が襲ってきた。

 

 浅見のいる事務所の入り口にあるインターホンから柚月は桜田を呼び出していた。

「少々お待ちください」と言う事務員らしい女性の声で待機していると、すぐに桜田はやってきた。

「成田さん、わざわざどうも。あれ、今日赤坂さんは?」

 一人で訪問してきた柚月を見て桜田は尋ねた。

「申し訳ありません、赤坂は別件で急遽外出しておりまして、今日は私だけですがよろしくお願い致します」

 一人で浅見を口説かなくてはいけない、責任重大な任務を控えて柚月は顔が引きつりそうだった。

「いえ、かまいませんよ。どうぞお掛けください、じきに浅見も来ますので」

 桜田が言い終わるのを待たずして浅見は応接室に入ってきた。

 浅見の姿が目に入るやいなや柚月は反射的に席を立ち一礼した。

「浅見さん、今日はお忙しい中お時間頂きありがとうございます」

 必死で平静を装い柚月はめいいっぱいの笑顔を浅見に向けた。

「こんばんは、成田さん」

 浅見もまた柚月の笑顔に柔らかな微笑みで返した。

(また浅見さん優しい顔つきになって……やっぱり成田さんの事気に入ってるのかな)

 桜田は浅見の態度を再確認するように観察していた。

「浅見さん、改めてまして今回のオファー引き受けて頂き本当にありがとうございます」

 腰掛けたままの姿勢で柚月は深々と頭を下げた。

「早速なんですが、今回のロケは静岡県の温泉旅館で離れにある客室露天風呂での撮影になります」

 浅見は黙ったまま柚月の話を聞いていた。

「浅見さんには温泉に浸かりながら日本酒を飲んでいただきます」

「ふーん、じゃ俺脱ぐんだな」

「は、はい! すいません……でも上半身だけですから」

 慌てる柚月を浅見はわざと反応をからかうかのように尋ねてみた。

 案の定赤面しながら必死に解説をアピールする柚月の想像通りな姿を楽しんでるかのように浅見は目尻にシワを作っていた。

(浅見さん楽しそうだな……)

 桜田はチラリと浅見の楽しそうな笑顔を捉えていた。

「で、その……浅見さんには温泉に浸かりながらアカペラで歌って頂きたいんです」

 恐る恐る柚月は難関なキーワードを口にした。

 その言葉を聞いたとたん浅見のほころんでいた表情が一気に曇った。

「歌か、それは……」

「浅見さん」

 拒まれるのは承知の上だった柚月は、すかさず浅見の言葉を遮った。

「私は浅見さんが歌わなくなった理由を知りません。だけど素晴らしい歌を数多く歌ってこられたのは知ってます。それは私だけじゃなく他の沢山の人も一緒です」

 目をキラキラさせながら語る柚月とは正反対に、浅見は困惑したままの愛想笑いを浮かべていた。

「成田さん、やはり歌はちょっと……難しいかと」

 浅見の顔色を見た桜田は、申し訳なさそうに割って言った。

 柚月は意を決したような声で浅見の目をまっすぐ見て言った。

「私には兄がいました。学生の時兄が突然亡くなってしまい、以後どうやって毎日を過ごしていたか、ただ時が過ぎるのを見送るだけの日々でした」

 前に浅見にも話した兄を失った時の事を語り出した。

「ある日、兄の部屋を片付けてたら浅見さんのCDを見つけたんです。思いだすと辛くて聴いてなかった歌をその日聴きました」

 浅見もまたその視線に応えるかのように柚月の目を見つめ返していた。

「私泣きました。兄がいなくなってからずっと泣けなくて。でもCDを聴いて一緒にいた思い出が一気に蘇ってきました。兄が生きていた証が胸に宿って再び私の中で生きているんです」

 応接室はシンと静まり返っていた。柚月は『仕事の依頼』として緊張していた事など忘れ、込み上げてくる熱が浅見に届くように思いを込めた。

「浅見さんの歌がきっかけなんです。辛くても生きて行くのは自分の役目だと思えたのは」

 声が震えている柚月は浅見の目に泣いているように見えた。

「他の人も同じように浅見さんの歌で励まされ、支えにしている人もいると思います。浅見さんの歌で癒やされたり励げまされたり」

 一気に語りきった柚月は潤んだ瞳を向けた。

「浅見さんの歌にはそんな人たちの気持ちを理解でき、代弁して歌にその気持を込める事が出来るんです。私はそう思います」

 再び柚月は深々と頭を下げた。

「長々と話してしまいすいません。どうか一度考えていただけませんか、よろしくお願い致します」

 柚月は高揚した気持を沈めながら願いを込めて浅見を見つめた。

「……わかりました。少し考えさせて下さい」

 浅見は今答えれる精一杯の言葉を、ため息にのせて言った。

「後……浅見さんこれを一度見ていただけますか?」

 柚月はカバンから一枚のDVDを取り出し浅見の前に置いた。

「これは?」

「このDVDは浅見さんの歌がこんな風に慕われ歌われてるんだなて事を知って頂きたくてお持ちしました」

 何も書かれていないジャケットのディスクを浅見に手渡した。

「良かったらこれを見て下さい」

 そう言って柚月はスクッと立ち上がり、頭を下げた。

「浅見さん、今日はお時間頂きありがとうございました。どうかよろしくご検討ください」

 柚月は顔一面に満悦な表情を見せ部屋を出て行った。

 

