我が季節8
迂闊だった。
雨がひどく降っているものだから、庭に広がる竹林の中を近道をして、早く古くなった硯や巻物を片付けてしまおうと思ったのがいけなかった。
(まさか、こんなに大きい穴に落ちるだなんて…)
というか、この本家において、庭にこんなでかい穴があるとは思いもしなかった。
「唯一の救いはあの土砂降りが嘘みたいに晴れたことでしょうか…」
自分が穴に落ちた瞬間、まさにそれを狙っていたかのように土砂降りは晴れた。せめて落ちる前に晴れておいて欲しかった。そうすればもしかしたら落ちなかったかもしれない。いや、自然現象に対してそんなこと考えるだけ無駄なのだが…。
激しく打ち付けた腰とお尻をさすりながら、雪はぽっかりと切り抜かれた空を見上げて溜息を吐いた。丸く青い空には、周りに生えていた竹がちらりと顔を覗かせている。
人1人すっぽり入ってしまう穴の中は、雨で土がぬかるみ足元は覚束ず、動くたびに只でさえ汚れていた着物が更に汚れた。試しにと伸ばした手は穴の淵に届くか届かない位の高さで、人並みの運動力を誇る雪が1人で出ることは叶わなかった。ううん、と雪は首をひねった。ここに私が居るなど、誰がわかるだろうか。困ったことになった。昨日も勝手に帰ってしまったし。
「さて、どうしま…」
「雪さん!!!」
穴の上に急に顔を現し、心配そうに雪の名を呼ぶその男性は、額に玉の汗をかいていた。
頃合よく現れたその男性の顔をボケッと見つめたまま、雪は言葉を失った。こんな時に何を考えているのだろうか。しかし誰かに見つけてもらえた喜びより、先に考えてしまった。
やはり…。やはり。
(枢さまは、お美しい…)
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「大丈夫ですか!?お怪我は!?さぁ早く手を!」
心配そうに叫び、ギリギリまで身を屈めて手を伸ばしてくる枢を見て、雪はハッと我を取り戻した。そして発した言葉は、
「く、枢さま!御手がっ…お着物が汚れてしまいます!」
「……はいッ?」
あんなに心配していた枢も思わず素っ頓狂な声をあげた。え?
枢は上から下へ、白色から灰色の階調の入った着物に、たっぷりとした鶯色の羽織を身に纏っていた。豪華な模様の1つも入っていない地味な着物だったが、肌理細やかな織り、しっかりとした造り、仄かに薫る桜の香りから、誰が見てもその着物は高いものだと分かる。勿論、それを着る人間がそれ相応の人間だということも。
「わ、私なら大丈夫ですから!田神様に頼んで梯子でも持ってきて頂ければ1人で出られますし!!枢さまのお綺麗な御手やお着物を汚すわけには参りません!」
私が勝手に落ちて、勝手に出られなくなっただけなのだ。たかが自分の為に、手や着物を汚してまで、枢さまの御手を煩わせたくなかった。
だから雪は枢の手を取ろうとせず、必死に首を振って目を逸らした。こんな塗れて汚れた顔、見られるのですら恥ずかしい。だがそんな雪の言葉に枢はぎゅっと眉根を寄せて、悲しそうに、苦々しく呟く。
「雪さんは、田神の方が、いいのですか…?」
返ってくるだろうと予期していたものと違う言葉に、雪は「え?」っと顔をあげた。そしてその瞬間。
「きゃあっ!?」
雪の塗れて汚れた身体は、枢の両手によって、まるで赤子を持ち上げるかのように軽々しく穴の外へと抱き上げられてしまった。そして、
「くくくく枢さまっ!?」
ぎゅうっと抱きしめられた。