錯綜2-1-③:クリスマスに訪れたサンタ
六年生の夏休み。和は母と買い物に出かけた先で、偶然チームのコーチと鉢合わせた。精悍な顔立ちと爽やかな物腰で、彼はチームの母親たちの間では人気者だった。和の母も、どうやらその例外ではなかったらしい。コーチと顔を合わせたとき、母はどこか浮き立った様子で、はしゃいでいるようにすら見えた。
「せっかくだから、近くのファミレスでお茶でもどうですか?」
そうコーチが誘うと、母は目を輝かせて頷いた。しかし、和はできることなら断りたかった。最初にチームへ入った頃には何も感じなかったが、四年生のあたりから、コーチの自分を見る目に、どこか得体の知れない違和感を覚えるようになっていた。
気のせいかもしれない。けれど、他のチームメイトと比べて、自分だけ身体に触れられる頻度がやけに多い、そう思えてならなかった。一度だけ、勇気を出して母にそのことを伝えたことがある。だが返ってきたのは、思いも寄らぬ叱責だった。
「そんなことあるはずがないでしょう? 和が女の子だから、優しく教えてくれているのよ。それをそんなふうに言うなんて、いやらしいわ」
“いやらしい”――その言葉が、焼きごてのように胸に残った。母にそんな風に言われたことがとてもショックだった。自分が何か汚れた存在になったような気がして、それ以降、和は二度とそのことを口にすることができなくなった。口にすれば、自分が“いやらしい”と思われてしまう、そんな恐怖に囚われて。
不運にも、その日ファミレスで三人が一緒にいる姿を、同じチームの母親の一人に見られていたらしい。彼女は単に和の母とコーチを見かけたと言っただけだったのかも知れない、だが、世間というのは時に悪意のある脚色を加えて話を広げる。夏休みが終わる頃には、「和の母とコーチが密会していた」という話になっていた。
コーチに思いを寄せていた母親たちも何人かいた。やっかみも手伝って、話はあっという間に尾ひれをつけられ、悪意ある噂へと変貌していった。
チームメイトにまで「お前の母親って……」と言われた。勿論、和は否定した。しかし否定すればするほど、返って周囲の疑いは強まった。「保護者の中に不謹慎な行為をしている人がいる」と、陰口が囁かれるようになった。その矛先は明らかに和の母に向けられていた。
元々浮いていた母は、完全に孤立した。母の差し入れには誰も手にも取られず、和に声をかける保護者も次第に減っていったが、子どもには関係のないことだと、和に優しくしてくれる人もいた。
しかし、ある日、決定的な出来事が起きた。和の母が、コーチとホテルから出てくるところを目撃されてしまったのだ。
それまで半信半疑だった者たちも、その瞬間から一斉に手のひらを返した。母だけでなく、和までもが、まるで汚い物を見るかのような眼差しを向けられた。
実際のところ、夏休みの時点で母とコーチの間には何もなかった。根も葉もない中傷に心を痛め、打開策の相談を重ねるうちに、いつしかそうなってしまったのかもしれない。あるいは、母が誰かにすがりたかっただけなのか。元々、コーチに対して好意を抱いていた母がこれを機にコーチを親密になった。母の方から仕掛けたのかもしれない、和は後に、そんなふうに思った。
とは言っても、男と女である。母は今は独身、恋人ができたからと言って、とやかく言われる事はない。相手も独身であったのならば、である。しかしながら、コーチは既婚者だった。それが決定的な問題となった。チーム内で問題視され、コーチはチームから追われ、母への中傷は日増しに激しさを増し、とても顔を出せる状況ではなくなっていた。和もチームをやめざるを得なかった。誰もが冷たい目を向ける中では、もう仲間と一緒にプレーができる空気ではなかった。
だが、そんな世間からの逃避が、かえって母をコーチの元へと走らせたのだろう。
サッカーは好きだった。だが、やめてしまったことに、どこか安堵する気持ちもあった。同じ小学校にチームに所属している子がいなかったわけではないが、クラスにはチームメイトはいなかったので、何か言われる事も殆どなかった。保護者の中には少し、眉を細めている者もいたようではあるが、噂が広まるということもなかった。何より、和がサッカーを辞めて母がもうあの男と関わらないのであればそれが何よりだと思っていた。
だが――。
それから数ヶ月後、和の世界は音を立てて崩れた。クリスマスの夜。母は小さなケーキの箱をぶら下げて、上機嫌で帰ってきた。
「ねえ、吃驚するニュースがあるのよ」
「何?」
「うちにサンタがやって来たの!」
頬を紅潮させ、まるで子どものような表情で言う母を見て、和の胸に冷たい予感が走った。こんな顔、以前にも見たことがある。
「ちょっと待っててね」
そう言うと母は部屋の外にいた、誰かを連れて戻ってきた――コーチだった。
「やあ、こんにちは。久しぶりだね。元気だった?」
悪びれる様子もなく、コーチは和に笑いかけた。和を舐めるように見るその目にゾッとした。
「サッカー、やめたんだってね。和君、いいセンス持ってたのに、もったいないな」
和は言葉を失い、凍りついたようにその場に立ち尽くした。それとは正反対に 母は満面の笑みで和に向き直った。
「どう? 吃驚した?」
「ど、どうして……コーチが、ここに……?」
「今日から一緒に暮らすのよ」
「は……?」
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