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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第一章 錯綜(さくそう)

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錯綜3-1-②:抱えてしまった秘密

私の自分の顔が恐怖引きつるのを感じた。その顔には、赤い斑点のようなものが飛び散っていて、まるで赤鬼のように見えた。男は私を見るとニタッと笑った。右手には黒光りする何かを握っていた。その先端から、赤いインクのような液体が滴り落ちている。一歩、また一歩と男が私に近づいてくる。


(逃げなきゃ……!)


そう思ったのに、足がすくんで身動き一つできなかった。男が私の目の前まで来て、膝を折る。恐怖で身体が硬直する。男の手が私の頬を撫でた。ゾッとする感触が走る。


「お前が……寧々か」


 耳元で囁かれたその声に、私は震えた。


「あいつが悪いんだ。俺から逃げたから。せっかく見つけたのに……だから仕方なく……俺は悪くない」

 男の目がリビングの中へ向かう。その視線の先を追って、私は床に伸びている“それ”を見た。――母の手だった。キッチンの陰から母の手だけが出ていた。


「逃げ……て…」


微かに聞こえる母の声。


「お母さん!」

「安心しろ。お前には何もしない。お前は……俺の娘だからな」


 口の橋をあげて男はそう言うと、ゆっくりと玄関の方へ向かっていった。私は全身を震わせながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。けれど、やがて、母の元へ行かねばという思いが、ようやく足を動かした。足が重く、心臓が軋んだ。


(怖い……)


何が起こっているのか、想像するのも怖い。散らかった床、点々と続く赤いシミ。その跡を辿るように奥に進む。リビングの奥のキッチンに近づくほどそのシミが大きくなる。


思い足を引きずってキッチンの向こうに見える母の手の方へと向かった。恐る恐る身を乗り出して覗く。


 赤く染まった床の上に。母が見るも無残な姿で倒れていた――。


母のもう一方の手の先には、妹が横たわっていた。身動き一つしない。何が起こったのか、一目瞭然ではあるが、そのときの私には考えることもできなかった。目の前の光景が現実のものだとは到底思えず、「これはきっと悪い夢だ」と思おうとした。


 私はゆっくりと母に手を伸ばしたが、その拍子に足を滑らせて転んだ。床が濡れていたのだ。床いた手が、真っ赤に染まった。自分の掌を見て、私は叫び声をあげた。そしてそのまま、意識を失った。


 目が覚めた時、私は病院のベッドの中にいた。ベッド脇では、憔悴しきった父が私を覗き込んでいた。


「寧々……!」

「お……父さん」


 やはり、あれは夢だったのだ、そう思った。あんな残酷な出来事が現実に起こるはずがない、と信じたかった。


「お母さんは……?莉子はどこ?」


 私の問いに、父は肩を震わせながら、そっと首を横に振った。その仕草で、全てを悟った。あれは夢ではなかったと。リビングに倒れていた母と妹の姿が、鮮明に脳裏に蘇る。


「キャァァァ――ッ!」


 私は耳を塞ぐようにして叫び、完全にパニックに陥った。医師が駆け込んできて、私は鎮静剤を打たれたのか、再び深い眠りに落ちた。夢の中で、何度も何度も“赤鬼”が現れた。血に塗れて倒れている母と妹の姿が、延々と繰り返された。


 私は高熱を出し、再び目を覚ましたのは三日後だった。その時、父は重い口で私に伝えた「母と妹は、何者かによって殺された」、と。やはりあれは夢ではなかった。現実だったのだ。


 しばらくして、警察がやってきた。何かを見なかったか、誰かを見かけなかったかと聞かれた。私は、あの“赤鬼”の顔をはっきり覚えていた。でも、答えなかった。ただ、首を横に振り続けた。あの男の最後の言葉が、私の頭から消えなかったから。


 ――お前は、俺の娘だ。


あの男は、確かにそう言った。そんなはずはない。私の父は、生まれた時からずっとそばにいてくれた。他の男が父であるはずがない。それでも、あの一言は、決して誰にも言ってはいけない言葉だと、本能的に思った。


 事件の後、父はあの家を処分した。母と妹の思い出があるとはいえ、彼女たちが殺された場所で、これからも暮らすことなど到底できなかったのだろう。


 新しい住まいが見つかるまで、私は母の両親である祖父母の家に預けられた。娘と孫を同時に失った祖父母の嘆きは、いかほどのものだったか……。それでも、彼らは生き残った私をとても大切にしてくれた。ただ、父は事件後、どこか私によそよそしくなったように感じた。


 事件については、現場から立ち去る男を見たという目撃証言もあり、凶器のナイフは近くの店で購入されたことも判明した。犯人の年恰好や似顔絵も公開され、早期の逮捕が期待されたが、その後の手がかりは途絶え、犯人は捕まらなかった。


 私は……心のどこかで、犯人が捕まらないことを願っていたのかもしれない。七歳になったばかりの私だったが、本能的に、もしあの男が捕まって、あの時の言葉をもう一度口にしたら、自分の居場所がなくなるような気がした。

お読みいただきありがとうございます。

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