山童(ヤマワラシ)
この物語は実際にあった話ではありません。
完全なる創作です。
小説内にある八甲田山中谷地温泉は実在のものですが、
作者は谷地温泉関係者ではありません。
断りなく実在の地名や施設名を使ったことをこの場を借りてお詫び致します。
谷地温泉並びに青森県八甲田山を愛してやまない作者の戯言と思って頂ければ幸いです。
昔々、青森県の八甲田山の中腹に、一人の木こりが住んでいた。この木こりは大層な働き者で正直な、性格は温和なとても優しい青年だった。
ある秋の、そろそろ冬も近付こうと言う肌寒い日に、木こりは一匹の真っ白なテンが自分が仕掛けたクマ用の罠に引っかかっているのを発見した。
「あれま、珍しいこともあるもんだ。こんな動物がこの山にいたとは。」
テンは足を罠に挟まれており、罠についた楔形の棘がテンの足に深く刺さっていて血を流してぐったりしていた。その様が痛々しく思え、木こりはテンを逃がしてやることにした。
木こりが罠を離してやるとよろよろとどこかへ歩いて行こうとしていたので不憫に思い、自分の着ていた着物の裾を細長く切り、テンの足に包帯のように巻いてやった。テンは木こりの方をチラと見て、怪我をした足を庇いつつ草むらの中へと消えていった。
秋が終わり、山の下の村で冬が来る気配を感じる頃、山には雪が降り始めた。木こりは自分の家の冬支度をほぼ終え、家の中の炉で爆ぜる薪の上で秋の間に獲っておいた野草やキノコでその日最後のご飯を設えていた。
と、そこへ誰かが戸を叩く音がする。木こりが戸を開けてチラチラと雪の降っている外を見てみると、そこには一人の女性が立っていた。木こりが面食らっていると、女性は木こりに言った。
「道に迷って難渋しておりました所、雪が降り始めまして帰ることが出来なくなってしまいました。一晩泊めていただきたいのですが。」
木こりは不憫に思い、女性を炉に当てさせ、設えていた汁を椀に盛り、女性に手渡した。
「この寒空の中歩いてきなすったんだ。これでも食べてあったかくしたほうがいい。」
女性はかじかむ手で椀を受け取り、最初木こりを見て戸惑っていたが、その暖かな香りに引き寄せられるかのように野草とキノコの汁をすすった。一口すすると女性は突如大粒の涙をこぼして泣き出してしまった。
「一体どうしたって言うんだ。口に合わなかったのかな。」
「いえ、あまりに親切にしていただいたので、感激してしまいました。実は・・・。」
そして女性は身の上話をし始めた。
女性はこの山の麓の町の娘で、よくこの山に山菜やキノコを採りに来ていた。家は貧乏な百姓で、冬支度のために毎年この時期山に登るのがこの女性の仕事だと言う。今年は冷害に遭い作物が思うように実らなかったために冬を越せるだけの食料がない。今日は雪が降るだろうことは解っていたが、今日こそは何か食料を持ち帰らねば家の者が飢え死にしてしまうことになると考え、無理に山に入ったのだという。しかし思った以上に収穫がなく、このままでは家に帰るに帰れず困っていたらしい。そしてもう少し何かないかと捜し歩いているうち、雪に見舞われ帰り道もわからなくなり、仕方なく偶然この小屋の前を通ったので寄ったのだという。
「それはお困りでしょう。なに、うちには沢山食い物がある。少し分けてあげるから、明日はそれを持ってお帰りなさい。明日になれば雪も止むでしょう。」
木こりはそう言うと女性を床に就かせた。女性は今度は嬉し涙を流しながら床に就いた。
次の日、木こりが目覚めると、女性はすでに木こりの家にあった食材で質素だが立派な朝食を拵えていた。一晩泊めていただいたお礼だと女性は言った。
「ありがてえ。俺は今までずっと独り身だったから、誰かに朝飯を作ってもらうようなことはなかった。こんなにうまそうなご飯をひとりで食べるのはもったいない。あなたも一緒に食べようではないか。」
木こりはそう言うと、女性と一緒にひと時の楽しい食事にありついた。豪華とはとても言えないものだったが、その味はこの世のものとも思えないくらいすばらしいものだった。
食事を済ませると女性は後片付けをしてくれた。その間に木こりは昨日の晩に約束していた蓄えておいた食糧を頭陀袋に入れ、女性に手渡した。
外は昨日とはうって変わった暖かな陽気で、雪も止んでいた。女性は木こりがくれた食料を持って何度も何度も振り返ってお礼を言いながら帰っていった。
