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内省シリーズ

内省

作者: 歯磨き子
掲載日:2025/11/20

 これは決して大きな事件の記録ではなく、その渦中で巻き起こるヒューマンドラマでもなく、恋や愛を追求する物語でもない。あるいは、誰かを紹介したり、美しい景色を写すわけでもない。これは僕の頭の中の話であって、大したものではない。現世を生き、愛憎に塗れ、傷つき、傷をつけて、遠い過去に純情の心を置いてきた一人の人間が、ただくだらないことばかりを考えている。そんな僕をどうか笑ってくれたまえ。



一.


 ある少女が海で溺れていて、それを見た少年がその少女を助けることにした、とする。この時、もしも少女を助け出すことができたら、少年は勇敢な英雄として讃えられるだろう。もしも少女を助け出すことができずに、少年も共倒れしたのなら、少年は無謀な愚か者だったと語られるだろう。所詮は過程を見てくれる他人はいなかったのだ。結果を出さなければ褒められないのだ。僕にはこれが社会の縮図のように見えてたまらなかった。僕は小学生の頃に合唱の授業で声ばかり大きい下手なやつが周囲に責められていたのを見ていた。その時に先生は「一生懸命に歌っているのだから、それは失礼というものでしょう」と責めた子らを叱っていた。当時は先生が言っていたのだからそうなんだろうと思っていたが、成長してみれば僕の教えられていたこととは全く逆のことが起こっていた。それからだ、僕が教師というものをあまり信用しなくなったのは。責めていた子らの方がよほど現代の社会と同じ合理的なことを行っていたというわけだ。そんなことに気が付いたんだ。だから、僕だけは誰かの過程まで見る人間でありたいと勝手に思っていたのだけれど、友はいなければ女房もいない。さらに歳だけを重ねて、そこにまた気が付いた僕はもうとっくにひねくれていたものだから、綺麗事を吐いて理想を抱いていた過去の僕を恥じたんだ。



二.


 例え100回善い事をしたとしても褒められなくて、1回の悪い事をしたらそこばかり突かれて痛い思いをするこの世の中は息苦しいと僕は思う。いいや、その悪事の程度がよほど酷いものであれば話は別なのだが。──善い事をしたら褒めてあげたいとは思う。子供に対しては特にそうだ。もし、子供が絵を描いたときに、前は描けていなかったものが描けたなら、それは子供にとってはひとつ成長したことと言える。僕はそれが分かるから、褒めることができる。残念なことに、この世には未だ自分が世界の中心だと思っている人間がいるんだ。奴らは他人の背景を考えずに自らの『当たり前』を押し付けるんだ。きっとそんな奴らは子供を蔑ろにするだろう......いかんな。しかしそういえば、褒めてあげたいだの、子供を蔑ろにするのはいかんだの言っておきながら、己が立場も弁えず何もすることがない僕は何者になれるんだろうか。ああ、また我に返ってしまった。不愉快だ。もう静寂に寝てしまえ。



三.


 仲を深めたいと思う人間にはやはり近づきたいものだが、しかし僕はそれを試みるとき、いつの間にやら実在しない人間に近づこうとしているのかもしれない。僕が勝手に作った期待を、その人間の輪郭を型として流し込み、無理矢理実体を持たせようとしてしまうんだ。本当にそこにいる人間は、僕の期待と違って、掃除ができないかもしれない、料理ができないかもしれない、異性にだらしないのかもしれない、物を盗むかもしれないのに、勝手にその可能性を考えずに近づいた挙句失望して離れるんだ。そんな愚行をこの人生の中で幾度となく犯してきた。いつも夜になると幽体離脱をしたように僕は過去の僕を見ていて、「こいつは馬鹿言っているなあ」と思っている。そんなことばかりしてきたから、今になって友ができなくなったんだろうな。僕はこの夜を孤独だとは思わないけれど、それは慣れてはいけないことに慣れてしまったのかもしれない。僕は心のどこかに静かな怪獣を飼っているんだ。───そういえばたった一人だけ僕の身勝手な期待通りだった人間がいたような記憶がある。けれども、今度は僕がその人の輝きに目が眩んでしまって、辛抱ならずに離れてしまった。つくづく僕は馬鹿なんだなあと思う。こんな時に、笑い話に換える相手がいたのだったら......。今夜だけは少し喉を絞めるような思いで眠るかもしれない。



四.


 どれだけ愛していると言っていても、その人のことを一途に愛するということは未だに信じられない。それが理性だというのかね。それが本能を覆す力だというのかね。僕にはとても理解できない。僕は沢山見てきたんだ。健やかなる時も病める時も、愛することを誓うなどと契りを交わしておきながら、数年もすれば見覚えのない人間が腕の中にいる嘘吐きを。結局のところは理性は本能に抗うことが叶わず、内側の燻りを噴火させてしまうんだ。それだったら、いっそ開き直って結婚もせずに誰にでも甘い言葉を囁いて抱いてしまえば潔いものを。僕が赦せないのはその潔さがないことなんだ。寂しかったからだとか、唆されたからだとか、金にまんまと釣られただとか、愚か者どもが言うことはいつだって同じなんだ。きっと、僕らは愛という言葉を軽々しく使い過ぎている。愛という言葉の本質を追求しなければならない。それで恋という言葉との違いを理解したい。僕はそれについてずっと疑問を持っていたんだ。愛と恋は一括りにされがちであるが、僕はそれにどうにも納得がいかなかった。僕は本当の愛を知ってみたい。いや、女を作るつもりはないんだがね。ただ知りたいんだ。そうしたらいい解像度で人間を見たい。僕らはもっと人間をありのままで見るべきなんだ。



五.


 どれだけの酷い言葉を浴びせられれば人間を殴ってよいんだろうか。あるいは、殺してよいのだろうか。どんな理由があっても暴力はいかんと主張する人間共をごまんと見てきたんだけれど、僕は幼いころからその風潮に納得がいかなかったんだ。暴力と暴言の差は僕が思っているよりもあるんだろうか。いいや、けれど死刑制度なんていうものがあるんだ。法治国家において司法の名から死ぬべきと判断される人間がいるんだから、その風潮にはやはり疑問が残る。やはり殴ったり殺してもよいという超えてはならない一線は言葉にもあるはずなんだ。例えば、こういう場面があったとしよう。ある人間が二人いて、一方の人間は両親が離婚し、母親のみに育てられている人間である。それで、「昨日は父さんから誕生日プレゼントを貰ったんだ。いいだろう。君は何を貰ったんだ......ああ、君には父さんがいないんだったねえ。可哀想に。」と嘲るように言われたとしよう。僕はこの時、言われた人間は二発程度は殴ってもよいと思う。言葉は受け取る相手によって印象が全く違うことは当然のことであろう。したがって、言葉は時に厭な思い出を蘇らせるのだ。この例であれば、煽られた人間はきっと自らの中で思い出すだろう。周りとは違って、自分には父親が欠けていることの違和感を、あるいはそのせいで言われた数々の言葉のナイフを。たった一瞬の煽りのように見えるそれは、彼にとっては涙に蒼く塗れた過去をまとめて思い出させる呪いの言葉であるのだ。だから僕は、本当は誰とも喋りたくないんだ。これ以上は傷つきたくもなければ、傷つけたくもない。僕はきっと臆病者なんだ。それでいいんだ。自信が過剰な輩よりはずっと......。

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