霧に消えた遺言状
文芸部員A:
我らが文芸部の狭い部室、古い紙の匂いと西日に包まれたこの空間。ある意味で最高の舞台になると思わないか? 今日は三人でゲームをしよう。会話だけで進めるマーダーミステリー、なんてどうかな。よし、僕が言い出しっぺとして、物語の幕を開けるよ。
舞台は1920年代、霧深き英国デヴォン州。荒野の真ん中に建つ古めかしい館、シルバートン屋敷だ。テーマは『霧に消えた遺言状』。昨夜、屋敷の主であるシルバートン卿が、鍵のかかった書斎で息絶えているのが発見された。机の上には空のティーカップと書きかけの遺言状。しかし最も重要な相続人の名前が書かれるはずの場所は、無残にも引きちぎられていた。折悪しく、外は記録的な大嵐。警察が到着するのは明日の朝になるだろう。現場に居合わせたのは、卿と血縁、あるいは深い縁のある僕ら三人だけ。互いへの疑念が霧のように立ち込める中、僕らは犯人を探り合う。
さて、君たちにはこの配役をお願いする。
まずは『アーチー・シルバートン』。被害者であるシルバートン卿の甥。放蕩息子で、多額の借金を抱えているという噂がある。都会的で皮肉屋。あまり伯父の死を悲しんでいるようには見えないが、遺産の内容には異常に執着している。
もう一人、『アイリス・ホワイト』。屋敷に長く勤める有能な秘書だ。卿の私生活から仕事まで、すべてを把握していた唯一の人物。冷静沈着で感情を表に出さない。卿に対しては忠実だったが、最近、彼との間で激しい口論をしていたのをメイドが目撃している。
そして、僕は『ヒュー・ブラック』をやろうかな。たまたま屋敷を訪れていた謎めいた詩人で、卿とは古い友人だと自称している。現場の状況を観察し、記録することに執着する変人さ。部外者ゆえに冷静だけど、その動機は不明。
この物語の犯人は予め決まっていない。会話の中で「これは怪しい」という証拠や設定を自由に付け加えて構わないよ。物語の整合性が取れなくなった時は、お互いに調整を入れよう。最終的に辿り着いた結末を振り返って、誰が面白さに寄与したかを評する。というわけで――
ヒュー:
……さて、アーチー。君はシルバートン卿が亡くなる直前、書斎の近くで銀のトレイを磨く音を聞いたと言っていたね? しかしアイリスの話では、昨夜は執事もメイドも全員休暇で、屋敷には僕らしかいなかったという。……おや、アーチー。君のカフスボタン……片方足りないようだけど、どうかした?
アーチー:
ヒューさん。あなたのその観察眼は、詩人というより探偵向きじゃないか? このカフスボタンね。確かに片方、左袖のほうがちぎれてる。どこに落としたんだろうか。屋敷中を探したが、結局見つからなくて……まあ所詮はカフスボタンだから、構わないさ。君の指摘はなかなか面白い。俺が銀のトレイを磨く音を聞いたのは、ちょうどカフスボタンを探していた時だった。
アイリスによれば屋敷には我々しかいなかった。伯父が自らトレイを磨くはずがない。それはつまり、誰かがわざとそんな音を立てて俺の注意を引き、書斎に呼び寄せようとしていたんじゃないか? たとえば犯人に仕立てるために?
君はどう思う、アイリス。伯父の秘書として屋敷のすべての鍵を預かっていた君なら、書斎が本当に密室だったのか、知っているはずだ。君が最後に書斎を出た後で、誰かがこっそり入れる可能性は? それに、遺言状の相続人の部分が引きちぎられていたって話。あれは随分と乱暴な切り方だった。慌てて隠そうとしたみたいに。
正直に言おう。俺は伯父の死を……まあ、そこまで悲しんでいない。あの偏屈親父とは生涯かけてずいぶんとやりあったものだ。遺産のことは気になるさ。俺は事実として借金塗れの甥っ子で、彼の莫大な財産はまさに救いの手だからね。しかし、もし俺が遺産狙いの殺人犯だとしたら? わざわざ現場である書斎の近くで音を聞いたなんて言ったり、カフスボタンを落としたりするような間抜けな真似をするものか。疑ってくれと言っているようなものだろう。
むしろあなたはどうなんだ、ミスター・ブラック。たまたま遺言書を書きかけていた伯父の死ぬ日に、たまたま訪れていた友人だなんて、少々出来過ぎているな? 伯父の友で詩人だなどという職業なら、昨夜は書斎にだって招かれる機会もあったろう。あるいは彼が遺言状を書いているところを、こっそり覗いていたかもしれない。
あなた方の言い分を聞かせていただこう。アイリス?
