第一話 「鬼を使役する末裔」
世界が終わったのだと、多くの人間は思った。
それは戦争でも、疫病でも、隕石でもない。
ある日突然、世界が重なった。
2025年4月。
富士山が、震えた。
噴火ではない。
地震でもない。
空気が、裏返るような感覚。
目に見えないはずの境界が、軋みを上げて裂けた。
その瞬間、山肌の一部が――消えた。
正確には、消えたのではない。
“別の風景”と置き換わった。
黒く歪んだ空。
赤黒い大地。
現実には存在しないはずの星々。
それが、富士山の中腹に“重なって”見えた。
同時刻、世界各地で同様の現象が発生していた。
ギザの大ピラミッド。
マチュピチュ。
アンコール・ワット。
万里の長城。
人類が「聖地」「遺産」「祈りの場」としてきた土地ほど、
異界との境界は、脆かった。
後に、それは幻界と呼ばれる。
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幻界から溢れ出した存在は、
人類の想像を遥かに超えていた。
天使と呼ばれる翼ある存在。
悪魔としか言いようのない異形。
獣であり、神であり、死者であり、虫であり、精霊であるもの。
彼らは“敵意”を持っていたわけではない。
だが、人類と共存できる構造ではなかった。
軍隊が出動し、
戦闘機が飛び、
ミサイルが撃ち込まれた。
だが結果は、一方的だった。
爆炎の中を、天使は歩いた。
弾丸を弾き、悪魔は笑った。
魔獣は街を踏み潰し、不死族は倒れても起き上がった。
人類は理解する。
――これは、力の差ではない。
――次元が違うのだと。
それでも、人間は滅びなかった。
なぜなら――
人間は、どんな絶望の中でも意味を探す生き物だからだ。
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神代恒一が生まれた家には、
代々受け継がれてきた家訓がある。
古い木の板に、墨で書かれた言葉。
義を重んじよ
それだけだ。
金言もなければ、
武勇の誇りもない。
子供の頃、恒一はそれを祖父に尋ねたことがある。
「義って、なに?」
祖父は少し困った顔をしてから、こう言った。
「簡単に言えばな、
損をすると分かっていても、やるべきことをやるってことだ」
「それ、バカじゃない?」
子供らしい疑問だった。
祖父は笑わなかった。
「そうだ。
だから、義を選ぶ者は、だいたい報われん」
恒一は、その言葉をよく覚えている。
⸻
神代家は、貧しかった。
父は早くに亡くなり、
母は一人で恒一を育てた。
母もまた、優しい人だった。
電車で席を譲り、
困っている隣人を放っておけず、
結果的に、いつも損をする。
ある日、恒一は聞いた。
「なんで、断らないの?」
母は、少し疲れた笑顔で答えた。
「断る理由が、ないからよ」
それだけだった。
神代家では、
“正しいこと”を選ぶ理由を、説明しない。
選ぶのが当然だからだ。
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学校では、恒一は目立たなかった。
だが、いじめを見過ごせなかった。
相手が自分より強くても、
人数が多くても、
結果的に自分が損をしても。
「やめろよ」
その一言を、飲み込めなかった。
殴られ、笑われ、
教師には「関わるな」と言われた。
それでも、やめなかった。
理由は、単純だった。
――見捨てる方が、後味が悪い。
それだけだ。
⸻
幻界との接触から三年。
世界は変わった。
召喚士が現れ、
国家は彼らを兵器として扱い、
力を持つ者が正義を語る時代になった。
それでも、恒一は変わらなかった。
富士山麓の土産物屋で働き、
変わらず、困っている人に手を差し伸べる。
誰かに評価されるわけでもない。
報われることもない。
だが――
神代家の家訓は、まだ生きている。
義を重んじよ
