錯綜2-1-④:住み着いた男の視線
「岳さんね、家族より私たちを選んでくれたのよ。すごいでしょう?」
“選んでくれた”――その言葉に、母範囲を言ってるのだと思った。捨てられたんじゃないのか? 浮気がバレて、家族に見放されただけなんじゃないのか?
チームを辞め差された後の、コーチの噂は和の耳にも入っていた。浮気がこれが初めてではなく、堪忍袋の緒が切れた妻に家を追い出された、そんな風に聞いていた。どうでもいいと思っていたから特に気に留めてもいなかった。
まさか、あれからまだ母と会っていたとは――それに、母は、かつて父のことをどれほど憎しみ、罵っていたか。それなのに、自分はその“裏切った側の女”と、全く同じことをしているのだ。その事に何も思わないのか。まだ十二歳の和でも、それくらい考えるというのに。
「もう、離婚して今は独身なの。だから、今なら誰に何を言われる筋合いもないわ。これからは堂々と一緒にいられるのよ。和も嬉しいでしょう? 和にもお父さんができるのよ」
母は興奮気味にそう言った。和もきっと喜ぶはず、と決めつけている。
「お、お父さんって……お母さん、コーチと結婚するの?」
「まあ、すぐにというわけじゃないけれど。周囲の目もあるしね」
「私、私は嫌……そんなの、絶対に嫌!」
和がはっきりと声に出すと、二人の表情が曇った。どうやら、和が反対するという展開は想定していなかったようだ。
「何を言ってるの、和。あなた、この人のこと慕ってたでしょう?その人が、お父さんになってくれるのよ。嬉しいでしょう?」
そんな覚えは一度もない。ただ、母が都合よく記憶を書き換えているとしか思えなない。
「嫌ったら、嫌!」
「和!」
次の瞬間、母の手が頬を打った。
「どうしてそんなこと言うの!和はお母さんに幸せになってほしくないの?お母さんの幸せを邪魔するつもり?そんなの、お母さんに死ねって言ってるのと同じよ!和は、お母さんが死んでもいいの?」
——まただ、と思う。けれど、こう言われると和は何も言い返せなくなる。
「まあまあ、和君だってきっと戸惑ってるんだよ。いきなり“お父さん”って言われたらねえ」
そう言って岳は和に目を向けた。その目つきが、いやにねっとりとしていて、和は蛇に睨まれたような悪寒を感じる。あの視線は、以前よりずっと露骨で、悪意をはらんでいるように思える。母はなぜ、それに気づかないのか。それとも、和の心が濁っているから、そう見えてしまうのか。母が入ったように自分は〝いやらしい‟のだろうか、と。
その日を境に、コーチ=山下岳はアパートに住みついた。職にも就かず、毎日ブラブラと過ごしていた。チームのコーチを辞めたあと、次の仕事は見つかっていないらしい。保護者との不倫が原因でチームを追われたことは業界内でも噂になっていて、他のチームに雇ってもらえる状況ではなかった。
全くの異業種に転職するしかないはずなのに、プライドの高い岳は「どんな仕事でもいい」とは思えないらしく、真剣に仕事を探している様子もなかった。昼間から酒を飲み、テレビを観てだらけるばかりだ。母の前では「すぐに働いて、二人のために頑張る」と殊勝なことを言っていたが、その言葉に行動が伴っているとは思えない。
それでも、母は彼を甘やかしていた。「色々あったから、しばらくはのんびりしていいのよ」と。年下で、それなりに見た目も悪くない男が家庭を捨ててまで自分のもとに来てくれた——その事実だけで、舞い上がっていたのだ。
母が仕事に出かけている間、和は彼とアパートで二人きりになる。狭い2DKの部屋では、岳の目から逃れることなどほとんど不可能だった。
「だいたい俺がこんなことになったのも、お前の母親のせいなんだぞ。あの女が色目を使って俺を誘惑したせいで、仕事も家庭も全部失った。……だから、お前らには俺に責任を取る義務があるんだ。分かってるんだろうな」
ことあるごとに、岳はそう言って和を睨みつけた。
それでも、母は毎日、どこか幸せそうだった。岳は母の前と和の前で、まるで別人のように態度を変える。母の前では、いつも神妙な面持ちで「済まない」と頭を下げていた。母はその姿にすっかり騙されていた。
和は、もう諦めていた。自分が我慢して、母が笑って過ごせるのならそれでいい、と。あの呪文のような言葉——「私が死んでもいいの?」、と言う母の言葉を聞かないでいいだけマシ、とそう言い聞かせていた。
でもどうして、あんな男を母は信じ切っているのか。仕事もせず、酒ばかり飲み、母から金をせびっているだけの男を。小学生の自分から見ても、岳は“ロクでもない人間”としか思えなかった。何より、彼の視線が日に日に厭らしく、どこかねばつくようになっていくのが気持ちが悪い。気にしすぎた、そう思うとしても貴史の視線がいつも和の体に張り付いているようで寒気すら覚える。
「おまえは、少年のようだな」
岳はよくそう言って、にやりと笑った。
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