アイリス:
お二人とも饒舌ですこと。
アーチー様、ひとつ訂正させていただきますわ。わたくしが屋敷の「すべての鍵を預かっていた」と仰いましたが、正確ではございません。書斎の鍵だけはシルバートン卿がご自身で管理されておりました。わたくしが書斎に入る際には必ず卿の許可を得てからでしたの。それはこの屋敷の、十四年来の習わし。ですから、昨夜あの部屋に《《誰かがこっそり入れた》》としたら……鍵を持っていた方、ということになりますわね。
ところで、昨夜の十時頃、わたくしが回廊を通った際、書斎の扉の前に人影を見ましたの。背の高い、細身の影でしたわ。アーチー様はその時分、ご自分の客間にいらしたと仰ってましたわね。……詩人というのは、夜更けに招かれた屋敷の書斎の前で一体何をなさるものでしょう。
それから――ええ、口論のことをお訊ねになりたいのでしょう、どちらかが。わたくしには、隠すことなどありませんわ。卿とは先週、確かに言い争いをいたしました。でも内容については……今は、お話しする必要はないと判断しております。卿の個人的なことですから。必要になれば、お話いたしますわ。
ただ、これだけは申し上げておきます。あの遺言状の乱暴な破り方について。わたくしは長年、卿の書類を管理してきました。あの方の机の抽斗には銀のペーパーナイフが常に一本、置いてありますの。それを使えば、もっと綺麗に切り取れたはずでしょう。……ということは、遺言書を破いた人物は抽斗の中身を知らなかった。
アーチー様は何度もこの屋敷にきていらっしゃいますから、ご存知のはずですわね。でしたら、初めてこの屋敷を訪れた方が慌てて手で破いた、というほうがずっと自然じゃございませんこと?
さあ。ヒュー様、昨夜の十時のご説明を、ぜひ聞かせていただけますかしら。
ヒュー:
面白い。さて、アーチー。君の「銀のトレイを磨く音」という証言。そしてアイリス、君が十時に見たという「細身の影」。この二つが重なった時、僕の眼前の霧は晴れたようだ。僕の考えを話すよ。
まずはアイリス。君は「卿だけが書斎の鍵を持っていた」と言い、「ペーパーナイフを使わなかった犯人は屋敷に不慣れな者だ」と言う。一見、筋が通っているように聞こえるが……。
考えてもみたまえ。昨夜、使用人たちは全員休暇で、屋敷には僕らしかいなかった。それなのに、アーチーはトレイを磨く音を聞いたのだろう? 銀のトレイ。そう、それは卿に夜の紅茶を運ぶ音だったんじゃないかな? メイドもいない夜の十時に卿の書斎を訪れ、疑いを持たれずに毒入りの茶を差し出し、卿がそれを飲み干すまで見届けられる人物。偏屈で人を寄せつけないシルバートン卿が、夜更けにでも扉を開ける相手。
それは放蕩息子のアーチーでも、得体の知れない詩人の僕でもない。十四年間、彼の私生活を支え続けた忠義の者だけだ。
アイリス。君は「初めて訪れたから、ペーパーナイフの存在を知らずに紙を破いた」と言った。僕が思うに、逆なのだよ。君はあえて紙を乱暴に引きちぎる必要があったんだ。なぜなら、あの遺言状に書かれていた相続人の名前は、アーチーのものでも俺のものでもなかったからだ。あそこに書かれていたのは……『アイリス・ホワイト』の名だった。
君は先週、卿と激しい口論をした。その時に君は知ってしまったんだ。卿が、長年の忠誠に報いるために遺産を君に譲ろうとしていること。そして同時に――彼が、君を解雇しようとしていたことも。
君はプライドの高い女性のようだ。きっと哀れみによる遺産だけを受け取り、屋敷を追い出されるなんて屈辱には耐えられなかったのじゃないかな。だから、彼が遺言状を完成させて公証人へ渡す前に……彼を消し、遺言状の自分の名を破り捨てた。“相続人の名前が分からない状態”にすれば、遺産は血縁であるアーチーのものになる。そうすれば君への疑いの目は消え、君は新しい主人のもと、変わらずこの屋敷の支配者として君臨し続けられるだろう。
アーチー、君のカフスボタンは……おそらく、君が夜中に廊下で彼女とぶつかった時に、彼女のポケットに紛れ込んだか、彼女が君を犯人に仕立て上げるための予備の策として盗んだのじゃないか。有能な秘書の、丁寧な仕事としてね。
さて、アイリス・ホワイト。シルバートン卿の心臓を止めたのは、君だね?
