薫風に若葉はそよぐ【緑色のお話】
ある年の冬。僕は公園の隅っこで寒さに震えていた。毎年こうやって冬を越しているが、今年の冬は特に厳しかった。例年ならば人の姿のままで過ごすことも出来たが、今年はそうもいかなかった。僕は芋虫のような醜い姿で葉っぱの陰に身を潜めていた。
ぴゅう、と一際冷たい風が吹き抜けた。僕はたまらず、くしゅんと小さくくしゃみをした。
すると、ガサガサと落ち葉を踏みしめる音が近づいてきた。
「子犬かな、子猫かな……いずれにしても、保護してあげなきゃ」
そんな声も聞こえてきた。
足音は僕の目の前で止まった。葉っぱがガサゴソと揺れ、白い手がこちらに伸びてきた。あっと思うまもなく体を掴まれ、茂みの外へ出される。
「えっ、キャアァァァァァァ!」
甲高い悲鳴が響き渡った。僕の体がボスッと地面に落ちた。目の前には、腰を抜かしている女の人の姿。無理もない、子犬程もある芋虫を見たら驚かずにはいられないだろう。しかしまずい、見つかってしまった。慌てて茂みの中へ戻ろうとすると、後ろから声をかけられた。
「ね、ねぇ、君は芋虫なの……?」
僕は断じて芋虫ではない。僕は体を左右に振って否定した。
「違うのね……って、待って、私の言ってることが分かるの?」
頷くように体を折り曲げる。
「すごい、言葉が分かるのね……!」
僕は何度も何度も体を曲げた。女の人は目を輝かせて僕を見ていた。
「ねぇ、そんなところにいたら寒いでしょう……私の家に来ない?」
願ってもない申し出だった。僕はブンブンと頭を振り回した。
「喜んでる……のかな? まぁいいや、おいで」
手招きされ、彼女に這い寄る。彼女は僕を持っていた布の袋に入れると、どこかへ歩きだした。
「着いたよ、ここが私の家」
その言葉と同時に、僕は袋から取り出された。そこは簡素な洋室だった。部屋の隅には寝台があり、背の低い机と箪笥、それに棚が二つあるだけだった。しかし、部屋の至るところには動物や虫を描いた絵が飾られており、彼女が生き物を愛しているのであろうことだけは分かった。
「待ってね、今暖房つけるから」
女の人が小さな板のようなものを触ると、天井からぶら下がった白い箱がブゥン……と低い音をたて始めた。
「さて、温かい物でも飲もうかな。君は……葉っぱ、でいいのかな?」
僕は断じて芋虫ではない。それに、僕は食事を摂らなくても生きていける。そう言おうとしたが伝わるわけもなく、ただただ体を横に振ることしか出来なかった。
「いらないの? ……そっか」
彼女は何故か残念そうに台所へ向かうと、手に湯呑を持って戻ってきた。
「……そうだ、君の名前、決めてなかったね」
僕には元々名前はない。だから、初めて名前を貰えることに少しワクワクした。
「うーん……安直だけど“みどり”なんてどうかな」
本当に安直だった。しかし誰かに“緑色の”と呼ばれるのとは違う温かみを感じて、嬉しくなった。みどり、気に入ったよ! 僕は体を折り曲げて喜びを表現した。
「気に入ってくれた? 良かった。じゃあ今日から君はみどりね」
女の人は優しく微笑んだ。僕は、彼女の名前を知りたくなった。一生懸命体を伸ばし、彼女を指す。
「どうしたの? ……もしかして、私の名前も知りたいの?」
大きく体を折り曲げる。
「私は若葉。木原若葉っていうの」
きはらわかば……美しい名だと思った。僕は何とかしてそれを伝えようと体をくねらせたが、若葉は不思議そうな顔をしていた。
その日から、若葉との生活が始まった。朝になると若葉は仕事へ出かけていき、夕方になると疲れた顔で帰ってきた。しかし僕を見るなり笑顔になり、ひとしきり僕を撫でた後、夕食をとった。食事は要らないと伝えたつもりだったが、若葉はいつも僕の分の野菜を用意してくれた。僕は彼女の好意を無下にはできず、もしゃもしゃと食べた。夜は若葉の寝台で寝た。最初は床で寝ようとしたが、寒いからおいでと若葉に招き入れられ、そのまま抱きしめられて眠った。若葉の腕の中は暖かかった。
そんな風に日々を送るうちに季節は流れ、春が訪れようとしていた。気温が高くなっていくにつれて、僕の中にだんだん力が漲ってくるような気がしていた。
そしてその時は来た。それは桜の蕾が綻び始めた頃のことだった。夜、いつものように若葉に抱かれて寝ていると、体の内側から力が迸るのを感じた。その力は芋虫の体を突き抜け、気がつくと僕は人の形をとっていた。やっと、やっと戻れた。僕は人の体に戻れた喜びを噛み締めた。
