錯綜3-3-①:無関心という優しさ
三.
「あ〜あ……」
家に戻った寧々は、リビングのテーブルに腰を下ろし、大きなため息を吐いた。どうしてあんなことになってしまったのだろう。和を怒らせるつもりなんてなかった。ただ、知りたいことがたくさんあって、無意識のうちに根掘り葉掘り聞くような形になってしまった――結果、あの平手打ち。和に打たれた衝撃で、思わず打ち返してしまった自分自身に、何よりも驚いている。
他人にあんな風に手をあげたのは、生まれて初めてかもしれない。あの事件以来、寧々はいつもヘラヘラと笑って、誰とも角を立てずに生きてきた。誰かに怒ったり、強く何かを主張したりした記憶もほとんどない。何でも笑ってやり過ごしてきたというのに。
和は笑わない、表情を崩さない。でもきっと同じ。寧々の被っている仮面は笑顔。和の被っている仮面は無表情、ただそれだけの違いだ。誰にも本当の自分を見せていない。ただ、辛くないふり、悲しくないふりをして、自分自身を誤魔化しながら過ごしてきたにすぎない。
(……それにしても)
寧々は頬にそっと手を当てる。まだ火照るようにジンジンしている。
(あんなに思いっきり打たなくても)
とはいえ、自分も負けずに打ち返したのだから文句は言えない。あの後、しばらく無言のまま睨み合っていたが、階下から和の叔母が「夕飯できたよ」と呼びかけた声で互いに我に返った。空気は重く、ぎこちないまま食卓についたが、その後の会話はほとんどなかった。
まあ、はっきり言ってかな~り、気まずい雰囲気だったのだ。和の叔父と叔母が話を振ってくれたものの、どこかよそよそしく、片頬を赤く染めた二人の様子は明らかに異常だった。
けれど、和の叔父母は何も聞いてこなかった。きっと「女子高生同士の喧嘩に大人が口を出すべきではない」と判断したのだろう。帰り際、寧々は「電車で帰ります」と言ったが、叔父は「夜道に一人で帰すわけにはいかない」と言って、自宅マンションまで車で送ってくれた。
「和ちゃんは、学校ではどうですか?」
「どうって……えっと……」
唐突な質問に戸惑う。
「家では大人しいんですよ。昔は、もっと元気いっぱいの子だったんですけどねえ。やっぱり、遠慮してるんでしょうか」
「学校でも、必要最小限しか話さない感じです。でも、クラスの子と仲が悪いわけじゃなくて、みんなから頼られています。学級委員もしてますし……」
「そうですか。みんなから浮いているってわけでは……?」
「あ……え……」
浮いている、という表現には少し迷う。確かに距離はあるが、孤立しているわけではない。仲間外れにされているわけでもない。距離を置いているのは寧ろ、和の方なのだから。
第一、あの学園で虐めとか、仲間外れとかあり得ない。明星はそう感じさせてくれるほど、教師が生徒をしっかり見ているのを感じる。それも決して支配しているわけでもない。正直、日本にこんな高校があったのか、と驚いている。
「……やっぱり浮いてますか」
叔父は寧々の曖昧な反応に苦笑する。
「悪い意味じゃないです。なんというか……一目置かれている感じです。秋の生徒会選挙では、和が生徒会長に推薦されるって、みんな言っていますし」
「それはよかった。安心しました。……ところで、その頬は大丈夫ですか?」
「あ……」
寧々は思わず視線を逸らした。やはりバレていた。
「喧嘩、ですかね」
「はい……すみません。ちょっと言い合いになってしまって……私も……」
「構いませんよ。ちょっと驚きましたけど、実は私も家内も、少し安心したんです」
「……安心?」
「ええ。あの子、うちに来てから感情をまったく出さないんです。まるで感情を封じているような……ずっと我慢している感じで。何だかいつか壊れてしまうんじゃないかと、ずっと心配でした」
「ああ……」
「だから、喧嘩でも何でも、そうして感情を出せるなら、それはむしろ喜ぶべきことなのかもしれないと、そう思って胸をなでおろしたというか、保護者としては頼りない話です」
「でも……私、思いっきり打っちゃいました。本当にすみません」
「気にしなくていいですよ。若いうちは、そうやってぶつかり合いながらお互いを理解していくもんです。まあ、手を上げるのはほどほどに、ということで」
そう言って笑う和の叔父の表情は、穏やかで、温かかった。この人は本当に和のことを大切に思っている。なんだか少し羨ましい、そう思ってしまう。
「これからも、どうか和のことをよろしくお願いします」
「あ、はい。こちらこそ」
和には、見守ってくれる人がいる。その事実に、もっと感謝すべきだと思った。そう思った時に、父の顔が頭をよぎる。寧々の望みは、何でも聞いてくれる。高校を転校したいと言った時も、理由さえ聞かず、すぐに手続きをしてくれた。そう、何も聞かず、何の疑問も持たずに。優しい人なのだ、ただ無関心と言うだけ――。
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