錯綜2-2-⑭:悪夢の再来、突き上げる恐怖
ニヤリと笑って和を見下ろす岳には、かつてサッカーコーチだった頃の面影など微塵もない。目の前に立っていると感じるだけで気持ち悪い、吐き気すら覚えた。
「何だよ、その顔。そういえば、おまえの母親、死んだんだってな。アパートに行ったら、もぬけの殻でさ。管理人が言ってたぞ、部屋で首を吊ってたって。まったく迷惑な話だってさ。おかげでアパートの価値が下がったって、ブツブツこぼしてたよ」
吐息が触れそうな距離で岳の声が迫る。逃げなければ。そう思っても、体は凍りついたように動かない。
「でも可哀想だったな。心配してたんだ、おまえのこと。母親がいなくなったなら、俺が面倒見てやらなくちゃってな」
喉がカラカラに乾いて、反論したいのに声が出ない。あの時のと同じだ。ただ、逃げたい。早く、ここから。
「懐かしいだろう? 俺はおまえに会いたかったんだ。なにせ、俺はおまえの“初めて”の男だからな。どうだ? あれから他の男も味わったか?」
その笑みが、蛇のように和の全身を這う。あ時の記憶が脳裏にまた甦る。どれだけ忘れようとしても、消えない悪夢。ムカムカする、胃液が上がってくるようだ。
「けどおまえ、いい暮らししてるみたいだな? 明星に通ってるんだろ?お嬢様学校じゃないか。俺なんて今じゃこのザマだよ」
岳は身なりを見せつけるように両腕を広げる。
「日雇いのその日暮らしさ。ぜんぶおまえら親子のせいだ。責任、取ってもらわねえとな。分かるよな?」
その手が和の肩に伸びた瞬間、思わず一歩後退った。
「ち、近寄らないで!」
そして、ようやく声が出た。
「なんだ、その態度は。いいか? おまえは俺の女なんだよ。分かってんだろ? だから、俺の言うことを聞け。さもねえと、学校中にバラすぞ。俺と“いい関係”だったってな。おまえの体の隅々まで、俺は知ってんだ。なあ、もう小学生じゃねえんだから、意味は分かるよな?」
屈辱に全身が震え、怒りが込み上げる。足がガクガクと震える。
「ちょっと、おじさん」
和が固まっていると、岳の背後から声がした。その声に岳が振り返ると、肩越しに声の主の顔が見えた。朝陽だ。その後ろに浩太もいる。
(まさか……今の会話、聞かれてた?)
不安が波のように押し寄せる。
「何だ?」
岳が鋭い声を飛ばす。
「その子に何か用?」
威圧的な態度を取る岳に怯むことなく、朝陽はこちらに近づいてくる。
「お前らに関係ないだろ。なんだ、こいつらお前の男か?」
朝陽の姿を見てから岳は、和にまたいやらしい笑みを向ける。
「色気づきやがって。やっぱり、あの母親の血を引いてるからな」
和は唇を強く噛む。このまま岳が浩太たちに何かを喋ったらと、そう思うと恐怖ばかりが募る。
「彼女は僕たちのクラスメイトです。……おじさんこそ、誰?」
「俺か? 俺はこいつの、」
そこまで言いかけたところで、岳の目が和を舐め回すように見た。このまま、このままだと、本当に何もかも喋ってしまいそうだ。
「やめて!」
思わず叫んだ。
「帰って!二度と私に近寄らないで!」
「誰にモノ言ってるんだ?あァ?そんな口利いていいのか?もし、“あのこと”を」
「やめて、って言ってるでしょ!」
最後まで言わせず、和は岳を突き飛ばし、改札の中へ駆け込んだ。とにかく、浩太たちが聞こえない場所まで行かなくては。岳が追って来ても彼らに聞かれるよりはましだ。振り返ると、岳の前に朝陽が立ちはだかっていた。
助かった、という思いとこれ以上その男に関わらないでほしい、という思いが湧く。それと同時に胃の奥のモノが押し上げられてくるような気持ち悪さに、和は構内を走り抜け、トイレへ飛び込む。喉までせり上がっていた胃液を吐いた。何度も、何度も。ようやく吐き尽くすと、少しだけ落ち着いた。
(どうしよう……)
岳が朝陽たちに何か喋ってしまったのではないか。そう思うと震えが止まらなくなる。
(もう、終わりだ)
顔を手で覆ってその場で蹲る。恐怖が込み上げて嗚咽が漏れる。学校にも行けない、すべてが壊れた気がした。
「お姉さん、大丈夫?」
顔を上げると、いつ間にか小学生くらいの女の子が目の前に立っていて、こちらを覗き込んでいた。
「気持ち悪いの?」
「だ、大丈夫……」
そう答えた途端、涙が溢れた。女の子はそっとハンカチを差し出す。レースの刺繍が入った綺麗なハンカチ。身なりも良い、きっと育ちのいい子なのだろう。
「使って」
「大丈夫、自分の持ってるから……」
「お姉さん、何か悲しいことがあったの?」
「ううん……そうじゃないの。ただ……」
「じゃあ、誰かに虐められたの?」
「……そうね、そうかもしれない」
「ひどいこと、されたの?」
「……ええ。とても、とてもひどいこと」
「そんな奴、きっと罰が当たるよ」
「罰……?」
和を見ながら女の子はにこりと微笑んだ。
「うん、悪いことをした人には、必ず罰が当たるんだよ」
なんだか不思議な子だ。初めて会ったのに、どこかで見たことがあるような、不思議な感覚。
「……そうだといいんだけど」
「本当だよ。だから、お姉さんも元気出して。お願いするときっとそうなるから」
「お願い?」
「うん。酷いことした人に罰が当たって、もうお姉さんが傷つきませんようにって。私がお願いしてあげる」
和はぼんやりと、その不思議な女の子の笑顔を見つめる。どこか現実離れした雰囲気を感じつつも、その言葉に何故かホッとしている自分がいる。
「……ありがとう」
「うん」
女の子が頷いたとき、外から誰かの名前を呼ぶ声が聞こえると、女の子は声のする方に顔を向ける。はっきりとは聞き取れなかったが、どうやら目の前の子を呼んでいるようだ。
「あ、もう行かなきゃ。お母さんが呼んでる」
そう言って、女の子は手を振ってトイレを後にした。
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