しかし、若葉にはなんと説明しようか。芋虫がいきなり人間になっていたら驚くどころじゃ済まないだろう。若葉が寝ている間に出ていくか……いや、せめてこの家に招き入れ、冬を越させてくれたことにお礼を言いたい。僕はうーん……としばらく考え込んでいたが、
「まぁいっか。明日考えよっと」
再び横になり、眠りについた。
「ふあぁふ……おはようみど……ええっ!?」
僕は若葉の悲鳴で目を覚ました。
「あなた誰!? どこから入ってきたの!?」
若葉は僕の想像通り、ひどく混乱していた。
「僕がみどりだよ、若葉」
「嘘……みどりは芋虫のはず……」
「僕は断じて芋虫ではないよ。これが僕の本当の姿なんだ」
若葉を落ち着かせようと、僕は微笑みかける。
「それが、みどりの本当の姿……」
「そう、僕は寒さに弱くてね……力を失って、あんな姿になっていたんだ」
「じ、じゃあ、私が今まで一緒に過ごしてたのは人間……ってこと?」
「正確には人間ではないんだけど……まぁそうだね」
若葉はまだ呆然としている。
「若葉。寒さに震えていた僕を助けてくれて、暖かい家で冬を越させてくれてありがとう」
僕は深々と頭を下げた。
「もうすっかり元気になったからね、僕は行くよ」
「行くって……どこへ?」
若葉の問いに、すぐには答えられない。
「うーん……その辺?」
「家は無いの?」
「無いよ。基本的に木の上とかで暮らしてたからね」
若葉はしばらくおし黙っていたが、やがて口を開いた。
「ねぇみどり、特に行くあてがないのなら、まだこの家で暮らさない?」
「えっ……いいの?」
「もちろん。それに私も、みどりが急に居なくなったら寂しいもの」
「そっか……じゃあ、お言葉に甘えて!」
こうして僕は改めて若葉の家で暮らすことになった。
僕が人間の姿になっても、若葉の態度はあまり変わらなかった。以前と変わらず仕事終わりには僕を撫で回した。彼女の曰く、唯一の癒やしらしい。晩ごはんは若葉と同じものが用意されるようになった。僕は何度も食事は必要ないと言ったが、彼女は一緒に食事をするのが楽しいのだと言って譲らなかった。若葉の作るご飯は優しい味がした。寝る時も、僕たちは同じ布団で眠った。しかし最初、若葉は床で寝ようとした。男の子と一緒に寝るのは恥ずかしいと言われた。だが僕は若葉の温もりに慣れてしまっていたから、今更離れて眠るのは考えられなかった。そう言うと若葉は、渋々寝台に上った。彼女を抱きしめると、顔を真っ赤にして固まっていた。それも以前のことで、今では抱きしめあって眠っている。
初夏になり、青々した葉っぱがみずみずしい輝きを放つようになってきた。僕は若葉に、外へ出掛けたいとお願いした。
「そういえば、うちに来てから一歩も外に出てなかったもんね……よし、ピクニックに行こうか」
「ぴくにっく……?」
「そう。……あ、みどりは分からないか。お弁当を持ってね、外で景色を楽しみながら食べるの。楽しそうでしょ」
「うん、楽しそう! ぴくにっく行きたい!」
「決まりね。じゃあ次の休み、晴れてたら行こう」
僕は若葉の休みの日を指折り数えた。
そして当日。その日は雲一つない快晴だった。若葉は朝早くから楽しそうに弁当を用意していた。
そして僕らは、外へと繰り出した。暖かな風とそよぐ緑の葉。久しぶりに見るその光景は、とても輝いていた。僕は体の底から力が漲る感覚をおぼえた。
しばらく歩くと、目的の公園に着いた。そこは木々が茂り、色とりどりの花が咲く美しい場所だった。広場では親子が遊んでいたり、老人が散歩をしたりしていた。
僕らは広場の隅の木陰に敷物を広げた。若葉が鞄から弁当を取り出す。僕はワクワクしながら彼女が弁当の蓋を開けるのを待った。そして現れたのは、色鮮やかなおかずに白いご飯。無いはずの食欲がそそられる良い匂いがふわっと漂った。
「召し上がれ、みどり」
「いいの? いただきます!」
僕はさっそく箸を取ると、綺麗な黄色の卵焼きを掴んだ。口へ運ぶと、優しい甘じょっぱさが広がった。
「おいしいよ! 若葉!」
彼女は嬉しそうに微笑んだ。
続いて僕は大根の煮物に箸を伸ばす。
「うん! おいしい!」
「これも食べてみて」
若葉が白い塊を指さした。
「何? これ」
「これはポテトサラダっていってね、潰したお芋に野菜を混ぜたものだよ」
「へぇ、美味しそう!」