「久しぶりだな、ここにくるの。相変わらずのホテル住まいで」

 ディヴァインホテル三七一三の浅見の部屋にブーツを脱ぎながら蓮が入ってきた。

「ホテルのが楽なんだよ誰も干渉しないしな……って、また靴脱いでんのか」

「人ん家来たら靴脱ぐのは当たり前だろ?まぁホテルだけど。それに久しぶりなんだからリラックスさせてくれよ」

 ドカドカとリビングにやってきた蓮は手に持っていたワインをテーブルにのせた。

「俺も靴脱いでるけどな。おっ、ワイン忘れなかったんだな。さすが飲む事だけはしっかり覚えてるよな」

 ルームサービスであらかじめオーダーしていたローストビーフやスティックサラダを並べながら浅見は少し意地悪く蓮に言った。

「当たり前だろ。それに今日は気分いいんだ。脚本が期限内に出来たから」

 コートを脱ぎ待ちきれずにグラスを持ってワインを注いでくれと言わんばかりに浅見にねだった。

「子供か。間に合わすのは当たり前だ」

 呆れながらも浅見は蓮のグラスをワインで満たした。

 二人はリビングのソファーに落ち着き、近況報告をしていた。

「そう言えば薫今度CMやるんだろ? どんなの?」

「相変わらず耳が早いな。日本酒のだよ」

 空になった蓮のグラスにワインを注ぎながら蓮のネタ元に感心していた。

「へぇ酒か、いいな。撮影はまだ?」

「……ああまだ」

「お? なんかあんのか?」

 大雑把に見えるビジュアルとは正反対に人の敏感な変化によく気づく特技を持っている蓮は、浅見の何か言いたげな様子をすかさず拾った。

 少し間を開け浅見は考え込んでいたが、意を決したかのように蓮の方を見た。

「実は……そのCMで歌ってくれって言われてる」

「へえー、いいよ! いいじゃないか!」

 思いもしなかった答えに蓮は顔中ほころばせながら喜び、浅見の肩をバシバシと叩いて言った。

「い、痛いよ」

「歌かぁ、うんうん、いい!」

 顎に生えたヒゲを撫でながら一人納得していた。

「そんな簡単じゃないけど……」

 胸の中に巣食っているためらいを全て吐き出すように、浅見は額に掌を当て呟いた。

「まだ引きずってるんだろ? でもそろそろ前に進んでもいいんじゃないか? まぁ、お前にとっちゃ簡単じゃないってまた言うんだろうけどな」

「もう引きずってはいないよ。ただそんな気になれないだけだ」

 ソファーの背にもたれ浅見は天井を見上げた。

「厄介な性格だね、薫君は」

 テーブルにグラスを置いた蓮はの下の棚にある一枚のDVDが目に入った。

「薫、これなんのDVD?」

「え?」

 蓮が手にしたディスクをヒラヒラとさせて浅見に見せた。

「ああ、それは今回のCM担当している会社の女の子が俺に見て欲しいってくれたんだけど」

「まだ見てないんだな」

「ああ……」 

「よし、それ見てみようぜ」

 蓮は吸っていた煙草を灰皿に押し付けDVDをケースから取り出しデッキに挿入した。

「また今度一人の時に見るから今いいよ」

 浅見の声など御構い無しに蓮はさっさとリモコンの操作を進めていった。

「どんな内容か気にならない? 俺は気になる」

「蓮が気にしてどうするんだよ」

 言い出したら止まらない蓮の性格を嫌と言うほど知っている浅見は観念して映像が流れるのを待った。


 動画が始まった

 

 どこかの会館のような風景だった。ざわざわとした大人数の波の中、マイクで司会を進める声が会場に響いた。壇上が正面に写ると制服を着た男女がひな壇を端から埋めていった。

『次は、卒業生による送る歌』と司会の男性がマイクで進行すると、ピアノ演奏が始まった。

「これどっかの中学? の卒業式だな」

 無言で見ていた蓮が呟いた。

「かなぁ……?」

 浅見も画面を見ながら首を傾げていた。

 前奏が始まり、浅見は聴き覚えのあるメロディーに気づいた。

「これ薫の歌だな。たしか学園もののドラマの主題歌だったよな」

「ああ、そうだな」

 声変わりが初々しい男子生徒と、それを補うような女子生徒の歌声が友情や絆を表している歌詞にピッタリはまっていて、参列している保護者の何人かはハンカチで涙を拭っていた。

 二人はしばらくじっと耳を傾けていたが、蓮がある事に気づいてポツリと漏らした。

「この学校青森県みたいだなぁ」

「青森? なんでわかった?」

 大友は画面に映っている壇上に置かれた金屏風の横に墨で『第五十四回青森県第三弘前中学校 卒業式』

と書かれた進行表を指差した。

「本当だな」

 答えた後再び無言になり、部屋には中学生の歌声だけが波紋のように広がっていた。

「やっぱいい歌だな、この曲」

 聞きてを優しく包み込むようなメッセージソングを懐かしそうに蓮は聞いていた。

「俺が初めて書いた曲だ……」

 浅見の独り言は横にいる蓮の耳に聞こえたかどうか分からないくらい小さな声だった。

 卒業生の合唱が拍手喝采の音で終りを告げ液晶画面は暗くなった

「終わったのか?」

 蓮がリモコンを手にしようとした時、賑やかな楽器の音と共に新たな映像が始まった。

「まだあったんだ、今度は何が始まる?」

 少しワクワクしてきた蓮は身を乗り出して画面にかじりついた。

 映し出されたのは高校生らしき野球部の試合を見に来ている応援席が映し出され、画面には三十人程の制服姿の女子生徒が、おのおの楽器を手にしていた。

 指揮者が指揮棒を振りかざすと迫力のある演奏が始まった。

「これ……これも薫の歌だよな」

 クイズの答えが分かったかのようなテンションで蓮は叫んだ。

 さっきとは別のテンポのある明るい曲がリビングに鳴り響いた。曲の合間に北海道にある学校を連想させるような高校名を全員で叫び、バッターボックスに立つ生徒を応援していた。

 再び液晶が暗くなり違う映像が流れてきた。

 体育館の中にバスケ部らしいユニホーム姿の生徒が顧問の先生に花束を渡している様子が映し出されていた。

 代表の生徒が先生に向けてお礼の言葉をしたためた手紙を読んでいた。その生徒は読み終わると他の部員の元へ加わった。端にいた一人の生徒がスマホを操作し前奏が流れてきた。

「薫、この曲も……」

 スマホから流れてきた浅見の歌声に合わせユニホーム姿の生徒が一斉に歌い出した。

 その曲はいろんな人や出来事に感謝を表現している歌詞だった。

 いつの間にか二人は無言で画面を見つめていた。

 次々と画面が変わり、そこに映し出された歌は全て浅見の歌だった。

「お前の歌すごいよな。こんな若い子らにも知ってもらってて」

 蓮は新しい煙草を口にしようと持っていた箱をテーブルに置き浅見を見た。

「……」

 浅見は黙ったまま液晶画面を見ていた。そこにギターの音色が聞こえ、一人の男性が駅前らしい場所に立っている姿が映った。

 男性はギターを弾き、全身から振り絞るような歌声を夕暮れの街を駅に行き来する人の足を引き止めるように歌っていた。

「これも薫の歌だ。俺この曲が一番好きだな」

 蓮は画面に映る男性と一緒に口ずさんでいた。

「……振られる歌だな」

 言葉数少なく浅見は答えた。

 男性の前には数人の町人が足を止め切ない歌詞の世界に共感していた。

 間奏に入った時、遠くに男性と女性の声が聞こえたのに二人は気づいた。

「何か聞こえたよな」

「ああ」

「巻き戻してみるか」

 蓮がリモコンで数秒前に映像を戻し、音声のボリュームを上げた。

 男性がサビを歌い終わるところから画像は再開され、ギターの音の向う側に声が聞こえてきた。

『あ、雨だ。雨ですよ成田先輩』

『ほんとだ大変、本降りになる前に松田君は帰っていいよ』

(柚月ちゃんの声?)

 雑音の中聞こえてきたのは柚月の声だった。

 浅見は知らず知らずに膝の上で掌を握りしめていた。

『俺傘買ってきますよ』

『大丈夫。ヤマトさんも雨の中歌ってるんだし。松田君は風邪引いたら困るから先に帰って』

『ダメですよ、成田先輩一人に出来ません。俺も残ります』

 雨の中ストリートミュージシャンの『ヤマト』を撮影しながらの柚月と朝日のやり取りが小さく録音されていた。

 歌の後半の映像は降り出した激しい雨の中での演奏で終わった。

「雨の中最後まで撮影していたな……。歌ってる子もビデオ回してた人もびしょ濡れになっただろうな?」

 DVDを最後まで見終わり電源を切った蓮が煙草に火をつけながら言った。

 消すと吸い込まれるように暗くなったテレビの画面には、先に紫煙をまとっていた浅見の当惑した表情が映し出されていた。

「なんかいい映像だったな。で、どうするんだ薫」

 浅見は蓮の言葉も耳に入らないほど考えこみ口を開こうとはしなかった。

「忘れる事は出来ないでいいと思うよ、俺は。それも含めて『薫』なんだから。一人で乗り越えて行かなきゃいけない事なんてないんだし」

 いつもふざけているキャラとは別人の蓮は浅見の肩に手を置いた。

「これを作った人は本当に薫の歌が好きなんだな。仕事とはいえこれだけの動画探すの大変だっただろうし。青森や北海道って……」

「そうだな。大変だったろうな……」

 柚月の顔を思い出し浅見はかすかに微笑み、手にしていたケースの蓋を開けディスクを収めようとして、ふと裏蓋に何か書いてあるのを見つけた。

『全て最高の歌です』

 手書きで小さく、でも思いのこもった文字が浅見の胸に染み込んできた。心の奥がほのかに温もり、自然と微笑んでいた。

「前に進まないとな。このまま自分自身を縛り続けるのはもうやめるよ」

 浅見は今までつっかえていた身体の奥の異物が抜け落ちたような気がした。

「歌……また歌ってみるわ」

 

