混沌1-2-③:血の記憶ー再び日常を脅かす夜
父親だと思っていないと口にした。実際、そう思って生きてきた。深見という姓を名乗り、過去を切り離してきた。それでも身体のどこかに残っている血の記憶までは消せないのかもしれない。否定すればするほど、胸の奥で何かが軋む。
そのままベッドに身を横たえ、天井を見上げる。白い天井が滲んで見えたのは、照明のせいなのか、それとも自分の視界が揺れているのか分からない。
関係ないと言ったはずなのに、その言葉が自分自身に向けた呪文のように思えてくる。何度も繰り返さなければ、本当にそう信じることが出来ない気がした。
自分の父親が人殺しになった。その事実は、叔母の前では突き放すように口にしたものの、胸の奥では確かな重みを持って沈んでいる。ずしりとした感覚がある一方で、どこか現実味がないのも否定できなかった。人殺しの娘になったのだという言葉だけが、独り歩きするように頭の中を巡る。
もしこの件で周囲が騒ぎ立てるようなことになれば、自分も当事者として肩身の狭い思いをするのだろうか。だが今はまだ、遠い場所で起きている出来事のように感じられてならない。
和は父の顔を思い出そうとした。記憶の底を探るように目を閉じてみる。それでも何も浮かんでこない。父と共に過ごした時間の断片は曖昧に残っているのに、その姿だけが霞の中に沈んでいる。輪郭はあるはずなのに、表情が思い出せない。それほどまでに、父という存在は和の中で遠ざかっていた。
母は父を裏切り者だと繰り返し語っていた。その言葉は幼い和の胸に深く刻まれ、父という存在を少しずつ薄めていったと言えなくもない。離婚後、岳が現れるまでの間、母は和にとって唯一無二の存在だった。幼い子供にとって、母の言葉は絶対に近い重みを持つ。父は悪い人なのだと、いつの間にか疑いもなく思うようになっていた。
今になれば、当時の出来事をある程度は冷静に受け止めることができる。父は家庭を捨てる覚悟まではなかったのかもしれない。ほんの気の迷いだった可能性もある。とはいえ、裏切った事実に変わりはない。だが、実際は気の弱い人だった。浮気が発覚した後、母の激しい非難に耐えきれず家を出たのだろうとも想像できる。
母は普段はどこにでもいる穏やかな女性だった。ただ、思い込みが強い一面があった。自分が描いていた幸福な家族像を壊されたこと、平凡で取り柄もないと思っていた夫が浮気という裏切りを犯したことが、どうしても許せなかったのだ。
幼かった和でさえ、毎日のように父を責め立てる母の姿に恐怖を覚えたことがある。それでも、浮気の末に傷害事件まで起こした父を擁護する気にはなれない。理解と容認は別のものだと、今の和には分かっている。
とうに忘れたはずの父親が、こんな形で再び目の前に立ち塞がるとは思いもしなかった。静かに積み上げてきた時間を、土足で踏み荒らされたような感覚がある。
夜になり、再びそのニュースが流れた。和は十年ぶりに父の顔写真を目にする。記憶の中に具体的な顔立ちは残っていなかったため、画面に映し出された写真を見ても懐かしさは湧かなかった。こんな顔をしていたのか、と他人を見るような感想が先に立つ。写真を見てもこの人物が自分の父親だという実感は、殆ど湧かない。
ニュースが始まった瞬間、叔母夫婦は和に配慮してか、殆ど反射的にチャンネルを変えた。それでも一瞬映った顔写真と名前のテロップは、強く脳裏に焼き付いた。わずかな時間だったのに、視線を逸らすことができなかった。
和の胸に浮かんだのは、父への怒りよりも別の不安だった。こんな事件が公になれば、叔母夫婦にも迷惑が及ぶのではないか。深見家の名が報道に引きずられることはないのか。漸く手に入れた穏やかな生活が、再び揺らぐのではないか。そのことの方が、今は何よりも恐ろしい。
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