錯綜2-2-②:もう“佐藤和”ではない、鏡に映る、新しい自分
学校へ行く前、和は鏡の前に立ち、居住まいを正す。制服に袖を通し、伸びた髪をおさげに結い、最後に眼鏡をかける。その鏡に映るのは、あの少年のようだった少女ではない。
岳が言ったあの言葉──「俺はおまえの母親みたいに“女女”してるのより、お前みたいな少年みたいなほうが好きなんだ」──その少女は、もうここにはいない。鏡の中の自分は、もう佐藤和ではない。毎朝、和はそう言い聞かせて家を出る。
「大丈夫……あの子はもういない」
鏡に向かって毎朝そう呟く。まるで何かの呪文のように。
母のような女性になりたいとは思わない。でも、岳の望んだ姿でいるのもごめんだ。和は、そのどちらからも遠い存在になりたかった。
そうして何事もなく一年が過ぎたとき、自分の身に起こったことが、全て夢だったのではないかと錯覚することがある。それでも、心の底から記憶が消えることはない。忘れたつもりでも、あの時の感覚が、襲われた恐怖が夢に出て来る。何度も何度も。
その夢の中で、和は繰り返し岳に襲われる。そして目覚めるたびに、悲鳴をあげている。叔母たちが慌てて駆け付けることも珍しくなかった。
「お母さんの夢を見たのね」
叔母はいつもそう言った。和は黙って頷く。母の夢を見ることもある。でも、その夢の中で母はいつも何も言わず、ただ和をじっと見つめている。その目は、責めているようにも見えた。それでも、母の夢で魘されて目覚めることはない。和が恐怖に息を荒げて目を覚ますのは、決まって岳に襲われた夢の時だけだ。
そして目覚めた直後、あのときの身体の痛みが、決まって蘇る。忘れようとしても消せない痛み。汚れてしまったという実感――。
三年生に進級した春、叔母夫婦が進学先として明星学園高校を勧めてきた。叔母の同級生の娘が通っていたというその学校は、評判もよく、特に志望校がなかった和はその提案に従った。偏差値はやや高めだったが、担任は「和の学力なら問題ないだろう」と言った。校風を重んじる校則が厳しめの学校で、生徒だけでなく保護者にも節度ある姿勢が求められていた。
かつてある保護者が面談で母子家庭である保護者の悪口を口にしたところ、悪口を言った方の保護者の子は成績優秀だったにもかかわらず、受験を辞退するよう学校側から申し入れられた、という話がある。抗議も虚しく、学校の方針は一切揺るがなかったという。
「品位を落とすのは生徒とは限りません」
と、学校側は答えたそうだ。その逸話を聞いて、和は少しその学校に興味を持った。
受験の日、和は会場で思いがけない顔を見た。見た瞬間に、誰だか分かった。──上條浩太。彼は、和の隣の席だった。何度か浩太の方を見たが、彼はまるで和に気づく気配もなかった。忘れているのだろうか。浩太は小学校五年でサッカーを辞めた。あれから四年──同じチームだったわけでもないし、覚えていないのが普通かもしれない。それにあの頃の和と今の自分は違う。
けれど和の胸には、懐かしさが湧いた。あの頃は本当に楽しかった。性別なんて意識せず、ただ夢中でボールを追いかけていた。無垢だった頃の自分。汚れなど知らなかった、あの輝き。──でも、もう二度と戻らない。
明星学園の合格通知が届いた時、浩太は受かったのだろうか、と真っ先に思った。そして入学式の日に浩太を見かけ、同じクラスだという事実に、どうしてか少し安堵した。
クラスには木島朝陽という男子もいた。浩太の中学時代の同級生で、二人はとても仲が良さそうだった。その姿を見て、和は少し羨ましいと思った。和には、そんな友人はいない。母が死んで、別の中学に転校したが、誰とも深く関わらなかった。表面的には普通に接していたが、心の奥では常に怯えていた。
仲良くなれば、あの出来事が知られてしまうかもしれない──言わなければバレるはずがない、そう思うっていても、誰にも心を開けなかった。和は、もう何年も心から笑っていない。どうやって笑えばいいのかも分からない。笑い方を忘れてしまったような気がする。
浩太がサッカーを辞めた時の事件のことは知っている。連日のようにテレビで騒がれていた。でもその報道を見るのを何となく避けていた。周りのみんなと同じように面白おかしく噂をするのが嫌だったから。でも高校に入ってから、和は改めて浩太の身に起こった事件について調べてみた。
ネット検索するとすぐに出てきた。朧げには記憶している。浩太の母親が殺されたことだけははっきり覚えていたが、詳細までは知らなかった。サッカーチーム内の大人たちも子供の前では多くを語ろうとしなかった。
記事を読み進めるうちに、和は戦慄した。母親を殺したのは実の祖母──。現実とは思えないような展開に、当事者である浩太たちがどんな思いでそれを受け止めたのか、想像もできなかった。和に起こったこととは異なるが、それでも普通に笑っている浩太の姿が、不思議で仕方ない。
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