 雪村酒造の新商品CMが放送された。

 浅見薫がアカペラで歌っているたった十五秒の映像が大反響しネットやSNSでも騒がれていた。

 商品の日本酒も前杜氏だった弟さんの希望通り、フレッシュな果実を連想させる香りと、白ワインを想起させる濃密な甘み、パチパチっと弾ける心地よい微発泡感があって、若い人から年配の方と幅広い層に望まれる商品で人気商品として取り上げられていた。

「先日雪村酒造さんから連絡があって、浅見薫起用した宣伝効果で商品の売れ行きが大変好評なんだそうだ」

 日下部はミーティングルームに柚月達を徴集し宣伝効果が大成功した報告をしていた。

「やったね、柚月」

 隣の椅子に座っている未知が柚月の耳元で囁いた。

「うん!」

 嬉しさで喜びを隠せない柚月は結構なボリュームの声で返事をした。

「成田、うるさい。聞いていたか?」

「す、すいません!」

 日下部に叱責され、顔を真っ赤にし身を縮こめた。

「でもまぁ、今回は成田よく頑張ったみたいだな。赤坂から聞いてる。この調子で次の案件も頼んだぞ」

 アメとムチを上手く使いこなす日下部が優しく微笑み、柚月は喜ばしさが心に飛び移るのを感じた。

 

 世間に雪村酒造の新商品が浸透されてきた頃、CMで起用されていた浅見の曲がリメイクされ再リリースされていた。オリコンランキングでもいきなりトップとなりテレビCMやラジオでも頻繁に流れ、世間を賑わせていた。

 仕事を終えた柚月は会社を出ると同時にイヤホンを耳に入れ慣れた手つきでスマホを操作した。

 耳から頭、身体へと順に浅見の声がゆっくり染み込んでいった。自然と目を閉じ周りの景色を遮断するかのように浅見薫の世界に浸っていた。

 浸りすぎて柚月は目の前の通行人にぶつかりそうになり、慌ててイヤホンを外し頭を下げて謝った。

「危ないよ、目閉じたまま歩いたりしたら」

 聞き覚えのある優しい声に柚月は振り返った。

「浅見さん!」

「久しぶり、元気だった?」

 黒ぶち眼鏡の浅見が柚月のすぐ後ろに立っていた。

「あ、浅見さんダメですよこんなとこにいちゃ」

 浅見に会えて飛び上がるほど嬉しい反面、周りが気になり柚月は慌てて辺りをキョロキョロした。

「大丈夫だよ。それより今から飯行かないか。柚月ちゃんなんか予定ある?」

 周りに見つかろうが御構い無しの浅見の優しく微笑む姿に、自分が打診した『歌』を歌う羽目になってしまった浅見への後ろめたさが和らぎ柚月は少しホッとした。

「予定……ないです」

 安心した途端、浅見に会えた嬉しさが込み上げて涙腺が緩みそうになった。

「何度も声かけたのに柚月ちゃん無視するしな」

 街路樹の側に停めてある浅見の車へ向かいながら柚月は責められた。

「ご、ごめんなさい。イヤホンしてたから」

「ふーん、何聴いてた?」

 イタズラする少年のような表情をして浅見は柚月の顔を覗き込んだ。

「……浅見さんの曲です」

 顔を真っ赤にしながら少し拗ねたように柚月は言った。

「へぇー、浅見薫の曲かぁ」

 いじめるように笑いながら柚月の持つイヤホンを自分の片耳に入れ背の低い肩に合わせ、流れてくる自分の曲を寄添い聴いた。

(ち、近い。だめ、心臓がもたない)

「だ、ダメです浅見さん。離れなきゃ……」

 ドキドキしながら浅見の胸をぐいっと押し退け柚月は離れようとした。

「わかった、わかった」

 柚月の心配をよそに悪ふざけをしていた浅見はイヤホンを外した。

「あ!あれ、浅見薫じゃない?」

「うそ、ホント? 本物?」

 車のドアに手をかけて乗ろうとした柚月は近くにいた女性数人がざわついて何か言ってるのに気づいた。

 助手席のドアを閉めてくれようとした浅見に柚月は慌てて、

「浅見さん、気づかれちゃいます」

 本人は慌てることなく、心配げな顔をした柚月の頭をポンポンと優しく撫で運転席に乗った。

 ハラハラしている柚月を余所に浅見はゆっくり車に乗り込みエンジンをかけた。

「柚月ちゃん、食事ホテルの部屋でもいいかな?」

 まっすぐ前を見つめ運転しながら浅見は柚月の手を握り自分の太ももの上に移動させた。

(浅見さん⁈)

 突然手を握られ柚月の身体は彫刻の様に固まってしまった。

「柚月ちゃん?」

 チラリと横目で柚月の表情を確認した浅見のめがねのレンズには青から黄色に変わった信号が映り、ゆっくり車は停車した。

 火照る柚月の顔をハンドルにもたれながら覗きんだ浅見はもう一度名前を呼んだ。

「柚月」

 浅見の唇からこぼれた甘い音と同時にその唇は柚月のピンクに染まった柔肌に触れた。

(えっ……?)