僕はそれを箸で一掬いし、ぱくりと食べた。
「うん! 僕、好きだよこれ!」
「ほんと? 良かった」
若葉ははにかみながら、ぽてとさらだを口に運んだ。
それから僕たちは、何気ない会話を楽しみながら弁当を食べた。いつもの家での食事と同じことをしているはずなのに、何だかいつもよりも美味しく感じた。おにぎりを頬張る若葉の髪を緑色の風がふわりと揺らした。
それ以来、若葉は僕を色々な所へ連れ出してくれるようになった。夕飯の買い物から百貨店、植物園や水族館など、本当に様々な場所に行った。僕にとっては見るもの全てが新鮮で面白かった。若葉はそんな僕を優しい目で見ていた。
ある夜、帰ってきた若葉の表情が暗かった。日課のはずの僕を撫でることもせず、仕事着のままごろりと寝台に横になってしまった。
「若葉? どうしたの? 何かあった?」
若葉はしばらく押し黙っていたが、やがてその口を開いた。
「この前水族館に行った時、同僚の子に見られてたらしくて……一緒にいた子誰? 紹介してよって言われて……適当に知り合いって誤魔化して、紹介はできないって言ったの……。その後もしつこく言われてたけど全部断って……。そしたら今日、職場に変な噂が流れてたの……」
「変な噂?」
「私がみどりのことお金で買ってるって……。お金を渡してデートに付き合わせたり、色んなことしてるって……。多分、あの子が言いふらしたんだと思う……」
「何それ! 酷いなぁ! 若葉はそんなことする人じゃないのに!」
「……ありがとう。でも、職場の人達はすっかりその噂を信じちゃってて……。居心地悪くて疲れちゃった……」
「若葉……」
僕は若葉の側に行って、いつも彼女が僕にしてくれるように若葉の頭をそっと撫でた。
「元気出して、若葉。そんな噂、すぐに消えるよ」
「……ありがとね、みどり。うん、心配かけてごめんね! すぐ晩ごはんの用意するから!」
若葉は気丈にそう言うと、寝台から立ち上がった。しかしその顔にはまだ、疲れの色が滲んでいた。
その日以降、若葉は見るからにやつれていった。こちらの声かけにもあまり応じてくれなくなり、ご飯もまともに食べなくなってしまった。原因はやはり、職場で流れているという噂だろう。無力な僕はただ彼女の頭を撫でることしかできなかった。
更に何日か経つと、急に泣き出したり、一人で何事かぶつぶつと呟くようになった。若葉は相当追い詰められているようだった。
そんな日々が続いたある日、若葉は帰ってくるなり玄関にへたり込み、ついに声を上げて泣き始めた。
「若葉!」
僕は慌てて彼女に駆け寄る。
「若葉、大丈夫だから、ね、落ち着こう」
若葉は僕を虚ろな目で見てポツリと呟いた。
「みどりが……あの芋虫のままだったら……こんなことにはならなかったのに……」
その言葉に、僕はひどく衝撃を受けた。嘘だ、若葉がこんな、僕の存在を否定するようなことを言うなんて。いや、これは若葉の本心じゃないかもしれない。心が疲れてつい言ってしまっただけかもしれない。……それでも、その言葉が若葉の口から溢れたことが悲しくて堪らなかった。
その夜、僕は眠れずにずっと若葉のことを考えていた。このまま僕が側にいても、若葉にしてやれることは何もない。それどころか、彼女を苦しめるだけではないのか。
……僕がいない方が、若葉は幸せなのではないか。
一晩考えて、僕は彼女の前から姿を消すことにした。
次の日、若葉が仕事に行っている間に、僕は手紙をしたためた。
『若葉へ
短い間だったけど、若葉と過ごした時間は
本当に楽しかったし、幸せだったよ。
だからどうかこれからは、若葉がいちばん
幸せになれる道を選んでほしい。
僕を拾ってくれて、本当にありがとう
みどりより』
机の上に手紙を残し、僕は静かに部屋を出た。
あれから十年ほど経っただろうか。
あの後、全国を旅していた僕は、久しぶりにあの街に戻ってきていた。若葉は元気にしているだろうか、などと考えながら街を歩いていると
「こら、待ちなさい!」
若葉の声が聞こえてきた。驚いて振り向くとそこには、元気よく走り回る子供の姿。そして後から若葉と、背の高い男が歩いてくるのが見えた。
若葉は子供を捕まえると、愛おしそうに抱きしめた。男はそんな彼女の背に手を添えている。
そうか、若葉は幸せになれたんだな。
僕は彼女らに背を向けて歩き出した。吹き抜けていく緑色の風は、まだ少し冷たかった。




