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深層の滓(しんそうのおり)  作者: 麗 未生(うるう みお)
第一章 錯綜(さくそう)
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錯綜2-1-①:崩れていく家族

   第二部

     一.


和の母親が死んだのは、彼女が中学に入って間もない頃だった。


 母はいつも、まるで呪文のように「お母さんが死んでもいいの?」と口にしていた。「死」という言葉をあまりに軽々しく口にする母が、和は心底嫌だった。幼い頃は本気で「お母さん、死んじゃ嫌だよ」と訴えていた和だったが、あまりに繰り返されると、次第に肯定も否定もしなくなっていった。


 そんな和の反応が物足りなくなったのか、やがて母の言葉は変わっていった。「お母さんが死ねばいいのね」と。和が物心つく頃からそんなことを言っていたわけではない。


 母がそうした言葉を口にするようになったきっかけは、父だった。


 和が小学校一年生の時、両親は離婚した。尤も、その二年前から家庭には既に不穏な空気が流れていた。和はまだ幼稚園児だったが、夫婦間に漂う微妙な温度差を、幼いなりに感じ取っていた。父と母の仲がギクシャクするようになった頃から母は、「死」という言葉を口にするようになった。とはいえ、離婚する前は、その言葉は父に向けられていた。 


「死んでやる」と父に言い放つ母の姿を、和は今も鮮明に覚えている。両親の不仲の原因は父の浮気である.。そして皮肉な事にその父の浮気の原因は和であると言えなくもない。


 和が幼稚園の時、父親は転んで足を骨折し入院した。それまで両親は仲の良い普通の夫婦であった。あの入院さえなければ、家族は今も普通に暮らしていたのではないかと和は今でも思う事がある。


 あの日、父と一緒に買い物に出掛けた和は、デパートでもらった風船を持っていた。でも、うっかり手を放してしまった。それを追いかけて道路に飛び出した和を、父が咄嗟に抱きかかえて引き戻した拍子に転倒し、足を骨折した。


 幸い、バイクとは接触しなかったものの、父は足首の関節を折り、二ヶ月近く入院を余儀なくされた。そして入院先の病院で出会った看護師と、父は関係を持ってしまったのだった。


 その看護師は父より年上で、人当たりも良く、病院では評判の女性だった。母は父親と彼女がそんな関係になるとは疑いもしなかった。その看護士が父に特別な感情を持っているとは思えなかったからだ。いつからそうなったのかは分からない。


 母は結婚前から続けていた仕事があり、まだ幼い和を抱えていたから、毎日病院に顔を出すことは難しかった。それが、父には寂しかったのかもしれない。


 父と看護師がそうなったのは、入院中だったのか、退院後のリハビリの期間中だったのかは定かではない。父はその看護師にのめり込んでいったようだ。母が父の様子を訝しみ始めたのは、退院から半年ほど経った頃だった。


 以前よりも残業や休日出勤が増えたのに、給料に変化がないことを母は怪しんだ。だが父は「今は会社も厳しい時代だ」と、苦しい言い訳を繰り返した。最初は母も父のその言葉を信じていたようだったが、ある日、母は偶然、父がその看護師と親しげに歩く姿を目撃してしまう。


 その日は父は休日出勤だと言って出かけ、和は母と一緒に外出していた。母はその場で二人の前に立ちはだかり、詰め寄った。

父は狼狽し、しどろもどろだったが──看護師は違った。冷ややかに笑い、母を見下すように言った。


「そんなに大切なら、首輪でもつけておけば?まあ、そんな大層な男でもないけどねえ」


そして面倒臭そうな両親を見る。


「返してあげるわよ、こんな冴えない男。別に執着なんかしてないし。私、誰でも良かったのよ」

彼女はそう言い残し、踵を返して去っていった。彼女にとっては、父はただの退屈しのぎか、遊びだったのかもしれない。しかし父は違ったようだ。茫然と彼女の背を見送る父の顔は、どうしようもなく情けなかった。


 あまりにもあっさりと女に捨てられた父を目の当たりにして、母親は益々、怒りの持って行きようがなかったのかもしれない。その後、父に怒りと悲しみをぶつけ続けた。まあ、当然だ。父親は母を、家族を裏切ったのであるから。


 怒鳴り、泣き叫び、「死んでやる」「私が死ねば、あの人のもとに行けるんでしょう!」と、毎日のように感情を爆発させ、喚き散らした。そんな日々が何ヶ月が続き、父は和が小学校に上がる前に、家を出ていき、両親は別居することになった。


 その後、父は何度も離婚を申し出たが、母は頑なに拒んだ。

離婚すれば、父があの女のもとに行く。そう思うと、承服などできなかったのかもしれない。だが、その母の執着も、ある事件をきっかけにあっさり崩れる。母の元に、警察から連絡が入った。──父が逮捕されたのだ、と。


 あの看護師は病院を辞め、住まいも変え、父の前から完全に姿を消していた。父は離婚が成立すれば、彼女と一緒になれると信じていたのだ。しかし、彼女はすでに逃げていた。父は家庭まで捨てたのに、という思いがあったのだろう。諦めることも納得することもできなかったのか。彼女の居場所を突き止め、酔いに任せて押しかけ、傷害事件を起こしてしまった。


 父は普段は大人しく、優しい人間だった。だが酒が入ると気が大きくなってしまう。結婚前にそれで喧嘩沙汰になった事があった。なの、「二度と酒は飲まない」という約束のもとで結婚したのだった。実際、離婚するまで和は父が酒を飲んだのは見た事がない。


 警察署で、拘束された父の姿を見た母は──呆れると同時に、何かが完全に切れたようであった。「もういい」と、どこか他人事のように呟き、身元保証人も断って、そのまま黙って引き返した。その顔は、まるで憑き物が落ちたかのように、静かだった。そうしてそれから間もなく、両親の離婚が成立した。

お読みいただきありがとうございます。

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