錯覚1-2-④:普通でいる事の優しさ
「何だか、依智伽ちゃん、雰囲気変わったね」
依智伽が部屋から出ていくと、舞奈はバスタオルで髪を拭きながら浩太の横に座り、そう言った。
「うん、そうだな」
「でも、お母さんが死んじゃったんだし、しょうがないか」
そう言う舞奈は、小学二年生のときに母を亡くしている。今の依智伽よりも幼かった。
「おまえ、梗子さんのこと、好きじゃなかっただろう?」
浩太がそう尋ねると、舞奈は俯いて頷いた。
「だって、あの人、お父さんに色目使ってたもん」
「色目……」
思わず復唱してしまう。舞奈がそんな言葉を使うなんて。どこで覚えたのかと驚くが、妹ももう中学生だ。良くも悪くも、いろんな言葉や知識を身につけてしまう。そしてこの場合、その言葉の使い方はあながち間違っていない。けれど、舞奈の口からそれが出ると、どこか違和感を覚えてしまう。妹というのは、いつまで経っても子ども扱いしてしまうものなのかもしれない。
「父さんが、他に好きな人を作るのが嫌だったのか?」
「それも、なくはなかったけど……まだ子どもだったし。でも、たぶん、それだけじゃない。なんか、好きになれなかった。梗子さんも私たちのこと、好きじゃなかったと思う。私たちだけじゃなく、依智伽ちゃんのことも。自分の子どもなのに。なんか冷たい感じがした。あの女、お父さんしか見てないって感じだったもん」
「へえ~」
子どもだと思っていたのに、意外とちゃんと見ていたんだなと、浩太は感心して思わず声を漏らした。
「へえ~って何よ」
「いや、案外ちゃんと見ていたんだなって。子どもだったのに」
「子どもって、お兄ちゃんだってお母さんが死んだときは、今の私より子どもだったじゃない」
「そりゃまあ、そうだけど」
とはいえ、浩太はそこまで鋭い観察眼を持っていたわけではない。ただ、何となく「気味が悪い」と感じていただけだ。やはり、男と女では子どもの頃から物の見方が違うのかもしれない。そして目の前の舞奈も、その“女”の一人なのだ。
(女って、やっぱ怖え〜)
浩太は心の中で密かにそう呟いた。
「あれ、そういえばおじいちゃんは?」
舞奈がリビングを見回して尋ねた。
「もう寝ちゃったよ」
「もう寝たの? まだ九時前なのに」
「最近は、早く眠くなるんだって。それに今日は依智伽ちゃんが来るっていうんで、早くから張り切って掃除したり、食事の準備をしたりしてたからな。だいたい、おまえ、女なんだから少しは手伝えよ」
「私、家事は苦手なの。それに、おじいちゃんがやりたがってるんだし。ねえ、おじいちゃんって、おばあちゃんがいた頃から自分で家事してたの?」
「さあ、どうだったかな。たぶん、あんまりしてなかったと思うけど。おばあちゃん、家のことはなんでも自分でする人だったし……でもおじいちゃんとおばあちゃん、二人でアパートの大家さんしてたし、簡単な大工仕事みたいなのは得意だって聞いたことあるけど」
「そう……やっぱり気を使ってるのかな」
舞奈が低い声で、ぽつりと言った。祖父は、浩太たちの母親の遺体を山中に運んで埋めた。たとえ祖母を庇うためだったとしても、それは許される行為ではない。
「おじいちゃん、私たちと一緒にいるの、辛くないのかな」
それは浩太も思うことだった。実は一緒に暮らしたくないのではないかと。実の息子や孫とはいえ、遺棄した者の家族でもあるのだ。浩太たちと日々顔を合わせることが、自身の罪の意識をより深めてしまうのではないかと。でも、もしかすると祖父は、敢えてそうしているのかもしれない。
それが祖父にとっての贖罪ということなのだろうか。祖父が帰って来てから、浩太たちは母の話をした事がない。そう決めたわけではないか、「暗黙の了解」とでもいうのだろうか。判決が言い渡されたとき、祖父は「この罪を生涯背負って生きていく」と言っていた。
「でもさ、おじいちゃんがどこか知らないところで一人で暮らしてたら、こっちが心配でしょうがないよ。だから、おじいちゃんにはずっとここにいてもらわなくちゃ。おじいちゃんが少しでも楽しく過ごせるように、俺たちが普通にしてるのが一番いいんだよ」
「うん、そうだね。お兄ちゃん、たまにはいいこと言うね」
「たまにはって何だよ。俺はいつだっていいことしか言わない。おまえこそ、たまにはおじいちゃん手伝って、家事の一つくらいしろ」
「はあ? さっき“普通にしてるのが一番いい”って言ったじゃない。私が家事なんかしたら、不自然極まりないでしょ」
屁理屈だ。そう思いながらも、どこか理にかなっているような気もしてしまう。最近は舞奈と話すと、最後にはいつも言い負かされている気がする、と浩太は思った。
翌朝、目を覚まし階下に降りると、依智伽はすでに起きており、祖父と一緒に朝食の支度をしていた。舞奈は、ただテーブルに座っている。父はいつものようにリビングのソファーに腰を掛けて新聞を読んでいた。
「浩太お兄ちゃん、おはようございます」
やけに明るい一花の声が耳に飛び込んでくる。
「お、おはよう」
「今日は依智伽ちゃんが手伝ってくれたんだ。わしはいいって言ったんだけどね」
祖父は少し楽しげな顔で、こちらを見た。
「あ、そうなんだ」
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