 信号が青に変わると浅見は前を向き直し再び車を加速させた。

 浅見の大きな手の中には緊張で汗ばんでいる小さな柚月の手がこの状況をどう処理したらいいか迷っていた。 

 相変わらず表情が変わらないまま運転をしている浅見の横顔を、柚月は人見知りを覚えた子供の様にそっと見つめてみた。

 その涼しい顔をした横顔に余裕を感じ、いつも自分だけドギマギさせられ柚月はちょっと浅見が憎らしくなった。

 余裕綽々の浅見は横顔に刺さる視線を感じ、自分の手の中にある小さな柚月をぎゅっと握り直し横目で微笑みかけた。


「どうぞ」

 浅見はホテルの部屋のドアを開けて柚月を中へ招き入れた。

 数ヶ月前に初めて来た部屋は変わらない美しい夜景が柚月を迎えてくれた。

「すごい、やっぱり素敵ですねこの夜景」

 溜息をつき柚月は窓際へ近づき星が散りばめられた様な世界をうっとり眺めていた。

 ガラスに映る自分の後ろに浅見が重なった。

「浅見さん?」

 柚月は後ろを振り返ろうとした、その瞬間浅見は自分の腕の中に柚月を閉じ込めてた。

「あ、あの……」

 驚き戸惑う柚月は抱きしめられたまま身動きが取れず雛鳥のように震えていた。

「柚月……ずっと俺の側にいてよ」

 浅見は柚月の肩に顔を埋もれさせながら小さな声で嘆願した。

「え⁈」

 思いがけない言葉が囁かれ柚月は耳を疑った。

「忙しくて中々柚月に会いに来れなかった。ずっと会いたかったよ。柚月は?」

 首すじに浅見の息がかかり、くすぐったいのと、その先の快感を期待するかのように背中がゾクゾクとし柚月は羞恥を覚えた。

「柚月、答えて」

「私も……会いたかった。ずっと会いたかったんです」

 浅見の甘い声に頭の先からつま先まで痺れ、溢れ出しそうな思いを声にした。

 嬉しすぎて涙腺が壊れたように涙が止まらず柚月は子供のように泣きじゃくった。

 浅見は自分の腕の中にいる柚月の事が愛おしくてたまらなくなり、抱きしめた腕の力が自然と強くなった。

 その腕の力強さで柚月は浅見を今までよりずっと近くに感じ、それに答えるように背中へ手を回した。

 柚月の額に柔らかい唇が触れた。

 その唇は愛おしい気持ちを伝えるように瞼、頬と順にゆっくり移動し柚月の潤んだ唇に到達した。

 それは体中の細胞が壊れそうなくらい熱い口づけだった。

「好きだ……」

 色っぽい低音の声が耳元へ呪文のように囁かれ、柚月は立っている事すらままならなかった。

「浅見さん、好き……」

 柚月は背伸びをし浅見の首に腕を回し、前かがみになった彼の耳に唇を寄せ気持ちを囁いた。

 浅見は胸の更に奥の方に芽生えた炎のような火照りで全身の血汐を沸き立たせ、逢えなかった時間を埋めるように柚月をギュっと抱きしめ軽々と抱えた。

 お互いの顔が近づき、柚月は浅見の頬に自分の頬をすり寄せた。そしてそのまま二人は間接照明が誘うベッドルームへと溶け込んで行った。

 

 カーテンの隙間から一筋の朝の光が柚月の瞼に差し込み夜明けを知らせた。

 寝返りをしようとしたけど、すっぽりと浅見の腕に拘束されて動けなかった。

 その温かさ、腕の重みに夕べの出来事が嘘じゃなく現実だと実感できた。

「柚月起きてた?」

 浅見が目を覚まし柚月の白い艶やかな肩に口づけた。

「はい……おはようございます」

 くすぐったくて、恥ずかしくて背中に感じる浅見の顔を見れずに初めての挨拶を交わした。

「柚月、今日土曜だから仕事休みだろ?」

「は、はい休みです。あの……浅見さんは?」

 中々後ろを振り返る勇気がない柚月は、浅見の腕にしがみつきながら尋ねてみた。

「俺は打ち合わせかな、新曲のPVの」

「えっ、新曲ですか⁈」

 浅見の思いがけない言葉に反応し、柚月は勢いよく飛び起きた。

「柚月、その姿俺を誘ってる?」

 浅見のナイトローブを着たまま眠っていた為サイズが合わず胸元がはだけてしまい、胸の谷間が露わな姿になってしまっていた。

「キャア!」

 浅見がナイトローブの胸元を人差し指で引っ掛け今にも下へずらしそうな仕草をして見せた。

「誘ってません! ダメです」

 慌てて胸元を直し浅見に背中を向けた。

「ごめん、ごめん。冗談だよ」

 柚月の頭を優しく撫で、浅見は拗ねている背中を包み込むようにそっと抱きしめた。

「浅見さんの新しい曲がまた聴けるって思ったから、うれしくて……」

 浅見の温もりの中、甘えながら頼れる腕に自分の腕を絡ませた。

 そんな柚月の事がたまらなく愛おしく思い、浅見は押し迫ってくる時間から逃げるように抱きしめた腕に力を込めた。

「く、苦しい浅見さん……」

 その腕の力が好きと比例しているのが嬉しい反面、息が詰まりそうだった。

「あ、ごめん。つい……」

 柚月は申し訳なさそうな浅見の頬にそっと唇を触れさせ朝日に輝く笑顔を向けた。

 浅見は柚月を抱きしめ頭を優しく撫でた。

「柚月……離れ難いけど時間だよ。支度しよう、家まで送るよ」

 このまま時間が止まればいいと思いながらも、浅見の口からいつこのセリフが飛び出すか覚悟はしていたが、寂しくて胸にツキンと痛みが走った。

「はい、わかりました。直ぐに着替えますね」

 寂しい気持ちを押し隠し柚月はニッコリと笑った。

 柚月に触れると離れたくない事を自覚していた浅見も胸が苦しかった。

「いつでも連絡してきていいから。直ぐには返信出来ないかもしれないけど」

 柚月を安心させるために言ったセリフは自分にも言った言葉でもあった。

「はい!」

 満点の笑顔で柚月は力強く返事をした。

 

 夢のような週末から一変して通常運行の現実がやってきた。

 日々営業からやってくる新規の案件に追われながら柚月の日常は忙しなく繰り返されていた。

 今日は相方の未知がクライアント先へ出向いていた為、昼休みを柚月は会社近くのオープンカフェでひとりまったりと過ごしていた。   

春先の少し暖かくなってきた日差しの中、カフェオレを口にしスマホの待ち受け画面を見ては、意味なく指でスクロールさせての繰り返しをしていた。

(浅見さん、元気かなぁ……。あれから三週間か…会いたくて仕方ないよ)

 浅見の連絡先を開き、新曲はどんなのか聞きたい事はあるものの、メッセージを送る事に躊躇していた。

(仕事、忙しいよね……邪魔になりたくないしな)

「はぁぁーー」

 行き交う車の排気音が飛び交っている中、負けないくらいの大きな溜息をつき柚月はテーブルに突っ伏した。

「でかい溜息だな、成田」

 急に名前を呼ばれ、慌てて体を起こした。

「日下部さん!」

 手にコーヒーを持った日下部が柚月のテーブルの側に立っていた。

「ここいいか?」

「もちろんです」

 柚月はテーブルに置いていたスマホを横に片して日下部のコーヒーを置くスペースを空けた。

「こんな賑やかな場所なのに成田の溜息丸聞こえだったぞ、なんか悩んでるのか?」

 整った顔立ちの日下部が一層眩しく見えるくらいのイケメンな笑顔で柚月の顔を覗き混んだ。

「いえ……何でもないんです」

『浅見薫』一筋の柚月に理想の上司ランキングに入りそうな日下部を前に、このシチュエーションは女子社員から見たらとても羨ましがられる状況だった。

「……彼氏か?」

「えっ⁈」

 職場にはもちろん未知にさえ話せない浅見のこと、付き合っている人などいない素振りで日々過ごしてきたつもりでいたのに、日下部には彼氏が出来た事がお見通しで柚月は驚き、モロ顔に表してしまった。