それからと言うもの、木こりは女性のことが頭から離れなくなってしまった。早くに親を亡くし、ひとりでこの物悲しい山の中の小屋で過ごしていたが、ふいに現れた女性との楽しいひとときを一度経験すると、ひとりがこんなにも寂しいものだったのかと思えるほどだった。そしてまた女性に会いたいとも思った。出来ればずっと、女性と暮らしたい、そんなことを毎日のように考えていた。
冬も深くなり、山には雪が積もり、山小屋も雪で埋まるかと思われるほどになったある大晦日の夜、その日はあいにくの吹雪で、外を見ても吹きすさぶ雪以外の何も見えなかった。こんな日はひとりでいるのが余計に寂しく思えたが、いくらなんでもこの吹雪の中誰かがこの小屋までなど来れるはずもないと思い、早くに寝床を設えようとした矢先、誰かが戸を叩く音がした。いや、音がしたと思われただけかもしれない。木こりはきっと吹雪いた雪が戸を叩いただけなのだろうと床に就こうとしたその時、今度は声がはっきりと聞こえた。女性の声だった。
「ごめんくださいまし。いらっしゃるのでしょう?」
木こりが戸を開けるとそこにはこの間の女性がいた。体中を雪で覆われ、全身真っ白な状態だった。すぐさま木こりは女性を小屋の中へ導き、戸を閉めた。
「なんだってこんな大雪の中を。どうしたんだい?」
木こりが聞くと、女性はにこやかに答えた。
「この間頂いた食料で、なんとか冬が越せるようになりました。家族全員喜んでいまして、なにかお礼をと思って参りました。ここにしばらく置いてくださいませ。身の回りのお世話などをして差し上げたいと思います。」
突然の女性の申し出に木こりは驚いた。だがひとり寂しく年を越すことを思えば、この女性の申し出はとても有難かった。すぐさま女性の申し出を承知し、一緒に暮らすことになった。
女性はかいがいしく働いた。木こりの着物や布団を繕い、食事や掃除、洗濯をしてくれた。相変わらず女性の作ってくれるものはどれもこれも美味しく、至福の時を過ごした。ただ不思議なことに、女性は毎日朝方になるとどこかへと出かけて行った。木こりは雪も深いこの山で、しかも一番冷え込む朝方になぜ女性が外へと出かけていくのか気になったが、女性に強く後をつけたり詮索などしないように言われていたので、考えないようにしていた。
しかしある朝、女性は足に大怪我を負って帰ってきた。骨には幸い異常はなさそうだったが、何かの刃物で切りつけられた時のようなもので血が大量に出ていたのでこれは一大事と思った。この山奥で、しかも今は冬。雪は毎日降りしきり、小屋の前だけは木こりが毎日雪かきをしていたからよかったものの、両側にはすでに雪の断崖が出来ておりとても麓の医者まで運べる状態ではない。仕方なく木こりは湯を沸かし、傷口を丁寧に洗い、着古した着物の裾を切り取って包帯のようにぐるぐる巻きにして手当てをした。
女性に、なぜこんな怪我を負ったのかと訪ねても、口を硬く閉ざして理由を言おうとしない。宥めてもすかしてもどうしても理由を語ることもなく、ただ俯いて泣くだけだったので、木こりもそれ以上追及することはしなくなった。
大怪我をしてもなお、朝方には家を出て外へと出かけていく。女性には後をつけるなとは言われていたが、またあんな大怪我をすれば今度は家までたどり着けないかもしれないことを心配し、こっそり後をつけることにした。
女性が出かけるのを見計らい、厚手の上着を羽織って後をつけた。外に出た途端、あっという間に女性は雪の白さに溶け込むかのように見えなくなってしまい、点々と続く足跡だけを頼りに歩いていった。足跡は、小屋から出てしばらくは普通の足跡だったが、小屋が遠くなるにつれ、雪が深くなるにつれ、不思議と小さくなっていった。まるで何かの動物の足跡でもあるかのようだったが、周りを見回しても女性の足跡しかついておらず、動物達の足跡さえもない白銀の世界が広がるだけだったため、頭をかしげながらも動物の足跡のように見えるものを追っていった。