アーチー:
待ちたまえ、ミスター・ブラック。あなたの推理はこの霧を裂く一筋の光のように確かに鮮やかだ。
アイリスが犯人だって? なるほど、筋は通っている。十四年間、伯父の影のように寄り添ってきた忠実な秘書……そして突然の哀れみによる遺産と解雇の屈辱。動機としては充分すぎるほどだ。
だが、俺は少し違う見方をしている。伯父はね、アイリス。君のことをただの秘書だとは思っていなかった。俺がこの屋敷に滞在していた頃、何度か伯父の口から君の名前が出たことがある。他人に対してあんなにも偏屈で冷たい伯父が、珍しく目を細めて「彼女は特別だ」と漏らしたのを聞いたよ。
憎からず想っていた……いや、もっと深い、嵐のような感情を抱いていたんじゃないかな。少なくとも、信頼と、敬愛に近いものを。遺言状に君の名を書くこと自体は、伯父なりの『献身への報い』だったのかもしれない。同時に解雇を決めたというなら……それは君を守るための愛情だったのかもな。屋敷の主君と秘書の間に何かあったら、世間の非難を浴びるのは君だから。
だから、君が伯父を毒殺したなんて俺は信じられないな。君は冷静で有能すぎる女性だ。もし本当に遺言状を破りたかったならもっと完璧にやるはずだ。罪を着せるためにわざと手で破くなんて、君らしくない。《《普段の君なら》》もっと優雅に、痕跡を残さずに事を運ぶだろう。それに俺のカフスボタンを予備の策として盗む必要なんてなかったはずだ。君は十四年もここにいるんだから、俺を陥れる方法なんて他にいくらでもある。
さて、ヒューさん。あなたの推理は面白いよ。まるで出来過ぎたミステリー小説だ。俺の失くしたカフスボタンがアイリスのポケットに? それこそ、君が昨夜、廊下で俺とすれ違った時に拾って彼女の部屋にでも忍ばせたんじゃないのかい? 今その推理を披露してみせるための、詩人らしい『伏線』さ。
しかし、アイリス。もし……万が一、君が本当に伯父の死に関わっていたとしても、俺は君を責めたりはしないよ。遺言書の内容はともかく、伯父が君に幸せを望んでいたことだけは確かな彼の“遺志”だからね。だから俺は、最後くらいは伯父が遺した想いに従ってやろうじゃないか。あの偏屈爺さんへの餞に。
これはここだけの話。警察がくればこの事件は解決するが、本当のことは今ここにあるだけ、すべては霧の中に消えるだろう。もし君が自分の無罪を選ぶなら、あるいは俺を犯人にしても構わないさ。どうする? アイリス、この密室の鍵を、君に預けようじゃないか。
アイリス:
……お見事ですわ、ヒュー様。ただ、ひとつだけ訂正させてください。わたくしは屈辱に耐えられなかったのではありません。そんな単純なことで、あの方を……。
アーチー様、あなたは「卿がわたくしを憎からず想っていた」と仰った。ええ、そうでしょう。ですが、その想いの本当の形を、あなたはご存知ではありません。
先週の口論で、卿はわたくしに告げました。遺言状にわたくしの名を書いたこと、そして――「この屋敷を去るように」と。その理由は、ヒュー様がなさった推理とは少し違います。卿は仰ったのです。「アイリス、私はもう長くはない。お前を屋敷に縛りたくないのだ。自由になってくれ。私への義務感がお前の翼を縛っている」と。……十四年間。わたくしは、卿のもとで自由を育んでおりましたのに。
毒は昨夜の紅茶の中ではありませんでした。警察が調べても、何も出ませんわ。卿がいつも召し上がる、就寝前の強壮剤の瓶の中に、少しずつ。一週間かけて。ですから苦しむ間もなく、眠るように――それだけが、せめてもの……。
……遺言状を破いたのはヒュー様の推理通りですわ。自分の名前が書かれたものを証拠として残すわけにはいきませんでした。だって、わたくしが欲しかったのは、遺産ではなかったのです。ペーパーナイフを使わなかったのは……正直に申しますと、手が震えていたからです。あの時だけは、どうしても。
アーチー様のカフスボタンは、書斎で拾いました。意図して盗んだものではありませんでしたが、返すための言葉を見つけられなかったことも否定はいたしません。ただ、放置すればアーチー様が明確に疑われてしまいます。わたくしはこの屋敷の鍵を、誰かに渡さなければならなかった。そしてあの方の血を引く人間に渡すことが……あの方を裏切ったわたくしにできる、最後の仕事でした。