「成田は素直だな、直ぐ顔に出る」

 笑いながら日下部に指摘され柚月は赤面した。

「日下部さんには嘘つけませんね」

 照れ隠しに肩をすくめて日下部に降参を示した。

「うまくいってないのか?彼氏と」

 コーヒーをひと口飲み、潤した声で日下部が尋ねた。

「いえ、そんなんじゃないんです。ただ付き合いが始まったばかりで、連絡したかったり顔見たかったりとか言えなくて。とても仕事が忙しい人だから」

 黙ったまま話を聞いてる日下部はそっと手を伸ばし柚月の頭を撫でた。

「日下部さん……?」

 柚月はうつむいていた顔を日下部の方に向けた。

「成田は素直で一生懸命なとこがいいとこなんだ、会いたいなら素直に会いたいって相手に伝えてもいいと思うよ」

 子供をなだめるように日下部は繰り返し柚月の頭を撫で続けていた。

「日下部さん……」

「成田に変化あったのはすぐにわかったよ、今までも明るく前向きな性格ではあったけど最近はパワーアップしてたもんな」

 笑いながら日下部は柚月を褒めた。

「私、そんなに分かりやすかったですか?」

「ものすごーーく、分かりやすい!」

「ひどいです、私めちゃくちゃ単純な人間じゃないですか!」

 頬を膨らませながら、心安い上司に柚月は甘え拗ねてみせた。

「はっはっは!」

 日下部も柚月の反応を楽しむようにかまい、声を上げて笑った。

「笑いすぎです、日下部さん」

 そう言って柚月も一緒に笑っていた。

「成田はそうやって笑ってる方がいいよ、成田らしい。俺も癒されるしな」

 そう言った日下部の顔は今まで見た事のないくらい優しい眼差しだった。

「はい」

 励まされ、日下部の存在を改めて有難いと感じ、柚月は元気よく返事をした。

「じゃ、成田もからかったしコーヒーも飲んだから俺は先に戻るよ。午後から役員会議だ」

 席を立ち上がり、カップを近くのダストボックスに入れ、柚月に軽く手を上げ会社へ戻って行った。

(日下部さん心配してくれて。本当に理想の上司だな)

 日下部の背中を見送りながら、感謝でいっぱいになった。

「さぁ、凹んでないでがんばろう!」

 画面の中の浅見を見つめながら柚月は小さく宣言してスマホをカバンに沈めた。

 

(この辺り柚月の会社近くだな)

 マネージャーの八代が運転する車の後部座席からスモークを貼った窓ガラス越しに浅見は外の景色をながめていた。

 交差点で信号待ちになり、ふと目にした真横にあるカフェの風景の中に男性と二人テーブルを挟んで向き合って座る柚月が目に入った。

(柚月?)

 浅見が気づいた瞬間、男性が柚月の頭を撫でている姿が目に飛び込んできた。男性は優しげな眼差しで下を向いていた柚月を見つめていた。顔を上げ、男性を見ると二人は楽しげに笑顔を交わしていた。

 景色が流れ、信号が青に変わり車は加速した。

 浅見は自分の胸をナイフでえぐられるような痛みを感じ、手は自然と拳を握りしめていた。

(柚月に触れていいのは俺だけだ……)

 八代がルームミラー越しに何か話しかけてきたが浅見の耳には届かず、諦め顔をした八代をよそに浅見は外の景色を見ていた。

 そして何か思いついたように浅見は不意に八代を呼んだ。

「悪い、銀座に寄ってもらえる? 打ち合わせまで時間少しならあるよな」

「銀座ですか? そうですね、一時間くらいなら大丈夫ですよ」

「それで若い女性が好みそうなジュエリーの店、どっか知らないか?」

「ジュエリー? ですか…」

 尋ねられた八代は三十代と浅見より若く今時の青年で身なりもいつも洒落ていた。きっと女性が好む物も把握しているだろうと浅見は頼った。

「うーーん、『バルドル』がいいかなぁ。浅見さん、シンプルだけどおしゃれな方がいいですか? それとも派手な感じとか?」

 八代は銀座に向かいながら首をひねって考えていた。

「そうだな、シンプルでおしゃれな方がいいかな」

 浅見は運転席に身を乗り出し言い切った。

「わっかりました、では『バルドル』に向かいます」

 浅見からこんなオーダーが来る事が今までなかったからか、八代もまるで自分が贈り物を選びに行くかのように、はずんだ声になっていた。

「頼むよ、悪いな」

「いえ、大丈夫です」

 八代はルームミラー越しに浅見を見てみた。

(桜田さんの言ってたのは本当だったんだ。浅見さんなんだか変わった。前はクールで無表情なとこがあったけど、こんな表情するんだ)

 後部座席に座る浅見の柔らかな表情を見つけ、八代は何だか得した気分で車を走らせた。

 

 週末、彼氏ができたとはいえ相手が芸能人だと中々普通のカップルの様に頻繁に会える訳もなく、柚月は退屈な休日を迎えていた。

「買い物も行ったし、今日は久しぶりに和食でも作ろうかな」

 小さい時から母親の側で、料理の真似事をしていた柚月にとって自炊は日常だった。

「炊き込みご飯食べたいな……よし、作ろうっと」

 ブツブツとひとりの会話をしながら手際よく料理を進めていた。

「ご飯炊けた、よしよし」

 手を腰に当て満足そうに自画自賛していた。

「え、もうこんな時間」

 時計を見ると夕方の六時をまわっていた。

 柚月が住んでいる三階建てのアパートは築年数が少し古めの趣きある外観に一目惚れした物件だった。

 アパートの三階角部屋に新入社員の頃から住み始めていた。八畳一間にベッドと机が効率よく設置され、後は小さなキッチンとわずかなスペース。ベランダからはお世辞にも絶景とは言い難い、普段着の風景が見えるだけだった。

 ただ柚月にとっては住み慣れた安心できる小さなお城で、ベランダから見える晴れた日の夕焼けは特にお気に入りだった。

 料理を夢中で作っている間、浅見に会えない寂しさはどうにか紛れていた。

 食べたかった炊き込みご飯も堪能し、後片付けをしていると、スマホのメッセージを告げる音色が水音に紛れて聞こえた。

(ん? スマホ鳴った?)

 タオルで手を拭きながらスマホを手にした。

 メッセージを開くと柚月の体は一気に高揚した。

(浅見さん⁈)

 欲しくて欲しくてたまらなかった浅見からのメッセージに踊りたくなった

『柚月家にいる? 今からそっちに行ってもいいか?』

「あ、浅見さん本当に? ここに⁈」

 柚月は嬉しくて興奮し、パニックになっていた。

「ど、どうしよう。えっと、片付けしなきゃ。いや先に返信しないと!」

 一人バタバタと慌て、動揺した指先で浅見に返信した。

『はい、家にいます。待ってますね』

『了解。後十分程で着くよ』

『気をつけて来てくださいね』

『ありがとう、じゃ後で』

 短いやり取りでも、柚月には緊張の瞬間だった。

(浅見さんに会える……)

 スマホを握りしめ幸せを噛み締めていた。

「あ、ボサッとしてる間なかった、早く片付けなきゃ」

 柚月はキッチンに向かい残った食器を洗い、机を拭いたりとわずかな時間を忙しなく動き回っていた。

 

 ピンポーン

 

(来た!)

