錯綜2-3-①:やっと訪れた平穏……のはずだったが
三.
岳が死んだ――どれほどそうなることを願っていたか、それが現実となった。望んでいたはずなのに、和の心には微かな安堵と、ぞっとするような恐怖が入り混じっていた。母のときもそうだった。死んでしまえばいいと思っていたら、本当に死んだ。そして今度は、岳。和が望んだから、彼らは死んだのだろうか?
(まさか……そんな、偶然に決まってる)
そんなことあるはずもないのに、そんな風に思えてしまう。ニュースでは「殺害された」と報じていた。あの男のことだ、他にも恨みを買っていた相手がいたのだろう。母に追い出されてから、何をして生きていたのかは知らないが、あの様子では、まともな暮らしではなかったはずだ。
和以上に深く傷つけられた誰かがいても不思議ではない。自業自得だ。そしてそのことに和は、喜んでいる。母の時もそれに似た感情があった。でもあの時は、それを否定し続けた。でも、間違いない。岳が死んでで、これでもう、あの秘密を知る者は誰もいない。完全に。心の底から湧き上がってくる喜び。
この二日間、ろくに眠れなかった。その反動か、あるいは安堵のせいか、翌朝、和は珍しく寝過ごした。遅刻するほどではなかったが、いつもの電車には間に合わず、一本遅い電車に乗った。でも何も気にする事はない、何時の電車に乗っても、どこで降りても、もう二度とあの男に会うことはない。
「和ちゃんでも寝坊するのね。でも、いつも早起きなんだからたまにはいいじゃない。今日は顔色もいいし」
和の顔を見て、叔母が安堵したように笑った。教室に入ると、朝陽がすぐに駆け寄ってきた。
「おはよう、深見さん」
「おはよう」
「ねえ、昨日のニュース、見た?」
当然。朝陽が何のことを言ってるのか和には分かっていた。でもあえて惚けた。二人には岳のことを「知らない男」、と答えた。変に気に留めてるのおかしいはずだ。
「ニュースって……何の?」
「ほら、この前、君に絡んでた男。殺されたんだよ。昨日のニュースで」
「ああ、それね」
和は努めて無関心を装った。通りすがりの見知らぬ男が、どこかで死んだ。ただそれだけの話である。
「……それが何? 私には関係ないわ」
「だってついこの間、君と一緒にいたのに」
その言葉が、心に引っかかった。あんな男と“一緒にいた”なんて、言われるだけでも嫌だ。
「一緒にいたわけじゃない。絡まれてただけでしょ。変なこと言わないで」
思わず、語調が強くなった。
「え……ご、ごめん。でも、」
「だから、知らない人だって言ったでしょ。そんな人、どこで死のうが、私には関係ないし」
和は朝陽の言葉を遮るように吐き捨て、机に向かった。椅子に腰を下ろし、大きく息を吐く。
(岳が死んだ。本当に、死んだんだ)
心が、やっと軽くなった気がした。もう恐れることはない。誰にも、何も知られることはない。
悪夢に魘されることも、徐々に減っていった。和の心にやっと静けさが戻った。それなのにまだ時折、誰かの視線を感じることがあった。その視線に悪意はない。だが、針のように鋭く、どこか刺さるようだった。もう岳はいないのに。きっとあれ以降、ずっと警戒し続けてきた後遺症のようなものなのだろう。
期末試験の最終日。下校中の電車内で、和は思わぬ場面に出くわした。
(痴漢?)
被害者は和ではない。隣に立っていた女子高生の様子が変である。顔色が悪く、俯いてその方は少し震えている。気分でもエルいのだろうかと思って視線を向けていると、そのすぐ背後に立つ男が、手にした鞄の陰で不自然な動きをしているのが見えた。ラッシュの時間帯でもないのに、男はその女子高生の真後ろにぴたりと密着している。
(なんか、おかしい……)
和は周囲の乗客に目を走らせたが、誰も気づいていないようだった。女子高生は声も出せず、身をよじって必死に逃れようとしている。しかし、男は意に介さず、しつこく張りついたままだ。男の片方の手は鞄の陰になって何をしているのかは、はっきり見えない。
助けたい。そう思うのに、足が動かなかった。まるで棒のように固まっていた。視線の先で、男が和に気づいた。そしてニヤッと笑った。口元だけを持ち上げるような、あの笑い。ゾクリと背筋が凍る。それは……岳と同じ笑い方だった。気味が悪い。まるで自分が痴漢されているかのような、背中に氷を這わせるような感覚。
次の駅で女子高生は、逃げるようにドアから降りていった。ターゲットがいなくなったその瞬間、男はゆっくりと、和の方へと向かってきた。心臓が嫌な音を立てる。身がすくむ。和は震えるほどの恐怖を感じながら、男に身構えた。
(逃げなきゃ……)
あの悪夢が再び甦る。岳がいなくなったというのに、また……。男の目が、いやらしく和を舐める。
「お姉さん――」
その時、背後から声がした。どこかで聞いたことのある声だった。和は思わず振り返る。
「やっぱり、この前のお姉さんだよね?」
「……え?」
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