呼独(こどく)
世界はありえないほど汚くて、
世の中は信じられないほどズルくて、
そんなゴミ溜めみたいな現実に、貴方が居たのが信じられなかった。
嘘を嘘と信じられたらどれほど幸せだろう。
私、清坂香子は今日もクソッタレな日常を貶し愛おしいと思いながら、隣で爆睡するバカ野郎を眺めている。
季節は師走を目前に控えた、吐く息も白く凍る肌寒さを超えた気温の世界。
ついこの間まで夏の気怠い暑さに憎しみを持って太陽を睨んでいたのに、いつの間にやらマフラーとコートにもう一回付き合ってほしいと告白し、少々かび臭い洋服ダンスから遠距離恋愛を終え再会していた。
高校に入学したのがつい昨日、とまではいかないが、それほど昔のこととは思えず、その通りさほど昔のことではないのだが、あと二ヶ月ほど経てば新年を迎え、それから数か月経てば後輩が入学してくると思うと、歳を取ると月日が本当に早く感じるなとOLのような溜息を吐きながら考える。
私がマフラーにコートを常備しているのにも関わらず、隣で眠るバカはワイシャツに学生服の簡易装備。
教室内ではストーブは既に消してあり、こんな寒い中よく眠れるなと呆れながらも感心する。
バカの名前は菅井信二。
高校で初めて出会い、夏休みを終え晴れて恋人関係になった。
今更ながら後悔している。
この男は単純でとにかくバカだ。
物事を疑うということを知らず、何でも信じてしまう。
それは何も知らないと同義で、決して良い意味ではない。
少しでも知識があれば、疑うという堅実的な思考回路を得られ、
少しでも知恵があれば、考えるという現実的な思考回路ができる。
そのどちらもないという時点で、バカと言わざるを得ない。
当時、といっても経った二ヶ月程度の話だが、信二と付き合おうと思った時は、素直と前向きな誤変換を行ってしまった。
「……おーい、バカ、寒いんだけどー」
小さく呟く程度の声で話しかけるも、当事者はうめき声をあげるだけで進展はない。
一人寂しく置いてけぼりにして帰ってもよかったのだが、それをすると次の日に必ず文句を言ってくる。
つい先週の話だ。私はこいつと違って学習能力があるので、同じ失敗をするつもりはないが、それでも失敗と今現在の寒さを天秤にかけた場合、ギリギリ均等維持している状況。
何かきっかけでもあれば、いともあっさり傾く危うさ。
帰ってもすることがなく、まだテストもないため勉強なんてする気は当然起きなく、もし見たいテレビがあればさっさと置いていくのだが、残念なことに今日の予定は学校に登校する以外なかったため、こうして寒空……寒室内で待ち続ける羽目になっていた。
時折、このバカを見ていると苛立ちを覚える。
こんな純粋に、こんな無防備な奴。
学校という箱庭のだけでしか生きられないような脆い存在が、今後社会に出て生きていけるのだろうか。
世界は、社会は学生が思うほど綺麗じゃあない。
当然の義務が放棄され、当たり前の規則が無視される。
誰も助けてくれない、みんな自分を助けるだけで精いっぱいの世の中。
両親を見ていると、それがよく解る。
私の両親は会社を経営しているのだが、この不況の中、色々窮地に立たされる。
仲間だと思っていた部下に裏切られ、信頼していた取引先に出し抜かれた。
倒産を意識するほど危ないわけじゃないけど、それでも父親が仕事を終え帰って来るのを見ると、苦し そうに、辛そうに背中が語る。
もし、私や母がいなければ、世間体も外聞も関係なく、助けてくれと泣き叫ぶくらいの苦汁は味わった。
プライドか、それとも心配させたくないのか。
そんな事はおくびにも出さず、おかえりと言えば、ただいまと笑顔を浮かべる。
嘘を吐いて、隠し通す。
それは学校だって同じだ。
友人と思っていた奴が影で裏切り、友情と感じていたモノが一方通行だったり。
「んぁ……?」
頬杖をついて黄昏ていた私は、ようやく起きたバカを見ることはせず、態度で今まで待ってやったんだからお礼の一つくらい言えよこの野郎と語って見せた。
バカはバカなのでそこらの機微が今一つ解らず、
「おはよー……」
と眠そうな目を擦りながら血管がぶち切れそうになるコメントを口にしやがった。
「おはよう信二君。ところで私、とても寒いの。何故かって? このクソ寒いなか、暖房も点いてない部屋で爆睡するバカが起きるのを待っていたからなんだけど」
「うわ、マジごめん!」
そう言って、私の手を握る。何故その行動に繋がるのかさっぱりわからない。
体温が高い皮膚が、外気に冷やされた私の手を包む。
「つめたっ!?」
「香子の手は暖かいなぁ」
「離して! 寒い!」
「えー」
不満そうな面を浮かべるが、離す気配はない。
一発腹にでもお見舞いしてやろうかと不穏なことを考えていると、バカは無邪気な笑みを浮かべた。
「香子は優しいな、起こしてくれればいいのに、待っててくれたんだ」
「ッ!」
ああ、これだ。
ちくしょうと、悔しく思いながら敗北する。
このあどけない笑顔に、素直すぎる言葉。
私には考えられない、裏表のない表情。
本心を曝け出し、本音を打ち明ける。
なんでそんな恐ろしい事ができるのだろうか。
自分のすべてを教えてしまったら、守るモノはなくなるのに。
「……離して」
「やだ」
「あ゛?」
「怖いよ!?」
殺意を込めた視線を向けても離さない。
私を信頼し、信用し、信愛しているから、なんてちょっとばかしロマンチックにしてみても、バカらしいのは変わらない。
「あれ? 泣いてるの?」
泣いてなんかいない。
泣くわけがない。
泣く理由がないのだから、泣けるはずがない。
「泣いてるわけ……ないでしょ」
「そう?」
「あんた眼科行った方がいい。今すぐ」
「視力は両方とも1.0だけど」
「中途半端ね……」
「そう?」
ああ、神様。
普段は貴方の存在なんか信じてないけど、本当にこんな時、恨んでしまう。
なんで私とこいつを出会わせたんですか。
信じられない。
もう私は、世界が汚いだけじゃないって、思い始めてる。
汚いからには綺麗だったこともあって、
汚いからには綺麗なとこもあるんだって、
思ってしまっている。
「……寒い」
「あー寒いね確かに。どっか店行く?」
「今、寒いの」
「じゃあ暖かい飲み物でも買いに」
「ぎゅって抱きしめてって言ってんのバカ」
自分以外の体温を感じて、改めて解った。
ああ、私はダメな男が好みなのか……なんて。
嘘だらけの世界で、嘘も解らないバカを知った。
世界はありえないほど汚くて、
世の中は信じられないほどズルくて、
そんなゴミ溜めみたいな現実に、貴方が居たのが幸いだった。
だから私は、今日も世界を信じてみようと生きていられる。
こんなにも私を包んでくれる、本当があるのだから。