しばらくすると、目の前には大きく湯気がたっている場所があった。そしてその奥から水音がした。うず高く積もった雪の間から湯気の中を覗いてみると、そこには真っ白なテンが気持ち良さそうに温泉に浸かっていた。足には木こりが巻いた着物の裾が巻きつけてあり、一目であの時のテンだとわかった。秋口に、山の中で木こりの熊撃退用罠に嵌り、足を傷つけたあのテンだ。元気だったのか。よかった。木こりは嬉しかった。なんにせよ、あの怪我で命を落とさずによかったと胸を撫で下ろしたその瞬間、突如温泉の向こうから荒々しい男達の声が響いて来た。
「間違いねえ!この変に妖怪がいるはずだ!探せ!探して殺すんだ!」
その声を聞き、テンはハッとした表情をした。そして驚いたことに、湯の中に沈んだかと思ったら女性に変身して湯から出たのだ。木こりは目を瞬かせた。妖怪?それにあの真っ白なテンは・・・。あの女性は・・・。頭の中が混乱し、その場で蹲るだけしか出来なくなっていた。荒々しい声の男達は女性の姿を見つけると、近寄ってきた。女性は身震いしながら深い雪の中を逃げようともがいていた。
「見つけたぞ!あいつだ!あいつはこの山に住む妖怪なんだ!殺せ!殺せ!」
カンジキをつけた男達はあっという間に深い雪の中を漕いで来た。そして女性に対して槍や弓を射掛けようとしていた。その行列の前に立ち塞がり、木こりはどうして女性を追うのかと聞いた。
「あの女は姿は女だが実はこの山に住む悪い妖怪なんだ。以前から里の者達がこの山に入ると道に迷わせて遭難させていた。幸い助かることの出来た人間は皆口々に女にかどわかされたと言っている。そして先日とうとう姿を見せたのであの女をとっ捕まえるために山狩りをしていたんだ。」
男達は声高に言った。
木こりが間に入って邪魔をしたことで、女性は逃げ延びることが出来たようで、気がついた頃には姿はどこにも見当たらなくなっていた。渋々と山狩り隊は引き上げたが、木こりは心配だった。まさかあの女性が妖怪とは。俄かには信じられなかったが、そのことを確かめるためにもと、家に戻ってみることにした。
木こりが家に戻ると、女性はすでに家にいた。食事の準備もせず、思いつめたような顔つきで木こりを見た。
「あなたは私の後をつけたのですね。そして私の正体を見てしまったのですね。」
「君は・・・、あの連中が言っていた妖怪なのかい?」
恐る恐る木こりは女性に尋ねた。女性はため息をつき、ゆっくりと話し始めた。
テンは成長して大人になると、人間に化けることができる。ただしそれも温泉のお湯の効果で一時的に変身できるだけで、一日以上温泉に浸からないで居た場合はテンに戻ってしまうのだという。そして温泉に浸からずに変身しようとすると、なぜか人間の姿ではなく、恐ろしい妖怪の姿になってしまうのだという。時々里人が山に入り、あちこちの山を切り崩したり無残に木を切ったりする光景を見て里人にやめさせるために、妖怪の姿に変身して脅したりはしていたが、決して人を傷つけたりはしたことがなかったそうだ。
「どうあれ、あなたは私の正体を知ってしまいました。もうあなたと一緒に居られません。これでお別れとなります。」
そういうと女性は寂しそうに荷造りもそこそこに、家を飛び出してしまった。後に残ったのは真っ白な雪の中に点々とついた足跡だけだった。
唖然としているうちに女性は姿を隠し、再び寂しい一人暮らしとなってしまった。しかし気にかかるのはテンの行く末だ。ここ数日の女性との楽しい生活が思い起こされた。きっと里人はまた女性を探しに山に登ってくるだろう。あの女性を殺しに。そう思うと、木こりはいてもたっても居られなくなり、温泉の近く辺りを捜索してみることにした。女性にもし会えても、その後どうすればいいかなど考える余裕もなく、ただ殺させるのをやめさせなければと、それだけを思いながら深い雪の間を幾日も歩き回った。
ある日、山狩り隊と再び会った。血気盛んな男共を取り成そうと話をするも一向に山狩りをやめてくれる気配はない。仕方なく山狩り隊の中へ入り、一緒に捜索することにした。もし自分が他の人たちより先に見つければ、その場で逃げさせることも出来ると考えたのだ。
幾日も幾日も捜索は続いた。山は徐々に暖かな陽の光に照らされて春の訪れを感じさせていた。雪も次第に暖かな日差しに照らされて溶けだし、雪解け水となって近くの川にその流れを同じくさせていた。