「はぁい、今開けます」

 扉の向こうを確認せず柚月はドアを開けた。

 外にはいつもの黒ぶちめがね姿の浅見がちょっと不機嫌そうな顔して立っていた。

「浅見さん、こんばんは」

「柚月、だめだろ」

「えっ?」

 浅見は玄関を入るなり柚月を椅子に座らせ、説教を始めた。

「今、俺だから良かったけど変な奴だったらどうするんだ、確認せずドアを開けたりして」

「あ、ごめんなさい。私嬉しくってつい……」

 親に学生の時から懇々と言われて来た『用心しなさい』をモットーに一人暮らし生活をして来た柚月だったが、浅見に会える喜びが勝り不用心にもドアの外を確認せず開けてしまった。

「心配させんな」

 そう言った浅見の顔は優しい眼差しに変わり、柚月の頭をいつものように撫でた。

「はい……浅見さん」

 心配される事に喜びを感じ、浅見の手の余韻が残る自分の髪に触れニヤケていた。

「あ、浅見さん夕食食べましたか?」

「いや、まだだよ。そういえば腹減ったな」

 部屋の時計を見ると夜八時を回ったところだった。

「今日炊き込みご飯作ったんです。この時間だけどもしよかったら食べませんか?」

 エプロン姿でキッチンに向かいながら、柚月は振り返り尋ねた。

「炊き込みご飯か、いいな食べるよ」 

「はい、直ぐに用意しますね」

 柚月は手料理を浅見に振舞える事が嬉しくウキウキした表情で食事の支度を始めた。

 そんな姿を浅見は幸せな気持ちで見つめていた。

(不思議だな……柚月といると安心する)

 くるくると動く柚月を浅見はずっと眺めていた。

「浅見さん、そんなに見ないでください」

 テーブルの上に炊き込みご飯や味噌汁を並べながら柚月は赤面して言った。

「あれ、俺そんなに見てた?」

「……はい」

 照れ臭そうに柚月は急須からお茶を注いだ。

「そうかな? まぁ柚月がかわいいって事だよ」

「浅見さん! からかわないで下さい!」

 浅見に直視される事にまだ慣れない柚月は照れ隠しにお茶を飲んだ。

「うまそうだな、頂くよ」

 浅見が自分の部屋で自分が作った料理を食べている。柚月はこんな何でもない事が嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

 

「うまかった、柚月料理上手いんだな」

 食事が終わり柚月が洗い物をしている横に浅見が立ち手伝おうとした。

「ほんと? 嬉しいです。また食べて下さいね。あ、でも片付けはいいですよ。浅見さんゆっくり座ってて下さい」

「いや、手伝うよ。柚月作ってくれたんだし」

 男の人に台所に立って何かしてもらう事なんて今まで経験した事がない柚月は、浅見の自然な優しさで胸の高鳴りが更に増した。

「ありがとう……ございます」

 二人でキッチンに立つ。お皿を洗うと浅見がタオルで拭いてくれる。こんな何でもない事に柚月は最高の喜びを噛み締めていた。

 片付けを終え、柚月はコーヒーカップを並べていた。

「浅見さん、仕事忙しいでしょ? 体大丈夫ですか?」

 メガネを外し、目を擦っている姿を見て柚月は心配をした。

「あ、ああ大丈夫だよ。少し寝不足なだけ」

「そうですか……。無理しないでくださいね」

 想像できない世界で働いている体を気遣った。

「柚月の飯食べたし、回復したよ」

 そう言った浅見の顔は柚月をとろけさす最高の笑顔だった。

「あ、そうだ」

 浅見は思い出したようにカバンの中から小さな箱を取り出した。

「これ、柚月に」

 赤いリボンをまとった小さな箱を柚月に差し出した。

「え、私にですか?」

「そう。開けてみて」

 柚月は浅見から箱を受け取り、リボンに手をかけた。

「浅見さん、これ……」

 箱の中から純白のリングケースが現れた。

 ゆっくり蓋を開けてみると中から小さな指輪が待ち構えていたように光を放していた。

「ピンキーリングだよ」

 コーヒーを口にしながら浅見は少し照れたように伝えた。

「かわいい! キレイ!」

 中にはピンクゴールドのリングに、大きさが異なる小さなダイヤが孤を描くように散りばめられ、まるで朝露をまとった朝顔に陽が反射しキラキラと輝いているようだった。

「着けたげるよ、かして」

 浅見は指輪を取り出し、柚月の左手を求めた。

 震える手をそっと握り、緊張で冷たくなった小指にはめた。

「キレイ……、ありがとうございます。でもいいんですか? こんな高価なもの」

 箱のブランドロゴを見て柚月は恐縮していた。

「いいんだよ、俺が送りたくなっただけだから。また柚月の誕生日にも期待しといてよ。いつ?誕生日」

「すごく嬉しいです、本当にありがとう!」

「あんまり言われると照れくさいから」

 浅見が珍しく柚月から目をそらせ頭を掻きながら少し照れた表情をした。

(浅見さん照れてる、かわいい)

 感情があまり顔に出ない浅見しか知らなかった柚月は貴重な姿を見て得した気分だった。

「で、いつなの誕生日」

 照れ隠しするかのように浅見はぶっきらぼうにもう一度聞いた。

「十月四日です。浅見さんは十二月十日ですよね」

「よく知ってるな」

「浅見薫のファン歴長いんで当然です」

 柚月は腰に手をあて得意げに言った。

「ははは、そうだったな」

 何でも許してしまいそうな甘い笑顔で浅見は声に出して笑った。そんな姿を見て柚月はまた一つ宝物が増えた気持ちになった。

「十月四日だね、覚えとくよ」

「浅見さん、その……わがまま言っていいですか?」

 柚月が言い出しにくそうに、切り出した。

「何?」

「あの、私の誕生日の日出来たらあのお酒を一緒に飲みたいんです」

 柚月は部屋の棚に飾ってある日本酒の瓶を指差して言った。

「あ、あれか……」

 柚月が指差した先には浅見がCMに出た雪村酒造の日本酒が目に入った。

「あのお酒、私にはかけがえのない物なんです。だから浅見さんと一緒に飲みたいなって思って。しかもあのお酒のラベル折り鶴なんですよ!」

 ラベルには赤い折り鶴と青い折り鶴が重なり合って描かれていた。

「浅見さんが私のスマホ拾ってくれた日、待ち合わせで目印にしてたのが折り鶴だったから。この偶然、私本当に感激したんです」

 よくみると日本酒の瓶の横に浅見が待ち合わせに用意していたあの折り鶴が並べられていた。

「あー、あの鶴か。柚月まだ持ってたんだ」

「当たり前ですよ、私の宝物です」

 柚月は自慢げに笑った。

(あんなの適当に作ったものなのに……)

 浅見は柚月がいじらしく、いつもより愛おしく思え肩をそっと抱き寄せた。

「浅見さん?」

 突然抱きしめられ柚月は驚いた。

「折り鶴は母親の思い出なんだ」

 柚月を抱きしめたままポツリと浅見は語り出した。

「お母さん?」

「ああ。母親は俺が八歳の時に事故で亡くなったんだ。父親は俺が生まれた時にはもうすでにいなかったしな」

 黙ったまま柚月は浅見の胸に耳を寄せ体の中から響いてくる声を聞いていた。

「朝から晩まで働き通しだった母親だったけど、たまに仕事から早く帰ってきた日は俺が学校から帰ってくると家にいてくれたのがすごく嬉しくてね」

 柚月は自然と浅見の背中をゆっくり、優しく撫でていた。

「学校から帰ってきて一緒にいる時間があると母親が折り鶴をよく折ってくれたんだ」

 浅見は柚月の背中に回した手に少し力を入れ話を続けた。

「母親が生死をさまよってる時治るよう千羽鶴にしたくてね。でも俺不器用だから中々進まなくてさ」 

 昔の事を思い出す浅見は柚月の体から離れ遠い目をした。

 その表情が寂しげで柚月は浅見の手を無意識に握っていた。

「千羽鶴は結局間に合わなかったよ。それで身寄りがなかった俺たちは養護施設に預けられたんだ」

「俺たち?」

「ああ、妹がいるんだ。ニ歳下の」

 そう言った浅見の顔が一瞬曇った様に見えた。

(浅見さん……?)