それは、
英雄になるための言葉ではない。
生き残るための言葉でもない。
ただ――
人であるための言葉だ。
そしてその“義”こそが、
幻界で最も恐れられる種族を、
この世界へ引き寄せることを――
神代恒一は、まだ知らない。
とある日の富士山麓の空気は、明らかに異常だった。
何かを感じ、立入禁止区域に一歩踏み込んだ瞬間、
恒一の皮膚が、じわりと痛んだ。
呼吸が、重い。
肺に入る空気が、異物のように感じられる。
――近づくだけで、やばい。
ニュースで聞いた話を、思い出す。
幻界の住人と一定距離以内で接触した人間は、
肉体構造が耐えきれず崩壊する。
皮膚が裂け、
血が沸き、
最悪の場合――存在そのものが“解体”される。
国家が定めた指針では、
召喚士以外の人間が幻界存在に近づくことは自殺行為とされていた。
それでも。
恒一は、倒れている影から目を離せなかった。
⸻
近づくにつれ、
身体が悲鳴を上げ始める。
視界が、歪む。
指先の感覚が、薄れていく。
「……くそ……」
理屈では、分かっている。
普通の人間なら、ここで終わる。
幻界の住人は、
そこに“存在する”だけで、周囲を破壊する。
人間など、
一瞬で塵芥になる。
それなのに――
倒れている存在の前で、恒一はまだ立っていた。
理由は、分からない。
ただ、退かなかった。
⸻
倒れていた存在は、人の形をしていた。
だが、近づいた瞬間、
圧が走る。
本能が叫ぶ。
――触れるな。
――関わるな。
――生き残りたいなら、逃げろ。
それでも、膝が地面についた。
「……大丈夫、か」
声が、震える。
この距離で会話できていること自体が、異常だ。
⸻
《……人間》
声が、直接、脳に響いた。
恒一は、反射的に一歩下がる。
その瞬間、
肺が、ようやく空気を受け入れた。
――距離。
ほんの一歩で、
生と死が分かれている。
《ここは、人が来る場所ではない》
「……分かってる……!」
叫ぶように答える。
「近づいたら、死ぬってことくらい……!」
それでも、視線は外せなかった。
倒れている。
それが、すべてだった。
⸻
《なぜ、来た》
問いが、重く落ちる。
「……理由なんて、ない」
喉が、ひりつく。
「見捨てたら……
多分、一生後悔すると思った」
鬼は、沈黙した。
その間も、
恒一の身体は、少しずつ削られていく。
幻界の住人と“関わる”ということは、
そういうことだ。
⸻
《……お前は、弱い》
「……分かってる」
《この距離にいれば、
いずれ肉体が保たなくなる》
「……それでも」
言葉が、勝手に漏れた。
怖い。
死にたくない。
だが――
逃げる理由を、見つけられなかった。
⸻
鬼は、ゆっくりと上体を起こす。
その瞬間、
圧が、さらに増す。
恒一の視界が、白くなる。
《我は鬼族、カガネ》
名を名乗られた瞬間、
恒一は理解した。
――これは、本来、対話できる存在ではない。
国家が恐れ、
幻界の他種族が距離を取る理由。
人間など、
塵芥として扱われて当然の存在。
それなのに。
《神代……義を捨てなかった名だ》
「……やめろ……」
恒一は、後ずさる。
「俺は……ただの人間だ……」
鬼は、手を差し出した。
その行為自体が、
異常だった。
通常、
幻界の住人が人間に触れれば、
肉体は耐えられず崩壊する。
それを、鬼は知っている。
だからこそ――
急かさない。
引き下がりもしない。
《義は、正解ではない》
鬼の声が、
圧を抑え込むように、静かに響く。
《恐れ、迷い、それでも逃げぬ。
それを、義と呼ぶ》
恒一の身体は、限界だった。
視界が、暗くなる。
指先が、冷たい。
それでも――
足が、前に出た。
「……それでも、見捨てない」
震える手を、伸ばす。
触れた瞬間。
――圧が、消えた。
まるで、
世界が一息ついたかのように。
恒一は、崩れ落ちそうになりながらも、
その手を離さなかった。