そして木こりはついに見つけた。あのテンを。しかしその時のテンの姿は以前の真っ白なテンの姿でも女性の姿でもなく、髪は赤く短く尖った形をして生え、体はまるで幼児と見間違うほど小さく、服もゴミを着ているかのような汚いなりをしており、手足は痩せ衰えた見るも無残な姿だった。だが木こりにはわかっていた。女性が木こりの家から出て行くときに言っていた『妖怪』の姿になっているのだと。そしてその妖怪こそがまぎれもなくあのふかふかな真っ白な毛皮のテンだということも。木こりはそっと妖怪に姿を変えた女性の傍まで寄った。
「山狩り隊がこっちに来てる。お前はあっちへ逃げるんだ。」
そう木こりが囁くと、妖怪は何か信じられないと言った顔をしながらも、勢い良く踵を返して木こりの示す方向へと逃げようとした。その途端に銃声が鳴り響いた。木こりの目の前は一瞬にして血の海と化した。目の前には妖怪が血だらけで倒れており、四方八方からここぞとばかりに山狩り隊の連中が勝ち誇ったかのように姿を見せた。
「やった!退治したぞ!この妖怪めが!」
山狩り隊の男達は息も絶え絶えの妖怪を足蹴にして自分たちの成果を確認して喜び合っていた。
目の前で、妖怪の姿が徐々に真っ白なテンの姿に変わっていった。いまや真っ白な毛皮は真っ赤な自身の血で染まり、今にも死にそうだった。山狩り隊の人間はそのテンを見て、我に返ったかのように囁きあった。
「あれは、あの真っ白なテンはもしかして、この山の神様じゃねえか?昔ばさま(ばあさま)に聞いたことがある。山には真っ白なテンの姿をした守り神がいると。この山を遠い昔からずっと守ってくださっていると。まさか・・まさか・・。」
テンが悲しそうな表情で木こりを見つめた。そして静かに息を引き取ったその瞬間、どこからともなく轟音が響いてきた。その響きは山の奥底からみなぎるかのように静かにそして激しく人間達を襲おうとしていた。山狩り隊の人々はみな一斉に我先に逃げようと必死になっていた。
「雪崩だ!山の神様がお怒りになった!」
人々は皆口々にそう叫びながら必死にもがいたが遅かった。山の頂上から押し寄せる雪崩に巻き込まれ、なす術もなく皆飲まれてしまった。
しばらくして、山の轟音が徐々に薄れ、雪崩も収まった時、木こりは偶然にも流された場所にあった一本の檜の木に引っかかり難を逃れられたことを悟った。この雪崩での死者は数知れず、もはや雪が完全に溶け切るまでは捜索も困難を極めた。ただひとり残った木こりは、無残に殺されてしまったテンの亡骸を探し当てて抱き上げ、山を下っていった。
山を降りている時、目の前に大きく立ち上る湯気があった。女性のことが思い起こされた。あの女性はこの温泉で傷を癒していたのだ。懐かしいだろう。亡骸となってしまった今でも、この温泉は利くだろうか。そっと亡骸にお湯をかけてみたが、テンは息絶えたままピクリとも動く気配はなかった。木こりの中にようやく悲しみが沸き起こり、テンの亡骸を抱いたまま温泉の傍で蹲って泣いた。
「泣かないで。」
傍で女性の声がした。木こりは空耳が聞こえたものと思っていたが、ふと見上げると湯気の中でひとりの女性が木こりに向かって優しく微笑んでいた。その姿はまさしくあのテンの化身であった。木こりは目を疑った。そして抱いていたテンを見た。相変わらずテンは息絶えたまま冷たくなって木こりの腕の中に抱かれたままだ。そして再び女性をみた。確かに目の前に女性がいる。木こりは目を瞬かせてもっと良く見ようとした。女性は水面を滑るかのようにすっと近付いてきた。
「あなたは山を愛してくれました。そして私を助けようとしてくれました。ありがとう。」
ニコリと優しく微笑み、女性はさらに言葉を続けた。
「これからあなたは生涯食に困ることはなくなるでしょう。」
そう言うと、あたり一面に光が押し寄せ、女性の姿もかき消すように消えた。不思議なことにこの時抱いていたテンの姿も溶けるように消えた。辺りには温泉の暖かな湯気がたちこめ、まだ冬が抜け切らぬ山の中だというのに、温泉の周りだけ雪が溶けてなくなっていた。
その後木こりは、神が宿った真っ白なテンを偲び、この地の温泉の近くに宿を構え、人々にこの伝説を伝えることにした。山の神を称え、山を悪戯に削ることも木を無駄に切ることもせず慎ましやかに暮らしていれば、いつか神から恩恵が与えられることを身をもって人々に知らしめるために。
この地には今もなお、白いテンを時折見かけることがあるそうだ。それはきっと生まれ変わった八甲田の山の神の化身の姿なのだろう。