 そんなわずかな表情の変化を気にしながらも柚月は黙ったまま話を聞いていた。

「二年間くらい養護施設で過ごした頃妹に養女の話が出て、俺たちは離ればなれになったんだ」

「え、じゃ浅見さんは?」

 浅見は握りしめられている手を反対に握り返し、甘えるように柚月の指を自分の指でなぞっていた。

「一人になった俺はそのまま高校まで施設にいたよ。その頃にバイトしていたカラオケ屋で仲間と歌っていたら、たまたま客で来ていた今の会社の社長に気に入られて拾ってもらったんだ」

「そう……だったんですか……」

 お互いに握り合った手で存在を確認するかのように強く求めあっていた。

「早く自立したかったからデビューできた時嬉しさよりは安心のがでかかったな」 

「浅見さん……」

「ん?」

 柚月は立ち上がり椅子に座っている浅見の首に腕を回し、愛おしい気持ちを精一杯伝えようと抱きしめた。

「柚月……」

 小さな体をめいいっぱい広げ自分の事を慈しむようにしがみついている柚月をそっと抱きしめ返した。

 ただその表情に陰りが差していたのを柚月は見る事が出来なかった。

 

 時計は夜中の三時をまわっていた。浅見は傍に眠る柚月の前髪をそっと掻き分けながら寝顔を眺めていた。

 浅見の生い立ちの話を聞いた後そのまま柚月の部屋で過ごしていた浅見は、早朝の撮影のために一足早く目覚めていた。

 ベッドから起き上がると柚月が寝返りをうった。左手がシーツの上の浅見の手に触れ、柚月は無意識に人差し指を掴んでいた。

 握っているその指が自分を引き止めているように思え、浅見は味わった事のない愛しい感情を自覚した。

(こんなにも人を好きになる事が出来る日が来るなんてな……)

 いじらしい柚月を閉じ込めたくて浅見はふとサイドテーブルに置いていたスマホを操作し、二人の手に標準を合わせシャッターを切った。

 全て柚月に伝えきれてない事実がある事に後ろめたさを感じながらも、浅見はこのまま何も話さない方がいいのかと迷っていた。

(話さなくて済むならその方がいいよな……)

 そう自分に言い聞かせては見たものの、胸の中にある正体不明の不可解な感情は巣食ったままだった。

 

「柚、何それ? 誰に貰ったの⁈」

 昼休み、未知と一緒に会社近くの定食屋に来ていた柚月はオーダーを済ました後、待ってましたと言わんばかりにキラリと光るピンキーリングについて問い詰められていた。

「こ、これ?」

 引きつり笑いをして何とか未知からの攻撃を交わそうとしたものの、それは無駄な抵抗だった。

「そう、こ・れ!」

 左手首をプラプラさせながら、未知は前のめりになって小さな声で囁いた。

「どうしたのよ、それ。めちゃくちゃ高そうだし」

「こ、これは。その……も、貰ったの」

 ドギマギしながら未知の尋問に答えた。

「誰に? 誰に貰ったの?」

 更に前のめりに、でも周りには聞こえないよう気遣って小さな声で問い詰めた。

「つ……付き合ってる人」

「やっぱり、柚月彼氏できたんだ! 何で教えてくれないのーー」

 未知はふてくされながらおしぼりをクルクル巻いては開きを繰り返していた。

「ごめんね、言おう言おうとはしたんだけどタイミングが……」

 付き合っている相手があの浅見薫なだけあって、柚月は自分からは中々切り出せなかった。

「まぁ、いいよ。なんか理由あったんでしょ。今ちゃんと答えてくれたからヨシとするよ」

「ありがとう、未知」

(あーー未知のこういうとこ好き)

 柚月は本当に嬉しくて自然と笑顔になっていた。

「いや何? 柚月の笑顔。幸せオーラ全開じゃない。羨ましい奴め」

 毎度の未知の拷問のほっぺたつまみの刑にあいながらも、柚月はまだ顔を緩めていた。

「未知のそう言う所好きだなぁって思ってね。嬉しくなっちゃう」

「へ? 彼氏の事でにやけてたんじゃないの?」

 意表を突かれ、未知は昔の外国人のコメディアンの様に両手を広げて肩をすくめて見せた。

「リアクション古いよ、未知」

「うるさい」

 照れ臭そうに未知はそっぽを向きやり場のなくなった両手を胸の前で組んだ。

 柚月は思わず吹き出してしまい、つられて未知も声を出して笑った。

「お待たせ致しましたぁーー、親子丼のお客様は?」

 いつもの甲高い声のスタッフがトレーを片手に二人の間に割って入ってきた。

「はいはい、私です」

 未知が手を挙げアピールした。

「サバ味噌定食です。汁もの熱くなってますのでお気をつけくださぁい」

 これもまたいつもの軽快な決まり文句で言った後、エプロンをひるがえし厨房に帰って行った。

「あの定員さん、いっつも元気だよねーー。見習わないと」

 未知は柚月に割り箸を渡しながら感心していた。

「ほんと、接客業の鏡だねー」

 柚月は先ほどの店員が、忙しい昼時を店の中でくるくる働いている姿を目で追いながら、両手を合掌した。

「でも柚、よかったね。きっと柚が選んだ相手だからいい人だろうね。幸せにね」

 未知は親子丼をひと口食べ噛み締めながら柚月にエールを送った。

「未知……」

「ん?」

「ほっぺにご飯粒付いてる」

 敢えてシリアスな表情で柚月が言い、未知をからかった。

「え? どこ⁈」

 慌ててる未知を見て柚月はクスクス笑いだした。

「うそ、うそ。付いてないよ」

「もーー、そう言う奴にはこれだ!」 

 柚月の皿から付け合わせのポテトサラダを奪って見せた。

「あ、私のポテサラーー」

 未知はポテトサラダをこれ見よがしに頬張った。

「あーおいしい! 人の物だとより一層おいしい」

 戦利品美味しそうに食べる未知を笑いながら楽しそうに眺めていた。

「何、柚ニヤニヤして。全部食べちゃうよ」

「うん、いいよ。未知、ありがとう」

 テーブルのお冷やが入ったピッチャーを未知のコップに注ぎながら柚月は日頃の感謝を伝えた。

「な、何よ急に」

「ううん、何でもない」

「変な柚」

 そう言って小鉢を空にし未知は満足そうにしていた。

(未知にはちゃんと話さないと。浅見さんが相手だって事を。ごめんね、まだ言い出せなくて) 

 さり気ない優しさや気遣いをしてくれる親友に対して柚月は浅見の事を話せない自分がもどかしかった。

(親友に話していいか浅見さんに確認をしないと)

 柚月はそっと心でつぶやいた。

 