ヒュー様、あなたは詩人でいらっしゃるのでしょう? ならば覚えておいてください。この霧の深いデヴォンの夜に――愛していたからこそ手放せず、愛を守るために手をくだした女がいたことを。
警察は明朝参りますわね。お二人とも、それまでの時間を、どうぞご自由にお使いになって……。
文芸部員A:
いやあ、素晴らしい幕引きだね。窓の外から赤い陽が射して、部室の影が深くなったタイミングでのアイリスの告白……最高に“文芸的”だ。
僕たちの即興マダミス、『シルバートン屋敷の殺人』をまとめてみよう。犯人はアイリス・ホワイト、被害者の秘書。凶器は強壮剤に混入された遅効性の毒物だ。事件の真相。卿はアイリスを愛するがゆえに、彼女を義務から解放すべく『遺産』と『解雇』を用意した。しかし十四年間のすべてを彼に捧げたアイリスにとって、その慈悲は皮肉にも絆の断絶を意味していた。彼女は彼を永遠に自分のもの……記憶の中の主君とするために、一週間かけて毒を盛り、彼が眠るように息を引き取った後、自分の名が記された遺言状を震える手で引きちぎった。甥のアーチーはすべてを察しながら、伯父の遺志を汲み、沈黙という名の餞別を贈る道を選んだ。
二人とも、キャラクターの解釈が深くて本当に迷うけど、僕は今回のMVPをアイリスに送りたいと思う。提示された「乱暴に破られた遺言状」という謎に対して、「完璧な秘書だったからこそ、殺人の瞬間にだけ手が震えた」という、心理的かつ説得力のある解答。即興で「紅茶ではなく一週間かけた強壮剤」という設定を出し、事件の悲劇性を一気に高めた点。「愛していたからこそ手放せず、愛を守るために手をくだした」という台詞は、まさに英国探偵小説を感じさせるフレーズだったよ。
アーチーが伯父の真意を語ることで、アイリスの動機をより複雑にしたアシストもよかったな。おかげで、ただの犯人探しじゃない、濃密な人間ドラマになったね。
文芸部員B:
うん。アイリスの最後の語り、良かったな。あの「手が震えた」という告白のところ、ぞくっとした。完璧主義の秘書が最後の最後で人間らしい弱さを見せる瞬間が、胸に刺さった。十四年間の忠誠と、愛情と、義務感が絡み合って、「最後の仕事」って締めくくり。あれは綺麗だった。切なくて静かで、1920年代の霧の館にぴったりな余韻だ。
ヒューの推理も鮮やかだったよ。アイリスを犯人に選んだことで、物語の道筋ができていった。毒が紅茶じゃなくて強壮剤で、一週間かけて……というひねりも上手かったし。俺も今回一番面白かったのはアイリスの語りだと思う。文学的で、感情の機微が細やか。単なる犯人の告白じゃなくてヒロインの独白みたいだった。恋愛小説や心理劇のような味わいが出て、即興でここまで詩的にまとめられたのは凄いよ。
アーチーとしては、伯父の想いを優しく拾ってアイリスに救いの手を差し伸べようとしたつもりだったんだけど……結局、アイリス本人が自分の動機を一番美しく、かつ哀しく語ってくれたおかげで、物語がすごく締まった気がする。俺の提案、皮肉屋にしてはちょっと甘すぎたかな? アイリスが「最後の仕事」として遺産を俺に回したってオチが、キャラクターを一貫させてカッコよかった。全体のトーンを一段上げてくれたと思う。
お疲れ様。なかなか盛り上がったじゃん。次はもっとトリッキーな謎解きも入れようぜ。
文芸部員C:
……やば、鳥肌立った。本当に。私は今日のMVPは、ヒューだと思う。「遺言状の相続人がアイリス本人だった」っていう逆転の発想、あそこで全部ひっくり返ったじゃん。しかも「哀れみによる遺産と解雇が同時」っていう卿の動機の歪み方が、ちゃんと人間くさくて好きだったな。あの推理が出た瞬間、私は頭の中で猛スピードで「じゃあアイリスはどう締めるべきか」を計算してたもん。あれがなかったら、あの告白シーンは生まれてなかったよ。
それにアーチーも良かった。「責めない、警察に任せろ、霧の中に消えろ」って、あの甥っ子の懐の深さというか都合の良さがかえって人間らしくて、場を温めてくれた。アイリスが告白しやすい雰囲気を作ってくれたのはあの台詞だと思う。
でも……「愛していたからこそ手放せず、愛を守るために手をくだした」って自分で出しておいてなんだけど、これ我ながらちょっとキマりすぎたな、とは思ってる。アガサ・クリスティーみたいじゃない? なんてね。
また次の部活でもやろうよ。次は40年代アメリカ風のサイコスリラーがいいな。