 定時を迎える少し前、柚月のスマホが鳴った。

 慌てて自席を離れ、自販機が備え付けられているちょっとした休憩場所に向かった。

「も、もしもし浅見さん?」 

 電話の相手は浅見だった。

「柚月、ごめん仕事中に。今日定時で帰れる?」

 耳元で相変わらずの色っぽい低音が柚月の脳を一気に酔わした。

「はい、大丈夫です!」

「じゃ飯行かないか?」

 浅見からの誘いを柚月が断る理由なんて全世界探しても見つかるはずなどなかった。当然返事は『行きます!』の一択だった。

 仕事が終わりデスク周りをそそくさと片付けている柚月を遠巻きに未知がニヤリとしながら見つめていた。

 柚月の行動で全て理解でき、未知は飲みに誘おうとした事を諦めた。

「未知先輩、飲みに行きませんか?」

 朝日が子犬の様に弾みながら未知の側にやってきた。

「えー朝日と?」

 朝日からの誘いに心の中では万歳三唱していた未知だったが、そんな表情は微塵にも出さずわざと嫌がって見せた。

「そんな顔したって、未知先輩飲みに行きたかったでしょ? 俺の事好きだから」

「えっ!」

 真剣な顔をして言う朝日に不意打され未知が驚いて声を上げた。

「冗談ですよ、最近あったかいからビール旨いし。行きましょ⁈」

 朝日の目の前で未知の顔がみるみる赤く染まって言った。いつもの軽い冗談でふざけたつもりだった朝日本人も、今まで見たことない姿に動揺した。

「先輩……?」

(ヤバイ、バレる! 油断した。完全に顔に出ちゃってるよ……どうしよう)

 知られたくない恋心と焦りを抑えきれなくて、未知は顔を真っ赤にし唇を噛み締めていた。

「大丈夫ですか? 未知先輩」

 キョトンとした朝日が追い打ちをかけるように未知の顔に近づけた。

「駅からちょっと離れてるんですけど新しくバルが出来たんですよ。そこ行ってみませんか?」

「へっ?」

 スマホで店の情報を検索しながらいつもの顔で行き先を提案してきた。何も見てない、気づいてない様子で。

(あ、何もわかってない? 気づかれてない?助かった)

 未知はホット安堵した。

(ってか、朝日の奴鈍すぎるんじゃないの⁈ 普通だったら気付くでしょ、今のリアクション)

 帰り支度をしながら、未知は自分の気持ちを気づいて欲しいような、気づいてほしくないような複雑な心境になっていた。

「未知先輩、行きますよーーって眉間にシワ寄りすぎ。そんな顔してちゃ一気におばさんになっちゃいますから」

 小学生のイタズラした時の様にふざけながら朝日は未知を突いた。

「朝日より年上なんだもん。おばさんでなのは当たり前だ!」

 いつもの調子が戻り、未知は朝日の背中に飛びついて首を羽交い締めした。

「大丈夫ですよ、おばさんになっても俺が貰ったげますから。仕方なしにですけどね」

 朝日は未知の腕に自分の手を乗せそのまま手を握り、とびきりの笑顔で肩越しに言った。

 

「柚月、元気だった?」

 会社から少し離れた趣ある日本料理屋の離れに柚月と浅見は案内されていた。

「はい、元気でしたよ。浅見さんはお仕事忙しくて大変なんでしょう?」

 先に運ばれてきたノンアルコールのビールを飲みながら二人はお互いをねぎらっていた。

「今日柚月の顔見とかないとしばらく会えないからな。急に誘って悪かったね」

「そんな! 浅見さんからの誘いを断る理由私にはないですもん!」

 柚月は込み上げてくる喜びを顔いっぱいに出してみせた。

 浅見もそれに答えるように自然と顔がほころんだ。

「でも、しばらく会えないって……?」

 心細そうな目で柚月はじっと浅見を見つめた。

「映画の撮影で、バリに一ヶ月程行くんだ」

「バリ…ですか」

 会えない訳を知ったものの仕事じゃどうする事も出来ない、仕方ない事と理解しつつも柚月の目線は自然と目の前のテーブルに落ちていた。

「柚月?」

(ダメだ。沈んでいたら浅見さんに心配かけるし、仕事なんだから仕方ないよ)

 凹んだ気持ちを奮い立たせ、柚月はいつものようにニッコリと微笑みを作った。

「バリ、いいですね! 信仰深くて厳かで。悪い人なんていなさそうなトコってイメージです。あ、映画ってどんなですか? 恋愛ものだったらちょっと嫌だなぁ」

 息継ぎもせず文章を暗唱するように柚月は一気に思いつく限りの言葉を吐き出した。

「柚月」

 テーブルを挟んで向かいに座っていた浅見はスッと立ち上がり柚月の隣に移動した。

 肩と肩が触れ合う距離まで近づき、背中に腕を回した大きな手のひらで柚月の頭を抱え浅見は自分の頭にコツンとくっつけた。

「柚月。俺だって寂しい、柚月の顔見れなくて。こうやって触れ合う事もしばらくできないんだから」

「浅見さん…」

 涙を堪えるのに全力を注いでいた柚月は、小刻みに震えながら込み上げてくる寂しさと戦っていた。

 浅見は柚月をもっと近くに引き寄せるように肩に置いた手に力を込めた。

「出発はいつですか……?」

 柚月は心細げに呟いた。

「来週の火曜出発だよ」

「火曜ですか……」

(今日金曜だから後四日後には出発か…)

 ニ人はしばらく寄り添ったまま黙っていた。

「この後も、青森に行かないと行けないんだ。そのままバリに行く流れかな」

 優しく響く低音ボイスがいつもは心地いいはずなのに、今夜はとても切なく伝わってきた。

「青森に行った後バリなんてハードスケジュールですね。体壊さないで下さいね」

 顔を上げ、自分の心に鞭を打ち柚月は平気なフリをした。

「ありがとう、柚月」

 いつもの優しい浅見の手が柚月の頭を撫でた。

(浅見さんの手、安心する……)

「気をつけてください……」

「ああ……」

 浅見は慰めるように柚月の頬に触れた。

「一ヶ月も離れると寂しいのは一緒だから。柚月だけじゃないよ」

「はい……」

 二人の瞳にお互いの顔が映っている。

 このまま時間が止まればいいと心の中で祈らずに入れなかった。

「頑張ってください」

「わかってるよ、柚月も頑張れよ」

「はい! 私にはお守りがありますから!」

 柚月はそう言って左手の指輪をかざして見せた。

「そうか、お守りか……」

 浅見は柚月の頬に触れたまま指でつまんで見せた。

「またぁ、浅見さんすぐに摘むんだから」

 触れられてる事が嬉しいはずなのに柚月はワザと怒ってみせた。

「柚月の頬っぺた柔らかいんだよなぁ。触り心地いいから癖になってしまうよ。バリに持っていきたい」

 嬉しい言葉を聞き、離れ難く浅見の首にしがみついた。

「柚月?」

「浅見さんごめんなさい、私子供で。少しの間会えないってだけで不安になっちゃって」

 浅見に抱きついたまま自分を叱った。

 浅見は柚月の背中をそっと抱きしめた。

 その手の温もりは柚月を安心させる特効薬になった。

「向こうから連絡するから、ちゃんと返事返してこいよ」

 そう言って柚月の頭を撫で力強く抱きしめた。

 それは浅見自身の寂しさを柚月の温もりで埋め尽くすかのように……。


               

 



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